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19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ前篇

2020 10/21 総合政策学部の皆さんへ 19世紀での国家の誕生と消滅Part 1では東南アジアでイギリス帝国主義と現地政権との緩衝地帯に、仇花のように咲いたサラワク王国とその白人王をとりあげましたが、次はテキサス共和国、そしてハワイ王国・ハワイ共和国です。

 前者は1836~1845年、後者は1795~1893年(王国)・1893~1898年(共和国)、サラワク王国の104年余と比べてもさらに短命です。そして、いずれのケースも最終的にアメリカ合衆国に併合される道をたどります。この二つの事象をはさんで起きたことの一つは、言うまでもなく幕末・明治を経ての日本の開国なのですが、民族や国家の独立をいともたやすくもてあそぶ時代でもあった、ということだけは覚えておいた方がよいでしょう(そして、こうした“列強”に最後に追いすがろうとした日本が、その時刷り込まれた19世紀的精神のままに20世紀に入っていったことも)。

 ちなみに、安政三年(1856年)初代アメリカ駐日総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、老中堀田正睦を前に「二時間に及ぶ大演説をおこなった」ということですが、勘定奉行たちはその内容を二日間で精査して、「ハリスが、「合衆国の政府においては、地方に所領を得そうろう義は、禁じ」とアメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年と54年の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カルホルニー(カリフォルニア)を掠取る」したこと、その後、賠償金のかわりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している」とのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)。私が子供の頃は、幕府の官僚たちはひたすら無能で、外国からの圧力にそのまま押されていったというイメージで語られていたわけですが、彼らはそれなりに必死の対応を展開していたようです。

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 さて、テキサス共和国ですが、ここはもともとメキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州に属する土地でした。メキシコ独立前はスペイン領ですから、本来はアメリカの土地ではない(それどころか、本来は先住民=ネィティブ・アメリカンのとちのはずなのですが)。

 この地をめぐる争いは、結局、上記の幕府勘定奉行たちの考察に出てくるように、メキシコ戦争を引き起こし、スペインからの独立を果たしたばかりのメキシコ共和国から広大な土地を奪うきっかけになるのです。そのざっとした歴史的経緯は以下の通りです。

(1)もともとはアパッチ、アタカパ等の先住民が居住

(2)1685年、フランス貴族のラ・サールが植民地建設を意図するも失敗(しかし、以後も植民地の権利を主張)

(3)1690年、スペイン人によるテキサス入植開始。1821年までスペイン領テキサスとして統治。当時はメキシコ、カリフォルニア等を含め、ヌエバ・エスパーニャ副王領とし、1819年にアダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国と国境確定。

(4)1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなる。

(5)1823年、過疎地テキサス発展を名目に、スティーブン・オースティンがメキシコ政府と交渉、米国から300名の家族を合法的に移住(これがテクシャン/テキサンと呼ばれる)。なお、その前後はメキシコ共和国のコアウイラ・イ・テハス州とされていた。

(6)不法入国者も含めてアメリカ人人口は急増、1830年には奴隷を含む25000人以上のアメリカ人が入植、メキシコ人は4000人程度。同年、アメリカ人の移民禁止令を出すが、ほとんど無意味であった。一方、奴隷制度について廃止したメキシコ共和国側とテキサンが対立。

(7)1835年6月にテキサンが武力蜂起、10月にメキシコからの分離宣言。アラモ砦の戦いではメキシコ側が勝利するが、サンジャシントの戦いで敗北、最高権力者のサンタアナが捕虜となり、1836年5月14日にベラスコ条約によりテキサス共和国独立。

(8)1845年、テキサス共和国は自発的にアメリカ合衆国へ加盟、28番目の州としてテキサス州となる。この間、国外とはメキシコとの関係、合衆国内では奴隷制の是非による南北対立(1861年に南北戦争が勃発)等で、複雑な経緯をたどりますが、7月にテキサス共和国議会が米国との合併を承認します。

(9)その結果、今度はアメリカ合衆国とメキシコ共和国の戦争(米墨戦争)が勃発。1848年2月2日調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカ合衆国はカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを確保する代わりに(メキシコは国土の 1/3 を失う)、1825万ドルをメキシコ側に支払い、ここに(皆さんご存じのトランプ君が壁を建設しようとしている)国境がほぼ確定します。

 この一連の流れを観ていると、まったくなんということか、と慨嘆するほかありません。オースティンが“合法的”にメキシコ領テキサスに入植してからわずか25年後に、アメリカは広大な土地を手中におさめ、かつ、そこから金(いわゆるゴールドラッシュが1849年)と石油(テキサスのスピンドル油田が1901年)を見つけることになるのです。

 テキサス共和国はこうしてたった10年ほどの歴史を終えますが、結果的にせよ、アメリカ合衆国の野望の先兵・手段ともいうべき存在として機能したのかもしれません。これでは堀田正睦以下の幕閣、勘定奉行も用心するのは当たり前のことです。しかも、アメリカはさらにその“魔手”を広げます。それが“ハワイ併合”です。というところで十分長くなってしまいましたので、あとは後篇に託したいと思います。

19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

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 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

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 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

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 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

“係争地”はそもそも誰の土地であったのか?:近代化における“領土”問題

2019 4/6 総合政策学部の皆さんへ

 世の中には“係争地”がいくつもあります。これは国家とは「国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである」とする“近代国家”観からすると、隣接する国々同士のエゴのぶつかり合いから生じる必然的な副産物とも考えられます。

領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体」としての国家の使命からすれば、その周辺に「誰のものでもない土地」など、あってはならないわけですが、しかし、複数の国が同時に権利を主張することは避けられなくなります。ましては、その“係争地”に思いもかけぬ資源があったりした場合など。

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 それでは近代化前はどうか? 例をあげれば、まず、中国です。

 そもそも、近代国家前の中国には「「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だった」ので(Wikipedia「中国」)、明確な「領土」、あるいはそれを区切るための明確な国境線という概念さえ乏しく、「中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負」していました(Wikipedia「中華思想」)。

 そこでは皇帝を中心に同心円構造が成立します。そして、その最外円のさらに外はいわゆる「化外(けがい)の地」であり、そこに棲むのは蛮族にほかなりませんが、肝心の同心円自体は皇帝のによって伸びたり、縮んだりする相対的なものでした。その結果、台湾(下記参照)、チベット外モンゴルウィグルスタンなどはこの同心円の外なのか、内なのか、そもそもそんなにはっきりと区切りがつく土地なのか、問題となってきます。

 ちなみに、“外モンゴル(外蒙古)”という言葉は、言うまでもなく北京を世界の中心とした場合に、近いモンゴル=内モンゴル、遠いモンゴル=外モンゴルという序列付けを受け入れる、ということを意味します。同じように、“極東”と口走れば、それは英国外務省を中心として、そこから眺めれば日本周辺が“far east(極東)”である地理感覚だということを意味します。

 さて、中国では近代化が進むにつれて、“伝統的”地理観の曖昧さにつけこまれ、明治期に近代化に邁進する日本によって台湾出兵を起こされたり(この時、中国ははじめ台湾の先住民は「化外の民」であるとします)、膨張するロシア帝国にネルチンスク条約や愛琿条約等をむすばされることで、国境の明確化=それは多くの場合、皇帝の領土の最周辺部の喪失を繰り返すことになります。

 一方で、皇帝の徳さえ復活すれば、化外の民たる東夷(日本・朝鮮等)、西戎(西域諸国)、北狄(匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古)、南蛮(ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国)も相対的な同心円に飲み込まれていく、はずなのかもしれません。だから、西沙諸島はおろか、南沙諸島までもが中国の領土である、と主張することもあながち無理ではない、という見方もできなくはないわけです。

