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偉大なる凡人:歴代アメリカ大統領への評価から

2019 8/2 総合政策学部の皆さんへ

 Webに「政治学者が評価! ランキングで見る、史上最も素晴らしいアメリカ大統領」というWeb記事があります(https://www.businessinsider.jp/post-185522)。なんでも、(1)2017年12月~2018年1月にアメリカ政治学会のPresidents & Executive Politics部門のメンバー(約200人)を対象にオンライン調査、(2)歴代大統領を100点満点で評価(50点=平均)、平均点をランキング化、(3)回答者の約57%は民主党支持、共和党支持13%、無党派27%、その他3%ということです。

 もちろん、いまどきのWeb記事として「最下位が現職のトランプ大統領」というあたりが“売り”でしょう。しかし、もちろん、今回とりあげるのはそんな“あたり前”のことではありません。このランキングで高評価だった大統領はどんな人たちなのか、という点です。

 44人中、まず上位5位を紹介すると、こちらはある種納得の方々で、1位:エイブラハム・リンカーン、2位:ジョージ・ワシントン、3位:フランクリン・ルーズベルト、4位:セオドア・ルーズベルト、5位:トーマス・ジェファーソンと偉大なる“リーダー”型大統領がならびます。

 カテゴリーとしては、(1)アメリカ建国時、“国民・国家創成”をなしとげながら、その基本的プログラムを模索したワシントンとジェファーソンの二人、(2)国家の分裂の危機に強烈なリーダーシップをとったリンカーン、そして(3)20世紀初頭とその半ばに、新しい国家経営のあり方を模索した両ルーズベルトの3タイプになるかもしれません。いずれも国難である独立戦争、南北戦争、第2次世界大戦に対応したわけで、アメリカという国家の節目、節目に“戦争”があったことにも気づかされます。

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 それでは、今回のメイントピックは6~10位、偉大なリーダーたちにはやや劣るかもしれないが、それなりに支持を集めた方々は誰でしょう?それは6位:ハリー・トルーマン、7位:ドワイト・アイゼンハワー、8位:バラク・オバマ、9位:ロナルド・レーガン、そして10位:リンドン・ジョンソンと続きます。ちなみに、一般大衆から票を集めそうなジョン・F・ケネディは16位、あるいはジャクソン・デモクラシーで民衆的支持をかちとったアンドリュー・ジャクソンは17位にとどまっています。大衆的人気と、政治学者の評価はそれぞれ異なる、ということかもしれません。

 とくに、どうどうの6位を占めたトルーマンは第3位のルーズベルトが1945年4月に休止、わずか82日の副大統領在任後、突然、大統領に昇格したという経緯で、当時、連合国陣営の一端をになっていた旧ソ連の独裁者スターリンは「前任者のフランクリン・ルーズベルトと対極的な、威厳も貫禄もない粗雑な小物が突如として大統領の地位を獲得したことに愕然とし、アメリカへの不信を募らせ」たとのことです(Wikipedia「ハリー・トルーマン」)。思えば、1944年の大統領選挙では、史上第3位のルーズベルト(大統領候補)と第6位のトルーマン(副大統領候補)ということで、あくまでも後知恵に過ぎませんが、史上最強のコンビだったとも言えるかもしれません(とは言え、選挙当時、ルーズベルトもトルーマンもそんなことはまったく夢にも思っていなかったはず)。

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 とはいえ、凡人たるトルーマンですが、いったん大統領の職務についた以上、頑張らざるをえない。Wikipediaによれば、「就任初日の気持ちを自身の日記に「私の肩にアメリカのトップとしての重荷がのし掛かってきた。第一、私は戦争の詳細について聞かされていないし、外交にもまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ」と記していた」とのことです。
 
 そうした“凡人”が思いもつかなかった立場に立った時、背一杯の努力で自分の仕事をこなそう、と頑張ることをアメリカ人はそれなりに評価する。きれきれの優れ者が周囲に見当たらない場合には、たとえ才能がやや劣ったとしても、誠実にこなそうとする者を、アメリカ人はそれなりに評価する、ということなのかもしれません。どうやら、今の合衆国ではそうした“余裕”が失われているようにも思えます。

学習机の普及:明治・大正期の日本に、学習机はどのように広まったか?

2019 6/24 総合政策学部の皆さんへ

 今回は少し変わったテーマかもしれませんが、先日、兵庫県内の某高校に高校生の課題研究に“出前講義”に行った時のことから始まります。

 実は、昨年度も同じ高校にお邪魔して生徒さんの研究テーマを講評したのですが、その一つに“Standing desk”がありました。「立ったまま仕事・学習をする机」です。もちろん、ずっと立ったままで仕事/勉強にするのはつらい! と思う方のためには、コクヨなどが高さを自由に変えるタイプも市販しています(ただし、価格は当然高くなる)。

 このタイプの机は、コクヨのHPでは“重視される「働き方の多様化」と健康経営”(https://www.kokuyo-furniture.co.jp/products/office/sequence/about/)と題されて、「少子高齢化や若者の労働観の変化などの潮流を受け、企業経営において、社員の健康管理に配慮しながら、多様な働き方で生産性を維持・向上する取り組みが重視されはじめています」と銘打って、
(1)業務の質向上「モードチェンジ:立ちと座りの繰り返しが気分転換となり、集中力が維持できます。また、昼食後の眠気防止にもなります。生産性の向上:立ち姿勢だと、短時間で集中して業務を処理しようとする意識が高まり、時間効率の向上につながります」。
(2)コミュニケーションの活性化「視線が交差する立ち姿勢は互いの目線が合いやすいため、部下から上司へも含め声を掛けやすくなります。軽い立ちミーティングがすぐに座ったままでいると移動が億劫になりがちですが、立ち姿勢だと、確認や連絡などの行動がすぐに起こせます
(3)健康増進:「ワーカーの悩みで多い「肩こり・腰痛」について、座ったままだと血流が悪くなり、背中などに疲労がたまります。背中や腰の痛みの原因の約95%は、身体を動かさないことと言われています。「肩こり・腰痛」に悩んでいる人が多く、特に肩こりは座っている時間が長い人に多いということがワーカー調査から分かっています。また、生活習慣の改善として、座った姿勢と立った姿勢を交互に行うことによって、身体にかかる重さを調節し、疲労した筋肉を休ませ、リフレッシュにも繋がります
と謳っています。なんだかよいことづくめです。

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 しかし、なにゆえ立ったままで仕事するタイプの机ができたかというと、実は我々の健康問題に端を発しています。つまり、長時間座ったままの姿勢でいると健康によくないという説があるのです。例によって論文を検索すると、「日本では運動や食事に気を配る様子は見られても,座ることに対する危険性をあまり認知していない.私たちは平均して一日のうち8.4 時間座位行動しているが(Healy et al. 2011),気づいていないうちに自分の寿命を縮めているかもしれない.このように無自覚に長時間継続して着座姿勢をすることにより潜在的な健康リスクを惹起することを本論文では「座位問題」とする」(原野、2017、ELCAS Journal 2: 63-65)などの記述が目につきます。

 ちなみにこの「座っていると健康リスクが生じる」という原点は、Healy G. N. et al. (2011)Sedentary time and cardio-metabolic biomarkers in US adults. NHANES 2003-06. Eur. Heart J. 32: 590–597あたりのようです。とは言え、座位が本当に健康に悪いかどうかは反対の意見もあるようで、当否については今回はパスします。

 ともあれ、高校の生徒さんは健康問題よりも、学習に集中するために立ったままで授業をうけるのは効果があるのではないか(昼寝するわけにもいかない!)、と考えてこのテーマを選んだようです。それで、私も例によってgoogle scholarで調べてみると、なんと日本語の論文はほとんどんどなく、英語論文では主に欧米での小中学校の肥満問題(立って授業を受ければ、痩せる!)、昼寝を防止する(立っているので、寝るわけに行かない!)などの対策で導入されているようです(Benden et al. (2014) The Evaluation of the Impact of a Stand-Biased Desk on Energy Expenditure and Physical Activity for Elementary School Students. International Journal of Environmental Research and Public Health 11:9361-9375).

