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“係争地”はそもそも誰の土地であったのか?:近代化における“領土”問題

2019 4/6 総合政策学部の皆さんへ

 世の中には“係争地”がいくつもあります。これは国家とは「国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである」とする“近代国家”観からすると、隣接する国々同士のエゴのぶつかり合いから生じる必然的な副産物とも考えられます。

領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体」としての国家の使命からすれば、その周辺に「誰のものでもない土地」など、あってはならないわけですが、しかし、複数の国が同時に権利を主張することは避けられなくなります。ましては、その“係争地”に思いもかけぬ資源があったりした場合など。

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 それでは近代化前はどうか? 例をあげれば、まず、中国です。

 そもそも、近代国家前の中国には「「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だった」ので(Wikipedia「中国」)、明確な「領土」、あるいはそれを区切るための明確な国境線という概念さえ乏しく、「中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負」していました(Wikipedia「中華思想」)。

 そこでは皇帝を中心に同心円構造が成立します。そして、その最外円のさらに外はいわゆる「化外(けがい)の地」であり、そこに棲むのは蛮族にほかなりませんが、肝心の同心円自体は皇帝のによって伸びたり、縮んだりする相対的なものでした。その結果、台湾(下記参照)、チベット外モンゴルウィグルスタンなどはこの同心円の外なのか、内なのか、そもそもそんなにはっきりと区切りがつく土地なのか、問題となってきます。

 ちなみに、“外モンゴル(外蒙古)”という言葉は、言うまでもなく北京を世界の中心とした場合に、近いモンゴル=内モンゴル、遠いモンゴル=外モンゴルという序列付けを受け入れる、ということを意味します。同じように、“極東”と口走れば、それは英国外務省を中心として、そこから眺めれば日本周辺が“far east(極東)”である地理感覚だということを意味します。

 さて、中国では近代化が進むにつれて、“伝統的”地理観の曖昧さにつけこまれ、明治期に近代化に邁進する日本によって台湾出兵を起こされたり(この時、中国ははじめ台湾の先住民は「化外の民」であるとします)、膨張するロシア帝国にネルチンスク条約や愛琿条約等をむすばされることで、国境の明確化=それは多くの場合、皇帝の領土の最周辺部の喪失を繰り返すことになります。

 一方で、皇帝の徳さえ復活すれば、化外の民たる東夷(日本・朝鮮等)、西戎(西域諸国)、北狄(匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古)、南蛮(ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国)も相対的な同心円に飲み込まれていく、はずなのかもしれません。だから、西沙諸島はおろか、南沙諸島までもが中国の領土である、と主張することもあながち無理ではない、という見方もできなくはないわけです。

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 このあたりの“国境”ひいては“国家観”の曖昧さは、例えばオスマン帝国ハプスブルグ帝国にも、さらには古代ローマ帝国などの“国際帝国”にはつきものです。そして、アレクサンドロス3世チンギス・ハーン、さらにはスレイマン大帝のような権力者にとって、境界などというものは意識の中にも“存在すべきではない”存在であり、権力者の使命として絶えず境界を乗り越え、世界の果てまでも自らの領土としようという欲望に身を浸すことになります。

 もっとも、ローマ帝国も最盛期を過ぎれば、逆に“蛮族”との境目が負担となり、国境警備のための防塁(リメス)を張り巡らし、ハドリアヌスのように長城を築いたりもします。“壁”を築き、自らを守ろうとすること自体が、すでに精神の退廃、覇気の消失をあらわしているとも言えるでしょう。このあたりで、某国大統領の顔を思い出す方もいるかもしれません。

 いまさら言うまでもないことですが「かつての屈辱をはらし、近代化によって狭められたかつての境界を乗り越え、栄光の領土をとことん広げようとする者」としての現代中国の指導者習近平氏に対して、かたや「壁を築くことで、自らの崩壊しかけた精神をなんとか取り繕う」ことをめざす(もちろん、そんなことは今や不可能なのでせうが)アメリカの現大統領のトランプ氏の二人は、国境をめぐる国家観の対決を表象するまさに21世紀の象徴ともいえるでしょう。

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 この点、ソ連崩壊後に混乱したロシアをとにもかくにもなんとか持続させることだけはできたエリツェンの遺産を引き継いだプーチン氏にとっては、(1)近代的国家観としての“ロシア民族”の“境目”を定める路線にでるべきか、(2)過去の国際帝国の栄光をひきつぐべく、かつての領土奪回作成にでるべきか、なかなか立ち位置を決めるのが難しいところかもしれません。

 例えば、(1)第2次チェチェン紛争は、かつての国際帝国の支配から分離しようとする異民族(チェチェン人)を旧来のシステムの中に引きとどめようという欲望のあらわれであり、(2)クリミア半島をめぐる争いは、本来はロシア帝国固有の領土だったクリミアをソ連体制下でフルシチョフがウクライナに割譲したものを(その後の、複数の民族が入り混じる地となっていましたが)取り戻そうという願望の発露であり、(3)ウクライナ東部をめぐる衝突も、ウクライナというかつて独立した政治勢力が安定した政治権力を持てなかった広大な土地に、ロシアとしての権利をできるだけ拡大しようという欲望の発露なのです。

 それでは、この混乱を収めるにはどうすればよいか? おそらく世界の誰も解決策を思いつくことはできず、ただただ“実効支配”だけがデファクト・スタンダートとして通用する時間が過ぎるばかりかもしれません。

キプロスにとって、国王ジャック2世の嫁選び=配偶者選択は良い結果をもたらしたのか? 『ルネサンスの女たち』補遺

2018 1/20 総合政策学部の皆さんへ

 タイトルを目にして、「あの話か」と気付いた方には「西洋史の素養が十分にお持ちの方」と認定したいところですが、塩野七生の出世作『ルネサンスの女たち』の中で、もっとも主体性に乏しい印象が漂う“ベネツィア女”のカテリーナ・コルナーロにまつわるストーリーです。

 カテリーナの夫、キプロス王ジャック2世はカテリーナとの婚姻で強国ヴェネツィアからのバックアップを期待しますが、1年にも満たない新婚生活のあとで急死します。生まれた男子ジャック3世も1歳で死んだあと、カテリーナは数奇な運命に翻弄されていきます。結局のところ、キプロスはヴェネツィアに植民地として併合されるという亡国への道を歩みます。

 ところで、こうした“王様”の配偶者選択の妙手が、皆さんよくご存じのハプスブルグ家、婚姻による領土獲得に邁進し、「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」と詠われます。が、その話はあとにとっておいて・・・・

 さて、ジャック2世(1438/39/40~1473)に話を戻して、彼はキプロス王、名目上のエルサレム王、キリキア・アルメニア王(在位1464~1473)を兼ね、あだなを私生児ジャック(Jacques le bâtard)。ここからおわかりのように、先王ジャン2世が愛妾マリエット・ド・パトラに産ませた庶子です。そのためか、Wikipediaでも生年が1438~1440とはっきりしません。キリスト教社会では、嫡出子(=カトリックの教義における七つの秘蹟の一つ、婚姻の秘跡に祝福された正妻から生まれた子供)以外は、正式な相続はできない=「たてまえ」になっています。

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 この庶子は、しかし、父親ジャン2世はかわいがられます。といっても、王としてのたてまえ上、王位につけるわけにはいかず、「1456年には16歳のジャックにニコシア大司教の聖職」を授けます。「お前は俗界での出世を望めぬ以上、聖界の上位で満足してくれ」というわけです。一方で、ジャン2世の正妻エレニ・パレオロギナ(姓からわかるとおり、東ローマ皇帝パレオロガス家出身、皇帝ヨハネス8世の姪)には憎まれ、「母マリエットは王妃に鼻を削がれるなど、迫害を受けた」とのことです。まるで絵に描くような王家の家族内対立です。

