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みんな真実を憎んでいるんだ!:モントレーの賢人エド・リケッツの至言

2021 2/12 総合政策学部の皆さんへ 今回は、ノーベル文学賞受賞者ジョン・スタインベックの無二の親友にして(共著も一冊あります;『コルテスの海』)、カリフォルニアはモントレーの賢人、海洋生物学者のエド・リケッツの言葉、「(みんな)真実に憎しみさえ抱いたのさ」です。と、いきなり切り出してみても、なんのことやらわからないかもしれませんが、一応、昨年10月8日付けで公開の「愚者には愚に従って答えるか?」の続編と受け取っていただければと思います。

 この話は、ある日、カリフォルニアの海岸地帯を襲った“火事”がきっかけです。上記『コルテスの海』を引用すれば、「研究所の歴史は、大きく二つの時期に分けられる。火事の前と後である。その火事は興味をそそる出来事だった。

 ある晩、海岸地域全体で電流の調子がおかしくなり、普段は20ボルトのところを突然2000ボルトもの電流が流れたのだ。後に訴訟で電力会社に責任はないとの判決が下されたので神のなせる業としか言いようがない

 当然、一帯は火の海と化し、エドが心血をそそいでいたPacific Biological Laboratoriesもすっかり焼け落ち、エドに残ったものは逃げ出す時に抱えていたタイプライターと車だけ(ズボンまでもなくしていたが、それでも「足とペンだけは確保できた」ととっさの判断に満足していた)。

 その後、電力会社には訴訟が殺到します。当然、Pacific_Biological_Laboratoriesも原告に加わっていました。

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 スタインベックはこう書いています。「エドは証言のためにサリーナスの上級裁判所に出向き、事実をありのままに、できるだけ完璧に語った。彼は真実を愛し、真実を信じていたからである」。そして、エドは裁判に関心を持ち始めて、「海洋動物の新種に対するのと同じ多大な客観的関心を法体系にも注いだ

 訴訟に負けた後、エドは「静かな口調で、わずかに驚きの表情を見せながら語っていた。「単純な問題でいともたやすく大間違いを犯すものなんだね。人間関係や財産にまつわるあらゆる問題で真実を見つけ出すためにこそ、法体系があるんだと思い込んでいたよ」。しかし、「ある事実を忘れていた、というより考えてみたこともなかったんだ。原告側も被告側もどっちも勝ちたいんだという当たり前のことをね。そのために本来の目的はどっかに行っちゃって、都合のいい部分だけをことさらに強調するから問題の客観的事実は影も形もなくなる

 そして、最後に付け加えます。「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない。それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ

 ちなみに、この火事の一件について英語版のWikipediaには“On November 25, 1936, a fire broke out at the Del Mar Cannery next to the lab (site of today’s Monterey Bay Aquarium) and most of the contents of the laboratory were destroyed. The manuscript for Between Pacific Tides survived the fire as it had already been sent to Stanford University for publication. It was Steinbeck that saved the lab financially after the fire with the purchase of half the company’s stock”と記されています。なお、文中のBetween Pacific Tidesとはエドと生態学者Jack Calvinによる潮間帯生物に関する先駆的書籍で、上ケ原の図書館も1冊あります。

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 1936年の当時、すでに「国民大衆の心は(略)小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲となりやすいからである」(『我が闘争』にでてくるそうです)と指摘したというヒトラーがドイツの政権を握っていましたが、最近の某大統領とそれを信じる人たちの言動でも、たしかにそういう傾向はあるだろう、と納得させられるところです。

 とはいえ、エドの思索はさらに深く、スタインベックは「それは彼にとって驚くべき大発見であり、考察の余地があった。真実を愛する彼は、他の人もみな真実を愛すると信じていたのだ。だがそうでないと分かっても嘆きはしなかった。ただ、興味をそそられただけだ」とまとめます。これこそ、「愚者には愚に従って答えるか? 答えないか?」についての一つの回答なのかもしれません。

 そんなことを考えていると、つい、おなじみの質問が頭をよぎります。「あなたは真実を愛してますか? それとも、憎んでいますか?」

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ後篇

2020年12月12日 総合政策学部の皆さんへ 前篇では1836~1845年という(歴史的にみれば)きわめて短期間だけ存在したテキサス共和国をめぐる(=同時に、アメリカ合衆国が旧スペイン領メキシコの実に3分の1の領土を蚕食する)歴史を紹介しましたが、次はハワイについてのお話です。

 さて、皆さんはハワイの歴史はどのぐらいご存じでしょうか? ハワイ諸島に先住民が何時たどり着いたのかについては、どうやらはっきりした証拠がなさそうで、紀元4~8世紀頃と推定されているそうです。無文字文化のために記録された“歴史”がないわけです(もちろん、記録がないからと言って、そこの人々の歴史がないわけではありません。そのあたりはちゃんと自覚して下さいね)。

 記録として残るのは、ヨーロッパ人がハワイ諸島にたどり着いた1778年、イギリスのキャプテン・クック指揮下による第3回航海の時でした。「クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した」(Wikipedia)。命名=その土地の“発見”者が名前を付けて、それが植民地支配のためのこの上もない理由となる=大航海時代から帝国主義にいたる時代につきもののエピソードです。

ちなみにこの時のサンドウィッチ伯は第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューで、「博打好きで、ゲームの最中にも食べることができるサンドウィッチを発明した」という都市伝説的エピソードが伝わっています。なお、初代サンドウィッチ伯は1660年の王政復古に貢献したエドワード・モンギューで、サミュエル・ピープスの『自伝』にも登場することで知られています。

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 次に、皆さんにはハワイ王国の成り立ちにもご関心をもっていただければと思います。ハワイ王国とは、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王;1758~ 1819)がつくりあげた統一王朝で、彼の子孫によって約1世紀統治されます。

 さて、Wikipediaにはカメハメハ1世の事績として「叔父の死後、その長男のキワラオを倒して島内を掌握すると、イギリスから武器や軍事顧問などの援助を受け、マウイ島やオアフ島など周辺の島々を征服していった。政敵が火山の噴火や外敵などにより壊滅状態になったことも統一に幸いした。18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ1世は火器と火薬の調達にいそしみ、火器の使用法や管理法に習熟した白人の顧問を迎え入れた。1804年には、600挺のマスケット銃、14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型臼砲を保有するに至った」。このように「カメハメハは優れた外交手腕でイギリスやアメリカ合衆国などの西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なその文化の保護と繁栄に貢献した」(Wikipedia)とあります。カメハメハによる王国の宣言は1795年(フランス革命と同時期です)、全土統一が1810年でした。

 おわかりになりますか? 外部世界の接触により、そこからの最新兵器や体制をいち早く導入し、革新的な軍事力によって周辺を統一、近代的軍事国家を作る。実は、このパターンは17~19世紀にかけて世界各地で勃発します。例えば、イギリスからの支援によって1827年にはマダガスカルのほぼ3分の2を支配するメリナ王朝のラダマ1世(あたかもマダガスカルの織田信長という塩梅です)、17世紀西アフリカの交易ルート転換期にあって、ヨーロッパ人との奴隷貿易によって奴隷と兵器の交易によって、軍事国家化し周辺諸民族を支配したアシャンティ王国、あるいはアシャンティと同様に奴隷貿易で栄えるダホメ王国です。