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 このあたりの“国境”ひいては“国家観”の曖昧さは、例えばオスマン帝国ハプスブルグ帝国にも、さらには古代ローマ帝国などの“国際帝国”にはつきものです。そして、アレクサンドロス3世チンギス・ハーン、さらにはスレイマン大帝のような権力者にとって、境界などというものは意識の中にも“存在すべきではない”存在であり、権力者の使命として絶えず境界を乗り越え、世界の果てまでも自らの領土としようという欲望に身を浸すことになります。

 もっとも、ローマ帝国も最盛期を過ぎれば、逆に“蛮族”との境目が負担となり、国境警備のための防塁(リメス)を張り巡らし、ハドリアヌスのように長城を築いたりもします。“壁”を築き、自らを守ろうとすること自体が、すでに精神の退廃、覇気の消失をあらわしているとも言えるでしょう。このあたりで、某国大統領の顔を思い出す方もいるかもしれません。

 いまさら言うまでもないことですが「かつての屈辱をはらし、近代化によって狭められたかつての境界を乗り越え、栄光の領土をとことん広げようとする者」としての現代中国の指導者習近平氏に対して、かたや「壁を築くことで、自らの崩壊しかけた精神をなんとか取り繕う」ことをめざす(もちろん、そんなことは今や不可能なのでせうが)アメリカの現大統領のトランプ氏の二人は、国境をめぐる国家観の対決を表象するまさに21世紀の象徴ともいえるでしょう。

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 この点、ソ連崩壊後に混乱したロシアをとにもかくにもなんとか持続させることだけはできたエリツェンの遺産を引き継いだプーチン氏にとっては、(1)近代的国家観としての“ロシア民族”の“境目”を定める路線にでるべきか、(2)過去の国際帝国の栄光をひきつぐべく、かつての領土奪回作成にでるべきか、なかなか立ち位置を決めるのが難しいところかもしれません。

 例えば、(1)第2次チェチェン紛争は、かつての国際帝国の支配から分離しようとする異民族(チェチェン人)を旧来のシステムの中に引きとどめようという欲望のあらわれであり、(2)クリミア半島をめぐる争いは、本来はロシア帝国固有の領土だったクリミアをソ連体制下でフルシチョフがウクライナに割譲したものを(その後の、複数の民族が入り混じる地となっていましたが)取り戻そうという願望の発露であり、(3)ウクライナ東部をめぐる衝突も、ウクライナというかつて独立した政治勢力が安定した政治権力を持てなかった広大な土地に、ロシアとしての権利をできるだけ拡大しようという欲望の発露なのです。

 それでは、この混乱を収めるにはどうすればよいか? おそらく世界の誰も解決策を思いつくことはできず、ただただ“実効支配”だけがデファクト・スタンダートとして通用する時間が過ぎるばかりかもしれません。

創られた“伝統”:それはどのように創り上げられたものなのか?

2019 3/17 総合政策学部の皆さんへ

 近年、“伝統”という言葉をよく耳にします。かつ、その場合、なんとなく“ポジティブ”=良さげな意味に使われがちです。Googleで「伝統、日本」と検索しても、「日本の伝統・文化理解教育の推進(東京都教育委員会)」、「伝統文化とは(日本伝統文化振興機構)」とありがたそうで、かつ、それなりに権威的な団体がバックに控えているがごときタイトルが並んでいます。

 あるいは、「日本伝統文化パビリオン「雅 MIYABI」が与えるインバウンド効果。出展の流れも解説します」等とあれば、“現世利益”もありそうな気配です。こうした記事での“伝統”は「日本の伝統と美意識を学び「和のこころ」を今に受け継ぐ。日々の暮らしのなかに息づく日本の伝統。“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」(日本伝統文化講座 ・ ヒューマンアカデミーHP)ということですが、そもそも本当なのか? というのが今日のお題です。

 さて、“伝統”をあらためて調べると、(歴史的に見れば)短期間で“創られてしまった”(=伝統でもなんでもない)代物や、あるいは主張には政治的意図やビジネス的欲望が潜そむものが結構目につく!! このあたりこそイギリスの慧眼な歴史学者エリック・ホブズボームテレンス・レンジャー編著の『創られた伝統』によってつとに多くの事例が指摘されているところですが、いまだに私も皆さんもだまされ続けている、という点を確認したところで、あらためて勉強しましょう。

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 例えば、上記のHPの記事にしたがって、武士道が日本の伝統文化だとすれば、戦国時代、守護大名朝倉家を支えた名将朝倉宗滴が書き残した「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」という言葉をどう捉えるべきでしょう。「犬・畜生とあざけられようとも、武士にとって勝つことが大事だ」というスーパー・リアリズムは、世間が信じ込んでいる武士道とはずいぶん異なる印象です。

 そう言えば、昔、総合政策学部にいた外国人の先生の一人は、受験生への面接で片言の日本語で、「君、ムサシ知ッテル?」と問いかけ、相手が答えると「ムサシ、卑怯ネ!」と叫んで、相手があっけにとられるのを楽しむ、という究極の隠し技を楽しんでいました。皆さんは、勝負の時刻にわざと遅れて相手をじらしたとも伝えられる(実際は、諸伝本で様々な筋書きが残されているようですが)宮本武蔵の巌流島の決闘を“卑怯”と思いますか?

 また、毛利元就の息子にあてた手紙の文章にも、「ひとえに武略、計略、調略かたの事までに候。はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」として知恵の限りを尽くすことが武将としての勤めと強調しています(ちなみに、宗滴は「また、日本に国持侍の人使の上手の手本と申すべき仁」としては今川義元や武田晴信と並べて、この元就をあげています)。

 このように武士がその職能を実際に発揮していた戦国時代、「きれいごとは言ってられない」というリアリズムに透徹していたはずの“伝統”が、太平の世にはいつのまにか変貌して、いわば“通俗道徳”の体系として「主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想」にすり替わり、さらにそれが結果としては“お家”の存続にかかわってくるはずだ、という暗黙の了解にいたる過程で(Wikipedia)、“新たな伝統”として誰も疑わなくなる、という寸法なのです。

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 それがさらに明治期になり、江戸体制的な“家”が明治民法下でさらに変貌を遂げていく。もちろん、その過程を充分に意識してみるならば、“通俗道徳”としての“武士道”の需要と普及は、なかなか興味深いリサーチの対象というべきでしょう(つまり、明治政府は江戸幕府を否定しながら、“忠孝”を旨とする“武士道”を政治的手段として必要としていた)。

 例えば、武家の英雄源義家は、後三年の役のいて「降伏してきた者を斬るべきではない」と諫める弟義光に、「降伏とは戦場から逃れて自ら出頭してくることを言う。戦場で生け捕りにされ、命乞いをする者は降伏とは言わない」と退け、命乞いする敵将を惨殺する様は、なんだか暴力団体の巨魁のような印象です。これが「“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」なのかどうか、皆さんもお考え下さい。

 ちなみに、日本一の大天狗こと後白河法皇によって編纂された今様集『梁塵秘抄』では、この義家について、
鷲の棲む深山には 並べての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや」
と詠われているそうです(川尻秋生『シリーズ日本古代史5 平安京遷都』)。この八幡太郎とは誰あろう源義家のことですが、庶民にとっては血みどろの闘いを平然とこなす恐るべき存在でありました。川尻は「武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう」と結びます。この「必要悪」が日本の“伝統”なのでしょうか?

