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19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト後篇

2021 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇に引き続いての後篇です。

 前篇では、ナポレオンのエジプト征服(そしてその後の脱出)後の混乱に乗じて、出身地や血筋さえ定かならぬ一介の傭兵隊長ムハンマド・アリーが土着のマムルーク勢力とオスマン帝国の間隙を縫って、1805年、36歳の時にエジプト支配に着手するところで終わっていますが、彼の波乱万丈の一生はその後もさらに続きます。完全なる権力掌握のためには、彼を取り巻く幾重もの重囲、多方面の敵をそれぞれ突破しなければなりません。

 まずは向背定かならぬマムルーク勢力についてかたを付けねばなりません。1811年3月11日、ムハンマドは次男のアラビア遠征軍司令官任命式にことよせて「マムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇)と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除する」ことに成功します(Wikipedia)。このあたりは、1502年12月31日、“マジョーネの反乱”において部下に裏切られて窮地に立たされながら、言葉巧みに反逆者の「4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛」、彼らが率いてきた軍隊も殲滅させて、権力保持に成功したルネサンス期の梟雄、チェーザレ・ボルジアを髣髴とさせるところです。

 当時のフィレンツィの政治家でのち歴史家となったフランチェスコ・グイチャルディーニはチェーザレについて「「裏切りと肉欲と途方も無い残忍さを持った人物」とした一方、当時のフィレンツェの国情の混乱振りとの対比で「支配者として有能であり、兵士にも愛されていた人物」と評している」(Wikipedia)とのことですが、ムハンマドにもそれに匹敵する才能(ルネサンス期ではヴィルトゥ[器量]”と呼ばれます)の持ち主であったのでしょう。

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 次は当然、ムハンマド自身の雇い主であるオスマントルコ皇帝です。ムハンマドの権力確保の時期はまたオスマン帝国の嬉々の時期でもあり、「1807年から1808年にかけてセリム3世ムスタファ4世が相次いで廃位れるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった」(Wikipedia)。ちなみに、改革者セリムと呼ばれたセリム3世は国家体制刷新を目指しますが、既存権益者の筆頭ともいうべき常備軍イエニチェリを廃止しようとして、クーデターにあい失脚します。帝国の辺境でムハンマドが目指した改革は、帝国の中央では頓挫する、その隙間の中にエジプト王国(ムハンマド・アリー朝)の基礎が据えられるわけです。

 ちなみに、改革者セリムを保守派によるクーデーターで打倒したムスタファ4世ですが、自らの権力維持のため、従兄弟にあたる廃帝セリム3世や弟のマフメットを殺そうとして(=オスマン皇帝でよく知られている兄弟殺し)、セリムを殺したもののマフjメットに逃亡され、結局、次のクーデターで打倒され、弟のマフメット3世が即位します( 1808年7月28日)。ムスタファ4世もその後、帝政安定のため、自らもマフムト2世によって殺されます。ちなみにこのマフメット2世の母親ナクシディル・スルタンは一説によると「ナポレオン・ボナパルトの最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの従妹にあたるマルティニーク出身のフランス人女性、エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリと同一人物」ともされていますが、コーカサス出身の女性という別の説もあるそうです。いずれにせよ、皇帝たちの母親は奴隷出身者が多く、その結果、皇帝たちの遺伝子は限りもなく“トルコ人”から離れていくことになるわけですが、それはまた別の話です。

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 マフメット2世はオスマン帝国再建という難事業に乗り出しますが、それは当然困難をきわめ、保守派、とくにかつては東欧諸国をあっとうしたイエニ・チェリ軍団の抵抗を受けて隠忍自重を強いられます。2代前、同じく帝国の改革をめざしたセリム3世の失脚(1807年5月)から、マフムト2世が満を持して断行にした(かつて14世紀、賢主ムラト1世によって創設されて以来、そのリクルートシステム[デヴシルメ制]も含めて抜きんでて革新的であった)旧式軍団イエニ・チェリの廃止とその反乱の鎮圧(1826年6月15日)までの時期は、あらためて言うまでもないことですが、ムハンマド・アリーが己の権力基盤を固める時期になってしまうわけです。

 1821年のワラキア蜂起以後の一連の民族蜂起に対して、「追い詰められたマフムト2世は1824年に独自の西洋化政策を進めていたエジプト総督ムハンマド・アリーにペロポネソス半島とクレタ島、そしてシリアの3つの総督の地位を彼に与えることを引き換えにして援軍の派遣を要請した。翌年派遣されたムハンマド・アリーの息子のイブラヒム・パシャは次々と反乱軍を打ち破っていき、クレタ島をも占領した」(Wikipedia)。帝国内部の民族蜂起(19世紀から今日までつづく民族問題)、そして北から圧迫するロシア、さらにイギリス、フランスの進出の板挟みにあったマフメットに対して、アリーは牙をむきます。