 「(ダホメ王国では)歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった」(Wikipedia)

 もちろん、ここで比較歴史学のセンスがある方は、これはひょっとして極東の小国=黒船来航後の日本も同じ立場だったのか、と思い至るくかもしれません。世界システムの中で、周辺部の地域には様々な政治的可能性が提示されるのですが、先進的なテクノロジーの導入による軍事国家化と、周辺地域への進出というモデルです。

 もちろん、このモデルにはさらにオチがあり、世界システムのさらなる進出はメリナ王朝アシャンティ王国ダホメ王国等をひとしく植民地化の大波に飲み込んでいくところです。江戸幕閣たちにはそうした雰囲気もまたひしひしと感じていたことでしょう。

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 話が拡散しすぎないように、とりあえずハワイに戻りましょう。このハワイ王国ははじめ白檀を経済的基盤とします(この白檀はヨーロッパ人の手により中国に輸出されたそうです;吉澤誠一郎『清朝と近代世界』)。しかし、白檀の枯渇とともに、次第にサトウキビなどのプランテーション経営が始まり、経営者=アメリカ合衆国の資本家への経済的従属が強まり、同時に清朝そして(開国後の)日本からの労働者の導入が進みます。つまり、先住民が次第に少数派になっていくわけです。

 この過程で、第5代の国王カメハメハ5世が後継者を残さず、1872年に逝去、遠縁のルナリロ王が選挙によってえらばれますが、わずか1年あまりの在位の後死亡します。その結果、第7代国王に就任したカラカウア王は、次第に増してくるアメリカ人の影響を低減すべく、1874年にワシントンに赴き、当時のグラント大統領と会談、ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせます。王はさらに1881年に世界一周をおこない、日本と中国を訪問、とくに中国では当時の実力者李鴻章とも会談、ヨーロッパ人の脅威に対抗するためアジアが連帯することが重要だと説いたとのことです。

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 しかし、アメリカ系移民からの圧力は続き、1887年には逆にクーデターをおこされ、退位あるいはアメリカ合衆国への併合を求められ、交換条件として新憲法(銃剣憲法)を飲むことで、実質的な権力を失うのです。彼は1891年過度の飲酒が遠因となり、妹のリリウオカラニ(『アロハ・オエ』等の作曲者)を後継者に指名します。彼女はハワイ人からの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出して否決されます。その後は、あっという間の展開になります。

 1月16日、米国公使は自国民保護を口実にアメリカ海兵隊を上陸させ宮殿を包囲、翌17日に共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言します(Wikipeida「ハワイ併合」。これには当時、王国の独立を支持していた日本政府は、こちらも邦人保護の名目で軍艦を送るなど、不快感を表明します。かつ、米国政府もこの「革命」が不法なものであると認めるのですが、ハワイ臨時政府はこれを内政干渉として突っぱねた。このあたり、大国が用いる「自国民保護」とアメリカ系ハワイ人がつかう「内政干渉」の口実の使い分けなどは、ペリー来航の折、対応した幕府官僚が感じた恐れが如実に実現したものとみなすべきかもしれません。

 その後の紆余曲折、1894年7月4日の臨時政府による共和国独立宣言、女王リリウオカラニの逮捕(反乱の首謀者容疑)、1月22日の逮捕者との引き換えによる女王廃位の署名の強制などで、ハワイ王国は滅亡します。最終的に、このハワイ共和国は独立後わずか4年の1898年に米国に併合されてしまいます。このあたり、テキサス共和国をめぐる経緯とも通じますが、思えば帝国主義時代に対応することでアメリカ人の政治的テクニックも随分と向上していたとも言えるのかもしれません。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ前篇

2020 10/21 総合政策学部の皆さんへ 19世紀での国家の誕生と消滅Part 1では東南アジアでイギリス帝国主義と現地政権との緩衝地帯に、仇花のように咲いたサラワク王国とその白人王をとりあげましたが、次はテキサス共和国、そしてハワイ王国・ハワイ共和国です。

 前者は1836~1845年、後者は1795~1893年(王国)・1893~1898年(共和国)、サラワク王国の104年余と比べてもさらに短命です。そして、いずれのケースも最終的にアメリカ合衆国に併合される道をたどります。この二つの事象をはさんで起きたことの一つは、言うまでもなく幕末・明治を経ての日本の開国なのですが、民族や国家の独立をいともたやすくもてあそぶ時代でもあった、ということだけは覚えておいた方がよいでしょう(そして、こうした“列強”に最後に追いすがろうとした日本が、その時刷り込まれた19世紀的精神のままに20世紀に入っていったことも)。

 ちなみに、安政三年(1856年)初代アメリカ駐日総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、老中堀田正睦を前に「二時間に及ぶ大演説をおこなった」ということですが、勘定奉行たちはその内容を二日間で精査して、「ハリスが、「合衆国の政府においては、地方に所領を得そうろう義は、禁じ」とアメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年と54年の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カルホルニー(カリフォルニア)を掠取る」したこと、その後、賠償金のかわりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している」とのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)。私が子供の頃は、幕府の官僚たちはひたすら無能で、外国からの圧力にそのまま押されていったというイメージで語られていたわけですが、彼らはそれなりに必死の対応を展開していたようです。

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 さて、テキサス共和国ですが、ここはもともとメキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州に属する土地でした。メキシコ独立前はスペイン領ですから、本来はアメリカの土地ではない(それどころか、本来は先住民=ネィティブ・アメリカンのとちのはずなのですが)。

 この地をめぐる争いは、結局、上記の幕府勘定奉行たちの考察に出てくるように、メキシコ戦争を引き起こし、スペインからの独立を果たしたばかりのメキシコ共和国から広大な土地を奪うきっかけになるのです。そのざっとした歴史的経緯は以下の通りです。

(1)もともとはアパッチ、アタカパ等の先住民が居住

(2)1685年、フランス貴族のラ・サールが植民地建設を意図するも失敗(しかし、以後も植民地の権利を主張)

(3)1690年、スペイン人によるテキサス入植開始。1821年までスペイン領テキサスとして統治。当時はメキシコ、カリフォルニア等を含め、ヌエバ・エスパーニャ副王領とし、1819年にアダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国と国境確定。

(4)1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなる。

(5)1823年、過疎地テキサス発展を名目に、スティーブン・オースティンがメキシコ政府と交渉、米国から300名の家族を合法的に移住(これがテクシャン/テキサンと呼ばれる)。なお、その前後はメキシコ共和国のコアウイラ・イ・テハス州とされていた。

(6)不法入国者も含めてアメリカ人人口は急増、1830年には奴隷を含む25000人以上のアメリカ人が入植、メキシコ人は4000人程度。同年、アメリカ人の移民禁止令を出すが、ほとんど無意味であった。一方、奴隷制度について廃止したメキシコ共和国側とテキサンが対立。