 私の評価は「とりあえず、君らの発想はえらい! 日本語の論文がほとんどないのだから、大学の先生などと肩を比べられるような研究になるかもしれないね」というものでした(その後、実際に古い学習机を改造して試作されたとのことです)。

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 さて、実をいえば、今回はここまでが話のマクラで、肝心なのはその続きです。数ヶ月後、今度は学年が一つ下の新入生の方々を対象にアクティブ・ラーニングのスキルを紹介しにでかけたのですが、駅まで送っていただいた車中で、担当の先生から「実は、日本の学校にどういう経緯で学習机が普及したか、文献を探してもよくわらかないのです」と突然相談を受けました。

 こちらもちょっと虚をつかれたというか、そういえば、明治頃の学校を描いた古図でも机が並んでいるようだけれど、そこにどんな経緯があったかなどちっとも考えていなかったことにあらためて気づいた次第です(人類学者としては反省しなければ)。そこで、思いつくまま「実証的な研究だと、明治期の小学校の写真を見て、図像学的に調べるとか」と説明して、「何年か前に、制服・制帽の普及について知りたくて、ネットで小学校の昔の卒業写真を調べてみると、まず、男子の頭に(足は下駄、身体は和服のままでも)学帽がかぶさり、一方、女の子は和服のままだとか、先生方の服装も男性教員は洋服なのに、女性教員は和服が多いとか、までは調べたのですが」と返しました。

 帰宅後、気になったので、またGoogle scholarを開けて探してみると、これが意外になかなか見つからない。しばし苦闘してから、以下の4編をなんとか探し当てました。
・西村大志(1997)「日本の近代と児童の身体:座る姿勢をめぐって」『ソシオロジ』pp.43-64.
・岡田栄造ほか(2000)「近代日本における椅子開発とその社会的背景:明治・大正・昭和前期における特許資料の考察をとおして」『デザイン学研究』47(6):1-8.
・岡田栄造ほか(2000)「明治・大正・昭和前期における特許椅子の展開過程:寿商店「FK 式」回転昇降椅子を事例として」『デザイン学研究』47(6):9-16.
・岩井一幸(2004)「家具の標準化(レビュー)」デザイン学研究特集号11(4):7-11
どうやら「学習机」については家具やデザイン関係の学術雑誌に載っていたらしく、上述の先生が教育系の雑誌をさがしても見つからなかったわけです。

 なお、肝心の明治期における学習机の導入過程ですが、上述の「家具の標準化」によれば、「生活の椅座化への動きは、明治維新に学校が椅座化を目指すところから始まっている。1869 年(明治2年)、木戸孝允は、新政府に「普通教育の振興を急務とすべき建言書」を提出、欧米風の学校制度を全国に実施するよう主張した。それまでの寺子屋での座机による教育からの脱出である。教育史によれば、初期には机腰掛けが準備できないために、各自宅から、座机を持ちこむという指示や、腰掛けによる教育は疲れるので、座式の教育を認めて欲しいとの嘆願書も出ているものの、1872 年(明治5年)の学制改革以来、学校で今日の机腰掛けという家具の標準化の基礎が作られた。1991 年(明治24 年)小学校設備準則の中で机腰掛けについて規定され、学校用家具標準化が始まった。その中心は、寸法に表現された規範で あり、一定の寸法による質の同一性で、同じものをある一定量つくることを目指すものであった」とあります。

 このように、“学習机”のようなきわめて身近で、だれもがあって当然と考えているものにさえ、さまざまな歴史がひそんでいることをみなさんも意識してください。

“係争地”はそもそも誰の土地であったのか?:近代化における“領土”問題

2019 4/6 総合政策学部の皆さんへ

 世の中には“係争地”がいくつもあります。これは国家とは「国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである」とする“近代国家”観からすると、隣接する国々同士のエゴのぶつかり合いから生じる必然的な副産物とも考えられます。

領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体」としての国家の使命からすれば、その周辺に「誰のものでもない土地」など、あってはならないわけですが、しかし、複数の国が同時に権利を主張することは避けられなくなります。ましては、その“係争地”に思いもかけぬ資源があったりした場合など。

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 それでは近代化前はどうか? 例をあげれば、まず、中国です。

 そもそも、近代国家前の中国には「「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だった」ので(Wikipedia「中国」)、明確な「領土」、あるいはそれを区切るための明確な国境線という概念さえ乏しく、「中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負」していました(Wikipedia「中華思想」)。

 そこでは皇帝を中心に同心円構造が成立します。そして、その最外円のさらに外はいわゆる「化外(けがい)の地」であり、そこに棲むのは蛮族にほかなりませんが、肝心の同心円自体は皇帝のによって伸びたり、縮んだりする相対的なものでした。その結果、台湾(下記参照)、チベット外モンゴルウィグルスタンなどはこの同心円の外なのか、内なのか、そもそもそんなにはっきりと区切りがつく土地なのか、問題となってきます。

 ちなみに、“外モンゴル(外蒙古)”という言葉は、言うまでもなく北京を世界の中心とした場合に、近いモンゴル=内モンゴル、遠いモンゴル=外モンゴルという序列付けを受け入れる、ということを意味します。同じように、“極東”と口走れば、それは英国外務省を中心として、そこから眺めれば日本周辺が“far east(極東)”である地理感覚だということを意味します。

 さて、中国では近代化が進むにつれて、“伝統的”地理観の曖昧さにつけこまれ、明治期に近代化に邁進する日本によって台湾出兵を起こされたり(この時、中国ははじめ台湾の先住民は「化外の民」であるとします)、膨張するロシア帝国にネルチンスク条約や愛琿条約等をむすばされることで、国境の明確化=それは多くの場合、皇帝の領土の最周辺部の喪失を繰り返すことになります。

 一方で、皇帝の徳さえ復活すれば、化外の民たる東夷(日本・朝鮮等)、西戎(西域諸国)、北狄(匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古)、南蛮(ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国)も相対的な同心円に飲み込まれていく、はずなのかもしれません。だから、西沙諸島はおろか、南沙諸島までもが中国の領土である、と主張することもあながち無理ではない、という見方もできなくはないわけです。

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 このあたりの“国境”ひいては“国家観”の曖昧さは、例えばオスマン帝国ハプスブルグ帝国にも、さらには古代ローマ帝国などの“国際帝国”にはつきものです。そして、アレクサンドロス3世チンギス・ハーン、さらにはスレイマン大帝のような権力者にとって、境界などというものは意識の中にも“存在すべきではない”存在であり、権力者の使命として絶えず境界を乗り越え、世界の果てまでも自らの領土としようという欲望に身を浸すことになります。

 もっとも、ローマ帝国も最盛期を過ぎれば、逆に“蛮族”との境目が負担となり、国境警備のための防塁(リメス)を張り巡らし、ハドリアヌスのように長城を築いたりもします。“壁”を築き、自らを守ろうとすること自体が、すでに精神の退廃、覇気の消失をあらわしているとも言えるでしょう。このあたりで、某国大統領の顔を思い出す方もいるかもしれません。

 いまさら言うまでもないことですが「かつての屈辱をはらし、近代化によって狭められたかつての境界を乗り越え、栄光の領土をとことん広げようとする者」としての現代中国の指導者習近平氏に対して、かたや「壁を築くことで、自らの崩壊しかけた精神をなんとか取り繕う」ことをめざす(もちろん、そんなことは今や不可能なのでせうが)アメリカの現大統領のトランプ氏の二人は、国境をめぐる国家観の対決を表象するまさに21世紀の象徴ともいえるでしょう。

