カテゴリ : 政策について :

名前の由来Part 2:日本人の名前について

2021 10/6 総合政策学部の皆さんへ 日本人は「名前」について語るのが好きなようです。例えば、NHKには2017年からどうどうと「日本人のおなまえ」という番組が継続中です。

 ところで、この番組ですが、どうも取り上げるのは基本的に「名字」のようです。したがって、(少なくとも私が視聴したことがある限り)いわゆるキラキラネーム等について触れられたことはないようです。

それではこの「名字」とは何か? ということ、これが結構複雑なようです。Wikipediaでは「名字(みょうじ、苗字)は、家(家系家族)の名のこと。法律上は氏と呼ばれ(民法750条、790条など)、一般には(せい)ともいう」。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 これらの名字、苗字、家系、家族、姓等、いわば日常的にも使う言葉なのですが、一つ一つ定義を調べるとかなり面倒です。

 例えば、姓は「東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった」とあります。かつ、日本の場合、この血縁関係を父系でたどることもあるわけですが、場合によると別の姓を名乗ることもあることもあります。例えば、来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公、鎌倉幕府第2代執権北条義時ですが、彼は初代執権北条時政の次男だったため、長兄の宗時は北条宗時を名乗りますが(つまり父系を継ぐ)、成人後も「『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代であったと見られる」。つまり、兄は父の姓を次いで本家筋を明示しますが、次男は「分家」としてあてがわれた土地の名前を姓に名乗るわけです。

 もっとも、義時の場合は宗時が頼朝挙兵時に戦死することで、やがて時政の後継者として、北条姓に戻ります(最終的には一種のクーデターで時政の権力を奪取して、実力で執権を勝ち取ることになります)。この結果、後世には北条義時として知られることになるわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ところで、義時のように一時であれ、「住んでいる場所の名前」を姓にするというパターンは、実はほかにも多いことで、例えば、戦国大名として有名な毛利氏の本姓は大江氏ですが、義時も頼った頼朝側近の大江広元の4男が相模国毛利荘を領したたため、鎌倉幕府御家人毛利季光と名乗り、子孫が越後国と安芸国に分かれて、その安芸毛利氏は戦国時代に毛利元就となるというわけです。

 なお、上記大江氏は源平、藤原、橘と同じく姓(本姓)とされます。この本姓とは「日本において、古代以来の氏族名」として、名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味だとのことです。

 このような経緯で、Wikipediaでは毛利元就の氏族は「大江姓毛利氏」ですが、武田信玄の氏族は「清和源氏義光流河内源氏系甲斐源氏嫡流武田氏」となるわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 なお、家名(かめい)とは「父から子に父系に代々継承される永続性を持った個々の家に付けられた名称」だそうです。ちなみに、北条氏の本姓は桓武平氏もしくは伊勢平氏とのことです。

 また、姓(せい)と同じ漢字で別の読みとして姓(かばね)がありますが、この「かばね」とは「古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号」で、「せい」とはことなること。これでは頭がでんぐりがえりそうです。

 なお、この「かばね」は実に明治のはじめまでかろうじて存続しており、「初期の明治政府の公文書では大村益次郎は「藤原朝臣永敏」、大久保利通は「藤原朝臣利通」、大隈重信は「菅原朝臣重信」、山縣有朋は「源朝臣有朋」、伊藤博文は「越智宿禰博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな)によって表記することを通例」としたそうです。

 しかし、これではとても近代的国家と言えません。一人の個人に明確な名前をつけて、かつそれを登録する=戸籍制度が始まります。明治4年10月12日(1871年11月24日)、姓尸不称令(明治4年太政官布告第534号)で、公文書から「姓尸」(姓とカバネ)が排除されます。明治5年(1872年)の壬申戸籍編纂で、「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」を一気に一元化することで、この面倒な状況を断ち切り、法的根拠でいわゆる「氏名」に統一したのが、明治8年(1875年)の平民苗字必称義務令(太政官布告第22号)なのだそうです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

このあたりの姓名がややこしいのはローマ共和国・帝国時代の方々も同様で、英名のジュリアス・シーザー(あるいはたんにシーザー)で知られるガイウス・ユリウス・カエサルは「ユリウス氏族に属するカエサル家のガーイウス」という意味だそうです。なお、英語のシーザーはラテン語の「カエサル(Caesar)」は「ローマ帝国およびその継承国家で用いられた君主号」で、イエス・キリストの言葉とされる「カエサルのものはカエサルに」につながり、ドイツ語のカイザー (Kaiser) やロシア語のツァーリ (Царь, Tsar) などのように「皇帝」の称号として扱われます。

 ところで、この“皇帝”の響きがどんなに聞こえがよいか? 大英帝国(British Empire)と称されながらも、イギリス国王は皇帝ではなく、Rex)に過ぎません。19世紀、ビクトリア女王のお気に入り、首相ディズレーりは1877年、1858年に植民地として成立したインド帝国(India empire)の統治者としてヴィクトリアをインド女帝(Empress of India)に即位させるのです。

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト後篇

2021 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇に引き続いての後篇です。

 前篇では、ナポレオンのエジプト征服(そしてその後の脱出)後の混乱に乗じて、出身地や血筋さえ定かならぬ一介の傭兵隊長ムハンマド・アリーが土着のマムルーク勢力とオスマン帝国の間隙を縫って、1805年、36歳の時にエジプト支配に着手するところで終わっていますが、彼の波乱万丈の一生はその後もさらに続きます。完全なる権力掌握のためには、彼を取り巻く幾重もの重囲、多方面の敵をそれぞれ突破しなければなりません。

 まずは向背定かならぬマムルーク勢力についてかたを付けねばなりません。1811年3月11日、ムハンマドは次男のアラビア遠征軍司令官任命式にことよせて「マムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇)と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除する」ことに成功します(Wikipedia)。このあたりは、1502年12月31日、“マジョーネの反乱”において部下に裏切られて窮地に立たされながら、言葉巧みに反逆者の「4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛」、彼らが率いてきた軍隊も殲滅させて、権力保持に成功したルネサンス期の梟雄、チェーザレ・ボルジアを髣髴とさせるところです。

 当時のフィレンツィの政治家でのち歴史家となったフランチェスコ・グイチャルディーニはチェーザレについて「「裏切りと肉欲と途方も無い残忍さを持った人物」とした一方、当時のフィレンツェの国情の混乱振りとの対比で「支配者として有能であり、兵士にも愛されていた人物」と評している」(Wikipedia)とのことですが、ムハンマドにもそれに匹敵する才能(ルネサンス期ではヴィルトゥ[器量]”と呼ばれます)の持ち主であったのでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次は当然、ムハンマド自身の雇い主であるオスマントルコ皇帝です。ムハンマドの権力確保の時期はまたオスマン帝国の嬉々の時期でもあり、「1807年から1808年にかけてセリム3世ムスタファ4世が相次いで廃位れるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった」(Wikipedia)。ちなみに、改革者セリムと呼ばれたセリム3世は国家体制刷新を目指しますが、既存権益者の筆頭ともいうべき常備軍イエニチェリを廃止しようとして、クーデターにあい失脚します。帝国の辺境でムハンマドが目指した改革は、帝国の中央では頓挫する、その隙間の中にエジプト王国(ムハンマド・アリー朝)の基礎が据えられるわけです。