 ところで、正妻エレニには嫡出子であるが、娘のシャルロット・ド・リュジニャンがいました。ジャックにとっては異母妹にあたります。ここキプロスでは、女性が王位を継げないサリカ法典があるゲルマン民族と違い、ジャン2世の死後、14歳のシャルロットが王位を継ぐことになります。しかし、その治世は「最初から困難な状況に置かれた。後ろ楯が無く幼い女性統治者の王位の正統性は、王位を狙う庶兄のニコシア大司教ジャックからの挑戦を受けた。1459年10月4日、シャルロットは従兄にあたるジュネーヴ伯ルイ・ド・サヴォワと再婚した。この縁組は、大司教派と争うシャルロット女王派への支持を約束したジェノヴァ共和国がお膳立てしたものだった」(Wikipedia)。

 しかし、「1460年、エジプト・マムルーク朝のスルタン・アシュラフ・イーナールの支援を受けた大司教ジャックの軍勢は、ファマグスタおよびニコシアの制圧に成功した。シャルロットは夫ルイとともに続く3年間、キレニア城での籠城を余儀なくされた。女王夫妻は1463年に城を出てローマに亡命し、大司教がジャック2世として王位に就いた」(Wikipedia)。ここまで出てきた外国権力は東ローマジェノバ、そしてマムルーク朝を数え、この小国キプロスがその地政学的位置によって他国の勢力のバランスの上にかろうじてなりたっていることを示唆させます。

 ということで、本日のテーマは、(1)有力国の影響に苛まされる小国の運命、(2)女性が王権をつげるかどうかという男女同権の話(法的には、サリカ法典的解釈の妥当性)、(3)嫡出子と非嫡出子の関係(財産相続と管理権)、それに(4)小国ゆえの合従連衡を図れば、どこから配偶者を迎えるかという婚姻政策もからんで、思いのほか複雑だと思っていただければ幸いです。

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 そこでジャック2世が頼ったのは、もう一つの有力国、ヴェネツィア共和国というわけです。もちろん、婚姻政策=政略結婚です。ヴェネツイアからの援助をあてこみ、1468年7月30日に14歳のヴェネツィア門閥貴族の娘カタリーナ・コルナーロと代理結婚式を挙げたあと、4年も待たせてから、1472年にキプロスのファマグスタにおいて正式の婚礼をあげます。

 このあたりの呼吸はわかりますか? 異母兄妹間の嫡出性をめぐる争いが(当然、政治と宗教と文化がからまっています)、ジェノバとヴェネツィアという当時イタリアの2大海洋王国の“代理戦争”の様態に変化していくわけです。もちろん、両海洋王国にとって、キプロスは通商上、重要な拠点になりうる。そこには、後年の“民族国家”の概念はみじんもなく、そこに生きている人たちの意思を確認する気さえない、わけです(一方に肩入れするにも、“金”がかかるわけで、当然、その見返りを考えないわけはない)。

 そして、結婚の数か月後、1473年にジャック2世はなんと急死してします。「一説によると、彼の死はヴェネツィア共和国のスパイ(おそらくカタリーナの叔父)による毒殺だった疑いがある」(Wikipedia)。あっと驚くべき展開なのですが、ジャックの死がヴェネツイアの陰謀であるかどうかは別にして、残された新婦カテリーナが妊娠中であることを奇貨として、ヴェネツィアはカテリーナの権力維持に腐心します(すでに、あわよくばこのままキプロス乗っ取りをめざしていたにちがいありません)。せっかく生まれたジャック3世ですが、こちらも戴冠して1年後に幼くして死にます。すると今度はカテリーナを女王の座につけて、陰謀をはりめぐらします。そのあたりは、是非、『ルネサンスの女たち』をご覧下さい。

 こうした一連の(昼ドラさながらの)過程を経て、カタリーナは1474~1489年にかけて女王として治めたのち、故国ヴェネツイアに王国を譲渡する形でキプロスを去ります。「2月14日に、黒いドレスをまとった女王は男爵や侍女らに付き添われつつ、馬に乗って王宮を離れた。6名の騎士が女王の騎馬の手綱をとっていた。王都ニコシアを去るときの女王の目には涙が溢れていた。すべての民草が女王との別れを惜しんで嘆き悲しんだ」(Wikipeida;原文はThe chronicle of George Boustronios, 1456-1489)。

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 よかれと思って実行した政略結婚が、かえって故国の主権を失う事態を招く。これはデーン人の侵略に耐えかねて、ノルマンディー公国との婚姻政策をすすめながら、それが1066年のノルマン・コンクエストの遠因となってしまうイングランド王エゼルレッド2世無思慮王にも比すべき政治的失敗かもしれません。

国家の誕生:国名はどうやって決まるのか?Part 2

2017 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 さて、皆さんは「日本」という国号が、どんな目線で語られる言葉か、考えたことはありますか? 「ひのもと」というわけですが、これは明らかに中国大陸の方からの目線で、「太陽があがる方角にある国」という意味である。したがって、その肝心の「日本」に住む我々自信の目線=他称であって、“日本人”による自称とは言えないのではないか? という議論はすでに江戸時代からあったそうです。

 また、「日本」とは基本的に漢語であって、大和言葉でない、とも言えます(この場合、大和言葉(やまとことば)とは「日本(やまと)に大陸文化が伝来する以前の、日本列島で話されていた言語そのものを指すというニュアンスがある」(Wikipedia)という解釈にそったものですね)。

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 Wikipedidaによれば、「ニッポン」は呉音漢音では「ジッポン」(漢音)と読まれたものとの推測もあるとここと。マルコ・ポーロが元に使えたときに書き留めたのはCipangu(Chipangu)だそうですが、これは当然中国音での発声によるもので、これがJipangの、そしてさらにはJapanの語源になったといわれています。

 それでは、日本に住んでいる人びと(ここで私が“日本人”と簡単に言わないことに気付いて下さいね)からの自称は何か? あきつしま(秋津島)、大倭豊秋津島、大日本豊秋津洲、あしはらなかつくに、葦原中国(あしはらのなかつくに)、豊葦原(とよあしはら)、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)、豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)、うらやすのくに(浦安国)、おおやしま(大八島、太八島、大八洲)、大八洲国、わしほこちたるくに、細矛千足国、しきしま(師木島、磯城島、志貴島、敷島)、たまかきうちのくに(玉牆内国、玉垣内国)、ひのいづるところ(日出處)、日出処(ひのもと)、ほつまのくに(磯輪上秀真国)、みづほのくに(瑞穂国)、やまと(倭)などなど。大和言葉と漢語が入り乱れ、なかなか難しいところです。

 もっとも、英国もたいては“イギリス”と呼びますが、 正式の国号「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」、これを略してUK、さらにかつての地方王国のイングランド、スコットランド、ウェールズ、それに北アイルランド、さらに島名としてのブリテン(あるいはグレート・ブリテン)、さらには形容詞としてのブリティッシュ等が慣用的に使われていますから、そもそもは単一の国名をもち、単一民族で構成される近代的国民(民族)国家というものが、いわば幻想の産物であることからすれば当たり前というべきでしょう。

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 それでは、他の例も紹介しましょう。例えば、ブラジルは、なんと木の名前に由来します(パウ・ブラジル)。に由来する。この地では、ポルトガル人がヨーロッパで染料に用いていたスオウに似た木を見つけ、同様に染料に使ったことから、「赤い木」を意味する「パウ・ブラジル」と呼びはじめ、それが昂じてその産地がブラジルと呼ばれるようになったという顛末なのですね。

 一方、隣国のアルゼンチン「スペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると信じたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。(略)国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる」(Wikipedia)。このように、とくに植民地から独立した国家の名前は、調べるほどに数奇な過去をもっているようです。

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 さらにアフリカに転じれば、1960年代の独立ラッシュ時に、どんな国号にすべきか、混迷が続くこともあります。例えば、オート・ヴォルタ、これは実はフランス語で「ヴォルタ川の上流地域」という意味なのです。1984年にはブルキナファソに改名されますが、これは「国名のブルキナはモシ語で「高潔な人」、ファソはジュラ語で「祖国」を意味する」とのことです(Wikipedia)。