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 この点、ソ連崩壊後に混乱したロシアをとにもかくにもなんとか持続させることだけはできたエリツェンの遺産を引き継いだプーチン氏にとっては、(1)近代的国家観としての“ロシア民族”の“境目”を定める路線にでるべきか、(2)過去の国際帝国の栄光をひきつぐべく、かつての領土奪回作成にでるべきか、なかなか立ち位置を決めるのが難しいところかもしれません。

 例えば、(1)第2次チェチェン紛争は、かつての国際帝国の支配から分離しようとする異民族(チェチェン人)を旧来のシステムの中に引きとどめようという欲望のあらわれであり、(2)クリミア半島をめぐる争いは、本来はロシア帝国固有の領土だったクリミアをソ連体制下でフルシチョフがウクライナに割譲したものを(その後の、複数の民族が入り混じる地となっていましたが)取り戻そうという願望の発露であり、(3)ウクライナ東部をめぐる衝突も、ウクライナというかつて独立した政治勢力が安定した政治権力を持てなかった広大な土地に、ロシアとしての権利をできるだけ拡大しようという欲望の発露なのです。

 それでは、この混乱を収めるにはどうすればよいか? おそらく世界の誰も解決策を思いつくことはできず、ただただ“実効支配”だけがデファクト・スタンダートとして通用する時間が過ぎるばかりかもしれません。

創られた“伝統”:それはどのように創り上げられたものなのか?

2019 3/17 総合政策学部の皆さんへ

 近年、“伝統”という言葉をよく耳にします。かつ、その場合、なんとなく“ポジティブ”=良さげな意味に使われがちです。Googleで「伝統、日本」と検索しても、「日本の伝統・文化理解教育の推進(東京都教育委員会)」、「伝統文化とは(日本伝統文化振興機構)」とありがたそうで、かつ、それなりに権威的な団体がバックに控えているがごときタイトルが並んでいます。

 あるいは、「日本伝統文化パビリオン「雅 MIYABI」が与えるインバウンド効果。出展の流れも解説します」等とあれば、“現世利益”もありそうな気配です。こうした記事での“伝統”は「日本の伝統と美意識を学び「和のこころ」を今に受け継ぐ。日々の暮らしのなかに息づく日本の伝統。“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」(日本伝統文化講座 ・ ヒューマンアカデミーHP)ということですが、そもそも本当なのか? というのが今日のお題です。

 さて、“伝統”をあらためて調べると、(歴史的に見れば)短期間で“創られてしまった”(=伝統でもなんでもない)代物や、あるいは主張には政治的意図やビジネス的欲望が潜そむものが結構目につく!! このあたりこそイギリスの慧眼な歴史学者エリック・ホブズボームテレンス・レンジャー編著の『創られた伝統』によってつとに多くの事例が指摘されているところですが、いまだに私も皆さんもだまされ続けている、という点を確認したところで、あらためて勉強しましょう。

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 例えば、上記のHPの記事にしたがって、武士道が日本の伝統文化だとすれば、戦国時代、守護大名朝倉家を支えた名将朝倉宗滴が書き残した「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」という言葉をどう捉えるべきでしょう。「犬・畜生とあざけられようとも、武士にとって勝つことが大事だ」というスーパー・リアリズムは、世間が信じ込んでいる武士道とはずいぶん異なる印象です。

 そう言えば、昔、総合政策学部にいた外国人の先生の一人は、受験生への面接で片言の日本語で、「君、ムサシ知ッテル?」と問いかけ、相手が答えると「ムサシ、卑怯ネ!」と叫んで、相手があっけにとられるのを楽しむ、という究極の隠し技を楽しんでいました。皆さんは、勝負の時刻にわざと遅れて相手をじらしたとも伝えられる(実際は、諸伝本で様々な筋書きが残されているようですが)宮本武蔵の巌流島の決闘を“卑怯”と思いますか?

 また、毛利元就の息子にあてた手紙の文章にも、「ひとえに武略、計略、調略かたの事までに候。はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」として知恵の限りを尽くすことが武将としての勤めと強調しています(ちなみに、宗滴は「また、日本に国持侍の人使の上手の手本と申すべき仁」としては今川義元や武田晴信と並べて、この元就をあげています)。

 このように武士がその職能を実際に発揮していた戦国時代、「きれいごとは言ってられない」というリアリズムに透徹していたはずの“伝統”が、太平の世にはいつのまにか変貌して、いわば“通俗道徳”の体系として「主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想」にすり替わり、さらにそれが結果としては“お家”の存続にかかわってくるはずだ、という暗黙の了解にいたる過程で(Wikipedia)、“新たな伝統”として誰も疑わなくなる、という寸法なのです。

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 それがさらに明治期になり、江戸体制的な“家”が明治民法下でさらに変貌を遂げていく。もちろん、その過程を充分に意識してみるならば、“通俗道徳”としての“武士道”の需要と普及は、なかなか興味深いリサーチの対象というべきでしょう(つまり、明治政府は江戸幕府を否定しながら、“忠孝”を旨とする“武士道”を政治的手段として必要としていた)。

 例えば、武家の英雄源義家は、後三年の役のいて「降伏してきた者を斬るべきではない」と諫める弟義光に、「降伏とは戦場から逃れて自ら出頭してくることを言う。戦場で生け捕りにされ、命乞いをする者は降伏とは言わない」と退け、命乞いする敵将を惨殺する様は、なんだか暴力団体の巨魁のような印象です。これが「“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」なのかどうか、皆さんもお考え下さい。

 ちなみに、日本一の大天狗こと後白河法皇によって編纂された今様集『梁塵秘抄』では、この義家について、
鷲の棲む深山には 並べての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや」
と詠われているそうです(川尻秋生『シリーズ日本古代史5 平安京遷都』)。この八幡太郎とは誰あろう源義家のことですが、庶民にとっては血みどろの闘いを平然とこなす恐るべき存在でありました。川尻は「武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう」と結びます。この「必要悪」が日本の“伝統”なのでしょうか?

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 さてこうした傾向が嵩じれば、民族さえも“創り上げてしまう”こととなります。その一例が東アフリカのケニア共和国での民族カレンジンです。国際開発経済学のポール・コリアーの『民主主義がアフリカ経済を殺す』の一節を紹介すると、

アフリカの民族といえば読者は、人類誕生直後の原始時代まで起源をさかのぼると想像しがちかもしれないが、カンレンジン族の歴史が始まったのは1942年だ。第2次世界大戦は北アフリカも巻き込み、英国は王立アフリカ小銃隊の徴募を、植民地の低所得地域に向けておこなった。徴募兵の最も安上がりな方法はラジオを使うことだったが、その地域には多くの方言があった。数ある方言のうち、その真ん中にあたる方言を選び、放送のはじめには注意を引くよう「みなさん、みなさん」という言葉で呼びかけた。その文句が「カレンジン、カレンジンだった」。

 まるでマンガのようなストーリーですが、このようにしてキプシギス、ナンディ、トゥゲン、ポコット、マラクェット、サバオット、テリック、ケイヨ等の小民族は「カレンジン」としてまとめられ、戦後は大民族であるキクユルオーなどと対抗するため、「カレンジン」というアイデンティティを醸成し、いつしか、政治的単位としての地歩を固めるに至るのです。

 ケニアにおいて“カレンジン”という民族を作り出してしまった英国植民地行政ですが、別の場所では、思わぬ悲劇の原因も産みます。例えば、ともに1947年まで英国植民地だったミャンマーとバングラデシュの狭間において、“ロヒンギャ”という人たちがいますが、彼らはどうやら植民地行政時代にこうした“登録”から漏れてしまったらしい。それが遠因となり、21世紀の現在、彼らは正式な記録を持たないがゆえに「民族集団、宗教団体、政治結社のいずれであるのか判明していない」(Wikipedia)とされ、きわめて厳しい立場にたたされているわけです。“民族”であると登録されていれば、立つ瀬もあったのかもしれませんが、それがなければ、どちらの国からも認められない存在になってしまう、というわけです。