 ちなみに、改革者セリムを保守派によるクーデーターで打倒したムスタファ4世ですが、自らの権力維持のため、従兄弟にあたる廃帝セリム3世や弟のマフメットを殺そうとして(=オスマン皇帝でよく知られている兄弟殺し)、セリムを殺したもののマフjメットに逃亡され、結局、次のクーデターで打倒され、弟のマフメット3世が即位します( 1808年7月28日)。ムスタファ4世もその後、帝政安定のため、自らもマフムト2世によって殺されます。ちなみにこのマフメット2世の母親ナクシディル・スルタンは一説によると「ナポレオン・ボナパルトの最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの従妹にあたるマルティニーク出身のフランス人女性、エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリと同一人物」ともされていますが、コーカサス出身の女性という別の説もあるそうです。いずれにせよ、皇帝たちの母親は奴隷出身者が多く、その結果、皇帝たちの遺伝子は限りもなく“トルコ人”から離れていくことになるわけですが、それはまた別の話です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 マフメット2世はオスマン帝国再建という難事業に乗り出しますが、それは当然困難をきわめ、保守派、とくにかつては東欧諸国をあっとうしたイエニ・チェリ軍団の抵抗を受けて隠忍自重を強いられます。2代前、同じく帝国の改革をめざしたセリム3世の失脚(1807年5月)から、マフムト2世が満を持して断行にした(かつて14世紀、賢主ムラト1世によって創設されて以来、そのリクルートシステム[デヴシルメ制]も含めて抜きんでて革新的であった)旧式軍団イエニ・チェリの廃止とその反乱の鎮圧(1826年6月15日)までの時期は、あらためて言うまでもないことですが、ムハンマド・アリーが己の権力基盤を固める時期になってしまうわけです。

 1821年のワラキア蜂起以後の一連の民族蜂起に対して、「追い詰められたマフムト2世は1824年に独自の西洋化政策を進めていたエジプト総督ムハンマド・アリーにペロポネソス半島とクレタ島、そしてシリアの3つの総督の地位を彼に与えることを引き換えにして援軍の派遣を要請した。翌年派遣されたムハンマド・アリーの息子のイブラヒム・パシャは次々と反乱軍を打ち破っていき、クレタ島をも占領した」(Wikipedia)。帝国内部の民族蜂起(19世紀から今日までつづく民族問題)、そして北から圧迫するロシア、さらにイギリス、フランスの進出の板挟みにあったマフメットに対して、アリーは牙をむきます。

 「1831年、ギリシア独立戦争への参戦で大きな犠牲を払ったムハンマド・アリーが、参戦にあたってマフムト2世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議して、エジプト軍をシリアに武力侵攻させる事件が起きた(第一次エジプト・トルコ戦争)。単独でムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト2世は、ギリシア・セルビアの問題で圧迫を受けてきた相手であるロシアを頼り、エジプト問題を列強の介入によりさらに複雑化させた」(Wikipedia)。このあたりが、現在の中近東の政治情勢を産みだすきっかけともなるわけです。

 結局、「イギリスの支持を得たマフムト2世は1839年4月に満を持してエジプトとの間に戦端を開き、ムハンマド・アリーの支配する北シリアの要衝アレッポにオスマン帝国軍を向かわせた(第二次エジプト・トルコ戦争)。6月24日、オスマン帝国軍はエジプト軍によって打ち破られ、第二次エジプト・トルコ戦争もまた、ムハンマド・アリーの優位によって進もうとしていた。この悲報が届く前にマフムトは崩御した。この戦争は最終的にイギリスの介入により、1840年7月にオスマン帝国側の優位で決着するが、ムハンマド・アリーにエジプトの世襲権が認められた」(Wikipedia)。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうして「世襲権」を獲得、半独立国の地位を取り付けるムハンマド・アリーですが、彼の跡継ぎたちはアリーへの対抗のためにヨーロッパ列強からの支持を取り付けたオスマン帝国ともども、関税自主権などを失い、以後、どちらも半植民地化の道を辿ります。マフメット2世崩御の1839年から数えると、オスマン帝国は6代・83年後に帝国解体に直面し、またムハンマド・アリー朝は10代・114年後に廃絶を迎えることになります。

 

「老い」を考える5:“定年”について その2

2021 7/11 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」に関連して、定年を考える、その2ですが、生活史をたどるうちにいやおうやってくるのが“仕事の終わり”です。

 例えば、先回紹介した「日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文に眼を通していると、「60歳という年齢は、一般庶民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている」とあります。要するに年取ってしまえば戦えなくなる=引退の時期がある。なんとなく納得しますね。仕事によっては、必然的に物理的能力によって、年齢の限界が規定され、それが定年的な考え方をもたらすことになるのです。

 さて、軍人の末路についてことに有名な科白に、第2次世界大戦後に日本占領統治を牛耳ったダグラス・マッカーサー元帥の退任演説における「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; They just fade away)という言葉があります。それでは、老兵はいつ“消え去る”のでしょうか?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ここでとっさに私の頭に浮かぶのは、古代ローマ共和制末期の「マリウスの軍制改革」です。これは「紀元前1世紀にガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた」というエポック・メーキングなできごとです。

 この改革の本質は、要するに、対外進出にともなう侵略行為の主体としての軍隊を(+キンブリ・テウトニ戦争のような外敵侵入に対処する軍隊としても)それまではローマ市民権を持つ一般市民に義務として課せられて兵役ではとてもまかないきれない現状を打破するため、マリウスが「自前で武具を賄えない貧民階級」に注目して、志願兵制度+給料支給+従軍期間の確定+退役後の報酬をセットにした制度です。つまり、ボランティア的軍隊から職業人的軍隊への転換を図る。その中に必然的に後年の定年的制度と給料+年金制度を組み込むということになります。

 ちなみに、国内の治安維持のための軍事体制から、国外への侵略的軍事体制への転換をはかり、日本政府が鎮台制から師団制へと転換するのは明治21年(1888年)5月12日のことです。師団とは「主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位」であり、この改編で「戦闘部隊の組織を整理して管理を容易にしたことで、陸軍は外征の能力を高めた。それぞれ兵站を持ち自己完結性を有する各師団は、独立して外地で作戦を遂行することができるようになった」(Wikipedia)とされます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 もう少し詳しく説明しましょう。マリウスの改革以前、市民による兵役では「兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属し」、「兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならず」、「必要な武具は自前で購入」ということになっていました。

 これに対して、マリウスは貧民階級に門戸を開くため、職業軍人としての待遇を整えます。それは以下の通りです。

  • 国が武具を支給=貧乏な者でも軍人になれる(=出世のチャンスをつかめる)
  • 戦闘に従事する者の給料も国が支給=家族の生活も保障
  • 従軍期間を25年とする=定年的制度
  • 退役後、兵士たちに土地を与える退職金的制度。司令官より年金を給付=年金的制度

この結果、「赤貧にあえぐ者の中で社会的な成功にわずかな望みをかけて大量の人員がマリウスのもとに走った」とされます。

 この改革自体は「単純なもので、「兵士への給料」は、従来においても「働き手を兵士に取られた農家への損失補填」として行われており、改革の前後でその金額は変わっていない。端的に言えば、徴兵制を志願制に変えただけの事である。しかしながらこの単純な改革によって、困窮した農民は兵役から解放され、無産者達は職を得る事になった(一家の働き手を取られた農家への損失補填としては不足していた金額であっても、無産者にとっては有難い収入源となった)。またこれにより、ローマ軍は今までの市民からなる軍隊から職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌を遂げる」ことになります(Wikipedia)。