 同様の例が、コートジボワール(フランス語で「象牙海岸」)、シエラレオネ(スペイン語で「ライオン山地」)などがあげられます。

 一方、アメリカ合衆国の大都市においては、New Yorkが「新しいYork」という意味なのに対して(実は、はじめは「New Amsterdam」)、San Franciscoはスペイン領時代に「フランシスコ修道会士が創設者の名前=聖フランチェスコを選択」と思えば、Chicagoの「語源はShikaakwaと言われており、この地に先住するアルゴンキン語族インディアンの言葉で「臭いタマネギ」という意味で、おそらく河口付近にタマネギが自生していた地であったためだとされている」(Wikipedia)。

 もっとも、日本人も第2次世界大戦中、シンガポールを「昭南特別市」などと改称させた過去がありますから、あまりほめられたものでもありません。とはいえ、インドネシアではオランダ植民地時代の名前「バタビア」を、数百年前のバンテン王国時の名称「ジャカルタ」に戻してもいます(独立後、そのままジャカルタになりました)。ちなみに、バタビアとは「オランダの先住民バタウィ」にちなんだとのことです。

第一次世界大戦勃発から100年#3:新兵器の登場:秋山好古によるイノベーション

2014 7/25

 総合政策学部の皆さんへ 第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件が6月28日、そろそろなんと100周年です。それにしては、日本ではあまり話題が盛り上がっていないようにも思えます。

 やはり、第1次世界大戦は、遠いヨーロッパの戦いが中心で、日本は火事場泥棒的に、ドイツの海外植民地を占領していたった、ぐらいの感覚なのかもしれません。

 しかし、ヨーロッパ人にとって、なかんづく、戦場となったフランス、ドイツ、そして海を渡った(あのキッチナー・アーミーたち、そしてアンザックたち!)イギリス人にとって、第一次大戦とは、それまでとは全く異なる新世紀への突入であったに違いありません。それは、言うまでもなく、大量の死と向かい合うことです。

 その第一次大戦がオーストリア帝国によるセルビアへの宣戦布告で幕を上げたのがサラエボ事件のちょうど1カ月後の7月28日、この1月の間に破局を避けようとした何人かの人たちの努力を粉砕して火蓋が切られたとたん、連鎖反応のように宣戦布告の連続で、8月4日ドイツ軍はシュリーフェン・プランを発動、中立国であるはずのベルギーを侵攻して、フランスに短期決戦を挑みます。

 その急襲を支えきれず、後退に後退を重ねて、かろうじてパリの手前でドイツ軍の猛攻を押しとどめることになった(=結果として、シュリーフェン・プランを挫折=ドイツの短期決戦戦略を破綻させ、最終的に世界秩序を一新することになる)マルヌの会戦が9月5日~12日、参加者数フランス・イギリス連合軍107万1千人、ドイツ軍148万5千人(合計すると名古屋市の人口約227万人を上回ります)。

 そしてマルヌの会戦での戦死傷者連合軍26万3千人(損耗率24.6%)、ドイツ軍25万人(同16.8%)、損耗率が30%を超えれば戦闘継続能力がなくなるというのが経験則だとすれば、その値に近い。このたった1回の戦闘の結果に、20世紀の戦争の本質が早くもあらわになったわけです。

 ちなみに、このたった9年前、1905年2月21日~3月10日に中国・東北地方で日本軍とロシア軍が死闘を重ねた奉天会戦が、日本軍24万人、ロシア軍36万人、損害は日本軍死者15,892人、負傷者59,612人(あわせて75504人、損耗率31.5%)、ロシア軍死者8,705人、行方不明7,539人、負傷者51,438人(併せて67,682人、損耗率18.8%;ただし捕虜28,209人が別にいます)に比べて、単純に比較しても総兵力で4.23倍、戦死傷者数で3.58倍までに増加しています。 

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 この物量の重みに、各国は“総力”を発揮せねばならず、その結果、前線と銃後の区別、あるいは戦闘員と一般市民の差が薄れ、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃、日本軍による重慶爆撃等を経て、連合軍のB-29による日本本土爆撃そして原爆へとつながることになっていきます。

 それにしても、皆さん、想像できますか? 250万人の人間が戦う、その際、250万人に毎日飯を食べさせ、砲弾や銃弾を補給し、負傷者を収容・野戦病院まで運ぶ、かつ、損耗率を補うべく、兵員を補給する、という手順を考えることを。これがロジスティック(兵站)です。戦術の名手であったピュロスではとうに及ばず(ローマ軍との死闘で、はやくも兵站の未熟さを自ら嘆くはめになります)、ナポレオンの天才をもってしても及ばなかったこの事態こそが、近代の本質の一つとも言えましょう。

 ところで、マルヌの会戦での大量死は、実に1918年11月11日の連合軍とドイツ軍の休戦協定まで、延々と繰り返されます。例えば、大戦末期、1918年3月21日から8月18日まで続く春季攻勢で、ドイツ軍192個師団、連合軍173個師団が激突、その結果、ドイツ軍死者239,000以上、連合軍死者死者255,000以上、計49.4万人が死亡ということです。これに、死者の数倍の負傷者が加わるはずです。

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 この大量死の一因は、レマルクの名作『西部戦線異状なし』に描写されている延々4年も続く塹壕戦において、「機関銃の大規模運用により正面突撃を完全に破砕しうる火線が完成した(Wikipedia)」ことが原因とされています。要するに、塹壕に新兵器=機関銃を配置して、突撃してくる敵の歩兵を掃射し続ける限り、塹壕を守りうる。しかし、それは敵方も同じことの故、4年間、攻勢をかける敵を互いに殺し合いながら、肝心の戦線はほとんど動くことが無かったわけです。

 この間、砲撃、毒ガス、戦車(史上最初の戦車イギリス軍のマーク1の使用が1916年のソンムの戦い)等が次々に改良されますが、盾と矛の争い(つまり、矛盾)はどちらかと言えば盾(=塹壕)の勝利に終始します。

 この事態、つまり塹壕に籠もり、機関銃で防御する、というのは、実はこの10年前、日露戦争の旅順攻囲戦でロシア軍が、そして黒溝台会戦では今度は日本軍の秋山旅団が展開した戦法なのですが、ヨーロッパの先進国はそれをまったく学ばず、第1次世界大戦の西部戦線でスケールアップしたあげく、膨大な死傷者を出した、ということになります。「将軍たちは、現在の戦闘を過去の知識で戦いたがる」が、結局勝つのは「未来を考える者たち」になる、というのが本日の教訓話になるのかもしれません。そして、案外、これは戦争以外のビジネスなどにも通用するのではないでしょうか。すなわち、イノベーション、もしくはブレークスルーについてのケース・スタディなのです。

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 ジョン・エリスの『機関銃の歴史』では、第3章「士官と紳士」に日露戦争のエピソードが出てきます。例えば、旅順防衛では「ロシア軍は砦の銃眼から必殺の機関銃を乱射し、現実とはおもえないほどの大殺戮を行った」「機関銃に立ち向かえるものなどありはしない。日本軍が恐れるのは当然だ。敵の機関銃がうなりだせば、どんなに勇敢な男でも背筋が寒くなってしまう」。

 しかし、日本軍も(黒溝台で5倍の敵を撃退した秋山好古を嚆矢として)、野戦でも機関銃が有効であることを示します。「攻撃において日本軍はしばしば機関銃をうまく使っている。歩兵が襲撃を仕掛けるときにはそれを援護に用い、前もってさだめておいた目標めがけて一斉射撃をおこなう・・・機関銃はその機能を上手に利用すれば、野戦砲よりはるかに役に立つだろう」。

 これらの観戦武官の報告をドイツ軍はすぐに反応し、フランスもそれに習いますが、「この時点にいたってもなお、イギリスで改革を志しものは、現職の最高司令部の伝統主義と近視眼に邪魔をされた」。とは言え、ドイツ軍もフランス軍も塹壕を守る機関銃の射撃を突破するすべをついに大戦の間、思いつくことはできなかったのです。

本日で、ノルマンディー上陸作戦から70年です

2014 6/6 総合政策学部の皆さんへ

 本日もそろそろ終わりかけていますが、実は”The longest day”、すなわち「史上最大の作戦」こと連合軍によるノルマンディー上陸作戦からちょうど70年です。1944年6月6日午前零時15分、オールアメリカンこと第82空挺師団505連隊の降下兵がドイツ軍占領下のサント・メール・レグリーズに着地することで始まります。