 「1831年、ギリシア独立戦争への参戦で大きな犠牲を払ったムハンマド・アリーが、参戦にあたってマフムト2世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議して、エジプト軍をシリアに武力侵攻させる事件が起きた(第一次エジプト・トルコ戦争)。単独でムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト2世は、ギリシア・セルビアの問題で圧迫を受けてきた相手であるロシアを頼り、エジプト問題を列強の介入によりさらに複雑化させた」(Wikipedia)。このあたりが、現在の中近東の政治情勢を産みだすきっかけともなるわけです。

 結局、「イギリスの支持を得たマフムト2世は1839年4月に満を持してエジプトとの間に戦端を開き、ムハンマド・アリーの支配する北シリアの要衝アレッポにオスマン帝国軍を向かわせた(第二次エジプト・トルコ戦争)。6月24日、オスマン帝国軍はエジプト軍によって打ち破られ、第二次エジプト・トルコ戦争もまた、ムハンマド・アリーの優位によって進もうとしていた。この悲報が届く前にマフムトは崩御した。この戦争は最終的にイギリスの介入により、1840年7月にオスマン帝国側の優位で決着するが、ムハンマド・アリーにエジプトの世襲権が認められた」(Wikipedia)。

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 こうして「世襲権」を獲得、半独立国の地位を取り付けるムハンマド・アリーですが、彼の跡継ぎたちはアリーへの対抗のためにヨーロッパ列強からの支持を取り付けたオスマン帝国ともども、関税自主権などを失い、以後、どちらも半植民地化の道を辿ります。マフメット2世崩御の1839年から数えると、オスマン帝国は6代・83年後に帝国解体に直面し、またムハンマド・アリー朝は10代・114年後に廃絶を迎えることになります。

 

「老い」を考える5:“定年”について その2

2021 7/11 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」に関連して、定年を考える、その2ですが、生活史をたどるうちにいやおうやってくるのが“仕事の終わり”です。

 例えば、先回紹介した「日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文に眼を通していると、「60歳という年齢は、一般庶民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている」とあります。要するに年取ってしまえば戦えなくなる=引退の時期がある。なんとなく納得しますね。仕事によっては、必然的に物理的能力によって、年齢の限界が規定され、それが定年的な考え方をもたらすことになるのです。

 さて、軍人の末路についてことに有名な科白に、第2次世界大戦後に日本占領統治を牛耳ったダグラス・マッカーサー元帥の退任演説における「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; They just fade away)という言葉があります。それでは、老兵はいつ“消え去る”のでしょうか?

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 ここでとっさに私の頭に浮かぶのは、古代ローマ共和制末期の「マリウスの軍制改革」です。これは「紀元前1世紀にガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた」というエポック・メーキングなできごとです。

 この改革の本質は、要するに、対外進出にともなう侵略行為の主体としての軍隊を(+キンブリ・テウトニ戦争のような外敵侵入に対処する軍隊としても)それまではローマ市民権を持つ一般市民に義務として課せられて兵役ではとてもまかないきれない現状を打破するため、マリウスが「自前で武具を賄えない貧民階級」に注目して、志願兵制度+給料支給+従軍期間の確定+退役後の報酬をセットにした制度です。つまり、ボランティア的軍隊から職業人的軍隊への転換を図る。その中に必然的に後年の定年的制度と給料+年金制度を組み込むということになります。

 ちなみに、国内の治安維持のための軍事体制から、国外への侵略的軍事体制への転換をはかり、日本政府が鎮台制から師団制へと転換するのは明治21年(1888年)5月12日のことです。師団とは「主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位」であり、この改編で「戦闘部隊の組織を整理して管理を容易にしたことで、陸軍は外征の能力を高めた。それぞれ兵站を持ち自己完結性を有する各師団は、独立して外地で作戦を遂行することができるようになった」(Wikipedia)とされます。

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 もう少し詳しく説明しましょう。マリウスの改革以前、市民による兵役では「兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属し」、「兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならず」、「必要な武具は自前で購入」ということになっていました。

 これに対して、マリウスは貧民階級に門戸を開くため、職業軍人としての待遇を整えます。それは以下の通りです。

  • 国が武具を支給=貧乏な者でも軍人になれる(=出世のチャンスをつかめる)
  • 戦闘に従事する者の給料も国が支給=家族の生活も保障
  • 従軍期間を25年とする=定年的制度
  • 退役後、兵士たちに土地を与える退職金的制度。司令官より年金を給付=年金的制度

この結果、「赤貧にあえぐ者の中で社会的な成功にわずかな望みをかけて大量の人員がマリウスのもとに走った」とされます。

 この改革自体は「単純なもので、「兵士への給料」は、従来においても「働き手を兵士に取られた農家への損失補填」として行われており、改革の前後でその金額は変わっていない。端的に言えば、徴兵制を志願制に変えただけの事である。しかしながらこの単純な改革によって、困窮した農民は兵役から解放され、無産者達は職を得る事になった(一家の働き手を取られた農家への損失補填としては不足していた金額であっても、無産者にとっては有難い収入源となった)。またこれにより、ローマ軍は今までの市民からなる軍隊から職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌を遂げる」ことになります(Wikipedia)。