 また、この軍制改革の結果生まれた軍団指導者と志願兵の関係をいわば政治的なテコとして、ローマを帝政に変化し、その結果、巨大な国際帝国ローマを作り上げて、現在のEUのベースを創造したとも言えるマリウスの義理の甥、ガーイウス・ユーリウス・カエサルの覇業に繋がっていくと言えるでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、ローマ共和国軍では従軍期間は25年ということですが、これはもちろん、歳をとると戦闘能力が次第に衰えることを考慮にいれているのでしょう。20歳で兵士になれば、45歳まで務めるということになります。なお、「退役までの5年間はベテラン軍団兵として、従事する内容を軽いものなどにしてもらい、優遇をされた」とのことです(Wikipedia「軍団兵」;なお、英語のベテランはラテン語で年老いたことを示す「Vetus」にanという接尾語をつけて、経験を積んだ古参の兵士、あるいは退役軍人を意味するようになったとのことです)。

 ちなみに、アメリカ軍では「20年以上勤務の退役直後から支給される一般公務員とは別の軍人年金」制度があります。「資料60 米国・英国・仏国軍人の退職後の処遇及び再就職管理に関する調査報告」では、「全額国庫負担であり、現在国防省の人件費の約20%、約290億ドル(約3兆3千億円、1ドル=113円で算出)が支出されている。年金の受給資格は、原則20年の勤務により発生し、退役直後から支給される。退職年金の支給額の計算については、1986年8月1日以降の入隊者については、退職前36ヶ月の基本給の平均月額×{2.5%×勤務年数-(30年-勤務年数)×1%(最高75%)}である」とのことです。

 一方、イギリス軍では「受給資格は、将校は16年、下士官は22年の勤務により発生し、支給額の最高は、退職時の基本給の48.5%である。職務や勤務地の特殊性に係わらず、一律基本給と勤務年数に基づき年金額が算定される」ということです。

 ちょっと特殊なケースでは現代の傭兵とも言えるフランス外人部隊では、「入隊資格については国籍、人種、宗教に関係なく17歳以上、40歳未満の健康な男性なら入隊可能」で、「現在入隊した隊員の場合は最低でも20年以上の勤務が条件となり、さらにこれまで除隊後すぐであった給付が60歳以上になってからの給付に変更になった。定年の年齢基準は特に無く、本人の意思がある限り何歳でも続けることができるが、現実的に60歳以上まで続ける人はほとんどいない」(Wiipedia)とのことです。

 こうしてみるとローマ共和国の昔から、20歳ぐらいで兵役につけば、20~25年程度の勤務で年金受給資格が得られるが、(将軍にでもならない限り)60歳程度までで退役する、というのが一般的と言えるでしょうか。

 なお、日本の自衛隊では「自衛隊は、精強さを保つため、若年定年制及び任期制という制度を採用しており、多くの自衛官が50歳代半ば及び30歳代半ばまでに退職することになっています。」(航空自衛隊HP)とあり、年金は(平成27年度以降は)厚生年金に加入します。

「老い」を考える4:“定年”についてその1

2021 4/29 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」を考えると、例えば、「定年」あるいは「停年」という日本語があります。我々にとってはきわめて日常的な言葉なのですが、これは歴史が浅い言葉、つまり、明治のいわゆる近代化が始まった頃までしか遡れない言葉だと思って下さい。

 そこで、例によってGoogle Scholarで先行研究を調べると、柳澤武(2016)「高年齢者雇用の法政策─歴史と展望」『日本労働研究雑誌』には以下の記載があります。

日本の定年制度の起源は,1870 年代にまで遡ることができるとの説もみられるが,明確な記録に残っているものとしては 1887 年制定の海軍火薬製造所の規定が挙げられる。同規定の25条は「職工ハ年齢満55ヲ停年トシ此期ニ至ル者ハ服役ヲ解ク。但満期ニ至ルモ技業熟練且身体強壮ニシテ其職ニ堪ユル者ハ,年限ヲ定メ服役ヲ命スルコトアルヘシ」と定め,原則として55歳を定年退職としつつも,「技業熟練」かつ「身体強壮」であれば雇用延長されていた。2年後には,横須賀海軍工廠も造船所傭職工解傭規則により50歳の定年制度を定めており,「技術抜群」など特別の場合には再雇用を行う旨の例外規定が存在した。これら海軍関係の工場から日本の定年制度が始まったのは,いち早く退職金(恩給や退隠料)を支給する制度を整えていたことが理由の一つであろう。少し遅れて,1890 年には「官吏恩給法」により公務員にも退職金が適用されるようになったのが,こちらも強制的な退職とは結びついておらず,あくまで退職金の支給要件に過ぎなかった

 つまりはまだ130年ほどしか経っていない制度なのです。それでは、この近代的定年制度以前は、その頃の皆さん=私たちの先祖様はどうしていたのでしょう? 考えたことはありますか?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、「定年」的な考え方はどこまで遡れるのか?

 まず、「致仕」という言葉をご存じでしょうか? Wikipediaによれば、「致仕(ちし/ちじ・致事)とは、官職を退いて引退すること。君主に預けた身体の返却を願うと言う意味により、俗に「骸骨を乞う」とも称した」。そして、「日本の律令法では数え年の70歳以上になった官人は致仕を申し出ることが出来た(これに対して70歳を待たず病気その他で官を退く事を辞官と称した)」とあります。

 この致仕ですが実に大宝律令(701年)・養老律令(757年)についての解説書である「令義解」の「選叙令宮人致仕条」に、「凡官人年七十以上。聴致仕。五位 以上 々表。六位 以下申牒官奏軌」(官人は年齢70歳以上になれば、致仕(=定年退職)を許可する。五位以上の場合は上表する(=天皇に文書を奉る)こと。六位以下の場合は、太政官に申告して奏聞すること;『現代語訳「養老令」全三十編』)とあります。

日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文では「この条文は役 人が官職を退く際の手続 きに関する規定である(大宝令では 「官」は5位以上か以下かという位階によって手続きは異なるが、退職する年齢は70歳である。令集解所引の古記では、分番の官にも適用されると説明していることから、この条文は官人全般 にわたって適用されたものと考えられる」、としています。つまり、70歳過ぎると自分の意志で退職できる、とはいえ強制ではないということになります。

なお、律令における庶民への課役減免や救済措置 についての年齢規定として「老」という概念があり、男性では 60歳とされます。そこで渡部は 70歳 という年齢 は どの よ うな意味を もっていたのか とい うことで あるが、課役減免や給侍 は税 制 の問題 と密接 にかかわることで あり、 「老」 には法律用語 としての意味が あった のに対 し、官人の定年ともいえる 70歳 とい う年齢 は、 日常生活 レベルで判 断 され る老人、す なわち可視的 に 「年老 いた人」 とい う意味があるのではないか と考 え られ る」と分析しています。

もちろん、職務によっては年齢の上限にも差が生じる場合もあり、渡部は「一般的 に官人の退職 には、前 に見た選叙令官人致仕条の 70歳という年齢がひとつの目安となったわけであるが、兵衛のように武官的職務で宮内の宿直すなわち夜勤も通常の勤務に組み込まれるというような場合には、身体 的理由だけで60歳という年齢が示される。 この60歳という年齢は、一般庶 民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている。このように大宝 ・養老令の規定には実務に支障をきたさないよう、在職年齢の上限 をきめ細やかに定 めていたのである」としています。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、江戸時代はどうだったのでしょう?