(7)1835年6月にテキサンが武力蜂起、10月にメキシコからの分離宣言。アラモ砦の戦いではメキシコ側が勝利するが、サンジャシントの戦いで敗北、最高権力者のサンタアナが捕虜となり、1836年5月14日にベラスコ条約によりテキサス共和国独立。

(8)1845年、テキサス共和国は自発的にアメリカ合衆国へ加盟、28番目の州としてテキサス州となる。この間、国外とはメキシコとの関係、合衆国内では奴隷制の是非による南北対立(1861年に南北戦争が勃発)等で、複雑な経緯をたどりますが、7月にテキサス共和国議会が米国との合併を承認します。

(9)その結果、今度はアメリカ合衆国とメキシコ共和国の戦争(米墨戦争)が勃発。1848年2月2日調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカ合衆国はカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを確保する代わりに(メキシコは国土の 1/3 を失う)、1825万ドルをメキシコ側に支払い、ここに(皆さんご存じのトランプ君が壁を建設しようとしている)国境がほぼ確定します。

 この一連の流れを観ていると、まったくなんということか、と慨嘆するほかありません。オースティンが“合法的”にメキシコ領テキサスに入植してからわずか25年後に、アメリカは広大な土地を手中におさめ、かつ、そこから金(いわゆるゴールドラッシュが1849年)と石油(テキサスのスピンドル油田が1901年)を見つけることになるのです。

 テキサス共和国はこうしてたった10年ほどの歴史を終えますが、結果的にせよ、アメリカ合衆国の野望の先兵・手段ともいうべき存在として機能したのかもしれません。これでは堀田正睦以下の幕閣、勘定奉行も用心するのは当たり前のことです。しかも、アメリカはさらにその“魔手”を広げます。それが“ハワイ併合”です。というところで十分長くなってしまいましたので、あとは後篇に託したいと思います。

愚者には愚に従って答えるか? トランプvs.バイデンのTV討論について 

2020 10/8 総合政策学部の皆さんへ

 ちまたでは去る9月29日に行われたトランプ大統領とバイデン上院議員の第1回テレビ討論会について、「史上最悪のディベートだった。そもそもディベートではなく、恥をさらしただけ。今晩はアメリカ国民の敗北だ」「Shit show(くそみたいなショー)だった」(CNN)等と報道されているようです。

 この討論会の話を聞いて、私の頭にまっさきに浮かんだのは、イギリスの作家・ジャーナリストのジョージ・オーウェルの傑作、スペイン動乱のさなか、コミュニストからも資本家からも、もちろんファシストからも嫌われたPOUMに義勇兵として参加、混乱のなかかろうじてイギリスに逃れた経験を描く不朽の傑作『カタロニア賛歌』冒頭のエピグラフ、旧約聖書『箴言』からの引用です。

愚者には愚に従って答えるな、
  君も愚者にならないために。
 愚者には愚に従って答えよ、
  愚者が自分を知者と思わないために
           「箴言」26章5-6節

 これは中学生の時に読んだ筑摩ノンフィクション全集本に載っていた松木隆・山内明訳ですが、新共同訳『旧約聖書』では以下の通りです。

愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな
   あなたが彼に似た者とならぬため
  愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。
   かれが自分を賢者だと思い込まぬために

 中学の頃にこの言葉に接した時に感じた「それでは、どうすればいいんだよ?」(たいていの方がこの感想に同意していただけると思うのですが)という思いを、ひょっとしたらバイデン氏も感じたかもしれません。あるいは、4年前、ヒラリー・クリントンはこの教えを意識しなかったがゆえに、トランプ氏に敗北したのかもしれません。

 ちなみに、箴言の多くはソロモン王によって作られたとされていますが、複数の作者によるものだろう、とのことです。

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  さて討論会に話を戻すと、どうやらトランプ氏を支える“鉄板”のファンたちにとっては、大手メディアやエリート、知識層がどんなにトランプ氏をあげつらおうと、それはすべて“誹謗・中傷”に過ぎず、討論会で実質的に敗北しようと、そんなことはどうでもよいと思っているようです。

 それでは、彼らは何を望んでいるのか? TV画面に映し出される彼らの嬉々とした表情を見ていると、トランプ大統領は彼らにとっての一種の“象徴”、あるいは“王”のような存在になっているのかもしれない、とさえ思われます。

 そして、そのファンたちはある意味でいま、ワクワクしながら、心待ちにしているのは大統領選の結果=トランプの敗北=彼らの“王”トランプ氏の破滅であり、その“王殺し”の瞬間に放出されるエクスタシーの噴出を(無意識のうちに)心待ちにしてる、それが彼らにとって来るべき“祭”にさえなっていると言えるのかもしれません。

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 さて、旧約聖書の箴言はこのように続けます。

愚か者に物事を託して送る者は
 足を切られ、不法を飲み込まされる
愚か者の口にすることわざは
 歩けない人の弱い脚。
愚か者に名誉を与えるのは
 石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。
愚か者のくちにすることわざは
 酔っぱらいの手に刺さる刺

 当の愚か者にとっては、箴言はなかなか恐ろしそうな事態を予想しているようでもあり、かつ、同じく彼に物事を託そうとする鉄板のファン(=そして、心中秘かに王殺しの瞬間を待っている)方々にとっても王の道連れに相応の呪いがかかってくるかもしれないが、それもまた面白そうと心に決めているのかもしれません。

分けることと名を付けることPart2:どうやればものごとを“分ける”ことができるのか?

2020 8/15 総合政策学部の皆さんへ 我々はどうやってものごとを分けるのか? について話を進めましょう。

 “命名”の前提としてものごとを“分類”する必要があります。つまり、ありとあらゆる事物の間に“ボーダー”を引く作業が出来するのです。これは自然科学にとっても結構難しいテーマです。卑近な例を取り上げれば、ウマとロバはどこが違うのか? そして、ウマとシマウマの違いはウマとロバの違いと同じなのか?