 また、この軍制改革の結果生まれた軍団指導者と志願兵の関係をいわば政治的なテコとして、ローマを帝政に変化し、その結果、巨大な国際帝国ローマを作り上げて、現在のEUのベースを創造したとも言えるマリウスの義理の甥、ガーイウス・ユーリウス・カエサルの覇業に繋がっていくと言えるでしょう。

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 さて、ローマ共和国軍では従軍期間は25年ということですが、これはもちろん、歳をとると戦闘能力が次第に衰えることを考慮にいれているのでしょう。20歳で兵士になれば、45歳まで務めるということになります。なお、「退役までの5年間はベテラン軍団兵として、従事する内容を軽いものなどにしてもらい、優遇をされた」とのことです(Wikipedia「軍団兵」;なお、英語のベテランはラテン語で年老いたことを示す「Vetus」にanという接尾語をつけて、経験を積んだ古参の兵士、あるいは退役軍人を意味するようになったとのことです)。

 ちなみに、アメリカ軍では「20年以上勤務の退役直後から支給される一般公務員とは別の軍人年金」制度があります。「資料60 米国・英国・仏国軍人の退職後の処遇及び再就職管理に関する調査報告」では、「全額国庫負担であり、現在国防省の人件費の約20%、約290億ドル(約3兆3千億円、1ドル=113円で算出)が支出されている。年金の受給資格は、原則20年の勤務により発生し、退役直後から支給される。退職年金の支給額の計算については、1986年8月1日以降の入隊者については、退職前36ヶ月の基本給の平均月額×{2.5%×勤務年数-(30年-勤務年数)×1%(最高75%)}である」とのことです。

 一方、イギリス軍では「受給資格は、将校は16年、下士官は22年の勤務により発生し、支給額の最高は、退職時の基本給の48.5%である。職務や勤務地の特殊性に係わらず、一律基本給と勤務年数に基づき年金額が算定される」ということです。

 ちょっと特殊なケースでは現代の傭兵とも言えるフランス外人部隊では、「入隊資格については国籍、人種、宗教に関係なく17歳以上、40歳未満の健康な男性なら入隊可能」で、「現在入隊した隊員の場合は最低でも20年以上の勤務が条件となり、さらにこれまで除隊後すぐであった給付が60歳以上になってからの給付に変更になった。定年の年齢基準は特に無く、本人の意思がある限り何歳でも続けることができるが、現実的に60歳以上まで続ける人はほとんどいない」(Wiipedia)とのことです。

 こうしてみるとローマ共和国の昔から、20歳ぐらいで兵役につけば、20~25年程度の勤務で年金受給資格が得られるが、(将軍にでもならない限り)60歳程度までで退役する、というのが一般的と言えるでしょうか。

 なお、日本の自衛隊では「自衛隊は、精強さを保つため、若年定年制及び任期制という制度を採用しており、多くの自衛官が50歳代半ば及び30歳代半ばまでに退職することになっています。」(航空自衛隊HP)とあり、年金は(平成27年度以降は)厚生年金に加入します。

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇

2021 3/19 総合政策学部の皆さんへ

 「19世紀での国家の誕生と消滅」も3回目、今回とりあげるのはオスマン帝国の崩壊と、そこからの酷寒成立の例の一つとしてのエジプトです。

 まず、オスマン・トルコことオスマン帝国ですが、Wikipediaでは「テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国」とされ、「17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及」びます。

 そのオスマン帝国が、19世紀以降、とくに西欧諸国から蚕食され、最終的には「青年トルコ人革命」によって権力を握った“統一と進歩委員会”が第1次世界大戦において枢軸国側に身を投じるという冒険的行為に走った挙句、ロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国とともに解体されます。その結果、今日私たちが“トルコ”として知っている地域はケマル・アタテュルクによるトルコ人国民国家として生き残りを図ることになります。その間、この“新生トルコ”から外れた多数の国家が誕生することになるのです。

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 このオスマン帝国の解体、あるいは崩壊は19世紀から20世紀にかけてきわめて長い時間をかけて進行します。セルビア公国が事実上独立したのが1817年、フランスによるアルジェリア占領が1830年、ギリシャ王国誕生が1832年、ルーマニア王国ブルガリア公国独立が1878年、青年トルコ人革命のどさくさにまぎれてオーストリア・ハンガリー帝国にボスニア・ヘルツェゴビナを奪われ、クレタがギリシャに回帰、さらに1911年、イタリアがリビアを奪って植民地化と続いて、これらの逆境を一気に吹き飛ばすべく、“統一と進歩委員会”が賭けに出て、ドイツ・オーストリアと手を組んだのが1914年11月11日となります。

 ちなみにこの過程で生まれた王国には、まるで植木の移植のように、他の王国から王族がやってきたりします。つまりは、列強の優劣関係の上に、王朝の“出店”が設けられる塩梅です。例えば、初代ギリシャ王はオーストリアのヴィッテルスバッハ家のオットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハことオソン1世、初代ブルガリア大公はドイツのはバッテンベルク家出身のアレクサンダー・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルクことアレクサンダル1世、ルーマニア国王もドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家出身のカール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒことカロル1世。