 一例をあげれば、尾張藩御畳奉行を務めながら奇書『鸚鵡籠中記』を書き残したことで知られる朝日文左衛門重章は、元禄7年(1694)12月に父定衛門重村の跡目をついで、ご城代組御本丸御番に任じられますが、実際には、この家督相続はなかなかすんなりいけませんでした(神阪次郎『元禄御畳奉行の日記』)。江戸時代は幕府によって、家督=家父長制における家長権の相続制度が確立し、嫡子単独相続が確立しています(Wikipedia「家督)。その場合相続は「先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分け」られます。文左衛門の場合、父は存命なので、父が隠居しないと就職できません。ところが父は「隠居」をいやがり、親類一同の説得にあい、しぶしぶ家督をゆずることになります。

 つまり、一定の年齢によって家督を交替させる「定年」が定められていないので、父親がまた生きている場合は、父の意思(=何歳で隠居生活にはいるか)によって子供の就活時期が左右されてしまうのです。ちなみに、文左衛門はなんとか跡目を継いだものの、その後の長年の「酒毒」がたたって享年45歳で(=現役中)に死亡、子供は二人とも娘であったため、親族から養子を迎えますが、病弱のため死亡、朝日家は断絶します。こうして定年制が定められていないため、旗本等ではしばしば80歳以上まで致仕せず、仕事をつ続けていた者がいた、とも別の本で読んだ記憶があります。

 ちなみに、17歳で御徒見習いとして幕府御家人になりながら、狂歌等で人気作家として名をはせた太田七左衛門こと太田南畝は(狂歌のペンネームとしては、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人)、天明7年(1787)の寛政の改革以降、狂歌の筆を擱いて「学問吟味登科済」を受け、勘定支配に出世します。一方で、退職したくともなかなか進まず、Wikipediaによれば「文化9年(1812)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。(南畝は)自身の隠居を諦め働き続けた。文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で死去。75歳」とのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 当然、商家はどうなっているのか? とお考えの方もいるでしょう。油井宏子『江戸奉公人の心得帖:呉服商白木屋の日常』から少し紹介しましょう。

 まず、白木屋ですが「東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店のひとつで、かつ日本の百貨店の先駆的存在のひとつである。江戸時代から昭和にかけて営業し、1967年に東急百貨店に買収され、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、1999年1月31日に閉店、336年の歴史に幕を閉じた」(Wikipedia)。この店には「白木屋文書」という一連の古文書が残され、そこから奉公人たちのライフヒストリーが見えてくる、というわけです(tこの白木屋文書ですが、東京の国立博物館で展示されているのを見た記憶があります)。

 なお、奉公人は男ばかり、そして基本は京都の本店採用、そのほとんどが近江人(一部、京都)、これは初代大村彦太郎が近江長浜生まれだったが故です。

 多くの奉公人は11~12歳で採用され(その多くは次男、三男)、春に集団で江戸下りします。基本的に元服前(つまり、成人前)、江戸店についたころは「こども」等と呼ばれ、15歳で元服しますが、当然、入店2年目あたりで脱落者(店から脱走、病気、各種の種々の問題をおこしての退職)が多発します。元服が済むと「若衆」と呼ばれます。つまり、年功序列のコースに乗るわけです。なお、給料がでるのは元服後、つまり「こども」時代は無給のようです。

 故郷に帰ることができるのは実に上京9年目のことで、それが「初登り」と称されます。50日間ののぼりが過ぎて首尾よく江戸に戻ると(勤務が評価されなかれば、そのまま解雇されてしまうこともあったようです)、今度は「手代」に昇進する。次ののぼりが16年目の「中登り」、そして22年めの「三度登り」、この「登り」を経るごとに昇進していく。そういうシステムだったようです。もちろん、平手代→小頭役→年寄り役→支配役というのぼるにつれて、人数も減っていくのは現代の会社の昇進のシステムとも共通しています(なお、江戸時代の大店では、中途採用はないとのこと)。

 それでは退職者はというと、勤続年数によって退職金が定まっていて、「33年間勤務して支配役までつとめた江龍作右衛門が日本橋店を辞め、天保8年6月7日に江戸を出立しました。言わば、支店長の退職であり、作右衛門には銀110匁の最上級の白紬一疋と銀60匁の生絹1疋が送られています」とあります。なお、日本橋店を辞めると、病気でも円満退職でも、再び雇用されることはなかったとのこと)。

 33年間の勤務となると、江龍作右衛門は44歳か45歳ということになります。もちろん、この当時は平均年齢も短かったでしょうから(人生50年の頃ですから)、隠居するにしても、それほど長生きできなかったかもしれません。そして、江龍のような退職者が出れば、その代わりにまた若い者たちが採用されていく、それが江戸での雇用システムの根幹だったわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 逆に、(太田南畝はうまくいかなかったわけですが)早めに次世代にバトンタッチをして、あとは公事から身を引き、余生を好きなことで過ごす、という人生もあるわけで、その典型が1745年に上総国の名主の家に生まれ、1762年に婿入りの形で酒造家の伊能家に入り、名主・村方後見として活躍した後、1794年に長男に家を継がせて隠居、50歳以降の人生を日本全図作成にささげた伊能忠敬や、歳40にして弟に家督を譲り、画業に励んだ伊藤若冲等があげられるでしょう。

 ということで、このあたりでto be continuedとしましょう。

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇

2021 3/19 総合政策学部の皆さんへ

 「19世紀での国家の誕生と消滅」も3回目、今回とりあげるのはオスマン帝国の崩壊と、そこからの酷寒成立の例の一つとしてのエジプトです。

 まず、オスマン・トルコことオスマン帝国ですが、Wikipediaでは「テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国」とされ、「17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及」びます。

 そのオスマン帝国が、19世紀以降、とくに西欧諸国から蚕食され、最終的には「青年トルコ人革命」によって権力を握った“統一と進歩委員会”が第1次世界大戦において枢軸国側に身を投じるという冒険的行為に走った挙句、ロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国とともに解体されます。その結果、今日私たちが“トルコ”として知っている地域はケマル・アタテュルクによるトルコ人国民国家として生き残りを図ることになります。その間、この“新生トルコ”から外れた多数の国家が誕生することになるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 このオスマン帝国の解体、あるいは崩壊は19世紀から20世紀にかけてきわめて長い時間をかけて進行します。セルビア公国が事実上独立したのが1817年、フランスによるアルジェリア占領が1830年、ギリシャ王国誕生が1832年、ルーマニア王国ブルガリア公国独立が1878年、青年トルコ人革命のどさくさにまぎれてオーストリア・ハンガリー帝国にボスニア・ヘルツェゴビナを奪われ、クレタがギリシャに回帰、さらに1911年、イタリアがリビアを奪って植民地化と続いて、これらの逆境を一気に吹き飛ばすべく、“統一と進歩委員会”が賭けに出て、ドイツ・オーストリアと手を組んだのが1914年11月11日となります。

 ちなみにこの過程で生まれた王国には、まるで植木の移植のように、他の王国から王族がやってきたりします。つまりは、列強の優劣関係の上に、王朝の“出店”が設けられる塩梅です。例えば、初代ギリシャ王はオーストリアのヴィッテルスバッハ家のオットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハことオソン1世、初代ブルガリア大公はドイツのはバッテンベルク家出身のアレクサンダー・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルクことアレクサンダル1世、ルーマニア国王もドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家出身のカール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒことカロル1世。

 王様を異民族から“輸入”するわけですが(=もちろん、西欧列強の思惑で)、これではとても国民国家とは言えません。その中で、初代セルビア公ミロシュ・オブレノヴィッチ1世は貧農・ブタ商人あがりでナショナリズムを体現していると言えそうです。このミロッシュ1世は「統治下にセルビアをオスマン帝国内の自治公国にさせたため、セルビアが独立を回復する端緒を開き、近代セルビアの内外政策を方向づけた人物として評価されている」(Wikipedia)とのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さてこうしたオスマン帝国解体の長い長い歴史の中で、一介の梟雄が出身地でもなんでもないエジプトを実質的な支配下におさめ、ほぼ150年(1805年 – 1953年)に渡る王朝を創設します。