 この作戦の正式名称は 「オーバーロード作戦(Operation Overlord)」。オーバーロードとは大君主、あるいは天帝、神のことで、この名前を用いた事自体が、連合軍司令部の並々ならぬ決意を物語っているとも言えるでしょう。天帝が、邪悪なドイツ軍が支配するノルマンディーに降臨するわけです。

 この日の戦いに何らかの形で関与した軍隊は、第3帝国を防衛すべきドイツ軍38万人、空と海からノルマンディー半島に殺到した連合軍15.5万人、最高指揮官は「最後の黒騎士」ことゲルト・フォン・ルントシュテット元帥(職務上は西方総軍司令官)と「砂漠のキツネ」ことエルヴィン・ロンメル元帥(同B軍集団司令官)、一方、連合軍はその名にふさわしくアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、自由フランス軍、ポーランド、オーストラリア、自由ベルギー軍、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、自由チェコスロバキア軍、ギリシャ王国等、最高指揮官はドワイト・アイゼンハワー、副司令官がアーサー・テダー、陸軍総司令官が(マッチョの塊とも、人種差別主義者ともささやかれる)バーナード・モントゴメリー、空軍総司令官がトラフォード・リー=マロリー、海軍総司令官がバートラム・ラムゼー、そして第一軍指令官としていつも冷静なオマール・ブラッドレーがつきます。

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 この一戦のほぼ1年後のドイツの敗戦は、しかし、同時に東西冷戦に発展し、自由フランス軍、自由ベルギー軍、オランダ軍、ギリシャ軍はナチス・ドイツの魔手から祖国を救い出すものの、ポーランド軍、自由チェコスロバキア軍にとって、祖国は恐るべきソ連の指導者スターリンの手によって設定された鉄のカーテンの向こう側で社会主義化し、或る者は亡命を余儀なくされ、或る者は粛正され、不幸な道をたどる。

 もちろん、世界はそれにとどまらず、フランス軍はいずれインドシナとアルジェリアを、ベルギーはアフリカのコンゴを、オランダはインドネシアを失うこととなり、ギリシャは1946~49年に英米のバックアップを受けた右派政権と、ソ連(スターリン)の支援を得た共産主義ゲリラELASとの間で血みどろの争いになる・・・・

 それぞれの勝利者たちにとってのこのあまりに苦い結末は、しかし、この6月6日のノルマンディーの海岸では、まだ遠い先のことです。

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 この一日を描いたコーネリアス・ライアンの『いちばん長い日』は、連合軍・ドイツ軍、そして戦場として踏みにじられるフランス、どちらの側にも目を配った傑作ノンフィクションです。

 「上陸にそなえた艦艇では、「船上で過ごした長い時間の間に、固い友情に結ばれた陸兵と水兵は、お互いの幸運を祈り愛、そして何百という兵士は、暇をぬすんで、「たまたま生きてかえれば」と互いの住所を交換しあった。

 第29師団のロイ・スチーブン技術軍曹は、双生児の弟をみつけようと、ひじで押し分けて雑踏の中を行った。「私はとうとう弟を捉まえた。弟は私に向かって微笑し、手を差し出した。前に決めておいたように、フランスの十字路で握手しようといい、お互いに別れを告げたが、もう二度とふたたび彼に会うことはなかった」

 同じ頃、自由フランス軍所属計巡洋艦モシカルムでは、ジォジアール少将が水兵たちに話しかけます。「われわれの祖国に砲火を浴びせねばならぬとは、恐ろしくも非道なことだ。だが、私は諸君に、きょうはそれをおこなうことを要求する」。

 そう、ノルマンディー上陸作戦は、フランスへの上陸であり、その前触れとしての空襲と艦砲射撃はドイツ軍に向けられたものとはいえ、フランスの市民(その中には、ナチスへの協力者もいれば、レジスタンス要員もいるはず)にも容赦なく飛んでいく。それが総力戦の本質です(なお、上陸前の方爆撃開始とともに、BBC放送はフランス市民に海岸からの避難を呼びかけます)。

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 一方、連合軍の爆撃・砲撃をあびる通称オマハ・ビーチ(血まみれのオマハこと、Braddy Omaha)のドイツ軍砲兵隊ウェルナー・ブルースカット少佐は早朝の海岸に突然出現した大船団に息を飲みます。

 「その瞬間、よき兵士ブルースカットの世界はくずれかけた。彼の記憶によれば、ブルースカットはそのとき、平静さと確認とをもって、「ドイツの終わりが来た」ことを確信したのだった」。彼は部下を振り返り、ひとごとのような調子で言います「上陸だよ、見てみなさい」。

 「それから、(ブルースカットは)352師団のブロック少佐を電話で呼び出していった。「ブロック、確かに上陸だよ。少なくとも1万隻の船がいる-私のこの目の前で」(中略)「本当だとも」と彼は叫んだ。「信用しないなら、ここに来て、自分の目で見たまえ! 夢みたいだ! 信じられないことだ!」 ちょっと沈黙があった。やがてブロックが尋ねた。「その船はどちらに向かっているのかね」(略)「こっちへだ。まっすぐこっちへだよ!」

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 やがて上陸地点の一つスウォード・ビーチに上陸したイギリス特別攻撃隊隊長のローバット卿は、「煙が立ち上るのが見え、臼砲弾の爆裂音が聞こえる」、脇までも水につかった状態で従者の風笛手ウィリアム・ミリンに怒鳴ります。「おい、ハイランド・ラディを吹け」。

 ミリンは命令に従い、銃弾が飛び交う中、歩きながらバグパイプを吹き始め、その前を進む僚友たちは「おい、ジャック、しっかりやれ」、「伏せろ」等とてんでに叫びます。

 ミリンは結局その日、13時間以上も前からオルヌ川とカン運河にかかった橋をドイツ軍から奪取・確保していた第6空挺部隊の挺身隊に合流するまで、戦場をバグパイプを吹き続けながら進むこととなります。そして、

 いくらか銃火が小やみになったと思われたときに、隣に伏せていた(第6空挺部隊の)戦友のジョン・ウイルクス二等兵が突然グレイに注意した。「おい、風笛が聞こえるようだが、おまえどうだ」。グレイは、馬鹿にしたようにウィルクスをじっとみて、「おまえは馬鹿だ」とあっさりいった。ちょっとして、またウィルクスは彼の方をみて、「たしかに変え笛が聞こえるんだ」と主張した。こんどは、グレイの耳にも、たしかに聞こえた。

 ビル・ミリンは自分は「弾には当たらないという運だけを頼みにしていた」ことを覚えている。なにしろ、「自分の風笛の音のほかは、何も耳にはいらなかった」のだ。(略)橋のまん中に着くと、ミリンはローバット卿のほうを振り向いた。「彼は自分の領地を散歩でもしているように静かに歩いていた」。そして「吹き続けるように私に合図をした」とミリンは回想している。(『いちばん長い日』)

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 どうやら、このノルマンディーへの第1歩から、世界はどんどん変わっていた、そして今でも変わり続けているような気もします。

 この戦場に巻き込まれた人たち、例えば、オマハビーチで写真を撮る(しかし、逃げるようにいったんは戦場から去ってしまった)ロバート・キャパユタ・ビーチに上陸しながらやがて神経衰弱にかかる未来の作家サリンジャー、あれほど連合軍の到来を待ちながら、その瞬間に居合わすことができなかったロンメル、戦時神経症をやんだ部下を(どうやら事情を知らなかったらしいのですが)殴打したため、謹慎を命じられ、とっておきのこの舞台に登場できなかったパットン、そしてリーダーの孤独をかみしめながら決断するアイゼンハワー。