 王様を異民族から“輸入”するわけですが(=もちろん、西欧列強の思惑で)、これではとても国民国家とは言えません。その中で、初代セルビア公ミロシュ・オブレノヴィッチ1世は貧農・ブタ商人あがりでナショナリズムを体現していると言えそうです。このミロッシュ1世は「統治下にセルビアをオスマン帝国内の自治公国にさせたため、セルビアが独立を回復する端緒を開き、近代セルビアの内外政策を方向づけた人物として評価されている」(Wikipedia)とのことです。

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 さてこうしたオスマン帝国解体の長い長い歴史の中で、一介の梟雄が出身地でもなんでもないエジプトを実質的な支配下におさめ、ほぼ150年(1805年 – 1953年)に渡る王朝を創設します。

 その主人公がムハンマド・アリー(1769?~1849)、激動の18~19世紀(フランス革命からナポレオン戦争を経て、アヘン戦争・米墨戦争の同時代)を生き抜いた英雄・梟雄と言うべき存在ですが、生まれはアルバニア・トルコ・イラン・クルド系説が入り乱れ(アルバニア系が主流)、要するにエジプトとは本来何のゆかりもなかった人物です。生まれた年も場所もはっきりしないのです。

 その彼がエジプトとかかわりをもつのは、ナポレオンが1798年~1801年にかけて主導したエジプト・シリア遠征がきっかけです。フランス革命とその後の混乱から立ち直ろうとするフランス総裁政府は、対イギリス牽制のため、エジプトを占領することで植民地とイギリスの結びつきを断ち切ろうというナポレオンの戦略に載ることにします。

 こうしたヨーロッパでの列強の争い、そしてフランス第一共和制での総裁政府というあやふやな政治主体内部での権力者同士の力関係等によって起こされた遠征事業が、エジプトの宗主権をもつオスマン帝国を刺激して、傭兵隊長としてのムハンマドを派遣させる。そのムハンマドが新天地に己の権力を発揮する可能性を見出し、やがてオスマン帝国に歯向かうまでに至る! まさに波乱万丈の物語とも言えるでしょう。

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 ところで、、異邦人ナポレオンにとってはエジプトとはたんなる一つの舞台に過ぎず、それが政治的戦略にとって用だたなくなれば捨て去ってもまた恥じない対象であるのに対して(1799年8月22日、ナポレオンは少数の腹心とともに秘かにエジプトを脱出、フランスでの権力獲得にまい進し、残された兵は1801年まで戦い続けますが、最終的にイギリスに降伏します)、もう一人の異邦人ムハンマドはそこに自らの活躍の場を見出します。おまけに、実質的なエジプトの支配者、マムルークたちはナポレオンに粉砕されたばかりです。

 実を言えば、このマムルークたちも「イスラム世界に存在した奴隷身分出身の軍人」であり、ムハンマド君の大先輩にあたるとも言えるわけですが、ムハンマドはナポレオンによるマムルークの妥当と、その後のフランス軍撤退といういわば政治の真空状態をつきます。Wikipediaでは「イギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた」と記されています。

 この時期、オスマン帝国の傭兵隊(アルバニア人非正規舞台)の司令官が暗殺されると、ムハンマド・アリーは土着のマムルーク勢力とオスマン帝国を巧みに操って、自らの権力の確保に猛進します。宗教指導者であるウラマーから新総督へ推挙されるのが1805年、ナポレオンの脱出から5年、ムハンマド36歳です。ちなみに、その前年フランス皇帝になったナポレオンはムハンマドとほぼ同じ1869年生まれで、戴冠時35歳。ちなみに、ナポレオンは46歳の時にワーテルローの戦いで全権力を失いますが、ムハンマドは英仏に掣肘されながらも80歳までエジプトを支配し、長男イブラーヒーム・パシャに権力を遺します。、

と、いうところで、この項 to be continuedとしましょう。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ後篇

2020年12月12日 総合政策学部の皆さんへ 前篇では1836~1845年という(歴史的にみれば)きわめて短期間だけ存在したテキサス共和国をめぐる(=同時に、アメリカ合衆国が旧スペイン領メキシコの実に3分の1の領土を蚕食する)歴史を紹介しましたが、次はハワイについてのお話です。

 さて、皆さんはハワイの歴史はどのぐらいご存じでしょうか? ハワイ諸島に先住民が何時たどり着いたのかについては、どうやらはっきりした証拠がなさそうで、紀元4~8世紀頃と推定されているそうです。無文字文化のために記録された“歴史”がないわけです(もちろん、記録がないからと言って、そこの人々の歴史がないわけではありません。そのあたりはちゃんと自覚して下さいね)。

 記録として残るのは、ヨーロッパ人がハワイ諸島にたどり着いた1778年、イギリスのキャプテン・クック指揮下による第3回航海の時でした。「クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した」(Wikipedia)。命名=その土地の“発見”者が名前を付けて、それが植民地支配のためのこの上もない理由となる=大航海時代から帝国主義にいたる時代につきもののエピソードです。