 その主人公がムハンマド・アリー(1769?~1849)、激動の18~19世紀(フランス革命からナポレオン戦争を経て、アヘン戦争・米墨戦争の同時代)を生き抜いた英雄・梟雄と言うべき存在ですが、生まれはアルバニア・トルコ・イラン・クルド系説が入り乱れ(アルバニア系が主流)、要するにエジプトとは本来何のゆかりもなかった人物です。生まれた年も場所もはっきりしないのです。

 その彼がエジプトとかかわりをもつのは、ナポレオンが1798年~1801年にかけて主導したエジプト・シリア遠征がきっかけです。フランス革命とその後の混乱から立ち直ろうとするフランス総裁政府は、対イギリス牽制のため、エジプトを占領することで植民地とイギリスの結びつきを断ち切ろうというナポレオンの戦略に載ることにします。

 こうしたヨーロッパでの列強の争い、そしてフランス第一共和制での総裁政府というあやふやな政治主体内部での権力者同士の力関係等によって起こされた遠征事業が、エジプトの宗主権をもつオスマン帝国を刺激して、傭兵隊長としてのムハンマドを派遣させる。そのムハンマドが新天地に己の権力を発揮する可能性を見出し、やがてオスマン帝国に歯向かうまでに至る! まさに波乱万丈の物語とも言えるでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ところで、、異邦人ナポレオンにとってはエジプトとはたんなる一つの舞台に過ぎず、それが政治的戦略にとって用だたなくなれば捨て去ってもまた恥じない対象であるのに対して(1799年8月22日、ナポレオンは少数の腹心とともに秘かにエジプトを脱出、フランスでの権力獲得にまい進し、残された兵は1801年まで戦い続けますが、最終的にイギリスに降伏します)、もう一人の異邦人ムハンマドはそこに自らの活躍の場を見出します。おまけに、実質的なエジプトの支配者、マムルークたちはナポレオンに粉砕されたばかりです。

 実を言えば、このマムルークたちも「イスラム世界に存在した奴隷身分出身の軍人」であり、ムハンマド君の大先輩にあたるとも言えるわけですが、ムハンマドはナポレオンによるマムルークの妥当と、その後のフランス軍撤退といういわば政治の真空状態をつきます。Wikipediaでは「イギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた」と記されています。

 この時期、オスマン帝国の傭兵隊(アルバニア人非正規舞台)の司令官が暗殺されると、ムハンマド・アリーは土着のマムルーク勢力とオスマン帝国を巧みに操って、自らの権力の確保に猛進します。宗教指導者であるウラマーから新総督へ推挙されるのが1805年、ナポレオンの脱出から5年、ムハンマド36歳です。ちなみに、その前年フランス皇帝になったナポレオンはムハンマドとほぼ同じ1869年生まれで、戴冠時35歳。ちなみに、ナポレオンは46歳の時にワーテルローの戦いで全権力を失いますが、ムハンマドは英仏に掣肘されながらも80歳までエジプトを支配し、長男イブラーヒーム・パシャに権力を遺します。、

と、いうところで、この項 to be continuedとしましょう。

みんな真実を憎んでいるんだ!:モントレーの賢人エド・リケッツの至言

2021 2/12 総合政策学部の皆さんへ 今回は、ノーベル文学賞受賞者ジョン・スタインベックの無二の親友にして(共著も一冊あります;『コルテスの海』)、カリフォルニアはモントレーの賢人、海洋生物学者のエド・リケッツの言葉、「(みんな)真実に憎しみさえ抱いたのさ」です。と、いきなり切り出してみても、なんのことやらわからないかもしれませんが、一応、昨年10月8日付けで公開の「愚者には愚に従って答えるか?」の続編と受け取っていただければと思います。

 この話は、ある日、カリフォルニアの海岸地帯を襲った“火事”がきっかけです。上記『コルテスの海』を引用すれば、「研究所の歴史は、大きく二つの時期に分けられる。火事の前と後である。その火事は興味をそそる出来事だった。

 ある晩、海岸地域全体で電流の調子がおかしくなり、普段は20ボルトのところを突然2000ボルトもの電流が流れたのだ。後に訴訟で電力会社に責任はないとの判決が下されたので神のなせる業としか言いようがない

 当然、一帯は火の海と化し、エドが心血をそそいでいたPacific Biological Laboratoriesもすっかり焼け落ち、エドに残ったものは逃げ出す時に抱えていたタイプライターと車だけ(ズボンまでもなくしていたが、それでも「足とペンだけは確保できた」ととっさの判断に満足していた)。

 その後、電力会社には訴訟が殺到します。当然、Pacific_Biological_Laboratoriesも原告に加わっていました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 スタインベックはこう書いています。「エドは証言のためにサリーナスの上級裁判所に出向き、事実をありのままに、できるだけ完璧に語った。彼は真実を愛し、真実を信じていたからである」。そして、エドは裁判に関心を持ち始めて、「海洋動物の新種に対するのと同じ多大な客観的関心を法体系にも注いだ

 訴訟に負けた後、エドは「静かな口調で、わずかに驚きの表情を見せながら語っていた。「単純な問題でいともたやすく大間違いを犯すものなんだね。人間関係や財産にまつわるあらゆる問題で真実を見つけ出すためにこそ、法体系があるんだと思い込んでいたよ」。しかし、「ある事実を忘れていた、というより考えてみたこともなかったんだ。原告側も被告側もどっちも勝ちたいんだという当たり前のことをね。そのために本来の目的はどっかに行っちゃって、都合のいい部分だけをことさらに強調するから問題の客観的事実は影も形もなくなる

 そして、最後に付け加えます。「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない。それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ

 ちなみに、この火事の一件について英語版のWikipediaには“On November 25, 1936, a fire broke out at the Del Mar Cannery next to the lab (site of today’s Monterey Bay Aquarium) and most of the contents of the laboratory were destroyed. The manuscript for Between Pacific Tides survived the fire as it had already been sent to Stanford University for publication. It was Steinbeck that saved the lab financially after the fire with the purchase of half the company’s stock”と記されています。なお、文中のBetween Pacific Tidesとはエドと生態学者Jack Calvinによる潮間帯生物に関する先駆的書籍で、上ケ原の図書館も1冊あります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 1936年の当時、すでに「国民大衆の心は(略)小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲となりやすいからである」(『我が闘争』にでてくるそうです)と指摘したというヒトラーがドイツの政権を握っていましたが、最近の某大統領とそれを信じる人たちの言動でも、たしかにそういう傾向はあるだろう、と納得させられるところです。

 とはいえ、エドの思索はさらに深く、スタインベックは「それは彼にとって驚くべき大発見であり、考察の余地があった。真実を愛する彼は、他の人もみな真実を愛すると信じていたのだ。だがそうでないと分かっても嘆きはしなかった。ただ、興味をそそられただけだ」とまとめます。これこそ、「愚者には愚に従って答えるか? 答えないか?」についての一つの回答なのかもしれません。

 そんなことを考えていると、つい、おなじみの質問が頭をよぎります。「あなたは真実を愛してますか? それとも、憎んでいますか?」

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ後篇

2020年12月12日 総合政策学部の皆さんへ 前篇では1836~1845年という(歴史的にみれば)きわめて短期間だけ存在したテキサス共和国をめぐる(=同時に、アメリカ合衆国が旧スペイン領メキシコの実に3分の1の領土を蚕食する)歴史を紹介しましたが、次はハワイについてのお話です。