 さらに、分類の基準をどう定めるか? その基準は客観的か、恣意的か? そもそも神ならぬ我々にとって“客観的な基準”など手にすることができるのか? 皆さんはどうお考えですか? 分類学の鼻祖であるリンネは「生物の種間に存在する本来の関係」としての自然分類をめざして植物を花(生殖器官)で分類しました。しかし、どうしても基準に恣意性が紛れ込む可能性が否定できません。フランスの哲学者であるM・フーコー(1974)はそのあたりの加減について「私たちがものごとを整序するやりかたがいかに恣意的」であるか指摘しています。

 もう一つ問題なことは、いったん分類体系が確立されてしまうと、そこに欠陥があろうと、我々はその基準を固守しがちになることです(要するに、我々は保守的なのです)。それは、「あらゆる社会的行為は分類図式の定める境界線の内側で生起」すべきだと思い込んでいるからです(ダーントン、1986)。

 この結果、近代思想において“分類”は人やものの周りにボーダーをはりめぐらすとともに、分節化し、そしてラベルを貼ります(=すなわち命名)。こうして、常に“正しいこと”であり“自明であること”が要求されてきた近代科学にもいては、どうしたら“分類”が“恣意的”ではなく、“正しい根拠にもとづくものだ”と自分自身が納得させられるか? 近代自然科学にとっても、また近代社会科学にとってっても、これはいわば自縄自縛であり、大きなトラウマともなりかねません。

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 それでは、どんなやり口が我々には許されるのでしょうか? あえて単純に言い切れば、“普遍性”と“特殊性”の弁別かもしれません(フーコー、1974)。どんな分野でも、対象を分ける/分類する際、どこまでが“普遍性(一般性)のある特徴”で、どこからが“特殊性(個別性)”を示す特徴なのか、互いの“類似=相似”によってボーダーを引く。こうして類似の認識は、同時に差異をも認識させる手段となります。

 さらに、その差異があいまいな変異を伴わないデジタル的であるほど安心もするでしょうし、差異があいまいでアナログ的な差異であるほど、どこにボーダーを区切るべきか、不安に誘われることになります。それでは自他、彼我の差はどれほどアナログ的なのか、あるいはデジタル的なのか? どんな生物よりもデータが備わっているヒトについて調べてみましょう。

 数量的資料でたぶんもっとも確実なのもは例えば、身長です。低身長で知られているムブティの人たちではおよそ130~160cmほどの幅におさまり、中央値は145~150cmほどになります(Lewontin, 1995)。これが彼らの身長についての集団内変異です。この値を同じアフリカ大陸に住む遊牧民ディンカの人たちの変異幅であるおよそ160~200 cm、中央値で180~185 cmという集団内変異と比較すれば、歴然とした差(デジタル的差)が認められます。

 しかし、ムブティの人たちの周囲にすむバンツー系農耕民を含め、さらに我々モンゴロイドやコーカソイドの人々を足していけば、ヒト全体ではディンカの人たちまで続く連続的な差異(アナログ的差)になってしまいます。

 これらの数値を、非常に極端ですが、チンパンジー等の数値と比べれば種間の差=種間変異があらわれます。る。この二つの変異を比べれば、そこに“種”というものが自ずと浮かびあがる(はずである)。チンパンジーは4足歩行者のため、身長ではなく頭胴長ですが、それはおよそ77.5~85 cmですから、こちらは歴然とした差です。

 こうすることで、ヒトとチンパンジーそれぞれの種内の連続的な(アナログ的)差異と、二つの種間の断続的な(デジタル的)差異の比較の上に、二つの別種として分けることになる、というわけです。

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 こうしたアナログ資料の相対的な比較、あるいはその曖昧さに手を焼いてか、分類学では最近、遺伝子のDNA鎖の比較が流行っています。というか、それなしではすべてが進まないような状況です。DNAは基本的に4つの塩基の組み合わせによるデジタル的な情報ですから、これを分析すれば、デジタル的に物事が分類できる! ついに近代科学の悩みが解ける! というわけです。

 これは“分子時計”という手法ですが、それぞれの種の遺伝情報であるDNA鎖を構成する塩基の組合せが、種分化した年代が古いほど変化してくることから、分岐年代を逆算するという手続きです。つまり、現生種の遺伝情報=デジタル情報の共時的な変化を、ニュートン力学的な通時的変化=時間に換算(=時計として使う)することになります。

 この方法は20世紀後半から導入され、分類・系統学に劇的な影響を与えてきました。例えば、これまで偶蹄目クジラ目に分類されていた動物群は、遺伝的に近似性が認められ、鯨偶蹄目としてまとめるべきである。あるいは、化石からは1400万年前に分岐したと考えられていたヒトとチンパンジーの分岐年代は500万年前ぐらいに近くなる等です。この遺伝子間の相対的な差を、ニュートン力学の絶対的時間軸に読み替えるやり方にとりあえず安心(安住)することを我々は選んでいるとも言えます。

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 最後に付け加えなければなりませんが、実は、“分類”には“ごみ箱”がつきものです。どうにも分類できない“あいまい”な存在を、そのあいまいさを嫌うためか、とりあえず一つの箱のなかにしまいこむことで、何食わぬ顔をするのです。

 哺乳類を例にあげれば、食虫目(あるいはモグラ目;モグラやハリネズミ等)という分類群がそれにあたりました。素直に分類できないあやふやな存在をごみ箱にぶち込むことで、体系そのものは涼しい顔をするのです。

 これは体系/体制は例外が嫌いであり、自らの秩序にあわないものの処理に“ごみ箱”を使う。それは、体系からはみだした存在が「私たちの概念が設けている境界(=ボーダー)を侵犯」するため、「私たちを慄然とさせ、また魅惑する」のを事前に防ぐためでもあるのです(ダーントン、1986)。

 それどころか、“あいまいな存在”は、その存在さえ許されず、社会的に抹殺されることも珍しくありません。例えば、東南アジアの漂海民の人たち(オラン・ラウト)、日本のアイヌや琉球列島の人々の歴史やアイデンティティはつねに無視がちであったことを忘れてはいけないわけです。分類されることさえ無視されてしまう存在、それが究極のマイノリティです。

 ちなみに、食虫目は現在では「その後3度にわたって解体され、現在は正式な分類群としては使われない」とのことです(Wikipedia)。

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 ちなみに最初に取り上げたウマ、ロバ、シマウマですが、ウマとロバは人間の管理下で交配させると妊娠して子供を産みます。しかし、そこの子供は生殖能力をもちません。メスのウマとオスのロバの組み合わせだとラバと呼ばれ、飼養が楽で力がつよいことから重宝され、古来ヒトに利用されてきました。もっとも、メスのロバとオスのウマの組み合わせではヒトにとって都合がよい性質がラバよりも弱く、ケッテイと呼ばれるも利用されてきませんでした。まったく人間の勝手で生まれて、子供もできずに死に絶える。そのため、ヒトはまた新たにラバを産ませるというサイクルです。

 こうしたウマやラバのように雑種の子供に生殖能力がない場合(これを生殖的隔離と呼びます)、遺伝的な距離が離れていると認めて、別種と扱うのがふつうです(マイヤーによる生物学的種の概念)。

 それではシマウマはどうか? シマウマはどちらかというとウマよりも、ロバに近いそうですが(そう言われてみると、シマをとると体型がどことなくロバのようです)、やはりウマやロバと交雑して子供をつくることがあり、ゼブロイドと総称されているそうです。またゼブロイドは一般に生殖能力がない(不妊)とのことです。

相続とキャリア3:“長子相続”vs.“末子相続”

2020 8/8 総合政策学部の皆さんへ 先に投稿した「相続とキャリア1:スペアとしての寺社・修道院、そしてそこからの還俗」では、長子相続社会での例をあげました。長子がすべてを相続し、それ以外のこどもには財産が分与されない。その場合、その子供たちは何らかの方法で自分の食い扶持を確保しなければならない場合にどうするか?