ちなみにこの時のサンドウィッチ伯は第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューで、「博打好きで、ゲームの最中にも食べることができるサンドウィッチを発明した」という都市伝説的エピソードが伝わっています。なお、初代サンドウィッチ伯は1660年の王政復古に貢献したエドワード・モンギューで、サミュエル・ピープスの『自伝』にも登場することで知られています。

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 次に、皆さんにはハワイ王国の成り立ちにもご関心をもっていただければと思います。ハワイ王国とは、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王;1758~ 1819)がつくりあげた統一王朝で、彼の子孫によって約1世紀統治されます。

 さて、Wikipediaにはカメハメハ1世の事績として「叔父の死後、その長男のキワラオを倒して島内を掌握すると、イギリスから武器や軍事顧問などの援助を受け、マウイ島やオアフ島など周辺の島々を征服していった。政敵が火山の噴火や外敵などにより壊滅状態になったことも統一に幸いした。18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ1世は火器と火薬の調達にいそしみ、火器の使用法や管理法に習熟した白人の顧問を迎え入れた。1804年には、600挺のマスケット銃、14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型臼砲を保有するに至った」。このように「カメハメハは優れた外交手腕でイギリスやアメリカ合衆国などの西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なその文化の保護と繁栄に貢献した」(Wikipedia)とあります。カメハメハによる王国の宣言は1795年(フランス革命と同時期です)、全土統一が1810年でした。

 おわかりになりますか? 外部世界の接触により、そこからの最新兵器や体制をいち早く導入し、革新的な軍事力によって周辺を統一、近代的軍事国家を作る。実は、このパターンは17~19世紀にかけて世界各地で勃発します。例えば、イギリスからの支援によって1827年にはマダガスカルのほぼ3分の2を支配するメリナ王朝のラダマ1世(あたかもマダガスカルの織田信長という塩梅です)、17世紀西アフリカの交易ルート転換期にあって、ヨーロッパ人との奴隷貿易によって奴隷と兵器の交易によって、軍事国家化し周辺諸民族を支配したアシャンティ王国、あるいはアシャンティと同様に奴隷貿易で栄えるダホメ王国です。

 「(ダホメ王国では)歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった」(Wikipedia)

 もちろん、ここで比較歴史学のセンスがある方は、これはひょっとして極東の小国=黒船来航後の日本も同じ立場だったのか、と思い至るくかもしれません。世界システムの中で、周辺部の地域には様々な政治的可能性が提示されるのですが、先進的なテクノロジーの導入による軍事国家化と、周辺地域への進出というモデルです。

 もちろん、このモデルにはさらにオチがあり、世界システムのさらなる進出はメリナ王朝アシャンティ王国ダホメ王国等をひとしく植民地化の大波に飲み込んでいくところです。江戸幕閣たちにはそうした雰囲気もまたひしひしと感じていたことでしょう。

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 話が拡散しすぎないように、とりあえずハワイに戻りましょう。このハワイ王国ははじめ白檀を経済的基盤とします(この白檀はヨーロッパ人の手により中国に輸出されたそうです;吉澤誠一郎『清朝と近代世界』)。しかし、白檀の枯渇とともに、次第にサトウキビなどのプランテーション経営が始まり、経営者=アメリカ合衆国の資本家への経済的従属が強まり、同時に清朝そして(開国後の)日本からの労働者の導入が進みます。つまり、先住民が次第に少数派になっていくわけです。

 この過程で、第5代の国王カメハメハ5世が後継者を残さず、1872年に逝去、遠縁のルナリロ王が選挙によってえらばれますが、わずか1年あまりの在位の後死亡します。その結果、第7代国王に就任したカラカウア王は、次第に増してくるアメリカ人の影響を低減すべく、1874年にワシントンに赴き、当時のグラント大統領と会談、ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせます。王はさらに1881年に世界一周をおこない、日本と中国を訪問、とくに中国では当時の実力者李鴻章とも会談、ヨーロッパ人の脅威に対抗するためアジアが連帯することが重要だと説いたとのことです。

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 しかし、アメリカ系移民からの圧力は続き、1887年には逆にクーデターをおこされ、退位あるいはアメリカ合衆国への併合を求められ、交換条件として新憲法(銃剣憲法)を飲むことで、実質的な権力を失うのです。彼は1891年過度の飲酒が遠因となり、妹のリリウオカラニ(『アロハ・オエ』等の作曲者)を後継者に指名します。彼女はハワイ人からの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出して否決されます。その後は、あっという間の展開になります。

 1月16日、米国公使は自国民保護を口実にアメリカ海兵隊を上陸させ宮殿を包囲、翌17日に共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言します(Wikipeida「ハワイ併合」。これには当時、王国の独立を支持していた日本政府は、こちらも邦人保護の名目で軍艦を送るなど、不快感を表明します。かつ、米国政府もこの「革命」が不法なものであると認めるのですが、ハワイ臨時政府はこれを内政干渉として突っぱねた。このあたり、大国が用いる「自国民保護」とアメリカ系ハワイ人がつかう「内政干渉」の口実の使い分けなどは、ペリー来航の折、対応した幕府官僚が感じた恐れが如実に実現したものとみなすべきかもしれません。