 そして、先にも触れた自由フランス軍、オランダ軍、自由チェコスラバキア軍、ギリシャ軍の参加者たち。

 その中には、当然、パリの次はマドリードだと思っていたスペインからの亡命者たちも。

、そのあたりも、また触れていきたいと思います。

単位について;インチ、フィート、ヤード、ポンド、そして口径#2

2014 2/22 総合政策学部の皆さんへ

 #1で述べたように、ヤード・ポンド法が幅をきかす(=デファクト・スタンダードである)軍需物資の世界で、小火器も例外ではなりません。最近、ある犯罪事件で“25口径”という言葉が流れましたが、この“口径”もわかったようで、なかなかわかりにくい代物です。というのもこの言葉には、①銃口(砲口)の直径と、もう一つ、②銃身(砲身)の相対的な長さ=銃身(砲身)÷銃(砲)口の直径)という、二つの意味があるのです。

 ピストルの場合、口径と言えば基本的に①を指すわけですが、その場合は、数値はさらに①ヤード・ポンド法に基づくケース(言うまでもなく、アメリカ・イギリス製)と、②メートル法のケースに分かれます。もちろん、25口径の場合は①の意味、つまり銃口の直径が25÷100分の1インチ=6.35mmをあらわします。そしてその弾丸はこれより少し大きな6.4mmなのです(=0.251インチ;.25ACP弾の場合)。
 
 そして、かつてアメリカ軍の正式拳銃であったM1911になると、軍用拳銃ですからずっと大きくなって、45口径=45÷100分の1インチ=11.4mm、弾丸は.45ACP弾の直径が0.451インチ=11.5mmとなります。

 これが、ヤード・ポンド圏以外の例を持ち出すと、例えば現在、世界でもっとも広く使用されている拳銃弾9×19mmパラベラム弾は、ドイツのルガーが開発したのでメートル法をつかっています。この場合、弾丸の直径は9mmで、薬莢の長さが19mmという意味です。また、パラベラムとは「ラテン語の諺「Si Vis Pacem, Para Bellum」(平和を望むならば戦いに備えよ)」に由来するということです(平和と軍備を論じるのに、とても微妙な表現ですね)。

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 (後で紹介するように、銃身の長さにも影響されますが)拳銃弾の威力は火薬が詰まっている薬莢の長さ(というより容量)に影響されます。パラベラム弾とほぼ同じ大きさの弾丸と言えば、ブローニングが開発した.380ACP弾ですが、同じ口径9mm(=38÷100インチ)で薬莢の長さが17.3mmとなり、9×17.3mmとなります。したがって、同じ銃身長の場合は、威力が若干低いわけです。

 詳しく言うと、.380ACP弾が3.75インチの銃身(95.25mm)から発射された場合、弾頭重量が6grで、初速が300m/s(1秒間に300m)、エネルギーが270Jになります。

 それに対して、9mmパラベラム弾は銃身が102mmの拳銃から発された場合、弾頭重量が7.5gr(8.0grと9.5grのものもあるようです)、初速が360m/s(=音速)、エネルギーが483Jとなります。

 ちなみに、.45ACP弾では、銃身が5インチ(12.5mm;M1911ガバメントでは106mm)の場合、直径0.451(11.5mm)で弾頭重量15gr(11grと12grのものもあるようです)、初速は270m/sで遅いが、弾頭重量が重いため、エネルギーは561J。.38ACP弾やパラベラム弾に比べて大きいですね。これが俗に「馬でも昏倒する」と言われた「ストッピング・パワー」です。 

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 さて、②銃(砲)身の相対的な長さの口径ですが、これが重要なのは、時間が銃(砲)身が長いほど弾丸に発射薬からの運動エネルギーが多く伝わるため、威力が増すからです。はっきり言えば、ピストルは重心が短い故にごく短距離しか効果がないのに対して、狙撃銃のように長距離の狙撃に特殊化したものほど、遠くまで威力を発揮するというわけです。

 例えば、コルト社製でもっとも小さいというコルト・ベスト・ポケットは銃身長が2インチ(51mm)しかありません。これで0.25ACP弾を打っても、2grの弾丸を初速350m/Sで発射して、エネルギーは140Jとなるので、銃身長が106mmのコルト・ガバメントの4分の1しかありません。銃身長がさらに長い(西部劇等でおなじみの)コルト・ピースメーカーことコルト・シングル・アクション・アーミーの銃身長は140mm、使う銃弾は.45ロング・コルト弾(他に36種類が使用可)です。ちなみに、この.45ロングコルト弾を銃身長190mmの拳銃で撃つと、17grの弾丸が293m/sで打ち出され、エネルギーは709Jとなります。

 こうした状況は大砲になるとさらに重要になります。つまり、大砲は砲口の直径だけが重要ではなく、砲身の相対的な長さ(正式には口径長というそうです)が重要になってくる、というわけです。したがって、大砲は例えば75mm×70口径(砲口の直径が75mmで、砲身長が75mm×70=5,250mm=5.25m)等と表わされます。
 

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 具体的な例をあげると、第2次大戦突入時のドイツ軍の主力戦車Ⅲ号戦車の主砲は50mm×42口径でしたが、これでは連合軍の戦車に対応することができず、急遽、50mm×60口径に格上げされますが、あっという間に時代遅れになってしまいます。

 最初は、火力支援用のはずだったⅣ号戦車が主役に躍り出ますが、こちらも大戦初期は75mm×24口径(砲身長がたったの1.77m)でまったく対応できず、こちらも75mm×43口径に、そしてさらには75mm×48口径と格上げしていきます。この間、同じ徹甲弾Pzgr.39(6.8kg)を撃った場合、初速は385m/sからなんと740m/sへ、そして790m/sに向上、距離500mで侵徹できる装甲の厚さは39mmから91mm、そして96mmに向上します。

 さらに新型Ⅴ号戦車パンテルに搭載されたのは70口径(砲身長は5.25mに達します)、この場合は初速は935m/Sに達して、装甲貫徹力は124mm(24口径の場合の3.18倍)になります。その代わり、砲重量はあっというまに重くなるわけで、装甲板の厚さの増大もともなって、Ⅲ号戦車の重量が22.7トン、Ⅳ号戦車が25.0トン、そしてⅤ号戦車が44.8トンに達します。

 言うまでもなく、中国古典に由来するあの言葉“矛盾”、すなわち盾(どんな矛をも通さない装甲)と矛(どんな盾をも貫く戦車砲)の間のはてしもない競争がここに本格化します。

第一次世界大戦勃発から100年#1:サラエボでの暗殺から1世紀が過ぎました

2014 1/31 総合政策学部の皆さんへ

 今年は2014年、総合政策学部とKSC開設20周年が2015年3月だということばかり気にかけていましたが、気がつけば、第一次世界大戦勃発から100年が過ぎようとしています。たった100年か、とも思いますし、そんなに経ったのか! とも思います(私も、そのうちの60年を生きているわけですが)。ということで、とりあえず、第一次大戦100周年について少し述べたいと思います。

 まず、何と言っても、1871年の普仏戦争以後、ヨーロッパ中央では先進国同士の激突は避けられてきました、実に43年間。それが、「私ならお前と同じことをしたくない。私には時には5つのボール(=大国)をもって馬にまたがり、1つのボールも落とさずに曲芸を演じている騎手のように見える(つまり、誰もビスマルクの真似はできない)」と新生ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に評された鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの個人的才覚によって維持されたかどうかはさておき、とりあえず、1871年から1913年までに勃発したのは基本的に植民地戦争か、小国同士の争い(例えば、バルカン戦争)でした。また、そのためにこそ、日露戦争での旅順攻囲戦奉天会戦の本質を見落とし、西部戦線で異常なまでの犠牲を積み重ねることになるわけですが。

 さて、第1次大戦前のヨーロッパを象徴していたのは、何度もこのブログで言及していますが、ハプスブルグ家が支配するオーストリー=ハンガリー帝国と、スルタンが支配するオスマン・トルコ、それにロマノフ王朝下のロシア帝国です。これらはいずれも複数の民族をベースに、“帝国”を象徴する皇帝の独裁的支配下にあり、また、一面ではグローバルな、少なくとも民族を越えた“国際帝国”でした(これに清朝をいれるのか? 入れるべかもしれません)。