 このあたりは、アラビアのロレンスの提言にもかかわらず、“砂漠の女王”ガートルード・ベルによって民族自立性を否定され、各国領土内に押し込められたクルドの人たちにも通じるものかもしれません。

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 こうして悲劇の一方で、“伝統”をひねりだすことが政治・経済・社会的に有力な手段であるとわかれば、宗教であれ、通俗哲学であれ、生活習慣であれ、新しい“伝統”をもっともらしく作り出し、それが人々の自由を縛っていく。これが“伝統”についての幻想においてもっとも“困った”ことかもしれません。とくに政治家が気軽に“伝統”を口走る時には、ひょっとしてその底意にとんでもない意図が隠されているものと疑ってもまず間違いはないところかもしれません。

“戦病死”の人類学#1:戦場の帝国陸軍には歯科医がいなかった

2019 3/2 総合政策学部の皆さんへ

 “戦病死”という言葉がありますが、これは文字通り、「従軍中に病死すること」(広辞苑第5版)です。つまり、戦争しながら兵士は病にかかることもある。当たり前のことです。

 例えば、私の父親は第2次世界大戦に従軍中に戦地でマラリアに罹患したらしく、帰国後何年かはその後遺症が出たようです。とくに、いわゆる感染症は人が密集すればするほど、爆発的に流行しやすくなる。軍隊などはその典型ではないでしょうか(ついでに言ってしまえば、家畜を密集させて飼養することもまた同様で、養鶏における鳥インフルエンザ、養豚における豚コレラなどが想起されます)。

 さらに、近代に進むにつれて、兵士たちはもともと住んでいた場所から遠く離れた異国(=異環境)に遠征することも珍しくなくなる(明治初期、西南戦争などのような内戦や他国からの侵略などへの対外的防衛のために設置された鎮台が、外征戦争に対応するための師団に編成替えになります!)。すると、外地で免疫をもたない感染症に罹患すれば、現地の人よりも重症になってしまう。これもまたヒューマンエコロジーの知識さえあれば、すぐにでも考え付くことです。

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 さて、近代化に邁進すべく日本が最初に遭遇した大規模な外征戦争、いわゆる台湾征伐(この名称からして大時代的で、現在では台湾出兵となっていますが)、対象たる先住民パイワンの人たちの戦死者が30名に対して、日本軍3600名で戦死6名、負傷者30名、しかしマラリアに罹患する者が多く、561名が病死します。つまり、6人に一人が戦病死してしまう。さらにその後の長期駐屯で「出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病する」(Wikipedia)という結果に陥ります。

さらに感染症に加えて慣れない気候や、兵站の失敗による飢えなど、外征戦争に駆り出された将兵には戦う前に死ぬ者もあらわれます。例えば、ナポレオン戦争における1812年ロシア戦役では、ナポレオン率いる大陸軍68.5万人のうち、38万人が死亡しますが、戦闘よりもロシアの冬将軍による凍傷や、クトゥーゾフ将軍らが展開した焦土戦術による餓えで死亡、壊滅します。

 このように、実際の“戦死”(広辞苑第5版では「戦闘で死ぬこと。うちじに」)よりも、戦病死やその他、様々な形の氏が戦争に決定的な要因になりうることを、皆さんも覚えておいた方がよいでしょう。

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 その戦病死が大きくクローズアップされたのが、ナポレオンのロシアからの敗退から40年後のクリミア戦争です。この戦争では、戦死者1.7万人に対して、戦病死者数が10万人を越えます。ここまで行けば、病気に対応しないと戦争に勝てない、ということが明らかになってくる。

 クリミア戦役中、この課題に取り組んだのがフロレンス・ナイチンゲールにほかなりません。不衛生な兵舎病院を改善、環境を整えようとする彼女は、なんと縦割り行政から軍医らによって妨害されます(不思議ですね。患者が早く回復することで兵站上の負担を減らす。あるいは、回復後闘いに復帰することで、戦争に勝つかもしれない。それを妨害するというのは“利敵行為”そのものです=とはいえ、官僚機構による縦割り行政とは洋の東西を問いません)。ナイチンゲールは自分の主張を通すため、現状をアピールするためのグラフも改良、医療統計学の始祖となります。

 そのクリミア戦争から10年もたたないうちに勃発したアメリカの南北戦争では、戦死者20万人に対して、戦病死者数は56万人を越えたということです。ちなみにこの頃のアメリカ合衆国の人口は北部2200万人、南部900万人とのことですから計3100万人(これは当時の日本の人口とだいたい同等か)、そのうち、市民もふくめると70~90万人が死亡したことになります。乱暴に言えば、約30人に一人が死んだわけです。

 戦争の近代化により、徴兵制による大量動員、新型兵器による大量殺戮、これがやがて第一次世界大戦での長期総力戦による大量殺戮につながりますが、同時それはさらにそれをうわまわる戦病死あるいは事故死をともなう。これでは戦争の遂行さえ難しくなってしまう。

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 そこで、話を帝国陸軍に戻すのですが、吉田裕『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書2465)によれば、日中戦争に突入した際に、長期による総力戦にまきこまれながら、日本陸軍には正式の歯科医療者がおらず、嘱託医しかいませんでした。そのため、「戦線にある将兵が非常に多くの齲歯(虫歯)を持っている」が、「前線の野戦病院に歯科医が配属されることは無かった」というのです。『野戦歯科治療の現況報告』という文書には、「これで長期戦に入った現在、体力に自信をおけるであろうか、大いに疑問である」と記されているとのころです。

 このため、1940年に陸軍歯科医将校制度が(まさに泥縄式に)創設されたとは言え、ある兵士は「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった。万一、虫歯で痛むときは、患部にクレオソート丸(正露丸)をつぶして埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治である」と回想しています。捕虜への尋問や、ろ獲した文書を分析した連合軍はこの事実に気づくや、「日本陸軍の歯科医療の水準は、連合軍より劣っている」「日本陸軍は連合軍ほど歯科の観点から部隊の健康に注意を払っていない」と報告したそうです。これでは短期戦ならともかく、帝国陸軍が長期戦/総力戦に耐えられるわけはない、と言うべきでしょう。「戦う前に、すでに“お前は死んでいる”」というような状況になりかねない。

 現在の日常生活では当たり前に存在している“歯科”さえも、戦場ではどうなるかわからない。それを考慮にいれてこそ、近代戦を戦う能力が身につくものだ、というのが現実の世界なのです。

ファクトチェックにトライしよう#1:「産業政策」をめぐる“偉い”人の発言が本当か、みんなでできる簡単な調べ方

2019 2/17 総合政策学部の皆さんへ

 さて、今回は少しくだけた話題として、“偉い”方々の発言が本当かどうか? 用心するに越したことはない、という話です。

 先日、ネット記事を読んでいると、ある主要官庁出身の高名な大学の先生が「政策を考える場合には、しばしば国際比較をするのだが、当時から産業政策に対応する英語がなかなか見つからなかった。「Industrial Policy」 という人もいるが、ほとんどその前にJapanese と付ける必要がある。つまり、産業政策というのは、日本独特のもので、先進国での例を探すことはほとんど困難だ」とお書きです。

 私などまったく門外漢ですから、なるほど、そうか、これは例によって学問分野での“ガラパゴス化”というか、「産業政策」とは日本だけに通用する学術用語なのか、とすぐ信じてしまうところですが、ひるがえって考えてみれば、そもそもこれは本当か?