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 さてこうした傾向が嵩じれば、民族さえも“創り上げてしまう”こととなります。その一例が東アフリカのケニア共和国での民族カレンジンです。国際開発経済学のポール・コリアーの『民主主義がアフリカ経済を殺す』の一節を紹介すると、

アフリカの民族といえば読者は、人類誕生直後の原始時代まで起源をさかのぼると想像しがちかもしれないが、カンレンジン族の歴史が始まったのは1942年だ。第2次世界大戦は北アフリカも巻き込み、英国は王立アフリカ小銃隊の徴募を、植民地の低所得地域に向けておこなった。徴募兵の最も安上がりな方法はラジオを使うことだったが、その地域には多くの方言があった。数ある方言のうち、その真ん中にあたる方言を選び、放送のはじめには注意を引くよう「みなさん、みなさん」という言葉で呼びかけた。その文句が「カレンジン、カレンジンだった」。

 まるでマンガのようなストーリーですが、このようにしてキプシギス、ナンディ、トゥゲン、ポコット、マラクェット、サバオット、テリック、ケイヨ等の小民族は「カレンジン」としてまとめられ、戦後は大民族であるキクユルオーなどと対抗するため、「カレンジン」というアイデンティティを醸成し、いつしか、政治的単位としての地歩を固めるに至るのです。

 ケニアにおいて“カレンジン”という民族を作り出してしまった英国植民地行政ですが、別の場所では、思わぬ悲劇の原因も産みます。例えば、ともに1947年まで英国植民地だったミャンマーとバングラデシュの狭間において、“ロヒンギャ”という人たちがいますが、彼らはどうやら植民地行政時代にこうした“登録”から漏れてしまったらしい。それが遠因となり、21世紀の現在、彼らは正式な記録を持たないがゆえに「民族集団、宗教団体、政治結社のいずれであるのか判明していない」(Wikipedia)とされ、きわめて厳しい立場にたたされているわけです。“民族”であると登録されていれば、立つ瀬もあったのかもしれませんが、それがなければ、どちらの国からも認められない存在になってしまう、というわけです。

 このあたりは、アラビアのロレンスの提言にもかかわらず、“砂漠の女王”ガートルード・ベルによって民族自立性を否定され、各国領土内に押し込められたクルドの人たちにも通じるものかもしれません。

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 こうして悲劇の一方で、“伝統”をひねりだすことが政治・経済・社会的に有力な手段であるとわかれば、宗教であれ、通俗哲学であれ、生活習慣であれ、新しい“伝統”をもっともらしく作り出し、それが人々の自由を縛っていく。これが“伝統”についての幻想においてもっとも“困った”ことかもしれません。とくに政治家が気軽に“伝統”を口走る時には、ひょっとしてその底意にとんでもない意図が隠されているものと疑ってもまず間違いはないところかもしれません。

「人間を動かすのはそうした“玩具”なのだ!」:ナポレオンの台詞から見る勲章と近代国家像

2018 8/19 総合政策学部の皆さんへ

 勲章と総合政策、もちろん、ちゃんと結びつきがあります、というのが7月14日に投稿した「叙勲とは何か? 勲章から見た近代国家像について」での結論でしたが、日本の勲章のモデルにもなり、近代的な勲章体系として劃期となったものがフランスのレジオン・ド・ヌール勲章です。

 実は、フランス革命期、旧体制(アンシャンレジーム)を否定する革命政府はそれまでのブルボン王朝が与えてきたすべての勲章を否定・廃止します(例えば、ルイ14世が制定した聖ルイ勲章)。「人間はみんな平等なのだから、差をつけるような表象は必要がない」というわけです。

 ところが、フランス革命の限定相続人たるナポレオン・ボナパルトは、1802年、第一統領として勲章制度の復活を提起します。「古代・現代を問わず、勲章なしでやっていけた共和国があるというなら教えてもらいたい。諸君はこれを玩具だと言うかもしれないが、さて人間を動かすのはそうした玩具なのだ」(Wikipedia)。

 フランスの辺境、ある意味、半植民地のようなコルシカ出身者(なおかつ、政治的闘争からコルシカから追放される形となっていた)ナポレオンにとって「フランスは必ずしも心の故郷ではない」という半ば第三者的目線から、自由・平等を謳いながらも心の中ではやはり「勲章=おもちゃ」をも希求するフランス人たちの本質を冷ややかに見すえていたのかもしれません。

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 それゆえ、ナポレオンの提案は「人々の間に差をつけてはいけない」という革命精神からの離脱とも受け取られ、彼のカリスマをもってしても強い抵抗にあいます。共和暦10年(1802)、国務院ではナポレオンによる圧力によって14対10でかろうじて可決。その後の護民院でも「新しい貴族の復活と、平等という革命の原則の歪曲」との反対があって56対38で通過。最終的に立法院でも166対110で可決と、常に4割前後の反対を押しのけてようやく成立します。最終的に、1804年7月14日、皇帝となったナポレオン1世から功績があった将校たちにレジオンドヌールが授与されることになります。

 おもしろいのは、こうして4割もの反対がありながら成立したレジオンドヌールが、その後は、急速にフランス人に受け入れられていく! なんと憎いナポレオンを妥当して復帰したブルボン王朝でもそのまま存続、さらに7月王制(オルレアン朝)、第2共和制第2帝政、そして第3共和制と19世紀に大きく変動したフランスの政治体制をも生き抜き、今日まで連綿と続いている。時間を超越したナポレオンの慧眼であり、“政治体制”を越えて国家からの“おもちゃ”による栄典を寿ぐ“国民”の本質を表象しています。

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 さて、そのレジオンドヌールですが、最初の拝受された者がナポレオンの部下たちだったように、佩綬者は主に軍人を想定されていました(「国家が、国のために戦った勇者を讃えよう」というわけです)。しかし、現在では軍人と市民の配分はおよそ2対1、およそ「11万人以上の佩綬者を数えるに至って」います(Wikipedia)。

 時代が経つにつれ、女性にも授与されるようになり、さらにフランス人以外も対象となります。日本人では最高位のグランクロワ(大十字、1等)は伊藤博文(1898年)など、グラン・トフィシエ(大将校、2等)を元総理大臣の中曽根康弘や元東京都知事の鈴木俊一、トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎らが受賞しているとのことです。2009年には『ベルサイユの薔薇』の作者池田理代子がシュヴァリエ(騎士、5等)を、2013年には歌舞伎の五代目坂東玉三郎がコマンドゥール(司令官、3等)を、2016年にビートたけしこと北野武が(たぶん映画監督として)オフィシエ(将校、4等)拝受しています。

 なお、大将校、司令官、将校・・・等は、この勲章がヨーロッパの伝統的勲章にならい、騎士団(ordre)への加入あるいは昇進を基本として、その徴(しるし)として騎士団の記章(décoration)の着用を許す、という設定になっているようです(なんだか、子供の遊びのようにも聞こえてきますが)。ただし、レジオンドヌールの場合、外国人へは記章の贈呈のみで、「名誉軍団」(L’ordre de la Légion d’honneur)への加入は行なわないとのことです(ちなみに、この名誉軍団総長はフランス大統領ということになっています)。

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 もちろん、レジオンドヌールを誇り高く拒否する者もいます。Wikipediaによれば、とくに芸術家が多いようです。すなわち、作家ではジョルジュ・サンド、ギ・ド・モーパッサン、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュ、画家はオノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベ、クロード・モネ、音楽家はエクトル・ベルリオーズ、モーリス・ラヴェル(もっとも、エリック・サティに「ラヴェルはレジオンドヌールを拒否したかもしれないが、ラヴェルの音楽はレジオンドヌールをすっかり受け入れてるよ」と評されてしまいます)。俳優ではブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、クラウディア・カルディナーレ。それにしても20世紀後半のフランス映画3大女優ともいうべき、BB、ドヌーブ、CCがそろって拒絶しているのは、どうしてでしょう? 一方、イザベル・アジャーニは2010年にいただいているようです。

 そのほか、写真家のナダールも謝絶しているようですが、こちらもどんな理由でしょうね? 19世紀、写真という新しい道具を駆使して、様々な有名人の肖像写真をとり、ある時は気球にのって風景を撮影しようとしたナダール(事故にもあって、同乗の奥さんが負傷したそうです)。同じ拒絶仲間のドーミエには、“写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール”(1869)という諷刺画もあるそうです。国家から、自分の被写体たちとおなじようなレベルに並べられることを拒絶したのでしょうか?