 一方、親としても課題が残ります。たとえ長子が相続すると決めていても、その長子が自分よりも早めに死んでしまった場合、そのバックアップをどうするか、という課題への対処もあります(義元君のように寺や修道院にデポジットされる、あるいはイヴリン・ベアリングのように陸軍軍人として他出させる)。

 まったく、人としての悩みはつきません。

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 さらには「やはり弟たちもかわいい。なんとか財産を残してあげたい」と思う人も出てくる。しかし、それでは、長子の取り分を減らしてしまうことになり、今度は父親と長子の争いになりかねない。この典型例が、あまりの巨腹に「大食ではなく造化の間違い」と謳われたイギリス王ヘンリー2世(このブログで時々登場する女傑アエリノール・ダキテーヌの2度目の亭主)と息子たちです。

 例えば、1169年にヘンリー2世は「フランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる」(Wikipedia)。つまり、フランス王家の政治的支配下にある領土を息子たちの間で分割相続させることにすることで手を打とうというわけです。このせっかくの措置も、しかし、父-息子たち間に平和をもたらすことにはならず、彼らの母親アエリノールの使嗾も相まって、ヘンリーは死ぬまで息子たちと争い続けます。

 さらに別のケースをあげれば、男系直系社会であっても父は婚出する娘に対して、自分が死んだ後に少しでも遺産を分けたいとも思うかもしれません。しかし、それも家族全体、あるいは長男の取り分を減らすことになる。そうすると、自分が死んだあと、長男が(あるいは他の後継者が)嫁いでしまった娘にきちんと遺産を分割するか? あやしいものです。そのため、娘が婚出時に持たされる持参金には「女性が両親から受け取る遺産の前払いという性質」がありました(Wikipedia)。

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 その一方で、王家の相続には長子相続を定めておいた方がよい、という判断が次第に発達します。Wikipediaではこの経緯を「前近代社会では相続によって継承されるものは個人的な私有財産ではなく家産であると考えられていた。相続の第一目的は直系家族の維持(家の存続)であるとされ、それに最も適合的だったのが長子相続であった。つまり子のうち親との年齢差が最も少ない長子が相続することが父系的な継承線の維持にとって最も合理的と考えられていた」としています。

 これが果たして最も合理的なのか、例えば親との年齢差がもっとも少ない長子とは、親とvs.長子間の「とってかわれる者」同士の争いにつながりかねないか(上記のヘンリー2世vs.若ヘンリー、あるいは若ヘンリー死亡後のヘンリー2世vs.リチャード2世がまさにそうだったのですが)、長子相続が人類の長い歴史を経て確立するまで、色々なこと、とりわけ悲劇が訪れます。

 例えば。第38代天皇である天智天皇は、後継者として同母弟である大海人皇子を皇太弟に立てます。これは兄弟継承を想定してのことで、実力者から実力者への権限移譲として安定した継承になるはずでした。過去にも、第16代仁徳天皇の後に17代履中天皇(仁徳天皇の第一皇子)⇒18代反正天皇(第三皇子)⇒19代允恭天皇(第四皇子;ちなみに、3人は同母兄弟)という兄弟継承が始まりですが、しばしば同じような継承が見られます。

 しかし、天智天皇は671年に自身の第一皇子である大友皇子を太政大臣に任じることで、あたかも長子継承を希望するかのように行動し始めます。その結果として、壬申の乱が勃発します。日本史を学ばれた方には先刻ご承知の事件ですね。

 本来後継たるべき実力者大海人皇子は自ら出家を申し出て吉野宮(現在の奈良県吉野)に下りますが、兄天智天皇が46歳で崩御するや、吉野を出奔、兵をあげて甥にあたる大友皇子を討ち、天武天皇として即位します。この経過をシェークスビア好きのイギリス人が聞けば、ヘンリー2世の7代の裔、リチャード2世が従弟であるヘンリー・ボリングブルックこと後のヘンリー4世に王位を簒奪される悲劇『リチャード2世』を思い起こさせるかもしれません。

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 壬申の乱で興味深いのは、この乱は伯父大海皇子vs.甥大友皇子(弘文天皇)の対立にとどまらないわけです。このころの宮廷は近親者間の婚姻がふつうでしたから、2つの陣営は
・異母姉vs.異母弟:鸕野讚良皇女こと後の持統天皇(大海皇子の皇后)vs.大友皇子
・父vs.娘:大海皇子vs.十市皇女(大海皇子の第一皇女で大友皇子の正妃)
・従兄弟同士:高市皇子(大海皇子の第一皇子)vs.大友皇子
等の組み合わせを含んでいました。まさに“骨肉”の争いだったわけです。

 もう一つ興味深いのは、実力で近親者から皇位を奪った天武朝ですが、その後は持統天皇の強力な意思によって直系相続を試み、そのためには中継ぎ役として何人もの女帝(持統、元明元正孝謙・称徳)を擁立しながら、4代目で男系直系相続に失敗、天智天皇まで遡っての皇位継承(光仁天皇)となることです。かくも直系維持は難しいのです。

 ちなみに、光仁天皇は即位前、「専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れた」と伝えられているとのことですが(Wikipedia)、このエピソードはローマ帝国第4代皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(通称クラウディウス)がみんなから白痴とみなされながら、先帝カリグラ暗殺の混乱の中でひっぱりだされた際、「諸君が私を哀れなうすのろだと思っておられることは、よく存じておる。だが私はうすのろではない。私はうすのろのふりをしていたのだ。そのおかげで今ここに来ているのだ」との名科白をはいたという故事を思い起こさせます(モンタネッリ『ローマの歴史』)。

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 さて、その一方で、ヒトでは長子継続が自明ではない社会ももちろんあります。例えば、江戸時代、日本の漁村では家はむしろ“末子相続”でした。これは漁民の仕事場が、田畑のように明確に相続できる不動産ではなかったことに加えて、子供が長じて家業にいそしむと海難による死亡の確立も高いため、末子に継がせるのがより安全=合理的だという判断になるそうです。

 また、Wikipediaによれば、「長野県諏訪地域では、江戸時代後半から昭和戦前期まで末子相続が見られた。この場合、長男次男などは江戸に奉公や出稼ぎに出かけ、男性の末子が田畑を相続し両親の扶助を行った。この地域の田畑の生産力が低いことと、江戸時代中期以降に耕地の細分化と核家族化がすすんだため、こうした風習が成立した」とあります。つまり、環境やニッチが変われば、末子相続も合理的になる!