 そこで学生の皆さんでも一番手っ取り早く確認するやり方として、学術論文・書籍検索サイトのGoogle Scholarをあけて、英語で“Industrial Policy”と入力して外国語の文献のタイトルを検索してみることにしました。

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 さて、検索してみると、もっとも引用数が多いのは“MITI and the Japanese miracle: the growth of industrial policy: 1925-1975”(Johnson, 1982)という書籍で引用はなんと7994件、タイトルからすると確かに日本の通産省(通称MITI;現経産省METI)の産業政策をとりあつかったもののようですが、2番目に引用数が多い文献は“ Small states in world markets: Industrial policy in Europe”(PJ Katzenstein, 1985)で5216件、こちらの対象はヨーロッパの小国のようです。

 3番目は“”Industrial policy for the twenty-first century”(D Rodrik, 2004)で引用が1921件、内容的には日本はあまり関係なさそうです。さらにその次は“Optimal trade and industrial policy under oligopoly”(J Eaton, GM Grossman, 1986)という論文で、The Quarterly Journal of Economicsという雑誌に掲載された論文ですが、1685件引用されています。

 このほか、結構多数の論文のタイトルに“Industrial Policy”が含まれているので、やれやれと思った次第です。たしかに、日本や韓国、アジア諸国など発展途上国についての話題が多いようですが(当たり前の話、途上国の段階こそ産業政策が必要なので、高度に発展すれば政府がそんなことをする必要はない、とも言えます=それを確かめるだけで、レポートのテーマになりそうです)、すくなくとも現在では「産業政策というのは、日本独特のもの」との断言にはやや首をかしげます。

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 ここまで検索で調べてから、そうだ! Wikipediaの英語バージョンで“Industrial Policy”を検索すればよいだけだと気づくと、こちらもちゃんと記事がでていました! (もっとも、それほど長い文章ではありません)。

 そのキモの部分をコピペすると、「An industrial policy of a country, sometimes denoted IP, is its official strategic effort to encourage the development and growth of part or all of the manufacturing sector as well as other sectors of the economy. The government takes measures “aimed at improving the competitiveness and capabilities of domestic firms and promoting structural transformation.” A country’s infrastructure (transportation, telecommunications and energy industry) is a major part of the manufacturing sector that often has a key role in IP.」とあるので、だいたいは我々が“産業政策”という言葉から受けるイメージに近いのではないでしょうか。

 するとこのごく簡単なファクトチェックからの推論は、

当時から産業政策に対応する英語がなかなか見つからなかった」というご発言にして、可能性として高度成長期の日本政府の活動に着目して、欧米関係者が造語した可能性=これ以上は、“Industrial policy” の初出の語源を文献調査しないとわかりません(充分レポートのネタになるのでは)。

 と思って、さらに時代限定(1940年代)でGoogle Scholarを検索すると、“Government and the American economy” (M Fainsod, L Gordon,  1941)という論文にIndustrial policyという単語が見つかりましたので、高度成長期以前でも、頻度は低いものの単語としては存在していたようですね。そして、書籍のタイトルとしてIndustrial Studyがあらわれるのはどうやら1960-65年頃からのようです(書誌学ですね)。

 ちなみに日本語の「産業政策」では、なんと1909年に加藤政之助『産業政策』が出ています。かつ、pdfもついていますが、これはこの本の書評でした。Wikipediaで調べると「加藤 政之助(1854-1941)、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任」とありました。

「Industrial Policy」 という人もいるが、ほとんどその前にJapanese と付ける必要がある」:上記の可能性があるにせよ、現在では、主として小国や発展途上国で、学問用語としては確立している(この先生はそれをあまり意識していない??)。

先進国での例を探すことはほとんど困難だ」;この点はその通りかもしれません。高度成長期の日本や、その後の発展段階の途上国、そして小国でこそ“Industrial policy”は有効な言葉なのだということなのでしょうか(なお、この先生はその点について無意識に理解しているかもしれませんが、「上から目線」で大衆に教えを垂れようという文章にはそれがあまり反映されていないようです)。

 このあたりがファクトチェックとしての落としどころになるのかもしれません。

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 もっとも、こんなことを言って他人をあげつらっていると、何時自分に跳ね返ってくるか分からない! 昔は「天につばする行為」などと表現され(この場合、「人に害を与えようとすれば、かえって自分自身に害がふりかかる」という本来の意味)、最近では「ブーメラン」とも呼ばれているようですが、用心するに越したことはありません。

「戦って欲しければ支払いを!」vs.「そこに米軍がいても誰も不思議に思わないことが大事だ」総合政策のための名言集No.20

2019 1/23 総合政策学部の皆さんへ

 2018年12月28日(金)の朝日新聞国際欄には、イラク(駐留米軍基地)を電撃訪問したトランプ大統領がその場にいた兵士の皆さんに向かって「我々は、もう『カモ』ではない。我々に戦って欲しかったら金銭的な支払いをしなければならない」と演説したとのこと。これを聞いて想い出すのは、言うまでもなく、中世ヨーロッパを跋扈していた傭兵隊長(コンドッティエーレ)でしょう。

 ご存知塩野七生のイタリアものには、トランプ氏の台詞のような話は頻繁に登場します。例えば、毀誉褒貶とびかうルネサンス期の典型的教皇4名の列伝である『神の代理人』の第3章「剣と十字架」では、イタリアを法王庁のもとに統一すべく自らの人生をすり減らした軍人教皇ユリウス2世(ちなみに、このユリウスとはローマ帝国建国の英雄ガイウス・ユリウス・カエサルに通じますから、まさに宗教家=教皇と政治家=皇帝の合体なのです)。

  •  カエサルの“ユリウス(Iulius)”は古典ラテン語でもともとはローマの氏族名、教皇の“Julius”(ユリウス)はそれに由来する中世ラテン語、これがドイツ語ではそのまま“ユリウス”(Julius)で男性名となりますが、古代ローマでは女性形として“ユリア”(Julia)となり、これがヨーロッパ諸語で“ジュリア”(英語: Julia, フランス語: Julia, イタリア語: Giulia, ポルトガル語: Júlia)となっていきます。さらに付け加えると、このジュリアが男性では英語で“ジュリアス”となるので、日本には英語から紹介されたカエサルは、ジュリアス・シーザーという英名で普及することになります。
  •  なお、ユリウス2世は以下のボローニャ征服後、自らの銅像を立てさせますが、反ユリウス派に奪回され、あげくのはてにその銅像をもとにフェラーラの君主アルフォンソ・デステ臼砲に仕立て、かつ、(当時のヨーロッパは貴重な大砲は個人名を付けたが、臼砲は女性名を付けるのが一般だったため)、その臼砲をユリウス2世の名前をもじって“ラ・ジュリーア”と名付けたそうです。赤っ恥もよいところ、という有様です。

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 さて、そのユリウスが教皇領内で叛服し続けるボローニャ征服にのりだし、首尾良く大した手間もかけずに開城にこぎ着けますが、その時、ユリウスが助っ人に呼んだフランス軍の傭兵部隊がボローニャに近づき「全市の大略奪と市民の殺戮を強行すると伝えて」きます。もちろん、(本当は戦がおこれば、略奪できると欲望むき出しで駆けつけたのに、あっけない開城で儲け話がおじゃんになった腹いせもあって)脅しで銭を稼ごうという魂胆です。出さなければ、その時こそはお得意の略奪で手間をかけても金をふんだくるもくろみです。

あわてふためた市民たちは、早速代表を、イーモラの法王のもとに送り、どうにかしてくれと頼み込んだ。ジュリオ2世は、フランス兵におとなしく引き取ってもらうために、金を払えと言った。大将のシャルル・ダンボアーズに8000デュカート、兵たちには1万デュカートで良かろう(あわせて1億円あまり)。ボローニャ市民には、この忠告を受け入れるしか道はなかった

 このように、“法王様”ご公認の“みかじめ料”ビジネス。ちなみに、イタリアの賢人モンタネッリの『ルネサンスの歴史』には、イギリス出身の傭兵隊長ジョバンニ・アクート(英名はジョン・ホークウッド)を描いて、「この軍団の傭兵たちが肥沃な北イタリアの平野を荒らさぬ日は、一日とてなかった。作物を踏みにじり、畜群を屠り、家財を略奪し」「これぞジョン・ホークウッドが夢にまで見た理想の生活である」と記しています。