 振り返れば、ひょっとして拝受した方よりも、拒絶した方のほうが“大物”観があったりするかもしれません。

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 いずれにしても、近代日本はナショナリズム+対外的恐怖観から、先進国に肩を並べようと必死に欧米を追うのですが、その際に、対外的なコミュニケーションの手段としても(幕末、パリで薩摩藩(というより、その代理人モンブラン伯爵がその有効性を見事に証明している)勲章制度を整えざるを得なかった。そして制度がいったん作られてしまえば、その制度が拝受者とその他の人々の関係、さらには拒絶者との関係を決めていく。

 なにしろ、社会主義国家たる旧ソビエト連邦さえも、レーニン勲章赤旗勲章勝利勲章などを制定しているのですから。中華人民共和国も「中華民国を経て中華人民共和国の成立以後は2016年まで国家として勲章を制定することはなく」「スイスと並び国家級の勲章制度を施行していない時代を有していた」そうですが、どういうわけか、「2015年12月27日、12回全国人民代表大会常務委員会第十八回会議において、中国の国家勲章を制定する「中華人民共和国国家勲章と国家の栄誉称号法」を2016年1月1日から施行することが決定された」のだそうです。

 ということで、ナポレオンの至言「人間を動かすのは、そうした玩具なのだ」を、皆さんもあらためて噛みしめていただきたいと思います。

時間外労働について、甘粕元帝国陸軍大尉と残業代Part1

2018 8/5 総合政策学部の皆さんへ

 しばらく前まで国会で「働き方改革関連法案」こと正式名称「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案」が与野党の攻防の焦点になっていましたが、そこで焦点とされた“裁量労働制”にからんで、日本の近代化において、“残業/時間外労働”という言葉=概念はそもそもどんな経緯で出現したのか気になりました。

 というのも、最近、“昭和の妖怪”こと岸信介の満州時代をもう少し知りたくて、『満州と岸信介:巨魁を生んだ幻の帝国』(太田尚樹、2015、KADOKAWA)という本をひもといていると、以下の記述が目をひいたからです(この本に関する限り、白色テロリストと見なされる元帝国陸軍大尉甘粕正彦の方が、主役たるべき岸よりもよほど印象的です)。

戦後、武藤富雄甘粕の思い出を語るとき、必ず出てきたエピソードがある。昭和13年秋のことだったが、ハルピン交響楽団を新京に呼んだ折、甘粕は協和会宣伝部の仕事を兼任していた武藤に向かって、会場係に駆り出された職員に、時間外労働させましたね。きちんと手当を払っておいて下さいと念を押したそうである

 さらに、次のような記述もでてきます。

終戦の数日前、甘粕は「日本人は一日も早く、祖国再建のために内地にお帰りなさい」と周囲の人間達に告げた。そこからの行動が如何にも甘粕らしい。満州興業銀行の口座から満映の貯金600万円を強引に引き出し、古海にも頼んで総務庁から200万円出させると、満州人社員には正規の退職金、日本人社員には平等に5000円ずつ分け与えた。そのとき甘粕は「満映の施設を破壊するようなことのないように。すべて満州と中国の人々に残すのです」と指示した

 関東大震災後の混乱に乗じて、アナキスト大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに甥の甥・橘宗一の3名を拷問の末、虐殺(いわゆる甘粕事件)、その責をおって一人下獄、軍籍を失った後、軍上層部の手配によるフランス滞在を経て、満州国に流れ着き、数々の謀略に従事、「官僚ならではの狭量で潔癖にすぎる点」「ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた」(Wikipedia)とされる甘粕が、部下の残業代さらには敗戦直後の退職金にまで心を配る様は(自らは最後の指示の直後に青酸カリで自死)、甘粕に殺された大杉執筆の『大杉栄自伝(=傑作です)』が大好きな私にとってつい考え込んでしまう一文です。

 ということで、大杉栄も甘粕もまた別の機会にとっておいて、本日は残業/時間外労働についてのお話です(皆さんも、卒業後は切実な問題ですよね)。

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 さて、あらためて申すと、“残業”とは“時間外労働”であり、つまりは“労働時間”の概念から生まれたことに違いありません。それでは「使用者または監督者の下で労働に服しなければならない時間(Wikipedia)」という近代的な労働時間とは?

 その基本的理念の源泉のひとつは、合理的資本主義者の祖の一人であるベンジャミン・フランクリンの十三徳の第3条「規律:物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし」、そして第8条「勤勉:時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」に裏打ちされたものでしょう。とくに「仕事はすべて時を定めてなすべし」に基づけば、資本家と労働者があらかじめ約束した“時”を越えて労働をさせた場合、時間外手当をはらうべきである(と甘粕はめざとく気がつく)のです。

 さて、こうした時間外手当の日本での起源はどこか? たとえば、江戸時代、加賀藩の経理にあたる“御算用者”の家業に従事している藩士猪山信之家の“入払帖(家計簿)”を研究した歴史家磯田道史先生の『武士の家計簿』をひもとくと(新潮新書の50頁、71頁に天保14年の収入や支出が記されています)、残業代のようなものはとくに言及されていないようです。

 それでは、武士以外の都市生活者、いわゆる“素町人”としての給与所得者の世界はどうだったか? 江戸時代の白木屋日本橋店(現在の東急百貨店)が残した膨大な“白木屋文書(現在は東京大学経済学部図書館で保存されているそうです)”を読み解いた油井宏子氏の『江戸奉公人の心得帖』(新潮新書242)では、「奉公人たちは、いくら給金をもらっていたのでしょうか。いつ、どのように給金がしはらわれていたのでしょうか。実はこれがよくわかならいのです」とあります。

 もっとも、日本橋店に遅れて開店した富沢町店の資料では、明和6年の『定法帳』に「この店には、これまで給金の規定がなかったので、このたび定めることにした。日本橋店と相談のうえ」とあって、元服前の(田舎から呼び寄せられたばかりの)子供には給金が渡されていないが、「元服後3年目までは4両、4年目の春からは5両、買いだし役となった時には6両、支配人(支配役)給金は10両。また、退職恩賞金として23年以上勤続のヒトには50両、支配人退役の時には100両」とあるそうです。当時、奉公人は店に住み込み(=当然、独身)で食事・住居費の心配はなく、衣類は夏冬に「仕着」をいただくというシステムです。その給金は直接支給されず、お仕着せ以外の衣類や店での食事以外の飲食物等を店を通して購入することで、店から借りることで1年の給金から差し引かれる、ということだった、と油井氏は推測しています。

 このように、私のような素人が手持ちの啓蒙書の類を探しても、なかなか江戸時代の“残業代”にたどり着けません。

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 そこでちょっと専門の本を持ち出しましょう。橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)は、皆さんも大学を卒業して社会に出る前に「いかに我々は近代的時間に支配されているのか?」を一考するのに参考になる好著ですが(もう一つお薦めは、いうまでもなくミヒャエル・エンデ原作『モモ』でしょう)、その第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)に、萩藩(いわゆる長州藩です)が1789年(寛政元年)に市中の大工さんの使役について定めた掟がでてきます(=人件費について公定レートを定めているのです)。

一 上大工は一人昼働を5時として、賃金は米1升・銭184文とする。中以下はこれに応じて規定する。
二 その額を書いた札を人別に公布するので、それ以上を雇用者が支給することを禁止する。
三 昼働5時以外に夜中まで使役したり、あるいは短時間のみ使役した場合は札に書いてある額を「時割」にし、それのさらに一割増しを支給する。

 著者の森下はこの結果から、「ほぼ18世紀半ばを境にして、一日丸まる拘束されるようなあり方から、時間で労働量を測り、それに応じて賃金を支給するあり方に変わった」、「一日の労働時間がより短く算定され」「「時割」での賃金の支給(しかも割増し)もあったことも知られる」としています。ちなみに、この1789年にはベンジャミン・フランクリンはまだ存命中(なくなるのは翌1790年)、時間と仕事の関係についての近代化が、図らずも太平洋を隔てて同時に進行していたことがわかります。 (この項 to be continued・・・・・・・・)

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part3:“まつりごと”とは何か?