 おもしろいことに、この諏訪地方の風習は「長男相続と家父長制を規定する大日本帝国憲法下の民法に抵触したため、訴訟裁判沙汰となることもあった」とのこと。つまり、法律が現実をカバーできない! そんなことを考えていると、いくらでもレポートのテーマのネタがありそうです。

 なお、末子相続はチンギス・ハン時代のモンゴルでも見られ、「モンゴル人の間では親の遺産を相続する末子を「火の王子(炉の番人とも)」を意味する”オッチギン”と呼んだ。神聖な家の炉の火を守り、継承する者だからである。チンギス・ハーンの末の嫡出弟であるテムゲ・オッチギンが著名である」とのことです(Wikipedia)。

19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

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 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

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 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

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 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

村井弦斎『食道楽』からタピオカ、白菜、ラーメン、カレーを考える:食についてPart 21

2020 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 「ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part 20」で村井弦斎食道楽』(青空文庫版)を引用しましたが、開国以来160年になんなんとする日本の食を考える上でも、貴重な資料と言えるかもしれません。例えば、今の私たちの食に当たり前のもので、『食道楽』に見当たらぬものは何か? あるいは『食道楽』で村井がせっかく紹介しながら、その後の日本で忘れ去られたものは何か? そこに今の日本の食の本質をかいま見ることができるかもしれません。

 さて、『食道楽』は「1903年1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本として刊行されると、それが空前の大ベストセラーになった。文学史的にも評価が高く、村井弦斎の代表作とされている。翌1904年にかけて続編を含めた8冊が刊行」されました(Wikipedia)。ちなみに1903年1月は、1日:英国王エドワード7世がインド皇帝に即位、14日:大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んだ霊鷲山を発見、23日:夏目漱石が英国留学から帰国とのことです。

 この年12月31日の日本の人口は46,732,138人で現在の3分の1です。完全なピラミッド型の人口構成で、まぎれもなく人口増大期にあたります(東京では、死亡者数を出生者数が上回り、都会でも人口再生産に転じます(それまでは江戸時代そのままに、田舎に生まれた若者が東京にのぼって、結局、結婚も子供も残すことができずに死に絶えていくアリ地獄的世界でした)。

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 『食道楽』冬の巻の末尾には登場する食や材料についての索引がついていますから、ここであたりを付ければ、120年前の日本の食生活と現在の違いがうかびあがるかもしれません。例えば、タピオカ! 正確にはタピオカはキャサバから作ったデンプンですから、皆さんの頭に浮かぶタピオカはタピオカティーと呼ばねばなりませんが、果たして『食道楽』に出ているのでしょうか?

 それが出てくるのです。第282回「米料理」に“ライスプティング”の材料として堂々の登場です。「セーゴでもタピオカでもジャムやでもやっぱり同じ事で大匙二杯位を初めは暫しばらく水へ漬けておいて膨ふくらんだ処を二合の牛乳へ入れて砂糖を三杯加えて三十分以上煮て出来上った時玉子の黄身を二つ混ぜてテンピの中で二十五分も蒸焼にすると病人にはどんなにいいだろう。無病の人には牛乳で煮ないでも普通なみのカスターソースを拵えてその中へ水に漬けたセーゴやタピオカを混て蒸焼にしてもカスターセーゴプデンといってなかなか美味おいしい者が出来るよ」とあります。

 このタピオカは何か? と思って『食道楽』をさらに調べると、「タピオカのマッシもセーゴに似て少し大粒の固まったものです。セーゴよりも固い物ですから四十分間水へ漬けておかなければなりません」とあるので、どうやらタピオカパールは1903年の日本にも輸入されていたようです! ちなみにセーゴとはおそらくサゴヤシデンプンの可能性があります。またマッシとはマッシュを指すようです。

 それにしても、せっかく村井先生がご紹介しながら、ライスプディングもタピオカも、その後、日本の料理界からは忘れ去られてしまうわけですが。村井は“ライスプデン”と表記していますが、これは「米をミルクで煮た料理である。同様のものが世界各地に存在する。日本では乳糜(にゅうび)、乳粥(ちちがゆ)、ミルク粥などとも呼ばれる」とのことです(Wikipedia)。私は中学時代、白水社版のスウェン・ヘディンの中央アジア探検記シリーズに頻繁に出てくる字面を見て、「この食べ物はいったい何なのだ?」と疑問に思ったものです。

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 それでは『食道楽』に何が登場しないのか? どうやら“白菜”という名前が見当たりません。現在青空文庫で公開されている春、秋、冬の巻を「白菜」で検索してもでてこないのです。そこで、春の巻の最後にでてくる栄養分析表(文明開化ですね)を見ると、(豆や薯類を除けば)根菜に大根、蕪、人参、牛蒡、蓮根、慈姑等が、葉菜に葱、韮、三河島菜、甘藍(キャベツ)、水芹、独活、蕗、蕨、薇、ホウレンソウ、小松菜、トウ菜、三つ葉、京菜、芹菜、茄子、胡瓜、南瓜(とうなすと表記)、冬瓜等がでています。

 一方、冬の巻の最後にでてくる「食道楽料理法索引」にはこのほか、赤茄子(トマト)、アスパラガス、アテチョー(おそらくアーティチョーク)、枸杞(の若芽)、嫁菜、紫蘇、白瓜、ズイキ、玉葱、花キャベツ、山葵、蕨等がありますが、白菜はまったくありません。

 それも道理、「日本で結球種のハクサイが食べられるようになったのは、20世紀に入ってから」で(Wikipedia)、「普及のきっかけとして、日清・日露戦争に従軍した農村出身の兵士たちが、中国大陸で食べた白菜の味を気に入って持ち帰ったからと言われているが、各地で栽培が試行されたもののほとんどは、品種維持に失敗したと見られる」ということですから、1903年の村井先生の視野にはまだ入っていなかったと思われます。

 なお、『食道楽』の栄養分析表には、当然、1910年以降に鈴木梅太郎らによって次々に発見されたビタミン類はのっていません(カロリーもついていません)。

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 さて、現代の日本の食で『食道楽』に登場しない代表としてラーメンがあげられるかもしれません。これまたWikipediaに頼れば、「1910年、東京府東京市浅草区に初めて日本人経営者尾崎貫一が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった。その主力メニューは、当時は南京そば、支那そばなどと呼ばれたラーメンだった。新横浜ラーメン博物館によると「来々軒」を中国の麺料理と日本の食文化が融合してできた日本初のラーメン店としており、ラーメン評論家の大崎裕史はこの年を「ラーメン元年」と命名している」とのことで、1903年刊の『食道楽』には間に合わなかったようです。

 とはいえ、『食道楽』にはもう一つの現代食、カレーがかなり頻繁に登場してきます(なお、ライスカレーとして登場しています)。秋の巻には31回、冬の巻には索引もあわせて15回登場しますが、材料も多彩で、牛肉、鳥、魚、玉子、アサリ等です。なお、玉子のカレーとは、カレーのスープを作ってからそこに「湯煮玉子を四つ小さく輪切にして入れて御飯へかけます」とあります。その昔、東アフリカのタンザニアでホテルのメニューにエッグ・カレーがあったので注文すると、丸のままのゆで卵がカレースープの中に鎮座してでてきたのを思い出します。

分けることと名を付けることPart1:アンシクロペディストたちの夢

2020 7/19  総合政策学部の皆さんへ 唐突に“アンシクロベディスト”などと言いだしても、皆さんに通じるかどうか? これは「百科全書派」と訳され、18世紀、フランスの啓蒙思想家ディドロダランベール等のもとに編集した百科全書(1751~72年刊行)に携わった一連の思想家たちを指すフランス語です。

 ちなみに私は高校の世界史等で教わったおり、「なぜ百科事典の編集者たちが教科書にのるほど“偉い”のか?」と疑問がわいたのを覚えていますが、これはもちろん当時の私の知識不足・知的能力の足りなさゆえです。以下にのべるように、実際には近代思想上の一大転換点だったのですが、それでは何がこの“転換”のキモだったのでしょう?