 その後の紆余曲折、1894年7月4日の臨時政府による共和国独立宣言、女王リリウオカラニの逮捕(反乱の首謀者容疑)、1月22日の逮捕者との引き換えによる女王廃位の署名の強制などで、ハワイ王国は滅亡します。最終的に、このハワイ共和国は独立後わずか4年の1898年に米国に併合されてしまいます。このあたり、テキサス共和国をめぐる経緯とも通じますが、思えば帝国主義時代に対応することでアメリカ人の政治的テクニックも随分と向上していたとも言えるのかもしれません。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ前篇

2020 10/21 総合政策学部の皆さんへ 19世紀での国家の誕生と消滅Part 1では東南アジアでイギリス帝国主義と現地政権との緩衝地帯に、仇花のように咲いたサラワク王国とその白人王をとりあげましたが、次はテキサス共和国、そしてハワイ王国・ハワイ共和国です。

 前者は1836~1845年、後者は1795~1893年(王国)・1893~1898年(共和国)、サラワク王国の104年余と比べてもさらに短命です。そして、いずれのケースも最終的にアメリカ合衆国に併合される道をたどります。この二つの事象をはさんで起きたことの一つは、言うまでもなく幕末・明治を経ての日本の開国なのですが、民族や国家の独立をいともたやすくもてあそぶ時代でもあった、ということだけは覚えておいた方がよいでしょう(そして、こうした“列強”に最後に追いすがろうとした日本が、その時刷り込まれた19世紀的精神のままに20世紀に入っていったことも)。

 ちなみに、安政三年(1856年)初代アメリカ駐日総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、老中堀田正睦を前に「二時間に及ぶ大演説をおこなった」ということですが、勘定奉行たちはその内容を二日間で精査して、「ハリスが、「合衆国の政府においては、地方に所領を得そうろう義は、禁じ」とアメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年と54年の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カルホルニー(カリフォルニア)を掠取る」したこと、その後、賠償金のかわりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している」とのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)。私が子供の頃は、幕府の官僚たちはひたすら無能で、外国からの圧力にそのまま押されていったというイメージで語られていたわけですが、彼らはそれなりに必死の対応を展開していたようです。

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 さて、テキサス共和国ですが、ここはもともとメキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州に属する土地でした。メキシコ独立前はスペイン領ですから、本来はアメリカの土地ではない(それどころか、本来は先住民=ネィティブ・アメリカンのとちのはずなのですが)。

 この地をめぐる争いは、結局、上記の幕府勘定奉行たちの考察に出てくるように、メキシコ戦争を引き起こし、スペインからの独立を果たしたばかりのメキシコ共和国から広大な土地を奪うきっかけになるのです。そのざっとした歴史的経緯は以下の通りです。

(1)もともとはアパッチ、アタカパ等の先住民が居住

(2)1685年、フランス貴族のラ・サールが植民地建設を意図するも失敗(しかし、以後も植民地の権利を主張)

(3)1690年、スペイン人によるテキサス入植開始。1821年までスペイン領テキサスとして統治。当時はメキシコ、カリフォルニア等を含め、ヌエバ・エスパーニャ副王領とし、1819年にアダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国と国境確定。

(4)1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなる。

(5)1823年、過疎地テキサス発展を名目に、スティーブン・オースティンがメキシコ政府と交渉、米国から300名の家族を合法的に移住(これがテクシャン/テキサンと呼ばれる)。なお、その前後はメキシコ共和国のコアウイラ・イ・テハス州とされていた。

(6)不法入国者も含めてアメリカ人人口は急増、1830年には奴隷を含む25000人以上のアメリカ人が入植、メキシコ人は4000人程度。同年、アメリカ人の移民禁止令を出すが、ほとんど無意味であった。一方、奴隷制度について廃止したメキシコ共和国側とテキサンが対立。

(7)1835年6月にテキサンが武力蜂起、10月にメキシコからの分離宣言。アラモ砦の戦いではメキシコ側が勝利するが、サンジャシントの戦いで敗北、最高権力者のサンタアナが捕虜となり、1836年5月14日にベラスコ条約によりテキサス共和国独立。

(8)1845年、テキサス共和国は自発的にアメリカ合衆国へ加盟、28番目の州としてテキサス州となる。この間、国外とはメキシコとの関係、合衆国内では奴隷制の是非による南北対立(1861年に南北戦争が勃発)等で、複雑な経緯をたどりますが、7月にテキサス共和国議会が米国との合併を承認します。

(9)その結果、今度はアメリカ合衆国とメキシコ共和国の戦争(米墨戦争)が勃発。1848年2月2日調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカ合衆国はカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを確保する代わりに(メキシコは国土の 1/3 を失う)、1825万ドルをメキシコ側に支払い、ここに(皆さんご存じのトランプ君が壁を建設しようとしている)国境がほぼ確定します。

 この一連の流れを観ていると、まったくなんということか、と慨嘆するほかありません。オースティンが“合法的”にメキシコ領テキサスに入植してからわずか25年後に、アメリカは広大な土地を手中におさめ、かつ、そこから金(いわゆるゴールドラッシュが1849年)と石油(テキサスのスピンドル油田が1901年)を見つけることになるのです。