2018 7/28 総合政策学部の皆さんへ、とくに新入生の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版から第6章 「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書の復刻シリーズ、以下は“まつりごと”、すなわち“政策”に関する文献のご紹介です。

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 ローマ帝国から近代国家の誕生まで、ヨーロッパの政治史を楽しみながら、「国家や市民とは何か?」、「政治とはどんな芸術(ラテン語でアルテ=英語のアーツ)なのか?」を学ぶのに良い本として、イタリアの歴史家のI・モンタネッリらが執筆した『ローマの歴史』と『ルネサンスの歴史』をあげておきましょう。どちらも文庫本で読みやすく、お薦めです。きら星のような登場人物たちの中でもっとも印象的な人物は間違いなく、ローマ帝国の創設者ユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)でしょう。

来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」(ラテン語の台詞ですが、きちんと頭韻を踏んでいる点にご注意)
賽(サイ)は投げられた(Alea jacta est)

等の卓抜なキャッチ・コピーで知られるこの「怪人物」は、「共和制」が行き詰まっていたローマを(民衆の支持を得ながら!)「君主制」で立て直そうと大奮闘します。その結果は、彼自身の著作『ガリア戦記』に活写されたガリア(現在の西ヨーロッパ)征服を通じて、「普遍性」という価値観をベースにヨーロッパに君臨する一大国際帝国(ローマ帝国)として結実します。

 この古代ローマ帝国、ローマ法によって皇帝の支配下、普遍的な掟によって支配される国際帝国こそが、現在のEUの基本かもしれません。例えば、カエサルはブリテン島にも上陸しますが、その結果、ローマ帝国は5世紀まで、現在のイギリスを支配します(「だからと言って、イギリスはEU離脱をすべきでない」と主張する気はありませんが)。もっとも、現在のEUは古代ローマ帝国の支配地からかなりはみ出しています(「だからと言って、EUは拡大し過ぎて、内部に矛盾を抱え込みすぎている」と主張する気もありませんが)。

 しかし、「共和制と君主制のいずれの政体を採るべきか?」 この悩みは周囲の人々、同輩のポンペイウスとクラッスス、敵対者の小カトー、哲学者キケロ、暗殺者ブルータス等々を次々に巻き込み、ほぼ全員を非業の死に導いたにとどまらず、彼の覇業の1500年後には、本来は「共和派」であるはずの政治思想家N・マキャヴェッリに『君主論』を執筆させ、さらにはイギリスの劇作家W・シェイクスピアに政治劇『ジュリアス・シーザー』を書かせるほどです。

  • 注1)『ローマ人の物語』:『ローマの歴史』は、歴史作家塩野七生の『ローマ人の物語』にほぼ時代が重なります。同じ登場人物についての評価が、両者で微妙に異なったり、この二つを読み比べるのも楽しみです。
  • 注2)ユリウス・カエサル:古代ローマの共和政末期に活躍した政治家・軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(前100~前44年)。終身独裁官時に暗殺されたが、事実上の帝政を開始。『ガリア戦記』はガリア征服についての自筆の記録。

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 ところで、『ルネサンスの歴史』の登場人物でもあるフィレンツェのノン・キャリア官僚のマキャヴェッリは、こんな風に語ります。

「(君主は)人に恐れられるよりも愛せられる方が良いのか、反対に、愛されるよりも恐れられる方が良いのか。私は両方ともであって欲しい、と言うであろう。しかし、同一人で二人とも兼ねることは難しいから、両者のうちいずれかをえらばねばならぬとしたら、愛されるよりも恐れられる方がむしろはるかに安全であろう。それは、人間は恩知らずで、多弁で、臆病で、吝嗇であると一般にいうことができるから」(『君主論』第17章)。

 そのマキアヴェリ本人は(当時四分五裂していた)イタリア統一を実現するためにはたとえ悪魔とでも手を結ぼうという愛国者であり、一般に誤解されているような権謀術数家、いわゆる「マキャヴェリスト」ではありません。一方、彼の年下の友人、法王庁のキャリア官僚F・グィッチャルディー二が、自分の子孫のために書き残した『リコルディ』(邦訳の題名は『フィレンツェ名門貴族の処世術』)こそ、自らの「個別利害」を第一とする現実主義者(真のマキャヴェリスト)の独白と言われています。次の文章は、権力者に取り入ろうとしながらも、というよりもむしろそれゆえにこそ、権力者を冷たく見すえる彼の真骨頂です。

権勢ならぶものがなく、また賢君の誉れも比肩するもののなかったアラゴンのフェルデナンド・カトリック王が、なにか新しい仕事をやろうとしたり、あるいは非常に重要な決定を下そうとしたとき、王みずから自分の考えを公にする以前に、宮廷および人民全体が「王はまさにこれこれの事業をしなければならない」と声を大にして熱望するようにし向けていたのに、私は気付いたものである。こうして王の立場が一般に待望され要求されるようになってはじめて、自分の考えを公にしたわけである」(『リコルディC』80節)

 マキアヴェリ同様、グイッチャルディー二の台詞もまた多くの人たちに「身も蓋もない」という印象を与えるようですが、同時に、自分の時代を生きる上で多くのヒントにあふれてもいます(右の言葉も、どこかの政治家に聞かせたいものです)。同様に、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、自分のボスであるカエサルを暗殺したばかりの政治的敵対者ブルータスに敬意を表しながら、舌先三寸で民衆を扇動、形勢を一変させて、「高潔の士」ブルータスにとどめの一撃を加えるマーク・アントニーの弁論術の冴えに、観客/読者はただ感歎するほかありません。同じシェイクスピアの歴史劇『リチャード三世』もまた、政治的権力者の悪の魅力を存分にまき散らす作品です。

 こうした権力の魔力・魅力については、できればフランスの劇作家A・ジャリの『ユビュ王』、そして同じフランスのノーベル賞作家、A・カミュの戯曲『カリギュラ』等もご覧いただきたいところです。

  • 注3)マキャヴェッリ:ルネサンス期のイタリア、フィレンツェの官僚・政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ(1469~1527)。著作に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』等。現実主義的視点で政治を論じたが、しばしば権謀術数家と誤解されています。
  • 注4)グイッチアルディーニ:フィレンツェ出身の法王庁官僚・政治家・歴史家のフランチェスコ・グイッチアルディーニ(1483~1540)。教皇軍副将を勤めてから、トスカナ公国のコジモ1世に仕えるが、失脚、歴史書として『イタリア史』等を執筆。『リコルディ』は子孫に読み聞かせるために私的に書き残した処世訓の覚え書き。
  • 注5)フェルデナンド・カトリック王:アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)。カスティーリャ女王イザベル1世と結婚・共同統治、カスティーリャ王としては5世。スペインの経営に辣腕をふるい、孫のカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)に継承します。

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 それでは、我々個人はどんな生き方をすべきでしょうか? ルイ14世による絶対王政出現を目前にして、大宰相マザランに逆らってもろくも敗北したフランスの大貴族ラ・ロシュフーコー公爵は、フロンドの乱に青春のすべてを消耗しつくした自らの人生を振り返り、『箴言集』を編みます。読者の多くを不快感に誘うこの本は、まさに左の箴言で始まります。

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない

 しかし、別の日には、かつての戦友達を想ってか、彼はこうも書き記します。

友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ

『箴言集』の原題を直訳すると、『人間考察もしくは処世訓と箴言』とのことですが(『箴言集』翻訳者による解説)、この書は先ほど触れた『君主論』と並んで、人間の美徳と悪徳を論じることで、古来毀誉褒貶の的となってきた問題作なのです。