 その基本は「知識を握った者が権力/権威を握る」という点にありました。さらに筆を進めれば、その知識の基盤とは 「事物を認識することであり、事物を識別、分類して、そこに名前を付ける」ことです。こうして“知識人”は事実を命名することで物事を整理・理解することで知的権威=権力を握るわけです。今日、多くの国家が大学をはじめとする教育・研究機関を擁し、そこに蝟集する“研究者”、“知識人”を集めることを自らの“権威付け”の一環としていることでも明らかでしょう。

 ちなみにフランス王フランソワ一世によってコレージュ・ド・フランス(設立当時はコレージュ・ロワイヤル;Collège Royal、王立教授団)が設立されるのが1530年、さらに1635年にアカデミー・フランセーズが始まります。一方、イギリスでは1660年に王立学会が開設されます。このあたりから、“知識人”は知識によって知的権力を目指し始めるのです。

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 レヴィ=ストロース(1976)によれば、身の回りの事物を選り分け、命名しようとする欲望はどんな“未開人”にも共有されています。アフリカの熱帯雨林に生きる狩猟採集民ムブティ・ピグミーの老人でも、アルゼンチンの小説家ボルヘスが想像する中国の百科事典でも変わりません。

 しかし、なんと言っても特筆すべき試みは、すべてを分類・系統付けようとするアンシクロペディストたちの夢でした。17世紀、近世フランスにおいて既存の権威(王、貴族、そして教会)に対して、無視し得ぬ力となっていた知識人たちは「知識は力であることを悟り、知識の世界を測量してその征服に乗り出した」というのがダーントン著『猫の大虐殺』での主張です。

 ダーントンによれば、アンシクロベディストの最終的な戦略目標は「知識にはっきりとした形をあたえて、それを聖職者の顕現化から奪って、啓蒙主義にかかわる知識人の手に」委ねることでした。今日、近代科学が世界にかかわるすべての認識を支配していますが、そのはじめの一歩は「既知と未知の間に」「世界地図を書いて世界の征服を企て」たディドロやダランベールたちの試みにほかならないのです。

 さらに付け加えれば、“命名”には“標準化”が好ましい。こうして化学の世界では元素記号等が、生物学ではC・リンネが始めた“学名”等が普及します。現在のビジネスでも、結局、デファクトスタンダードを握ることで他者を征していくのです。

 もちろん、こうした知識人からの支配を嫌う者、あるいは自分の邪悪な欲望のためにそれを利用することしか考えない者もいます(それゆえ、20世紀以降、世界は科学と支配者の相克の時代にもなりました)。その筆頭はインテリを“粛清”し、ルイセンコ等の御用学者を重用したスターリン、あるいは疑似科学的にアーリア民族の優秀性を唱えたヒトラー、そしてコロナウィルス蔓延の状況にほとんど対応できない政治家たちがあげられるでしょう。彼らは生態学者エド・リケッツが気づいたように“みんな真実を憎んでいる”のです。

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 その一方で、アンシクロペディストにとって思いもよらぬ悪夢でしょうが、世界を系統づけようとする試みは、一方で、あからさまでかつ無自覚な差別を生み出してきた側面がないわけではありません。

 まずあげられるのは、“標準化されていないもの(物と者)”への軽蔑である。命名・分類された近代科学が賞揚される一方で、いかにも不確かであいまいな民族科学は蔑まれる。人類学者たちが“野生の思考(レヴィ=ストロース、1976)”を称揚したとしても、たいていは近代科学による“再発見/再評価”を必要です。

 さらに、こちらの方が重大でしょうが、自分たちが創り出した体系から“はみ出してしまう”グレーゾーンへの嫌悪と無視が首をもたげます。こうした構図のもとに、東アフリカのインド系住民、東南アジアの中国系住民、ヨーロッパの“ユダヤ人”や“ジプシー”等の周縁的な人々はしばしば追放、虐殺されてきました。

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 さて、ディドロたちが充分意識していたように、近代科学での分類は単純な“分別”ではありません。「全体を共通性でおおきく分け、分けたものをさらにまた共通性に従って細分し、これ以上分けることのできない個体の一つ手前まで順次分けていって段階付け、体系化することをいう」ことをいいます。

 もちろん、これはたやすいことではありません。ディドロ自身もすでに百科全書の『趣意書』で、「むつかしいのはその形式と構成である。多量の素材を(略)まとまった一つの全体に仕立て上げなければならない」と記しています(ダーントン、1986)。このような努力のはてに、彼らは人間知識を一つの「知識の系統樹」にまとめ上げたのです。

 この“系統”に系統に時間軸を意識する時、そこにいやおうなく“進化”の概念が顔をのぞかせます。進化は、生物に限った現象ではありません。太陽系でも、社会でも、さらには特定の商品でも、一方向への時間の流れの中で不可逆的な変化が進むのはどこでも起こりうることです。

 その一方で、ここでもまた近代に固有の問題が首をもたげます。それは進化のイメージが“偏見”という新たな要素を付け加えがちなことです。たとえば、“遅れている”とラベル付けされた者たちは、そのラベル自体が評価となります。こうした考え方の典型が“社会ダーウィニズム”にほかなりませんが、そこでは確たる保証もなしに“進歩”、“進化”、“発展”等に好意的な価値観をふりまかれます。

 ディドロ自身は、1772年に著した『ブーガンヴィル航海記補遺』でこうした構造に対して、“高貴な野蛮人”というアンチ・テーゼを唱えているが知られています。それ以来、よーろぱ文明では“未開”について“高貴さ”と“野蛮”の二つの印象のなかを揺れ動いていきました。この点、もっとも皮肉が効いた論評はおそらく、レヴィ=ストロース(1976)の“熱い社会”と“冷たい社会”でしょう。後者の社会ではそもそも“熱い社会”の成立を避けるため、人々の間に境=ボーダーを築く企てを放棄してきたというのです。

 その一方で、ヨーロッパという“熱い社会”は大航海時代以降、パワーと“デファクトスタンダード”で“冷たい社会”を飲み込んできました。その過程こそが、ウォーラーステインの言う“世界システム”かもしれません。

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 現在、命名と分類はディドロたちの思惑を乗り越え、我々の認識の世界を完全に支配するにいたりました。ダーントンが指摘するように、つまるところ、命名とラベル付けは“力の行使”にほかなりません。つまり、命名は権力の行使なのです。