 洋の東西を問わず、傭兵であれ、侍であれ、庶民から「守ってあげるから」、あるいはさらには「殺さないであげるから」と言ってお金を巻き上げるのは、ほとんど常識というもの、だって、戦地を右往左往するのに飯代もかかれば、交通費も要るし、第一、武器だってきちんとそろえるには金がかかるでしょう、というのがいわばコンドッティエーレの常識であり、それを戦地でうまく確保することが重要になります。後世になれば、さすがにただの略奪では難しくなるので、近代的ビジネスとして“軍税”の形で資金を確保する、これはヴァレンシュタインナポレオンもやってこれたのです。となれば、もちろん、トランプ君もビジネスマンとしてはそうしたいのが最初の台詞に見え見えですが、そのあたりの話の運びは、我々としてもきちんと理解してあげなければいけません。

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 しかし、ヴァレンシュタインであれ、ナポレオンであれ、結局は非業の最期を遂げることになる! (ユリウス2世だって最終的には政治的野望は破綻、イタリアをスペインの植民地状態に陥れる)それでは、あんまりだという方には、是非、アメリカ合衆国初代国防長官ジェームズ・フォレスタルの言葉がお薦めかもしれません。

 子供の頃に読んだので、記憶はもちろん出典も定かではないのですが、第2次世界大戦が終わり、その後の世界秩序をどうするべきか(つまり、それが冷戦につながったわけですけれど)、その決定的な時期にフォレスタルは地中海に米国海軍の艦隊を常駐させることを提案します。その理由として彼は、

巡洋艦一隻でも良いんだ。とりあえず、そこに米国の軍艦が常駐していることに対して、世界の人間が当たり前だと受けとってもらうことこそが大事なのだ

と説明したということです。そして、上記の台詞を口にしてからさほど日もたたない1949年5月22日、初代国防長官としての強度のストレスから鬱病にかかったフォレスタルはベセスタ海軍病院の病室から飛び降り自殺してしまうのですが、それから70年がたった現在も、イタリアのガエータを母港に地中海を警護している第6艦隊ということになります。言うまでもないことですが、最初はソ連、その後は、中近東や北アフリカ、さらにはバルカン半島が混乱した場合の対処として、「そこにアメリカ軍がいることに誰も疑問をもたない状態」というわけです(ちなみに、アメリカ合衆国の最初期の対外戦争が、1801~05年の北アフリカ沿岸のバルバリア諸国との第一次バーバリ戦争ですから、地中海に海軍の拠点を持つというのは、それ以来の悲願だったかあもしれません。

 このフォレスタルの70年先も見通したお言葉と比較すれば、トランプ氏の台詞があまりに薄っぺらで、かつ古代から絶えず繰り返されてきた捨て台詞の類であることがわかるでしょう。

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 というようなことを考えていたら、1月10日のNewsWeekでは、トム・オコーナー氏が、「兵士のなり手不足のドイツ軍、外国人徴募を検討 徴兵復活も」というタイトルで、以下の内容を報道していました。

  • 連邦軍はドイツ在住のポーランド人、ルーマニア人、イタリア人の新兵採用を検討していると伝えた。
  •  しかも問題は単に人数の不足ではない。サイバー攻撃に対処できる高度な専門知識をもつ人員が決定的に足りない。
  •  エーベルハルト・ツォルン連邦軍総監は先月、人員のギャップを埋めるために「あらゆる方法を検討し、適性をもつ訓練兵を確保する必要がある」と、ドイツのフンケ新聞グループに語った。特に医療と情報技術の専門家を必要としており、EU加盟国の出身者受け入れも「選択肢の1つ」だという」

 どうやら歴史は永遠に繰り返しているようですが、そのあたりこそがマルクスの「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」にぴったりです。

“善人”はみな弱いのか?:総合政策のための名言集Part 19

2018 12/28 総合政策学部の皆さんへ

 今年もそろそろあと数日になりましたが、今回はすでに「高畑ゼミの100冊Part11:探検記・旅行記・国際関係」でもご紹介している名言について、再び取り上げることにしましょう。19世紀も半ば、故国イギリスから遠く離れたナイル河畔をヘロドトス以来のテーマ、「ナイルの源流はどこか?」を突き止めるべく、遡っていた一組のヨーロッパ人男女に、途中立ち寄ったある民族の“首長”が二人にさとすように伝えます。

人間はたいてい性悪なものだ。強い者が弱い者から搾り取る。“善人”は皆弱い。悪いことをするほど強くないから、善人なのである

 19世紀半ば、奴隷市場で出会って恋におちた奴隷の少女フローレンスを愛したものの、(実際には遊蕩にふけりつつ、きわめて表面的には)道徳的に厳しいビクトリア朝時代でのスキャンダルを恐れてか、故郷イギリスに戻ることもできず、中東をさまようイギリス人男性サミュエル・ホワイト・ベーカーが、一か八かで二人の人生を賭けたナイル源泉への冒険旅行(ハリウッド映画そのものです)。そのさなか、すべての人生を見通したように二人につぶやくスーダン上流の一民族の長(おさ)コモロ(アラン・ムアヘッド( 篠田 一士訳)『白ナイル』より)。このいかにも穏やかなアフリカ人の長のご指摘には、かのマキャヴェリグィチャルディーニロシュフコーら歴代のユマニストモラリストもたじたじとするところです。

 英語版Wikipediaでは、フローレンスについて “A Hungarian-born British explorer. Born in Transylvania (then Kingdom of Hungary), she became an orphan and was sold as a slave to Samuel Baker. Together they went in search of the source of the River Nile and found Lake Albert. They journeyed to Samuel Baker’s home in England where they were married and she became Lady Baker. She later returned to Africa with her husband to try and put down the slave trade.” と記しています。

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 さて、私は人類学と行動生態学が専門ですが、このテーマを多少ひねれば、「人間はなぜ性悪か?」そして、「善人が弱い」とすれば、なぜ、そんな「弱っちい善人がそもそも進化したのか?」という疑問にもとらわれます。皆さんはどう思うでしょう。

 このあたりは、例によってゲーム理論=例えば、タカ派vs.ハト派の登場になるのかもしれません。それではその出発点は? 以下の二つの構図が考えられるかもしれません。
(1)タカ派=そもそもはみんな、“性悪”だった?
(2)ハト派=そもそもはみんな、“弱っち”だった?

 そのあたりから、このゲームをどう考えるか、立場がわかれるでしょう。

 まず、そもそもタカ派(=これはひょっとしたら、チンパンジー?)だったとしてら、いつの時点なのか(=アウストラロピテクスの頃か、ホモ=エレクトスの頃か、さらにはネアンデルタール人の頃か?)、突然変異として「弱っちい」奴が現れる。

 一方、もともとハト派(=こちらはボノボ?)だとしたら、こちらもまた何時の時点なのか、突然変異として「性悪」な奴が現れる、という構図になります。

 それにしても、あなたはどちらをこのどちらの構図をお好みですか? (どちらが正しいか、あるいはどちらも正しくないのか? それはタイムマシーンでもできないと分からないかもしれませんが)。

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 そのあとの段取りは、もう、皆さんお気づきですね。

 たとえば、もともとタカ派だったと仮定すれば、そこに突然あらわれた「ハト派」は、タカ派と異なる“優しさ”がアピールされて、“異性”に好まれる(ここで、オス・メス、男性・女性という特定の性を指定していないことは、気づいて下さいね)。そこで、次第に集団内に“ハト派”が増える。ところが、増える過程で“タカ派”との衝突が増えると、弱っちい“ハト派”は次第に減り出す。

 それでは“タカ派”がこのまま増えるかというと、今度は増えた“タカ派”同士が衝突、命を落とす者もでてくる。そうすると、いつのまにか弱っちくて逃げまくっていたハト派が次第に復活する。

 このように、まるでバロン・ダンスで繰り広げられるバロン(聖獣)ランダ(魔女)のように“性悪”と“善”の「終わりのない闘い」が続いているのかもしれません。もっとも、このあたり、さらに考察を続ける必要がありそうです。

 それでは、良いお正月をお迎え下さい。

エコを突き詰めれば:シロアリのカラアゲとサトウキビ・ジュースのセットは?