  • 注6)マザランとフロンドの乱:ジュール・マザラン(1602~1661)はイタリア生まれのフランス王国の政治家・枢機卿。幼少のルイ14世を補佐して絶対王政を確立します。フロンドの乱(1648~53)は、彼の政策に対する貴族の反乱ですが、最終的には屈服させることに成功。ロシュフコーは大貴族としての名誉を賭けてマザランに対抗するも、敗れ去るのです。

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 一方、日本の英文学者家夏目金之助は19世紀から20世紀の変わり目にロンドンに留学中、自分が研究している英文学とは何か? という疑問にとらわれ、やがて「それを考えている自分は誰か?」、そして「自分にとって日本とは何か?」に気付きます。そこで「知識の内発性」に思い至った彼は、「個人主義」に目覚めたのです。この過程で小説家夏目漱石に変身した孤独な知性は、学習院での講演記録『私の個人主義』で、明治という日本が近代化にむかって突っ走った変革期において、個人はどう生きるべきか模索した道筋を物静かに語りきかせます。

 その一方で、「近代」は否応もなく進みます。そして、その途上、ヨーロッパのプロテスタントの一部に、資本主義的精神が生じた経緯を分析したのがマックス・ヴェーバーです。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾には以下の言葉が見えます。

「(ヨーロッパの)近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つと言うべき天職理念を土台とした合理的生活態度は―この論考はこのことを証明しようとしてきたのだが―キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった」(岩波文庫版363~364頁)

 もしさらに余裕があれば、ヴェーバーが資料として使ったB・フランクリンの自伝もひもとかれると、何故、21世紀の我々が「時間」というものを絶えず意識せざるを得ないか、自問するはずです。そんな時には、M・エンデ作の「時間泥棒」が登場する物語『モモ』をあらためて読んで下さい。一方、資本主義の受容も含めて、日本の近代化について、自らの経験を飽くことなく語る福沢諭吉の『福翁自伝』もまた皆さんにお勧めです。

  • 注7)マックス・ヴェーバー:ドイツの社会学者・経済学者(1864~1920)。宗教社会学、比較文明・経済史等で大きな影響を与え続けています。他の著作に『職業としての学問』『職業としての政治』、『宗教社会学論集』等。
  • 注8)ベンジャミン・フランクリン:アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、科学者(1706~1790)。植民地時代から独立戦争にかけて、合衆国の精神的支柱になったとも言える人物。各方面に多大な貢献を残すが、その自伝はWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)の理想である勤勉、合理主義等を推奨して、ヴェーバーの経済史研究の資料となっています

叙勲とは何か? 勲章から見た近代国家像について

2018 7/14 総合政策学部の皆さんへ

 本日のテーマは“勲章”あるいは“叙勲”と、それを通して垣間見える近代国家の性格です。こんなことを考えたのも、すでに旧聞になってしまいましたが、4月29日の朝日新聞に掲載の「春の叙勲」を眺めるともなく眼を通していると(本来はあまり興味がないのですが)、外国人への叙勲の中に旭日小綬賞にアグネス・チャンさんの名前が目につきました。そして、そのお隣がなんとジェーン・バーキンなのです。

 と言っても、今の学生さんには「えっ、そもそもジェーン・バーキンとは誰?」と思うでしょう。20世紀後半、フランスで「反体制的な作風で人気を博し」、「作詞に特徴が強く、ダブル・ミーニングなどの言葉遊びを多用する。また、ときにはメタファーを使って、ときには露骨に性的な内容を語った歌詞が多い」(Wikipedia)ことで知られたフランス(両親は帝政ロシア(現ウクライナ・ハリコフ)出身のユダヤ人)の作曲家・作詞家・歌手・映画監督・俳優であったセルジュ・ゲンズブールと長年カップル(事実婚)だった女優・歌手なのですが、その彼女がよりにもよって“体制派”的な響きをともなう“勲章”を受け入れる! と感じた次第です。

 Wikipediaを調べると、バーキンは「2011年、日本の東日本大震災の発生を受けて、同年4月6日という早い段階で来日し震災支援のチャリティーコンサート」を行い、その後も震災支援を続けており、こうした活動への評価が込められているのでしょう(なお、外国籍の受賞者は外務省からの推薦とのことです)。ちなみに、“反体制”的シンボルであったセルジュ・ゲンズブールも「死後はその栄光をたたえて、ジャン=ポール・サルトル、シャルル・ボードレールなどの著名人が数多く眠るモンパルナス墓地に葬られた」そうです(Wikipedia)。

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 ジェーン・バーキンへの勲章授与という(私にとっても思いもかけない)ニュースに心ひかれて、旭日小綬賞者のリストを調べると、少し離れたところに同じフランスのシンガー・ソングライターであるシャルル・アズナールが出ています。御年なんと93歳! ちなみにアグネス・チャンさんは62歳、ジェーン・バーキンは71歳。さらに昔ロッテの監督をしていたバレンタイン監督が67歳で、関西国際空港のターミナルを設計したことで知られる建築家レンゾ・ピアノ氏は80歳での叙勲です。

 ちなみに、旭日大綬賞には、オルブライト元国務長官、ジョン・シドニー・マケイン3世(上院議員、元アメリカ海軍大佐[ちなみに祖父と曾祖父はともに海軍大将]、3世自身は北爆中に撃墜され、捕虜となった過程で重度の障害を負い、解放後、海軍を退役、政治家に転身します)、ジャン・クロード・トリシェ(元欧州中央銀行総裁)などそうそうたる顔ぶれが見えます。また、旭日重光章にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロらも含まれています。

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 それでは、日本人ではじめて勲章をいただいた方は誰か? 皆さん、わかりますか?

 翻訳家・比較文学研究者の高橋邦太郎氏による『 日本国勲章起源考』(1966)によれば、天正13年(1585)、ローマ法王シスト5世から伊東マンショら天正遣欧少年使節に贈られた金拍車騎士(Cavalieridi Sporoni d’oro)で、標章として金の頚飾と金の拍車とからなる勲章が授けられたとの嚆矢とのこと。その次の授与者は、天明2年(1782)、ロシアに流れ着いた伊勢白子浦の船頭大黒屋光太夫らで、女帝エカチェリナ2世に拝謁時に光太夫に金色の勲章が、あとの二人に銀色の勲章が授与されているそうです。

 それに対して、近代日本で“勲章”を初めて授与したのは、実に江戸幕府でも明治新政府でもなく、薩摩藩なのです。というよりも、1867年(慶応3年)のパリ万国博に江戸幕府に対抗すべく、「薩摩琉球国」で出品した薩摩藩を密かに支援したフランス貴族モンブラン伯が張本人で、「時宜的な手を打って幕府に大きな打撃を与え」るべく、「薩摩琉球国勲等”を製作し、皇帝はじめ要路の大宮へ贈進」私用としたことである。「モンブラン伯はパリの勲章師にレジョン・ドヌール勲章にかたどり、赤い五稜屋の中央に、丸に十字の島津家の紋章を白く浮かし、五稜の間に、金文字で「薩摩琉球国」と五字をはさみ、赤地に細い白条を両端に近く1本ずつ入れた綬をリボンを結んだ形でつないだ、甚だ異国趣味の横溢した勲章のもつ意義とその功用は、モンブラン伯の意図通り、非常に大きな効果をもたらした」というわけです(現在は、鹿児島の集成館に展示されているという)。

 高橋は「この勲章が皇帝以下に贈られた時は、相当なセンセーションを起した。もっとも有力なフィガロFigaro、ルタンLe Temps等の諸紙がこの記事を掲載したことでも立証することが出来る」と続けます。もちろん、これは「日本は絶対君主としての徳川将軍が治める国ではなく、ドイツと同様に各地の大名が林立する領邦国家であり、徳川家といえども一大名に過ぎない」(Wikipedia)という政治的プロパガンダとしてまことに有効な手段であったと思われます。この時、江戸幕府代表としてパリに赴いた徳川昭武一行にとっては、この「生き馬の目を抜く」ような事態にあっけにとられたようです。