 さて、皆さんはハワイの歴史はどのぐらいご存じでしょうか? ハワイ諸島に先住民が何時たどり着いたのかについては、どうやらはっきりした証拠がなさそうで、紀元4~8世紀頃と推定されているそうです。無文字文化のために記録された“歴史”がないわけです(もちろん、記録がないからと言って、そこの人々の歴史がないわけではありません。そのあたりはちゃんと自覚して下さいね)。

 記録として残るのは、ヨーロッパ人がハワイ諸島にたどり着いた1778年、イギリスのキャプテン・クック指揮下による第3回航海の時でした。「クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した」(Wikipedia)。命名=その土地の“発見”者が名前を付けて、それが植民地支配のためのこの上もない理由となる=大航海時代から帝国主義にいたる時代につきもののエピソードです。

ちなみにこの時のサンドウィッチ伯は第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューで、「博打好きで、ゲームの最中にも食べることができるサンドウィッチを発明した」という都市伝説的エピソードが伝わっています。なお、初代サンドウィッチ伯は1660年の王政復古に貢献したエドワード・モンギューで、サミュエル・ピープスの『自伝』にも登場することで知られています。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次に、皆さんにはハワイ王国の成り立ちにもご関心をもっていただければと思います。ハワイ王国とは、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王;1758~ 1819)がつくりあげた統一王朝で、彼の子孫によって約1世紀統治されます。

 さて、Wikipediaにはカメハメハ1世の事績として「叔父の死後、その長男のキワラオを倒して島内を掌握すると、イギリスから武器や軍事顧問などの援助を受け、マウイ島やオアフ島など周辺の島々を征服していった。政敵が火山の噴火や外敵などにより壊滅状態になったことも統一に幸いした。18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ1世は火器と火薬の調達にいそしみ、火器の使用法や管理法に習熟した白人の顧問を迎え入れた。1804年には、600挺のマスケット銃、14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型臼砲を保有するに至った」。このように「カメハメハは優れた外交手腕でイギリスやアメリカ合衆国などの西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なその文化の保護と繁栄に貢献した」(Wikipedia)とあります。カメハメハによる王国の宣言は1795年(フランス革命と同時期です)、全土統一が1810年でした。

 おわかりになりますか? 外部世界の接触により、そこからの最新兵器や体制をいち早く導入し、革新的な軍事力によって周辺を統一、近代的軍事国家を作る。実は、このパターンは17~19世紀にかけて世界各地で勃発します。例えば、イギリスからの支援によって1827年にはマダガスカルのほぼ3分の2を支配するメリナ王朝のラダマ1世(あたかもマダガスカルの織田信長という塩梅です)、17世紀西アフリカの交易ルート転換期にあって、ヨーロッパ人との奴隷貿易によって奴隷と兵器の交易によって、軍事国家化し周辺諸民族を支配したアシャンティ王国、あるいはアシャンティと同様に奴隷貿易で栄えるダホメ王国です。

 「(ダホメ王国では)歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった」(Wikipedia)

 もちろん、ここで比較歴史学のセンスがある方は、これはひょっとして極東の小国=黒船来航後の日本も同じ立場だったのか、と思い至るくかもしれません。世界システムの中で、周辺部の地域には様々な政治的可能性が提示されるのですが、先進的なテクノロジーの導入による軍事国家化と、周辺地域への進出というモデルです。

 もちろん、このモデルにはさらにオチがあり、世界システムのさらなる進出はメリナ王朝アシャンティ王国ダホメ王国等をひとしく植民地化の大波に飲み込んでいくところです。江戸幕閣たちにはそうした雰囲気もまたひしひしと感じていたことでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 話が拡散しすぎないように、とりあえずハワイに戻りましょう。このハワイ王国ははじめ白檀を経済的基盤とします(この白檀はヨーロッパ人の手により中国に輸出されたそうです;吉澤誠一郎『清朝と近代世界』)。しかし、白檀の枯渇とともに、次第にサトウキビなどのプランテーション経営が始まり、経営者=アメリカ合衆国の資本家への経済的従属が強まり、同時に清朝そして(開国後の)日本からの労働者の導入が進みます。つまり、先住民が次第に少数派になっていくわけです。

 この過程で、第5代の国王カメハメハ5世が後継者を残さず、1872年に逝去、遠縁のルナリロ王が選挙によってえらばれますが、わずか1年あまりの在位の後死亡します。その結果、第7代国王に就任したカラカウア王は、次第に増してくるアメリカ人の影響を低減すべく、1874年にワシントンに赴き、当時のグラント大統領と会談、ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせます。王はさらに1881年に世界一周をおこない、日本と中国を訪問、とくに中国では当時の実力者李鴻章とも会談、ヨーロッパ人の脅威に対抗するためアジアが連帯することが重要だと説いたとのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 しかし、アメリカ系移民からの圧力は続き、1887年には逆にクーデターをおこされ、退位あるいはアメリカ合衆国への併合を求められ、交換条件として新憲法(銃剣憲法)を飲むことで、実質的な権力を失うのです。彼は1891年過度の飲酒が遠因となり、妹のリリウオカラニ(『アロハ・オエ』等の作曲者)を後継者に指名します。彼女はハワイ人からの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出して否決されます。その後は、あっという間の展開になります。

 1月16日、米国公使は自国民保護を口実にアメリカ海兵隊を上陸させ宮殿を包囲、翌17日に共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言します(Wikipeida「ハワイ併合」。これには当時、王国の独立を支持していた日本政府は、こちらも邦人保護の名目で軍艦を送るなど、不快感を表明します。かつ、米国政府もこの「革命」が不法なものであると認めるのですが、ハワイ臨時政府はこれを内政干渉として突っぱねた。このあたり、大国が用いる「自国民保護」とアメリカ系ハワイ人がつかう「内政干渉」の口実の使い分けなどは、ペリー来航の折、対応した幕府官僚が感じた恐れが如実に実現したものとみなすべきかもしれません。

 その後の紆余曲折、1894年7月4日の臨時政府による共和国独立宣言、女王リリウオカラニの逮捕(反乱の首謀者容疑)、1月22日の逮捕者との引き換えによる女王廃位の署名の強制などで、ハワイ王国は滅亡します。最終的に、このハワイ共和国は独立後わずか4年の1898年に米国に併合されてしまいます。このあたり、テキサス共和国をめぐる経緯とも通じますが、思えば帝国主義時代に対応することでアメリカ人の政治的テクニックも随分と向上していたとも言えるのかもしれません。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ前篇

2020 10/21 総合政策学部の皆さんへ 19世紀での国家の誕生と消滅Part 1では東南アジアでイギリス帝国主義と現地政権との緩衝地帯に、仇花のように咲いたサラワク王国とその白人王をとりあげましたが、次はテキサス共和国、そしてハワイ王国・ハワイ共和国です。

 前者は1836~1845年、後者は1795~1893年(王国)・1893~1898年(共和国)、サラワク王国の104年余と比べてもさらに短命です。そして、いずれのケースも最終的にアメリカ合衆国に併合される道をたどります。この二つの事象をはさんで起きたことの一つは、言うまでもなく幕末・明治を経ての日本の開国なのですが、民族や国家の独立をいともたやすくもてあそぶ時代でもあった、ということだけは覚えておいた方がよいでしょう(そして、こうした“列強”に最後に追いすがろうとした日本が、その時刷り込まれた19世紀的精神のままに20世紀に入っていったことも)。