2018 11/2 総合政策学部の皆さんへ

 1995年に関学に総政が開設された時、“環境政策”がとくに強調されていた記憶が残っています。初代学部長が、日本の環境経済学を伐り開いたパイオニアの一人、故天野明弘先生だったこともあり、また、開設後3年目の1997年には京都議定書で知られる第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)が日本で開催されるなど、環境政策の機運も高まったのですが、その後、学科も増えて、だんだん環境政策の存在が薄くなってきているような塩梅でもあります。

 ということで、今日はちょっと趣向を変え、皆さんがエコを突き詰めれば、というよりも地球の人口爆発によって、地球という限られた資源で過剰な人口を支えるにはどうするか? という話をしてみたいと思います。

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 さて、独立栄養生物(=そのほとんどは光合成をおこなう植物等)ならぬ我々が、植物にどのように寄生することで人口を支えるのか? 一つは、我々=人類が利用できない植物資源を、我々が利用可能なものに変換することではないでしょうか?

 という課題を考えていると、(決して唯一無二の手段である、と強弁するつもりはさらさらないのですが、私がまず考えるのは植物がせっせと生産しながら人を含む霊長類が利用できない食物エネルギー資源=繊維分(セルロース)を、我々が消化可能な栄養物に変えてくれるシロアリさんではないかと思います。

 Wikipediaによれば、「食物は主に枯死した植物で、その主成分はセルロースである」、そして「林や草原における枯木や落葉などの16~60%が、シロアリの身体を通ることで一般の動植物が再利用できるものに変えられ、生態系維持に重要な役割を果たす」。つまり、自然の生態系において、なかなか生分解しない枯木や枯れ葉のセルロースを(腸内微生物の助けを借りて)分解・利用することで、自らが他の生物に食べられ、自然の食物連鎖とエネルギー・フローを促進する、静脈産業としての重要な働き、それを我々人類が利用するのはどうでしょう? ということにほかなりません。

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 妄想を逞しくすれば、例えば遺伝子改変でエビぐらいの大きさのシロアリに品種改良し、繊維分を餌にして増やした後、カラアゲ・フライとして食すのはどうでしょう。というのも、昔、アフリカで調査していた頃には、シロアリの羽化の季節、市場にいけばシロアリを食材として売っていたし、チンパンジーの調査フィールドでも羽化が始まれば、シロアリ塚から飛び立つ羽アリを簡単に捕まえ、それをフライパンで煎ると小エビのような味がしたのを覚えています(ちなみに、チンパンジーも、アカオザルのような“サル”も、ニワトリも、トカゲも、カエルも狂喜乱舞で羽アリ喰いに殺到していました。

 こうすればあまたの廃材も食料資源に化すだけでなく、シロアリの糞は畑を肥やす肥料にもなる!

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 そのシロアリのカラアゲに添える飲物には、サトウキビジュースがベストかもしれません。

 なにしろ、サトウキビの生産性は高い!(最近、ネットなどで目にする某政治家が発した“生産性”ではなく、正真正銘の生態系における生産性のことです)。

 ある資料によれば、近代的農業においてムギの生産性は最高値で1,715kcal/㎡(世界平均で560kcal/㎡)、トウモロコシの最高値が2,000kcal/㎡(同1,030kcal/㎡)、この目の最高値が2,230kacl/㎡(同950kcal/㎡)、ジャガイモが2,650kcal/㎡(同1,250kcal/㎡)なのに対して、サトウキビは最高値6,740kcal/㎡(同1,435/㎡;平均値はテンサイの生産性も含まれる)。サトウキビがエネルギー生産性ではダントツです(もっとも、蛋白質は1%にとどまり、12%の麦、10%のトウモロコシ・米に遅れをとっています;なお、ジャガイモは2%)。もっとも、砂糖にまで精製するとそのためのエネルギーが余分にかかるので、エネルギー的にはサトウキビ・ジュースとして絞りたてで摂取するのが望ましいでしょう。

 サトウキビで足りないタンパク質は、上記シロアリで補えばよい。となると、人口爆発で切羽詰まった場合、とりあえずサトウキビ生産でカロリーを確保した上で、シロアリに木材(あるいはサトウキビの枯れ葉・茎)を餌として与えることでタンパク質・脂質を確保するのも、あながちとんでもないことではないのかもしれません。

翻訳について番外編Part2:森山多吉郎の後輩たちに見る長崎通事の栄光と幕末キャリアプラン

2018 10/12 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編Part1の続編、主人公は森山に江戸で英語を学んだ同じ長崎通事出身の福地源一郎(号桜痴)に交替です。福地は安政6年(1859年)、青雲の志をいだき19歳で江戸に上京、郷里の先輩森山に師事しますが、後年、『懐往事談』に書き残した回想では、

 (森山)先生は通称多吉郎とて、長崎オランダ通詞の出身、数年前より徴されて江戸に来たり。常に江戸下田の間を往復してもっぱら条約のことにかかわり、当時は外国奉行支配調べ役並格にて外交の通詞を任じ、幕府外交のことについては最も勤労を尽くしたる人なりき。(略)江戸にて英語を解し英書を読みたる人は、この森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余はこの先生について学びたるなり。

 もっとも、師弟たちの苦心の英語修業も、幕府から命じられたことではなく、各人の個人的努力です。『懐往事談』には同年6月、外国人居留地がある横浜(運上所=現在の税関)への出張を命じられ、(福沢と同様)福地は、以下のように気づきます。オランダ語に固執していれば、通詞としての自分の仕事は安泰ですが、どうやらそれでは済まされない。上層部は何の指示をしなくとも、自ずから勉強せざるをえない=近代的自我の誕生とも言えるかもしれません。

 英語は実際欠くべからざる用語にて、(日本語文書とオランダ語文書でのやりとりを定めた)条約を頑守してはとても双方の用便にさしつかえる」ことに気づきます。そして「余輩が少々ばかりならい覚えたる英語も、この時には大いにその便利を感じ、これよりして英語修練は外交上大切なる事務とはあいなりたり。しかれども、幕府はあえてこれを奨励することをもなさず、また、そのために修業の道を開きたる事もなかりき。

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 とは言え、すでに森山が伐り開いた道がある=個人的な興味であれ、外国語を学べば立身出世(=しがない長崎通詞から公方様直臣へ)につながる。すでにロールモデルが存在し、一つのキャリアコースが成立済みです(実を言えば、これこそ外国語で出世していく=伊藤博文、青木周蔵金子堅太郎などの明治新政府のキャリアコースにつながります)。福地はこちらのコースを選択した結果、必然的に、当時の体制派=幕藩体制の支持者にもなります。そんなかつての(先を見誤った)軽躁な日々を反省するのは、明治になって事がすべて済んでから、という始末です。

 (自分は)もとより純乎たる佐幕主義にて、いやしくも時勢許るさん限りはあくまでも幕府独裁の制を保守せんと望み、深く京都の干渉と諸藩の横暴を憎み、かの公武合体といい諸藩会議というがごとき、合議政体と幕府独裁とは両立すべきものにあらずと主張せしものなり」として、「感情に劇せらるるごとに知らずしらず持見を動揺して、条理の分別をみだし、適性の定説をあやまること、この時始まれり。

 福地はさらには慶応3年12月、主戦論に惑わされ、江戸城よりはるばる大阪に出向きながら、その幕軍が鳥羽伏見の戦に大敗、あまつさえ首領であるはずの徳川慶喜が(ほとんど誰にも知らせずに)大阪城立ち退きを決行して、海路、江戸に舞い戻る始末です! 江戸に上陸するや慶喜は謹慎中の勝海舟を呼びつけます。彼の心はすでに恭順と決し、勝にその交渉をあたらせる腹づもりだったのでしょう。急を聞いてかけつけた勝は、