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 こうした先例を踏まえば、“勲章”がたんなる「お飾り」ではなく、“国家”やそのアイデンティティに深く関わるものであり、政治的なメッセージをももつものだ(もちろん、それは勲章を拒否することさえも含んで)ということはおわかりいただけでしょう。

 この「薩摩琉球国勲等」を踏まえてか、御一新後、明治政府はまた勲章制度に着手します。それでは、薩摩琉球国勲章が範としたレジョン・ドヌール勲章について、次に紹介したいと思います(ふと気づけば、今日はパリ祭=レジョン・ドヌール勲章にも縁深きフランス革命の始まり、バスティーユ牢獄陥落の日です)。 to be continued…

植民地経営のための手段としての“植民地政策学”(続き)鉄の枕木から米糖相克まで

2018 3/20 総合政策学部の皆さんへ

 「北海道開拓の村からVer.4:植民地経営のための手段としての“植民地政策学”」の続編、テーマは「植民地経営で儲けるには?」とでもなるのでしょうか? 古代の植民地/植民都市はいざ知らず、近代的植民地への動機付けが「近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請」(Wikipedia)だとすれば、“要請”に応えるだけの利潤をあげねばならないはず、ですよね。赤字の植民地は本来あるはずがない! それが植民地経営のはずです。

 一方で、実は、植民地は金も手間もかかる。ちょと思いつくほどには、なかなか儲かるものではない・・・私がそんなことを口走るのも、1979年、はじめてのアフリカ行きで、(タンザニア中央鉄道)の終点キゴマ駅で線路を見おろすと、ふと鉄の枕木に記された「クルップ、1908」という刻印に気づき、かつてドイツがこの鉄道にどのぐらいの投資したものか! と嘆息したのを思い出すからです。

 帝国主義者カール・ペータースが先住民の首長らに「ドイツの保護を求める」契約を結んだのが1884年頃、ベルリン会議でタンガニイカ領有が認められたのが1885年、先住民による最後の大規模反乱であるマジマジ戦争が1905~1908年ですが、そのさなかの1905年に鉄道建設がスタートします。そして1252km(東北本線の2.3倍)の線路が終点のキゴマ駅までつながってようやく開業したのが第一次世界大戦勃発直前、これではドイツが投資に見合う利潤を引き出す暇もありません。

 第一次世界単線中、冷静にして過酷なドイツ軍司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍は、戦術的抵抗によって連合軍を少しでも西部戦線からアフリカに引きつけ、故国の勝利に貢献しようという優れた戦略眼のもと、敗北なき抵抗にすべてを投入しますが、それは同時にドイツ植民地行政の成果を自ら破壊することにほかならず、東アフリカは“30年戦争”の時のように荒廃します。そして、ヴェルサイユ条約の結果、すべての成果はイギリスに取り上げられてしまいます。その名残が「クルップ、1908年」の刻印というわけです。

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 とはいえ、儲かる植民地もないわけではない。その典型としてよく言及されるのが、オランダ領インドネシアで展開された“栽培制度”=日本の教科書には「強制栽培制度」として掲載されているやつです。

 オランダは19世紀初頭から苦境に直面していました。フランス革命とその限定相続人たるナポレオンによって踏みにじられ、まず、バタヴィア共和国が成立、次にナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国にされ、しまいにフランスの直轄領に併合されてしまいます(この時、オランダ王国国旗を最後まで掲げていたのが長崎出島のオランダ商館であったことは有名です)。

 幸か不幸か、ナポレオンはドーバー海峡を越えてイギリスを屈服させることができず(これは後のヒトラーも同様。ローマ帝国(クラウディヌス帝)とクヌーズ1世ギョーム1世だけが渡海によるイギリス征服を成し遂げます)、モスクワ遠征にも失敗(こちらもヒトラーも同じ結果に)、オランダ王国は主権を回復しますが、今度は豊かなベルギーが分離独立(1830年)したため、苦境にたたされます。おまけに、オランダ領東インドでも1825年にジャワ戦争等が勃発します(戦争するには、お金=軍事費がかかる)。

 この苦境を乗り切るため、「東インドに導入されたのが東インド総督ファン・デン・ボッシュによる「栽培制度」である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた」(Wikipedia)というわけです。

 この結果、オランダの経済は復活しますが、しかし、同時に植民地=東インドへの依存度が高まる(Wikipeida)。小国オランダは後のインドネシアにいわば“寄生”の状態になる。その肝心の虎の子を第2次世界大戦で日本に奪われ、やっとのことで日本が敗北したと思ったら、今度は独立してしまう、というわけです。

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 さて、日本に話を戻します。明治維新後、国土の拡大を志し、本来の領土(=つまり、内地)周辺のあいまいな周縁部を植民地化→自国領土化をねらう(=つまり、外地)。それが順番に北海道、沖縄(1872年、琉球藩設置)、千島(1875年、 樺太・千島交換条約)、台湾(1895年、下関条約)、関東州(1905年、関東庁ならびに関東軍)、樺太(1907年、樺太庁設置)、朝鮮半島(1910年、韓国併合)、南洋諸島(1920、南洋庁設置)、そして“満州”と突き進んで、あげくに、高転びにころんでしまう。

 その間、様々なことが起こるわけですが、当然、植民地経営に難題が生じる。その一つが台湾における“米糖相克”です。これは台湾で何を作らせるか? すなわち日本にとって貴重な砂糖にするか? それとも米を作らせるか? このどちらも追いかけようとすると、「米価上昇や米作地生産力向上により単位面積当たりの米作収入が増加すると、製糖業の原料(さとうきび)買収コストが上昇してしまい、利潤の低下を招くという問題である。すなわち、製糖業の利潤は米価を抑制して米作部門の生産力の停滞を保持することに基礎を置くといえるため、製糖業の利潤と米作部門の発展とは相抵触する(=トレード・オフになっている)という構造的な問題」なのだそうです。

 この背景は、言うまでもなく、日本にとっての台湾の価値をどこにおくか? はっきり言えば、何で儲けるのか? その判断ということになりますが、その際、台湾に暮らす人々の暮らしなど二の次であることはオランダ領東インドとかわりません。1898年以降の第4代総督児玉源太郎とその股肱の部下後藤新平はそれを砂糖に求めた結果、台湾製糖・大日本製糖・明治製糖・帝国製糖・塩水港製糖等の食品加工業を台湾振興の中心に据えます。そして、その原材料(サトウキビ)供給を確保するため、製糖場取締規則に基づき原料採取区域を設定します。そのため、南部中心だったサトウキビ耕作が次第に北部地域に広がり出します(和食の歴史にそくせば、これによって甘みが増して、同時に大和煮的世界が展開する、ということになるわけでしょう)。

 一方で、農民にとって、サトウキビを植えるか、米をつくるかは、(上記オランダ領東インドの強制栽培と異なり)、何を植えるかは自由裁量にまかされ、サトウキビを栽培した場合、それを上記産業資本に売ることを義務づけていました。東インドのオランダ人からみれば、笑うべき不徹底さ、あるいは植民地経営の不手際というものかもしれません(もちろん、台湾農民の目線からは別の意見も出ようとのものです)。

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 その一方で、もう一つの問題が(台湾ではなく、日本でおきます)。それは明治からの近代化による人口増大です。明治5年(1872年)の壬申戸籍での3,311万人という人口は、1920年には5,596万人に増加し、日本本土で米不足になる。そうなると、台湾に導入された新品種蓬莱米が日本本土でも商品価値を生み、そうなると台湾住民にとって、サトウキビを植えるか、米を植えるか、その時々の価格によって選択可能となり、いわばトレード・オフの状態になる。

 こうして米の価格の変動により、砂糖業界への原材料供給が影響を受け出し、精糖業界はサトウキビ確保に狂奔させられる一方、蓬莱米の“内地”輸出で、“内地”の米作まで影響を受ける。これが“米糖相克”というわけです。