 テキサス共和国はこうしてたった10年ほどの歴史を終えますが、結果的にせよ、アメリカ合衆国の野望の先兵・手段ともいうべき存在として機能したのかもしれません。これでは堀田正睦以下の幕閣、勘定奉行も用心するのは当たり前のことです。しかも、アメリカはさらにその“魔手”を広げます。それが“ハワイ併合”です。というところで十分長くなってしまいましたので、あとは後篇に託したいと思います。

19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

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 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

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 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

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 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

“係争地”はそもそも誰の土地であったのか?:近代化における“領土”問題

2019 4/6 総合政策学部の皆さんへ

 世の中には“係争地”がいくつもあります。これは国家とは「国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである」とする“近代国家”観からすると、隣接する国々同士のエゴのぶつかり合いから生じる必然的な副産物とも考えられます。

領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体」としての国家の使命からすれば、その周辺に「誰のものでもない土地」など、あってはならないわけですが、しかし、複数の国が同時に権利を主張することは避けられなくなります。ましては、その“係争地”に思いもかけぬ資源があったりした場合など。

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 それでは近代化前はどうか? 例をあげれば、まず、中国です。

 そもそも、近代国家前の中国には「「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だった」ので(Wikipedia「中国」)、明確な「領土」、あるいはそれを区切るための明確な国境線という概念さえ乏しく、「中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負」していました(Wikipedia「中華思想」)。

 そこでは皇帝を中心に同心円構造が成立します。そして、その最外円のさらに外はいわゆる「化外(けがい)の地」であり、そこに棲むのは蛮族にほかなりませんが、肝心の同心円自体は皇帝のによって伸びたり、縮んだりする相対的なものでした。その結果、台湾(下記参照)、チベット外モンゴルウィグルスタンなどはこの同心円の外なのか、内なのか、そもそもそんなにはっきりと区切りがつく土地なのか、問題となってきます。

 ちなみに、“外モンゴル(外蒙古)”という言葉は、言うまでもなく北京を世界の中心とした場合に、近いモンゴル=内モンゴル、遠いモンゴル=外モンゴルという序列付けを受け入れる、ということを意味します。同じように、“極東”と口走れば、それは英国外務省を中心として、そこから眺めれば日本周辺が“far east(極東)”である地理感覚だということを意味します。

 さて、中国では近代化が進むにつれて、“伝統的”地理観の曖昧さにつけこまれ、明治期に近代化に邁進する日本によって台湾出兵を起こされたり(この時、中国ははじめ台湾の先住民は「化外の民」であるとします)、膨張するロシア帝国にネルチンスク条約や愛琿条約等をむすばされることで、国境の明確化=それは多くの場合、皇帝の領土の最周辺部の喪失を繰り返すことになります。

 一方で、皇帝の徳さえ復活すれば、化外の民たる東夷(日本・朝鮮等)、西戎(西域諸国)、北狄(匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古)、南蛮(ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国)も相対的な同心円に飲み込まれていく、はずなのかもしれません。だから、西沙諸島はおろか、南沙諸島までもが中国の領土である、と主張することもあながち無理ではない、という見方もできなくはないわけです。

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 このあたりの“国境”ひいては“国家観”の曖昧さは、例えばオスマン帝国ハプスブルグ帝国にも、さらには古代ローマ帝国などの“国際帝国”にはつきものです。そして、アレクサンドロス3世チンギス・ハーン、さらにはスレイマン大帝のような権力者にとって、境界などというものは意識の中にも“存在すべきではない”存在であり、権力者の使命として絶えず境界を乗り越え、世界の果てまでも自らの領土としようという欲望に身を浸すことになります。

 もっとも、ローマ帝国も最盛期を過ぎれば、逆に“蛮族”との境目が負担となり、国境警備のための防塁(リメス)を張り巡らし、ハドリアヌスのように長城を築いたりもします。“壁”を築き、自らを守ろうとすること自体が、すでに精神の退廃、覇気の消失をあらわしているとも言えるでしょう。このあたりで、某国大統領の顔を思い出す方もいるかもしれません。

 いまさら言うまでもないことですが「かつての屈辱をはらし、近代化によって狭められたかつての境界を乗り越え、栄光の領土をとことん広げようとする者」としての現代中国の指導者習近平氏に対して、かたや「壁を築くことで、自らの崩壊しかけた精神をなんとか取り繕う」ことをめざす(もちろん、そんなことは今や不可能なのでせうが)アメリカの現大統領のトランプ氏の二人は、国境をめぐる国家観の対決を表象するまさに21世紀の象徴ともいえるでしょう。

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 この点、ソ連崩壊後に混乱したロシアをとにもかくにもなんとか持続させることだけはできたエリツェンの遺産を引き継いだプーチン氏にとっては、(1)近代的国家観としての“ロシア民族”の“境目”を定める路線にでるべきか、(2)過去の国際帝国の栄光をひきつぐべく、かつての領土奪回作成にでるべきか、なかなか立ち位置を決めるのが難しいところかもしれません。