 みんなは、海軍局のところへ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服で、刀をカウかけて居られた。オレはお辞儀もなにもしない。頭から、みなにサウ言うた。「アナタ方、何と言う事だ。これだから、私が言わない事ぢゃあない、もうかうなってから、どうなさる積もりだ」とひどく言った。「上様の前だから」と、人が注意したが、きかぬ風をして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかへて大層罵った。己を切ってでもしまふかと思ったら、誰も、青菜のやうで、少しも勇気はない。かくまで弱って居るかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。(勝海舟(江藤淳・松浦玲編)『海舟語録』講談社学術文庫版)

 勝が目の当たりにした光景は、それまでの国家の体制が一気に崩れ落ちるとともに、福地をはじめとする佐幕派の希望が潰えた瞬間なのです。

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 さて、首領(=慶喜)にまんまと置き去りされた福地らは、這々の体で江戸に舞い戻りますが、慶喜や幕閣がすでに非戦に心を決したとしても、幕府倒壊という未曾有の事態に人心さだまりません。勝もここでは「裏切り者」にほかなりません。

 あるいは相率いて脱走する者もあり、あるいは、勝安房守は降伏論の主張者なれば暗殺すべし、と叫ぶ者もありて、人心ますます昂激し、ほとんど全幅の感情のみ左右せられて、道理は自他の耳にはいらざるほどのありさまにてありき。

 なお主戦論を侍してやまず、あるいは近々米国より回航すべき我が注文の軍艦(甲鉄船の東艦)を海上沖に待ち受けて受け取るべし、と同志に語わられては、これを行わんと試み、あるいは仏国によしみを通じてその調停の干渉を乞い、その言聞かれざる時は、仏国の兵力を借りて幕府に応接せしめんことを望、口に任せて説きまわりたりしが、今日より回顧すれば、実に国家と言える観念は我らが胸中にはみじんもなく、さらに将来の利害禍福を察するにいとまなかりしは、慄然としてわれながら身の毛もよだつ程にてありき。

 その日々を反省するのは、先にも言ったように、明治の御一新も軌道にのってから。振り返って見れば、かつての「論語読みの論語知らず」ぶりに、我ながらあきれますが、しかし、これは国家、国民、民族などの概念を一度に消化するためにはやむを得ぬことではあったでしょう。

 そのころはすでにいささか洋書も読みて、万国公法がどうでござるの、外国交際がかようでござるの、国家は云々、独立はかくかく、などなど、読みかじり聞きかじりにて、ずいぶん生まぎぎなる説を吐きて人を驚かし、もってみずから喜びたりしも、いまやおのれ自ら身をその境界に置くにさいしては、まったく無学無識となりて、後患がどうであろうが将来はなんとなろうが、さらに頓着するにいとまなく、ひたすら徳川氏をしてこの幕府を失わしむるが残念なりという一点に心を奪われたり。

 横浜の居留地を外国人に永代売り渡しにして軍用金を調達すべしといえば、これもって名策なりと賛成したるがごとき、今日より回顧すれば、何にして余はかくまで愚蒙にてありしかと、自らあやしまるほどにてありき。しかれども、これはあえて余一人のみにあらず。当時幕府のために主戦説を唱えたる輩はみな同様の考えにて、とうてい日暮れて道遠し、倒行して逆施せざるを得ずといえるが当時の決心たりしこと、争うべからざるの事実なり。

 なんだか、最近のWebでやたらに投稿される、その場限りの思いつきコメントを想い出してしまいますが、福地の良さはそれを素直に吐露・反省するところ。それにしても、せっかく長崎から江戸にでて、幕府の中枢にまで伸びたコネクションもキャリアもすべて無になるのは、いかにも耐え難いところであったでしょう。

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 さて、御一新後の福地はどうしたかと言えば、慶応4年閏4月(1868年5月)、江戸で『江湖新聞』を創刊して、幕臣よりジャーナリストに転じますが、「結局、政権が徳川から薩長に変わっただけではないか」という記事が筆禍となり、発禁・逮捕されてしまします。木戸孝允の取り成しでなんとか無罪放免になると、今度は「夢の舎主人」等と号して戯作に手を染めるという文筆業と、英語・仏語の翻訳・教授で身をたてます。

 ところが、明治3年には渋沢栄一の紹介で大蔵省入り、岩倉使節団の一等書記官として米欧視察後、明治7年大蔵省を退職、政府系の『東京日日新聞』にかかわり、政権系ジャーナリストになります。このあたりはめまぐるしいまでのキャリアの変遷、新時代に自分の落ち着きどころを探すのに四苦八苦というところです(オポチョニストでもあったと言えそうです)。

 明治10年代は、東京商法会議所設立にかかわり、東京府議会議員に選出、さらに政権寄りの立憲帝政党を結成しますが、これは失敗。結局、自らの見過ぎ世過ぎは手慣れた文筆行ということで、9代目市川團十郎などと演劇活動にかかわり、さらに翻訳、戯曲・小説を執筆します。明治の彼の活動では、この演劇改良運動・劇場運営(歌舞伎座の創設)、歌舞伎座の座付き作者、評論活動などにいそしみ、明治39年(1906)没します。時代の波にのりながら、波を乗りこなせずに、それでもしぶとく時代を渡りきった人生と言うべきかも知れません。

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 このどこまでも派手で、かつ“パッパラパー”な福地の人生と比べれば、はるかに堅実なのは、17歳年上で、森山とともにマクドナルドから英語を習った本木昌造(1824~75)でしょう。本木は、森山・福地が上京後の1869年、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立します。学問の普及は、まずそのメデイアの確立から、という地に足のついた仕事ぶりです。Wikipediaによれば、

 同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブルから活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。

 1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。ギャンブルの活字にはひらがなはなく新たに開発する必要があった。その版下は池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、1872年、小幡と平野を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。本木は新塾の経営が苦しくなると、製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。(Wikipedia)。

 しかし、維新後は事業がかならずしもうまくいかず、体調もすぐれないまま、本木は1875年9月3日に死去します。森山多吉郎はすでに1871年5月4日に死亡、一方、福地源一郎は『東京日日新聞』でジャーナリストとして活躍している頃にあたります。通詞キャリアコースも新旧の入れ替えがはじまります。

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 ところで、福地は御一新のみぎり、新政府との政務引き渡しの業務を果たすため、主戦論者に誘われて「脱走にくわわることあたわざりしは、今日より顧みれば余が幸いにてありき」と回想しますが、実は、長崎通詞のなかには実際に脱走に加わり、函館まで渡った者もいます。この時のほんのちょっとした決断の差が、彼らの人生を変えてしまうわけです。

 その一人、長崎通詞出身の五島英吉は戊辰戦争に身を投じ、榎本武揚や元新撰組副長土方歳三らとともに五稜郭まで転戦します。もちろん、皆さんも知っての通りの敗戦、新政府側の追求を逃れて英吉が逃げ込んだ先が函館ハリストス正教会でした。ここは「1859年(安政5年)にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流」とされる「日本正教会でも伝道の最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つ」だそうです(Wikipedia)。

 この教会にかくまわれた英吉は、ロシア人たちから料理とパンの作り方を覚え、若山惣太郎とともに1879年、在留外国人や外国船にパンや西洋料理を納める小さなレストランを開業します。この五島軒は現在でも函館他で開業中です(洋食バル 函館五島軒HP;http://hakodate-gotoken.com/gotoken/)。英吉自身はここで7年間コック長を努め、明治19年の火災で店が焼けた後、横浜に転居したとのこと。その後の英吉の消息ははっきりしないようですが、横浜に転居後も夏に避暑に訪れ、五島軒の2代目が帝国ホテルで修行する際にも協力したということです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...