 この問題は結局、米価とサトウキビ買い付け価格を連動させる「米価比準法」によって、農民の米作転換を阻止する。かつ、 日本政府は、“内地”農家保護のため、台湾米作の抑制、あるいは転作奨励に転じ、米とサトウキビというモノカルチャー型農業が次第に多角化した、というのが第2次世界大戦勃発前の台湾における植民地農政の顛末だったのです(Wikipedia「米糖相克」)。トレード・オフたるべき二つの要素を、経済政策のもとに連動させる、というわけでしょうか。

 ちなみにこの前後、台湾総督府によって奨励された作物の一つがバナナ、いわゆる台湾バナナなのですが、私の子供の頃に勃発したコレラ騒動や、フィリピンからのプランテーション生産によるバナナによって、次第に駆逐されていきます。

キプロスにとって、国王ジャック2世の嫁選び=配偶者選択は良い結果をもたらしたのか? 『ルネサンスの女たち』補遺

2018 1/20 総合政策学部の皆さんへ

 タイトルを目にして、「あの話か」と気付いた方には「西洋史の素養が十分にお持ちの方」と認定したいところですが、塩野七生の出世作『ルネサンスの女たち』の中で、もっとも主体性に乏しい印象が漂う“ベネツィア女”のカテリーナ・コルナーロにまつわるストーリーです。

 カテリーナの夫、キプロス王ジャック2世はカテリーナとの婚姻で強国ヴェネツィアからのバックアップを期待しますが、1年にも満たない新婚生活のあとで急死します。生まれた男子ジャック3世も1歳で死んだあと、カテリーナは数奇な運命に翻弄されていきます。結局のところ、キプロスはヴェネツィアに植民地として併合されるという亡国への道を歩みます。

 ところで、こうした“王様”の配偶者選択の妙手が、皆さんよくご存じのハプスブルグ家、婚姻による領土獲得に邁進し、「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」と詠われます。が、その話はあとにとっておいて・・・・

 さて、ジャック2世(1438/39/40~1473)に話を戻して、彼はキプロス王、名目上のエルサレム王、キリキア・アルメニア王(在位1464~1473)を兼ね、あだなを私生児ジャック(Jacques le bâtard)。ここからおわかりのように、先王ジャン2世が愛妾マリエット・ド・パトラに産ませた庶子です。そのためか、Wikipediaでも生年が1438~1440とはっきりしません。キリスト教社会では、嫡出子(=カトリックの教義における七つの秘蹟の一つ、婚姻の秘跡に祝福された正妻から生まれた子供)以外は、正式な相続はできない=「たてまえ」になっています。

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 この庶子は、しかし、父親ジャン2世はかわいがられます。といっても、王としてのたてまえ上、王位につけるわけにはいかず、「1456年には16歳のジャックにニコシア大司教の聖職」を授けます。「お前は俗界での出世を望めぬ以上、聖界の上位で満足してくれ」というわけです。一方で、ジャン2世の正妻エレニ・パレオロギナ(姓からわかるとおり、東ローマ皇帝パレオロガス家出身、皇帝ヨハネス8世の姪)には憎まれ、「母マリエットは王妃に鼻を削がれるなど、迫害を受けた」とのことです。まるで絵に描くような王家の家族内対立です。

 ところで、正妻エレニには嫡出子であるが、娘のシャルロット・ド・リュジニャンがいました。ジャックにとっては異母妹にあたります。ここキプロスでは、女性が王位を継げないサリカ法典があるゲルマン民族と違い、ジャン2世の死後、14歳のシャルロットが王位を継ぐことになります。しかし、その治世は「最初から困難な状況に置かれた。後ろ楯が無く幼い女性統治者の王位の正統性は、王位を狙う庶兄のニコシア大司教ジャックからの挑戦を受けた。1459年10月4日、シャルロットは従兄にあたるジュネーヴ伯ルイ・ド・サヴォワと再婚した。この縁組は、大司教派と争うシャルロット女王派への支持を約束したジェノヴァ共和国がお膳立てしたものだった」(Wikipedia)。

 しかし、「1460年、エジプト・マムルーク朝のスルタン・アシュラフ・イーナールの支援を受けた大司教ジャックの軍勢は、ファマグスタおよびニコシアの制圧に成功した。シャルロットは夫ルイとともに続く3年間、キレニア城での籠城を余儀なくされた。女王夫妻は1463年に城を出てローマに亡命し、大司教がジャック2世として王位に就いた」(Wikipedia)。ここまで出てきた外国権力は東ローマジェノバ、そしてマムルーク朝を数え、この小国キプロスがその地政学的位置によって他国の勢力のバランスの上にかろうじてなりたっていることを示唆させます。

 ということで、本日のテーマは、(1)有力国の影響に苛まされる小国の運命、(2)女性が王権をつげるかどうかという男女同権の話(法的には、サリカ法典的解釈の妥当性)、(3)嫡出子と非嫡出子の関係(財産相続と管理権)、それに(4)小国ゆえの合従連衡を図れば、どこから配偶者を迎えるかという婚姻政策もからんで、思いのほか複雑だと思っていただければ幸いです。

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 そこでジャック2世が頼ったのは、もう一つの有力国、ヴェネツィア共和国というわけです。もちろん、婚姻政策=政略結婚です。ヴェネツイアからの援助をあてこみ、1468年7月30日に14歳のヴェネツィア門閥貴族の娘カタリーナ・コルナーロと代理結婚式を挙げたあと、4年も待たせてから、1472年にキプロスのファマグスタにおいて正式の婚礼をあげます。

 このあたりの呼吸はわかりますか? 異母兄妹間の嫡出性をめぐる争いが(当然、政治と宗教と文化がからまっています)、ジェノバとヴェネツィアという当時イタリアの2大海洋王国の“代理戦争”の様態に変化していくわけです。もちろん、両海洋王国にとって、キプロスは通商上、重要な拠点になりうる。そこには、後年の“民族国家”の概念はみじんもなく、そこに生きている人たちの意思を確認する気さえない、わけです(一方に肩入れするにも、“金”がかかるわけで、当然、その見返りを考えないわけはない)。

 そして、結婚の数か月後、1473年にジャック2世はなんと急死してします。「一説によると、彼の死はヴェネツィア共和国のスパイ(おそらくカタリーナの叔父)による毒殺だった疑いがある」(Wikipedia)。あっと驚くべき展開なのですが、ジャックの死がヴェネツイアの陰謀であるかどうかは別にして、残された新婦カテリーナが妊娠中であることを奇貨として、ヴェネツィアはカテリーナの権力維持に腐心します(すでに、あわよくばこのままキプロス乗っ取りをめざしていたにちがいありません)。せっかく生まれたジャック3世ですが、こちらも戴冠して1年後に幼くして死にます。すると今度はカテリーナを女王の座につけて、陰謀をはりめぐらします。そのあたりは、是非、『ルネサンスの女たち』をご覧下さい。

 こうした一連の(昼ドラさながらの)過程を経て、カタリーナは1474~1489年にかけて女王として治めたのち、故国ヴェネツイアに王国を譲渡する形でキプロスを去ります。「2月14日に、黒いドレスをまとった女王は男爵や侍女らに付き添われつつ、馬に乗って王宮を離れた。6名の騎士が女王の騎馬の手綱をとっていた。王都ニコシアを去るときの女王の目には涙が溢れていた。すべての民草が女王との別れを惜しんで嘆き悲しんだ」(Wikipeida;原文はThe chronicle of George Boustronios, 1456-1489)。

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 よかれと思って実行した政略結婚が、かえって故国の主権を失う事態を招く。これはデーン人の侵略に耐えかねて、ノルマンディー公国との婚姻政策をすすめながら、それが1066年のノルマン・コンクエストの遠因となってしまうイングランド王エゼルレッド2世無思慮王にも比すべき政治的失敗かもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...