 国境などもあって、ないようなもの(とくに中国では)。オスマン・トルコのように、皇帝のお眼鏡にかなえば、異民族でも出世できる可能性がある。ロマノフ朝の場合、外国人でも皇帝になれる。例えば、ロマノフ朝皇帝の中でも傑作の一人ピョートル大帝の死後、貴族の一部は後継者にピョートルの2番目の妻エカチェリーナを推しますが、彼女は現在のラトビア=リトアニア地方の戦争捕虜出身なのです。このエカチェリーナ1世の37年後即位するこれも女帝のエカテリーナ2世はドイツ生まれでした(なお、1世も2世も、宗教的にはカトリックからロシア聖教に改宗しています)。

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 こうした世界的な体制の枠組み自体が、1914年6月28日、セルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプによるオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ夫妻へのたった2発の銃弾がきっかけで、崩壊していった事を考えると、なんとも言えない気分になります。その年から今年でちょうど100年目です(なお、暗殺者プリンツィプの名前は「報道を運ぶ者」という意味だそうです)。

 ユダヤ系ドイツ人ジャーナリストエーミール・ルードヴィヒの『1914年7月』は、この暗殺事件から(ちょうど1カ月後の)7月28日のオーストリー=ハンガリー帝国によるセルビアへの宣戦布告、31日のロシア軍総動員、それに呼応した8月1日のドイツ軍総動員、そして8月4日の英仏参戦というめまぐるしい1カ月(恐るべき破綻をなんとか食い止めようとする者たちと、勢いですべてを決着させようとする者たち)を描いています。

 しかし、1929年刊の『1914年7月』を今あらためて読み返せば、実のところ、この銃弾が偶然のものではなく、フェルディナントの暗殺であろうとなかろうと、国際帝国の自己矛盾と破綻がいずれはどこかで爆発せざるを得なかったことが次第に伝わってきます。

 なおかつ、勝利者たる英仏もまた、次に続く戦間期の20年で、こちらもまた自己矛盾による破綻を経験せざるを得なかったことを我々に教えてくれます。

 ルードウィッヒは最後に書き付けます、「なんびとといえども、世界大戦によって永遠の利益をえたものはない」、しかし「このような事態一切を引き起こした真の責任者は、いまなお処罰されず、自由の身を楽しんでいる(1929年の時点で)」「最初に極力戦禍を避けようとしてふたりの人物、ツァーとチッサ伯はおのおの自国民のために殺害された」、そして「全ヨーロッパの民衆は、900万の屍をもって勘定書きの支払いをしたのだ」(世界ノンフィクション全集版、早坂二郎訳)。

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 こうした惨状が、世界を変えていったのは当然のことと言えるでしょう。

 また、こうして“民族自決”によって無数の国民国家に分割されたヨーロッパが、再びEUとしてまとまろうとして、まとまりきれないのも、また、興味深くもあり、過去の死者数を考えると痛ましい限りです(以下、to be continued・・・・・・)。

 

言語政策についてPart3:スワヒリ語講座+東アフリカ史+人類学への招待#2

2012 6/28 総合政策学部の皆さんへ

 #1ではスワヒリ語文化圏の成り立ちのあたりを説明しましたが、あらためて、スワヒリ語の言葉や文法自体について説明してみましょう。

 とくに日本人の学生の皆さんは日本語と英語ぐらいしか知識がないかもしれません(私もそれほど変わらないのですが)。そこに、また異なる文法構造をもつ言葉を知っていただくことで、日本語も英語も相対化していただければと思います。

 ついでに、このブログでは何度も出てくるクレオールという言葉をめぐって、文化(言語)の融合=新しい文化(言語)の誕生についても知識をもっていただこう、ということになります。すでに説明しているように、スワヒリ語はやや簡略されたバンツー語の体系に、アラビア語の単語が約3分の1程度加わり、さらに様々な外来語をどんどん吸収して、現在も語彙がどんどん増えている言語です。

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 それでは、まずバンツー語について説明すると、中央アフリカから東・南アフリカにかけて広がっている言葉の総称が“バンツー(バントゥー)語”です(Wikipediaによれば総話者は3億人を超えるとのこと)。もっとも、この“バンツー語”という名称は、いわゆる他称です。アフリカでバンツー語を話している人たちがもともと「僕たちの言葉はバンツー語と呼ぶんだぜ」と言っていたわけではありません。

 “白人ども(=しばしば侵略者でありました)”がアフリカを訪れたり、文化を調べるうちに、共通することが多い言葉体系に気づいて、勝手に名前を付けたわけです。ちなみに“Bantu”とは、名詞の複数形をあらわす接頭辞の“Ba-”+“人”を意味する名詞の語幹である“-ntu(tu)”からなります。つまりは、Bantu=people=人々なのですね。

 ちなみに、スワヒリ語ではこの“Ba-”の“B”の発音が“W”に変換されて、“Wa-”となります。つまり、スワヒリ語では“人々”は“Watu”になります(単数系の“人”は、接頭辞が“M-”になるので“Mtu”)。

 ちなみに、この“自称”、“他称”の問題は奥深いものがあります。差別的呼称もしばしば取りざたされるため、扱いは容易ではありません。例えば、カナダの先住民“イヌイット”の人々にとって、“イヌイット”とは“人”をさす言葉だそうです。それが他民族と接触後に他者から“イヌイット”と呼ばれることで、自らも“イヌイット”としてのアイデンティティを持つ。そうした場合に、彼らにとって“イヌイット”が自称に変わるわけです(これは日本でも“アイヌ民族”が同様で、 “アイヌ語”では“アイヌ”は“人”をあらわす言葉だそうです)。

 さらに“イヌイット”はあくまでもカナダの先住民の自称であって、アラスカに在住する人たちは“アラスカエスキモー”と自称したり、さらには語族ごとにそれぞれ別の自称、例えば、“ユピック”等を使うそうです。このあたり、本当は、現地で自分で研究しないと、うっかりした事は言えません。

 なお、私が3年暮らした東部タンザニアで、約2万人の話者をもつと聞いているトングゥエたちは、自らを“Watongwe”と呼んでいましたから、立派な自称ですね。なお、この“Wa-“が複数を表わす接頭辞なのはもうおわかりですね。

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  さて、スワヒリ語のもう一方の祖語であるアラビア語についてですが、まず、イスラームの教えを伝えるクルアーン(コーラン)が預言者ムハンマドの言葉をそのまま書き表わしたもので、アラビア語以外に訳してはいけないのだそうです(したがって、クルアーンの日本語訳はクルアーンでない!)。

 このため、イスラームの人たちはクルアーンが伝える古代アラビア語に親しむわけで、西はモロッコから東はジャワ島あたりまで、アラビア語を学ぶ機会が広がっていることになります。その結果、イスラーム社会では必然的にアラビア語が(かつてのキリスト教国でのラテン語のように)リンガ・フランカになる可能性があるわけです。

 その結果、アラビア語を介して、いくつもの言語で共通した言葉が使用されることもある。例えば、Swahili語で“本”は“Kitabu”ですが、インドネシア語でも“Kitab”です。これはもちろん、アラビア語の“Kitab”からきているわけですね。

 一方、現代のスワヒリ語において、英語等から滔々と外来語が流入しているのは日本語と同様です(ただし、発音が微妙に変化して、ラジオが“Redio”になったりする)。ちなみに日本語に近いものとして“Pilipili”をあげておきますが、これは(東アフリカにとって)外来の農作物であるトウガラシのことです。

 一方、日本語では“辛い”ことを意味します。これは日本語・スワヒリ語両語圏にトウガラシをもたらしたポルトガル人の言葉=ポルトガル語に由来するからです。同様に、日本語の“タバコ”は、スワヒリ語では“Tumbako”です。

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  さて、バンツー語でややっこしいというか、きわだった特徴の一つが、名詞がいろんなクラスにわかれていることです。そして、名詞のクラスに従って、名詞や動詞の接頭辞やさらに所有接頭辞や人称接頭辞も影響を受けることです・・・・と、言っても、何のことやら??