 ちなみに、安政三年(1856年)初代アメリカ駐日総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、老中堀田正睦を前に「二時間に及ぶ大演説をおこなった」ということですが、勘定奉行たちはその内容を二日間で精査して、「ハリスが、「合衆国の政府においては、地方に所領を得そうろう義は、禁じ」とアメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年と54年の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カルホルニー(カリフォルニア)を掠取る」したこと、その後、賠償金のかわりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している」とのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)。私が子供の頃は、幕府の官僚たちはひたすら無能で、外国からの圧力にそのまま押されていったというイメージで語られていたわけですが、彼らはそれなりに必死の対応を展開していたようです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、テキサス共和国ですが、ここはもともとメキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州に属する土地でした。メキシコ独立前はスペイン領ですから、本来はアメリカの土地ではない(それどころか、本来は先住民=ネィティブ・アメリカンのとちのはずなのですが)。

 この地をめぐる争いは、結局、上記の幕府勘定奉行たちの考察に出てくるように、メキシコ戦争を引き起こし、スペインからの独立を果たしたばかりのメキシコ共和国から広大な土地を奪うきっかけになるのです。そのざっとした歴史的経緯は以下の通りです。

(1)もともとはアパッチ、アタカパ等の先住民が居住

(2)1685年、フランス貴族のラ・サールが植民地建設を意図するも失敗(しかし、以後も植民地の権利を主張)

(3)1690年、スペイン人によるテキサス入植開始。1821年までスペイン領テキサスとして統治。当時はメキシコ、カリフォルニア等を含め、ヌエバ・エスパーニャ副王領とし、1819年にアダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国と国境確定。

(4)1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなる。

(5)1823年、過疎地テキサス発展を名目に、スティーブン・オースティンがメキシコ政府と交渉、米国から300名の家族を合法的に移住(これがテクシャン/テキサンと呼ばれる)。なお、その前後はメキシコ共和国のコアウイラ・イ・テハス州とされていた。

(6)不法入国者も含めてアメリカ人人口は急増、1830年には奴隷を含む25000人以上のアメリカ人が入植、メキシコ人は4000人程度。同年、アメリカ人の移民禁止令を出すが、ほとんど無意味であった。一方、奴隷制度について廃止したメキシコ共和国側とテキサンが対立。

(7)1835年6月にテキサンが武力蜂起、10月にメキシコからの分離宣言。アラモ砦の戦いではメキシコ側が勝利するが、サンジャシントの戦いで敗北、最高権力者のサンタアナが捕虜となり、1836年5月14日にベラスコ条約によりテキサス共和国独立。

(8)1845年、テキサス共和国は自発的にアメリカ合衆国へ加盟、28番目の州としてテキサス州となる。この間、国外とはメキシコとの関係、合衆国内では奴隷制の是非による南北対立(1861年に南北戦争が勃発)等で、複雑な経緯をたどりますが、7月にテキサス共和国議会が米国との合併を承認します。

(9)その結果、今度はアメリカ合衆国とメキシコ共和国の戦争(米墨戦争)が勃発。1848年2月2日調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカ合衆国はカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを確保する代わりに(メキシコは国土の 1/3 を失う)、1825万ドルをメキシコ側に支払い、ここに(皆さんご存じのトランプ君が壁を建設しようとしている)国境がほぼ確定します。

 この一連の流れを観ていると、まったくなんということか、と慨嘆するほかありません。オースティンが“合法的”にメキシコ領テキサスに入植してからわずか25年後に、アメリカは広大な土地を手中におさめ、かつ、そこから金(いわゆるゴールドラッシュが1849年)と石油(テキサスのスピンドル油田が1901年)を見つけることになるのです。

 テキサス共和国はこうしてたった10年ほどの歴史を終えますが、結果的にせよ、アメリカ合衆国の野望の先兵・手段ともいうべき存在として機能したのかもしれません。これでは堀田正睦以下の幕閣、勘定奉行も用心するのは当たり前のことです。しかも、アメリカはさらにその“魔手”を広げます。それが“ハワイ併合”です。というところで十分長くなってしまいましたので、あとは後篇に託したいと思います。

愚者には愚に従って答えるか? トランプvs.バイデンのTV討論について 

2020 10/8 総合政策学部の皆さんへ

 ちまたでは去る9月29日に行われたトランプ大統領とバイデン上院議員の第1回テレビ討論会について、「史上最悪のディベートだった。そもそもディベートではなく、恥をさらしただけ。今晩はアメリカ国民の敗北だ」「Shit show(くそみたいなショー)だった」(CNN)等と報道されているようです。

 この討論会の話を聞いて、私の頭にまっさきに浮かんだのは、イギリスの作家・ジャーナリストのジョージ・オーウェルの傑作、スペイン動乱のさなか、コミュニストからも資本家からも、もちろんファシストからも嫌われたPOUMに義勇兵として参加、混乱のなかかろうじてイギリスに逃れた経験を描く不朽の傑作『カタロニア賛歌』冒頭のエピグラフ、旧約聖書『箴言』からの引用です。

愚者には愚に従って答えるな、
  君も愚者にならないために。
 愚者には愚に従って答えよ、
  愚者が自分を知者と思わないために
           「箴言」26章5-6節

 これは中学生の時に読んだ筑摩ノンフィクション全集本に載っていた松木隆・山内明訳ですが、新共同訳『旧約聖書』では以下の通りです。

愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな
   あなたが彼に似た者とならぬため
  愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。
   かれが自分を賢者だと思い込まぬために

 中学の頃にこの言葉に接した時に感じた「それでは、どうすればいいんだよ?」(たいていの方がこの感想に同意していただけると思うのですが)という思いを、ひょっとしたらバイデン氏も感じたかもしれません。あるいは、4年前、ヒラリー・クリントンはこの教えを意識しなかったがゆえに、トランプ氏に敗北したのかもしれません。

 ちなみに、箴言の多くはソロモン王によって作られたとされていますが、複数の作者によるものだろう、とのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  さて討論会に話を戻すと、どうやらトランプ氏を支える“鉄板”のファンたちにとっては、大手メディアやエリート、知識層がどんなにトランプ氏をあげつらおうと、それはすべて“誹謗・中傷”に過ぎず、討論会で実質的に敗北しようと、そんなことはどうでもよいと思っているようです。

 それでは、彼らは何を望んでいるのか? TV画面に映し出される彼らの嬉々とした表情を見ていると、トランプ大統領は彼らにとっての一種の“象徴”、あるいは“王”のような存在になっているのかもしれない、とさえ思われます。

 そして、そのファンたちはある意味でいま、ワクワクしながら、心待ちにしているのは大統領選の結果=トランプの敗北=彼らの“王”トランプ氏の破滅であり、その“王殺し”の瞬間に放出されるエクスタシーの噴出を(無意識のうちに)心待ちにしてる、それが彼らにとって来るべき“祭”にさえなっていると言えるのかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、旧約聖書の箴言はこのように続けます。

愚か者に物事を託して送る者は
 足を切られ、不法を飲み込まされる
愚か者の口にすることわざは
 歩けない人の弱い脚。
愚か者に名誉を与えるのは
 石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。
愚か者のくちにすることわざは
 酔っぱらいの手に刺さる刺

 当の愚か者にとっては、箴言はなかなか恐ろしそうな事態を予想しているようでもあり、かつ、同じく彼に物事を託そうとする鉄板のファン(=そして、心中秘かに王殺しの瞬間を待っている)方々にとっても王の道連れに相応の呪いがかかってくるかもしれないが、それもまた面白そうと心に決めているのかもしれません。

分けることと名を付けることPart2:どうやればものごとを“分ける”ことができるのか?

2020 8/15 総合政策学部の皆さんへ 我々はどうやってものごとを分けるのか? について話を進めましょう。

 “命名”の前提としてものごとを“分類”する必要があります。つまり、ありとあらゆる事物の間に“ボーダー”を引く作業が出来するのです。これは自然科学にとっても結構難しいテーマです。卑近な例を取り上げれば、ウマとロバはどこが違うのか? そして、ウマとシマウマの違いはウマとロバの違いと同じなのか?