 ジャーナリストの本多勝一(1967)はカナダ・エスキモーが住む地で、英語で書かれた地図を開いた時にそれに気づきます。「地図を頼りに歩くうち、私はだんだん腹がたってきた。・・・すぐ南に“ケイプ・ジャーメン”という岬がある。・・・ところが、かれらにはケイプ・ジャーメンがわからない。よくよくきいてみると、ここは“アナンギアクジュ”だという。・・・・エスキモーはエスキモーで、先祖伝来の地名を使っているのだ。従って、かれらのいう場所を地図でさがしても、絶対にわからない。・・・たとえば日本を占領した外国が、京都をニューロンドンに」したようなものです。もちろん、これは他人事ではありません。この文章はさらに「シンガポールの昭南島、チョモルンマのエベレストもこれに類する。現地人を人間と見ていないのである」と続く。

 人類学でとくに採りあげられる問題は“自称”と“他称”です。上記本多の文章では“エスキモー”という名称が使われていますが、これは「生肉を食う連中」という意味のネイティブ・アメリカン(これも他称の“インディアン”を避ける中立的な呼称)からの蔑称まがいの他称です。“エスキモー”自身の自称は“イヌック”で、現在では“イヌイット”と言い換えるのがふつうとされています。もっとも、本田はこれは承知の上で、彼ら自身が平気で「エスキモー」と使うので、この名称を用いたと断っています。

 同じように、南部アフリカに“Bush man”と呼ばれる人たちがいます。「藪の人」といういかにも蔑称的な名称の語源は、さらに「山賊/盗賊を意味するBossiesman」だったとの説もあるそそうです(また、ジェンダー論的にも“man”にも問題があります。とはいえ、ブッシュパーソンとすれば解決するような問題でもないでしょう)。

 したがって、1970年代頃から、蔑称を避けるべく“San”と呼ばれるようになった。ところが、この“San”も自称ではないことが明らかになってきました。この言葉は、隣接する民族“コイコイ”(この人たちもふつうは白人からの他称“ホッテントット”で知られています)からの他称であり、しかも差別的ニュアンスの可能性があるというのです。その一方で、10以上の言語集団に分かれているBush man全体に当てはまる自称は存在しません(たとえば、グイ、ガナなどの集団が存在する)。したがって、植民地主義の歴史をむしろ鮮明にするためにも、彼らの総称をあえて“Bush man”とするという立場も出てきているという意見もまた盛んになっています。

 このように、こうした問題は終わりがありませんが、いずれにしても自分自身の言動と認識が絶えず問われている、ことだけは忘れてはなりません、ということでto be continuedとします。

ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part20

2020 7/1 総合政策学部の皆さんへ

 ケチャップの歴史を手繰っていったら、村井弦斎食道楽』が青空文庫に入っていることに気づきましたが、これでまた少し遊びそうです。また、青空文庫は学生の皆さんにもお薦めです。

 手始めに『食道楽』にトマトが描かれているか調べたところ、『春の巻』では以下の1か所だけです。春ならば、まだトマトの季節に及ばないのかもしれません。

赤茄子スープは夏ならば生の物、冬ならば鑵詰かんづめの物を四十分間煮てバターを交ぜ、曹達そうだを極く少し入れよく掻廻し別にスープかあるいは牛乳を沸してこの中へ注ぎ込むなり。壜詰びんづめのトマトソースを用ゆれば便利あり」(第30 万年スープ)

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 どうやら夏の巻はまだ入力されていないようなので、冬の巻を見ると、18か所にトマトが登場です。まずは、牛の臓物料理ですが、とくに「牛の脳味噌」は「牛の脳みそのミラノ風カツレツ」ではないでしょうか? 村井もよく調べたものです。また、「顔の皮」では瓶詰のトマトソースが紹介されています。

牛の脳味噌はコロッケーにもすべし。それには一旦湯煮て細かく切り固き白ソースへ混ぜ塩胡椒を加えて冷まし、それを丸めてメリケン粉をつけ玉子の黄身にてくるみパン粉をまぶして油にて揚げる。これにトマトソースをかけて食すれば一層上等なり」(第288 牛の脳味噌)

お登和嬢「顔の皮と申して頭の皮も何の皮も皆みんな食べられますが、それを最初塩でよく揉んでヌルヌルを除とってしまってよく洗って、深い鉄鍋の中へ水と一緒に入れて少し塩を加えて人参や玉葱なんぞを入れて強くない火で四時間ばかり湯煮ゆでます。そうすると皮が大層柔くなります。別の鍋でバター一杯をいためてコルンスタッチ一杯をよくいためてスープを五勺に瓶詰のトマトソースを一合加えて塩胡椒で味を付けて今の皮をその中へ入れて一時間ほど煮ますと美味しいシチューが出来ます」妻君「牛の舌はいつでもシチューに致しますが外にお料理がございますか」(第289 牛の臓物)

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 このようにトマトソースとして利用するほかは、サラダとしても、またトマトスープも紹介されています。

今は生のトマトが沢山ありますが大層味のあるものでサラダにしてもマカロニと煮ても美味おいしゅうございますがあれをスープにしても結構です。それは生の赤茄子を二つに割って絞ると種が出てしまいます。それを裏漉しにしておいて別に鍋へバターを溶かしてコルンスタッチをいためてスープを加えて混てその中へ今のトマトを入れて20分間も煮て一度漉して塩胡椒とホンの少しの砂糖とを加えて出します。実には小さく切ったパンのバターで揚げたのを入れると結構です。赤茄子は畠へ作ると沢山出来ますが食べ馴れない人は知らないで珍重しません。食べ馴れると実に美味いものです。赤茄子の中をくり抜いて胡瓜や茄子へ肉を詰めた通りに詰めてテンピで焼いても結構です。何でも最初食べ馴れない物を人に御馳走する時は不味拵えて懲々させるとモーいけません」(第225 赤茄子)

 トマトスープは「病人の食物調理法」の一つとしても登場しますが、こちらにはトマトの缶詰が紹介されています。

第四十四 トマトスープは赤茄子の事ですが生ならば二斤ほどのトマトを一つ一つ二つに割って種や汁を絞り出して水を少しも入れずに弱い火で四十分間煮ます。それでも水が出ますから水を切って裏漉しにして一合のスープへ混ぜて十分間煮て塩味の外に砂糖を小匙一杯ほど加えて出します。鑵詰の物はそのまま水を切って裏漉しにします。これには牛乳も玉子も要いりません」(付録)

 こうしてみると、『食道楽』では生・缶詰のトマトとビン詰のトマトソースとして、シチューなどの煮込み料理か、カツレツ等のソースの材料として使われているようです。

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 ちなみに、『食道楽』には「食道楽料理法索引」がちゃんと載っています(明治人は綿密ですね)。「索引は五十音に別ちたり、読者の便利の為ため正式の仮名によらず、オとヲ、イとヰ、の類るいは皆近ちかきものに入いれたり」とあります。

 その索引に登場するトマト関係は、以下の通りです。

シタフトマト(スタッフドトマトですね)   秋   第二百三十一 暑中の飲物
トマトソース                夏   第百七十五 徳用料理
トマトスープ                秋   第二百二十五 赤茄子あかなす
トマトシチュー               秋   第二百三十一 暑中の飲物
トマトスープ                冬付録 病人の食物調理法の「第四十四 トマトスープ」

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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