 幸か不幸か、アラビア語とのクレオールであるスワヒリ語は大分簡単になっているようですが(クレオールでは文法が単純化するのが一般則のようです)、どう説明してよいものか? 以下、いくつか主なクラスをあげてみましょう。なお、単複があるクラスと、単数形のみのクラスがあります。

・(1・2クラス)m/wa-class:基本的に生き物や、とくに人間に関する名詞のグループで、単数の接頭辞がm、複数の接頭辞がwa-
・(3・4クラス)m/mi-class: 植物を示す名詞が多く含まれるグループで、単数の接頭辞がm、複数の接頭辞がmi-
・(5・6クラス)ji/ma-class:丸い塊を連想させる名詞や、果物、あるいは身体の部分(眼=jicho/macho)等が含まれるグループで、単数の接頭辞がji、複数の接頭辞がma
・(7・8クラス)ki/vi-class:道具等の人工物や言語を含むグループ(籠=kikapu/vikapu)で、単数の接頭辞がki、複数の接頭辞がvi。言語を示す場合、例えば日本語はKi+Japani=Kijapaniです。
・(9クラス)n-class:外来語も多く、単複同形
・(11クラス)u-class:抽象的な名詞のグループ。例として、Mtoto/Watotoはm/wa-classで子供のことですが、Utotoでは「子供らしさ」。したがって、複数形はありません、単数のみとなります。
・(15クラス)ku-/kwa-:これは英語で言う動詞の不定形のクラスです。

  慣れれば簡単、とはたやすく言い切れませんが、でも現地でしばらく使っていれば、いつの間にか身に着くものだと言っておきましょう。 しかし、これでもアラビア語とのクレオール化でずいぶん単純になったとのことです。そもそもの祖語は実に22クラスもあったとのことです。

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 さて、有名な生成文法理論(総政では本田先生がご専門ですね)等でもおなじみの語順=S(主語)、V(動詞)、O(目的語)の順番ですが、スワヒリ語はSVO型ですね(日本語はSOV型)。Wikiediaによれば

 Dryer (2011a) は世界1377の言語を調べ、可能な語順が複数ある場合には使用頻度によって基本語順を決めた。この調査によれば、SOV型が一番多く565言語、次いでSVO型が488言語であった。他の4つのタイプはいずれも100言語以下で、VSO型が95言語、VOS型が25、OVS型が11、OSV型が4であった。同じくらいよく使われる語順が二つ以上ある言語は189あり、これらは頻度によって基本語順を決定できないため分類からは除かれている。

とのことです。

 それでは、簡単な文章の紹介を。例えば、「私はタンザニアの出身です」という場合、“Mimi ninatoka Tanzania”と言いますが、これは

Mimi(=“私”という1人称代名詞)
 + ni(Mimiを受けての“私”を意味する1人称代名詞接辞=主語接辞=S)
 + na(時制において、現在形を示す時制接辞)
 + toka (「・・・から来た/の出身である」という意味の動詞の語幹=V)
 + Tanzania(タンザニア=目的語=O).

 というわけです。わかりましたか? と、このあたりまで書いたところで、そろそろ疲れてきました。to be continued・・・・・・としましょう。

言語政策についてPart3:スワヒリ語講座+東アフリカ史+人類学への招待#1

2012 3/25 総合政策学部の皆さんへ

  これまで何度かスワヒリ語について触れてきましたが(例えば、「スワヒリ語をベースにピジン、クレオールを考える;言語政策についてPart2;国際援助の現場から#7」「母語、共通語、公用語、...言語政策についてPart1;国際援助の現場から#4」、スワヒリ語というよりむしろスワヒリ文化について、何回かに分けて触れてみたいと思います

 ところで、日本でスワヒリ語を勉強しようと思えば、日本の大学では大阪大学外国語学部のスワヒリ語語専攻があります。ここは大阪外国語大学時代からの老舗です(http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/jpn/edu_fl_swa.html)。

 昔は宮本正興先生が教授でしたが、今は4名の先生がいらっしゃいますね;米田信子教授(スワヒリ語、バントゥ言語学、社会言語学音声学音韻論)、小森淳子准教授(スワヒリ語、バントゥ言語学、社会言語学、ヨルバ語)、竹村景子准教授(スワヒリ語、スワヒリ文学、スワヒリ文化論、社会言語学、女性学)、アシャ・ハミス・ハマド特任准教授(スワヒリ語学、スワヒリ文化論、スワヒリ語教授法)。

 残念なことに、東京外国語大学にはどうもスワヒリ語はおろか、アフリカ関係の言語の学科はなさそうです。

 それでは「お前はどこでスワヒリ語を教わったのか?」と尋ねられたら、それは先輩から+自学自習しかないわけです。

 私が大学院を過ごした自然人類学研究室は、当時、ホネ屋(=本来の自然人類学の王道というか、化石人類学あるいは形質人類学にいそしむ方々)、サル屋(野生のサルや類人猿の社会生態の研究)、そしてヒト屋(ヒューマン・エコロジーにも通じる生態人類学[エコロジカル・アンスロポロジー])の3つに分かれていましたが、そのうちサル屋とヒト屋のフィールドはアフリカであることが多く、先輩から後輩にスワヒリ語を伝授していく、という伝統がありました。

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 それでは、私が使った教科書を紹介しましょう。もちろん、日本語でスワヒリ語を教わる本はありません(でした)。基本的に英語でスワヒリ語を学ぶことになります。英語とスワヒリ語と両方勉強できて、お役に立ちます、とポジティブに考えましょう。

  私の経験では、練習問題の反復というコンセプトで、とりあえず身につけるには、
Simplified Swahili (Longman language texts;Peter Wilson著)、Longman Group United Kingdom; New Ed版 (1983/11) 、ISBN-13: 978-0582623583が、世界的に知られている外国語自習シリーズTeach yourselfシリーズのスワヒリ編です。アマゾンをちょっとのぞいたら、現在はComplete Swahiliと唱っているようですね。
Teach Yourself Complete Swahili (Teach Yourself Complete Courses;Joan Russell 著) Teach Yourself Books (2010/9/24) ISBN-13: 978-1444105612。

 これらを手掛かりに、おぼつかなくスワヒリ語を勉強する次第です。以下の感じですが、もう大分錆ついてしまって、正当スワヒリ語と言えるかどうか、危ないところです。例えば、
 ・Ninatoka Japan (私は日本からやってきました)
 ・Jina langu ni Yukio Takahata(名前ですが、高畑由起夫と言います)
 ・Ninakuja Tanzania kufanya kazi ya utafiti(タンザニアには、調査のためにやってきました)

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 その一方で、授業でも触れていることですが、スワヒリ語には“貿易”、ことに“奴隷貿易”が絡んでいます。したがって、スワヒリ語は、アラブ系の奴隷商人がインド洋経由で東アフリカに跋扈した地域で誕生した一種のクレオールなのです(語彙の35%がアラビア語起源だそうです。もっとも、その具体的な発生過程には諸説あるそうです)。

 この“スワヒリ”という言葉自体が「海岸地域」が語源で、要は、内陸部にすむ連中からすると「海岸に住んでいる連中がしゃべっている言葉」ということになるわけです(スワヒリとは「アラビア語で「海岸、水辺、河畔、緑辺」という意味の「サワーヒル sawahil」に由来」Wikipediaより)。

 したがって、スワヒリ語が通用する範囲は、ほぼアラブの奴隷商人が跋扈した地域と言えます。東アフリカの人たちにとっては、ちょっと悲しいですね。共通語として役立つ言葉は、自分たちの遠い先祖の仲間を遠くアラビアまで売り飛ばして行った連中の活動の名残である、ということは複雑な思いもあるかもしれません。

 さて、スワヒリが“海岸”を意味するというのも、なかなか蘊蓄があります。というのも、アフリカには近代的道路網等はそもそも存在せず(ヨーロッパだって、やたらに道路建築に邁進したローマ人のおかげですし(「すべての道はローマに通ず)、中国でもこれまた道路網をつくりあげたあげくに動員した農民たちに打倒されることになる始皇帝のおかげではありますが)、とくに東アフリカの場合、そうした超絶的権力者は地中海沿岸ぐらいしかなかなか見あたらず、したがって長距離移動は水面(ことに海)を利用する方がよいわけです。