 さらに、分類の基準をどう定めるか? その基準は客観的か、恣意的か? そもそも神ならぬ我々にとって“客観的な基準”など手にすることができるのか? 皆さんはどうお考えですか? 分類学の鼻祖であるリンネは「生物の種間に存在する本来の関係」としての自然分類をめざして植物を花(生殖器官)で分類しました。しかし、どうしても基準に恣意性が紛れ込む可能性が否定できません。フランスの哲学者であるM・フーコー(1974)はそのあたりの加減について「私たちがものごとを整序するやりかたがいかに恣意的」であるか指摘しています。

 もう一つ問題なことは、いったん分類体系が確立されてしまうと、そこに欠陥があろうと、我々はその基準を固守しがちになることです(要するに、我々は保守的なのです)。それは、「あらゆる社会的行為は分類図式の定める境界線の内側で生起」すべきだと思い込んでいるからです(ダーントン、1986)。

 この結果、近代思想において“分類”は人やものの周りにボーダーをはりめぐらすとともに、分節化し、そしてラベルを貼ります(=すなわち命名)。こうして、常に“正しいこと”であり“自明であること”が要求されてきた近代科学にもいては、どうしたら“分類”が“恣意的”ではなく、“正しい根拠にもとづくものだ”と自分自身が納得させられるか? 近代自然科学にとっても、また近代社会科学にとってっても、これはいわば自縄自縛であり、大きなトラウマともなりかねません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、どんなやり口が我々には許されるのでしょうか? あえて単純に言い切れば、“普遍性”と“特殊性”の弁別かもしれません(フーコー、1974)。どんな分野でも、対象を分ける/分類する際、どこまでが“普遍性(一般性)のある特徴”で、どこからが“特殊性(個別性)”を示す特徴なのか、互いの“類似=相似”によってボーダーを引く。こうして類似の認識は、同時に差異をも認識させる手段となります。

 さらに、その差異があいまいな変異を伴わないデジタル的であるほど安心もするでしょうし、差異があいまいでアナログ的な差異であるほど、どこにボーダーを区切るべきか、不安に誘われることになります。それでは自他、彼我の差はどれほどアナログ的なのか、あるいはデジタル的なのか? どんな生物よりもデータが備わっているヒトについて調べてみましょう。

 数量的資料でたぶんもっとも確実なのもは例えば、身長です。低身長で知られているムブティの人たちではおよそ130~160cmほどの幅におさまり、中央値は145~150cmほどになります(Lewontin, 1995)。これが彼らの身長についての集団内変異です。この値を同じアフリカ大陸に住む遊牧民ディンカの人たちの変異幅であるおよそ160~200 cm、中央値で180~185 cmという集団内変異と比較すれば、歴然とした差(デジタル的差)が認められます。

 しかし、ムブティの人たちの周囲にすむバンツー系農耕民を含め、さらに我々モンゴロイドやコーカソイドの人々を足していけば、ヒト全体ではディンカの人たちまで続く連続的な差異(アナログ的差)になってしまいます。

 これらの数値を、非常に極端ですが、チンパンジー等の数値と比べれば種間の差=種間変異があらわれます。る。この二つの変異を比べれば、そこに“種”というものが自ずと浮かびあがる(はずである)。チンパンジーは4足歩行者のため、身長ではなく頭胴長ですが、それはおよそ77.5~85 cmですから、こちらは歴然とした差です。

 こうすることで、ヒトとチンパンジーそれぞれの種内の連続的な(アナログ的)差異と、二つの種間の断続的な(デジタル的)差異の比較の上に、二つの別種として分けることになる、というわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうしたアナログ資料の相対的な比較、あるいはその曖昧さに手を焼いてか、分類学では最近、遺伝子のDNA鎖の比較が流行っています。というか、それなしではすべてが進まないような状況です。DNAは基本的に4つの塩基の組み合わせによるデジタル的な情報ですから、これを分析すれば、デジタル的に物事が分類できる! ついに近代科学の悩みが解ける! というわけです。

 これは“分子時計”という手法ですが、それぞれの種の遺伝情報であるDNA鎖を構成する塩基の組合せが、種分化した年代が古いほど変化してくることから、分岐年代を逆算するという手続きです。つまり、現生種の遺伝情報=デジタル情報の共時的な変化を、ニュートン力学的な通時的変化=時間に換算(=時計として使う)することになります。

 この方法は20世紀後半から導入され、分類・系統学に劇的な影響を与えてきました。例えば、これまで偶蹄目クジラ目に分類されていた動物群は、遺伝的に近似性が認められ、鯨偶蹄目としてまとめるべきである。あるいは、化石からは1400万年前に分岐したと考えられていたヒトとチンパンジーの分岐年代は500万年前ぐらいに近くなる等です。この遺伝子間の相対的な差を、ニュートン力学の絶対的時間軸に読み替えるやり方にとりあえず安心(安住)することを我々は選んでいるとも言えます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 最後に付け加えなければなりませんが、実は、“分類”には“ごみ箱”がつきものです。どうにも分類できない“あいまい”な存在を、そのあいまいさを嫌うためか、とりあえず一つの箱のなかにしまいこむことで、何食わぬ顔をするのです。

 哺乳類を例にあげれば、食虫目(あるいはモグラ目;モグラやハリネズミ等)という分類群がそれにあたりました。素直に分類できないあやふやな存在をごみ箱にぶち込むことで、体系そのものは涼しい顔をするのです。

 これは体系/体制は例外が嫌いであり、自らの秩序にあわないものの処理に“ごみ箱”を使う。それは、体系からはみだした存在が「私たちの概念が設けている境界(=ボーダー)を侵犯」するため、「私たちを慄然とさせ、また魅惑する」のを事前に防ぐためでもあるのです(ダーントン、1986)。

 それどころか、“あいまいな存在”は、その存在さえ許されず、社会的に抹殺されることも珍しくありません。例えば、東南アジアの漂海民の人たち(オラン・ラウト)、日本のアイヌや琉球列島の人々の歴史やアイデンティティはつねに無視がちであったことを忘れてはいけないわけです。分類されることさえ無視されてしまう存在、それが究極のマイノリティです。

 ちなみに、食虫目は現在では「その後3度にわたって解体され、現在は正式な分類群としては使われない」とのことです(Wikipedia)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ちなみに最初に取り上げたウマ、ロバ、シマウマですが、ウマとロバは人間の管理下で交配させると妊娠して子供を産みます。しかし、そこの子供は生殖能力をもちません。メスのウマとオスのロバの組み合わせだとラバと呼ばれ、飼養が楽で力がつよいことから重宝され、古来ヒトに利用されてきました。もっとも、メスのロバとオスのウマの組み合わせではヒトにとって都合がよい性質がラバよりも弱く、ケッテイと呼ばれるも利用されてきませんでした。まったく人間の勝手で生まれて、子供もできずに死に絶える。そのため、ヒトはまた新たにラバを産ませるというサイクルです。

 こうしたウマやラバのように雑種の子供に生殖能力がない場合(これを生殖的隔離と呼びます)、遺伝的な距離が離れていると認めて、別種と扱うのがふつうです(マイヤーによる生物学的種の概念)。

 それではシマウマはどうか? シマウマはどちらかというとウマよりも、ロバに近いそうですが(そう言われてみると、シマをとると体型がどことなくロバのようです)、やはりウマやロバと交雑して子供をつくることがあり、ゼブロイドと総称されているそうです。またゼブロイドは一般に生殖能力がない(不妊)とのことです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

月別記事