 なお、この東アフリカ周辺の海域について最初に記述された書籍が高名な『エリュトゥラー海案内記』です。なお、この原文はギリシア語で書かれ、紀元40~70年頃に、ギリシア人航海者によって書かれたものと推定されています。当時の地中海世界の共通語(現在の英語のステータスですね)はギリシア語だったのですね(そのギリシアが政治・経済的に長期低迷を脱することができず、今も経済危機にあるのはなかなか哀しい事実です)。

 とは言え、当時の港湾整備技術(そんなものは存在しなかったでしょうが)と航海技術からすると、帆船(とくに3角帆ダウ船)が無事に付ける良港はめったにない。そこで、数少ない良港の周りに、イスラーム的植民地都市国家が形成されている(国際政策学科と都市政策学科のテーマが、スワヒリ語という言語文化フィールドのテーマと合体します)という段取りになるわけです。スワヒリという言葉にそこまで読み込めば、貴方も立派な“総合政策人”ですね。

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 とこのあたりで、to be continued・・・・・・・といたしましょう。

新年にあたって、グローバル時代の言語学part1:“我々”、またはInclusive we とExclusive weについて

2012 1/1 総合政策学部の皆さんへ

 新年あけましておめでとうございます。また、本年もよろしくお願いします。
 ということで今年最初の投稿として、ちょっと真面目なテーマをとりあげましょう。それは“我々/We”です。

 “我々”、なんだか格好が良い言葉ですよね。私の学生時代は(もう40数年前ですが)、いわゆる過激派の人たちがメガホンで「我々はーっ」と叫んでいたのを、反射的に想い出します。

 その上で、言語によっては2種類の“我々”がある言葉も存在することを御存じでしょうか? といきなり切り出されても、「えっ?」と思うかもしれませんね、何を言っているのか、さっぱりわからない。それが、今回のテーマ、“Inclusive and exclusive we”です。

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 英語版Wikipediaの“We”にはきちんと記載されていますが、英語学的には“Clusivity”にかかわるとのことです。英語あるいは言葉に関心がある方は、是非、英語版をご照覧下さい(なお、日本語版にはWe もClusivityもありません。誰か、翻訳して日本語版を充実させませんか)。

 さて、(日本語にも英語にも基本的にない)“Inclusive and exclusive we”の区別ですが、これはWikipediaのClusivitityに出ているを見れば、一目瞭然です。話し合いの最中、そこで使われる“We”はどの範疇を想定しているのか?

 話し相手が“我々”と言っても、そこには聞き手の“私”は入っていないかもしれない。例えば、上記の過激派の方々の場合、「我々はーっ」と大学当局に叫ぶ場合、その「我々」に「大学当局」は入っていませんよね。

 こうしてみると、日本語の我々、あるいは英語のWeは、会話(発話)中、どこまで“我々”なのか、文脈(コンテクスト)によって判断せざるを得ない、あいまいな(文脈依存性の強い)言語ということになります。とくに国会答弁などで、“我々!”等と叫ばれる時、「それはいったいどなたですか?」と突っ込みを入れたくなることもないわけではありません。

 ついでに言えば、それはゼミでのプレゼンテーションでも、リサフェでの発表でも、おそらくは就活の時のエントリーシートでも変わらないかもしれません。つまり、「あなたは、ここにいる全員当然のようにそれを知っている/信じている、という調子で話しているけれど、それは必ずしも通用しませんよ」というわけです。

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 それでは、Inclusive/Exclusive weを取り扱ったアネクドート(小話)の一例を紹介しましょう。往年(私の子供の頃)のアメリカ人気TV『ローン・レンジャー』について、白人に虐待されるネィティブ・アメリカンインディアン)の立場から見た、という視点(主格)逆転型の小話です。

 ある日、主人公ローン・レンジャーはいつも一緒の相棒インディアンの青年トントともに、敵であるインディアンの戦士たちに包囲されて、絶対絶命のピンチに陥ります。

ローン・レンジャーはトントにこう聞いた。“相棒よ、俺らはどうすればいいだろう?(”Now what do we do?”)” トントはこう答えた。 「おい白人、”俺ら”ってどういう意味かね?」(”What do you mean “WE”, White Man?”=”ピンチなのはお前だけだ”)”」(Wikipediaから)。

 わかりますか? ローン・レンジャーは敵であるインディアンに囲まれ、Weという言葉に無意識のうちに相棒トントを含んでいるのですが(inclusive)、トントからすれば「こんな状況では、お前の“We”にインディアンであるオレは入らないのだよ(exclusive)?”」というわけです。

なお、トントは、「ポカホンタス」とともに「インディアンからは“白人にこびへつらうインディアン”)」の代名詞・蔑称として使われているそうです。

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 ここで英語版Wikipediaの“Inclusive and exclusive we”を紹介しましょう。翻訳しなくても大丈夫ですね。

Some languages, in particular the Austronesian languages, Dravidian languages, and others such as Min Nan and some dialects of Mandarin Chinese, have a distinction in grammatical person between inclusive we, which includes the person being spoken to in the group identified as we, and exclusive we, which excludes the person being spoken to. About half of Native American languages have this grammatical distinction, regardless of the languages’ families. Cherokee, for instance, distinguishes between four forms of “we”, following an additional distinction between duality and plurality. The four Cherokee forms of “we” are: “you and I (inclusive dual)”; “another and I (exclusive dual)”; “others and I (exclusive plural)”; and “you, another (or others), and I” (inclusive plural). Fijian goes even further with six words for “we”, with three numbers — dual, small group (three or four people), and large group — and separate inclusive and exclusive forms for each number.
In English this distinction is not made through grammatically different forms of we, but rather indirectly, for example through explicitly inclusive phrasing (“we all”) or through inclusive “let’s”. The phrase “let us eat” is ambiguous: it may exclude the addressee, as a request to be left alone to eat, or it may include the addressee, as an invitation to come and eat, together. The latter usage is informal, however, and its contracted form “let’s eat” can only be inclusive.
Examples:
Inclusive “we”: We can all go to the villain’s lair today.
Exclusive “we”: We mean to stop your evil plans!

 もうおわかりでしょうけれど、私がこんなことを長々と紹介したのも、皆さんが英語を話す時、相手の“We”がInclusiveなのか、Exclusiveなのか、その判断で文脈が全く異なってしまうことです。あるいは自分が“We….”と使う時、それはどこまでを含むのか?

 ということで、皆さんも上記のローン・レンジャー的状況に陥らないように注意しましょう。これは政治でも、ビジネスでも、結構重大ではないでしょうか? リサフェ等でのプレゼンテーションでも、結構気を使うべきではないかな、そういう点でも、レポートでは“主語”が重要ですよ、と授業で強調しているわけなのですが。

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 その一方で、“Inclusive and exclusive we”が明確に区別されている言葉もある、というのも面白いものです。上記に紹介した英語版Wikipediaでは、アウストラロネシア語系の言葉もそうだと云う事で、ちょっと調べてみましょう。日本語版のアウストラロネシア語系の説明の片隅に「一人称双数・複数には、包括形と排他形(相手を含むかどうかの区別)がある!」とあります。これですね。

 実は、ここまでのお話は、昔、国立民族学博物館の教授でアウストラロネシア語の大家だった山崎理先生から、ある研究会でうかがったことのまったくの受け売りです。

 そして、山崎先生はこれを説明した後、「実は日本語にも、しいて言えばExclusive weに近い言葉がないわけでもない」とおっしゃいました。皆さん、なんだか、わかりますか?

 それは「手前ども」で、つまり、これを使う場合「あなたは“我々”には入っていませんよ」という含意を含んでいるわけです。「私ども」と言っても、良いかもしれません。ていねい語を使い、へりくだることで、自分と相手の主格の違いを示すわけです。

 ちなみに、1927年5月20日から21日にかけて、ニューヨーク→パリ無着陸飛行を成功させた弱冠25歳の青年チャールズ・リンドバーグが、その直後に執筆した本のタイトルは“We”ですが、これはリンドバーグと彼の愛機“Sprit of St. Louis”を指しているそうです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...