 例えば、(1)第2次チェチェン紛争は、かつての国際帝国の支配から分離しようとする異民族(チェチェン人)を旧来のシステムの中に引きとどめようという欲望のあらわれであり、(2)クリミア半島をめぐる争いは、本来はロシア帝国固有の領土だったクリミアをソ連体制下でフルシチョフがウクライナに割譲したものを(その後の、複数の民族が入り混じる地となっていましたが)取り戻そうという願望の発露であり、(3)ウクライナ東部をめぐる衝突も、ウクライナというかつて独立した政治勢力が安定した政治権力を持てなかった広大な土地に、ロシアとしての権利をできるだけ拡大しようという欲望の発露なのです。

 それでは、この混乱を収めるにはどうすればよいか? おそらく世界の誰も解決策を思いつくことはできず、ただただ“実効支配”だけがデファクト・スタンダートとして通用する時間が過ぎるばかりかもしれません。

創られた“伝統”:それはどのように創り上げられたものなのか?

2019 3/17 総合政策学部の皆さんへ

 近年、“伝統”という言葉をよく耳にします。かつ、その場合、なんとなく“ポジティブ”=良さげな意味に使われがちです。Googleで「伝統、日本」と検索しても、「日本の伝統・文化理解教育の推進(東京都教育委員会)」、「伝統文化とは(日本伝統文化振興機構)」とありがたそうで、かつ、それなりに権威的な団体がバックに控えているがごときタイトルが並んでいます。

 あるいは、「日本伝統文化パビリオン「雅 MIYABI」が与えるインバウンド効果。出展の流れも解説します」等とあれば、“現世利益”もありそうな気配です。こうした記事での“伝統”は「日本の伝統と美意識を学び「和のこころ」を今に受け継ぐ。日々の暮らしのなかに息づく日本の伝統。“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」(日本伝統文化講座 ・ ヒューマンアカデミーHP)ということですが、そもそも本当なのか? というのが今日のお題です。

 さて、“伝統”をあらためて調べると、(歴史的に見れば)短期間で“創られてしまった”(=伝統でもなんでもない)代物や、あるいは主張には政治的意図やビジネス的欲望が潜そむものが結構目につく!! このあたりこそイギリスの慧眼な歴史学者エリック・ホブズボームテレンス・レンジャー編著の『創られた伝統』によってつとに多くの事例が指摘されているところですが、いまだに私も皆さんもだまされ続けている、という点を確認したところで、あらためて勉強しましょう。

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 例えば、上記のHPの記事にしたがって、武士道が日本の伝統文化だとすれば、戦国時代、守護大名朝倉家を支えた名将朝倉宗滴が書き残した「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」という言葉をどう捉えるべきでしょう。「犬・畜生とあざけられようとも、武士にとって勝つことが大事だ」というスーパー・リアリズムは、世間が信じ込んでいる武士道とはずいぶん異なる印象です。

 そう言えば、昔、総合政策学部にいた外国人の先生の一人は、受験生への面接で片言の日本語で、「君、ムサシ知ッテル?」と問いかけ、相手が答えると「ムサシ、卑怯ネ!」と叫んで、相手があっけにとられるのを楽しむ、という究極の隠し技を楽しんでいました。皆さんは、勝負の時刻にわざと遅れて相手をじらしたとも伝えられる(実際は、諸伝本で様々な筋書きが残されているようですが)宮本武蔵の巌流島の決闘を“卑怯”と思いますか?

 また、毛利元就の息子にあてた手紙の文章にも、「ひとえに武略、計略、調略かたの事までに候。はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」として知恵の限りを尽くすことが武将としての勤めと強調しています(ちなみに、宗滴は「また、日本に国持侍の人使の上手の手本と申すべき仁」としては今川義元や武田晴信と並べて、この元就をあげています)。

 このように武士がその職能を実際に発揮していた戦国時代、「きれいごとは言ってられない」というリアリズムに透徹していたはずの“伝統”が、太平の世にはいつのまにか変貌して、いわば“通俗道徳”の体系として「主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想」にすり替わり、さらにそれが結果としては“お家”の存続にかかわってくるはずだ、という暗黙の了解にいたる過程で(Wikipedia)、“新たな伝統”として誰も疑わなくなる、という寸法なのです。

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 それがさらに明治期になり、江戸体制的な“家”が明治民法下でさらに変貌を遂げていく。もちろん、その過程を充分に意識してみるならば、“通俗道徳”としての“武士道”の需要と普及は、なかなか興味深いリサーチの対象というべきでしょう(つまり、明治政府は江戸幕府を否定しながら、“忠孝”を旨とする“武士道”を政治的手段として必要としていた)。

 例えば、武家の英雄源義家は、後三年の役のいて「降伏してきた者を斬るべきではない」と諫める弟義光に、「降伏とは戦場から逃れて自ら出頭してくることを言う。戦場で生け捕りにされ、命乞いをする者は降伏とは言わない」と退け、命乞いする敵将を惨殺する様は、なんだか暴力団体の巨魁のような印象です。これが「“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」なのかどうか、皆さんもお考え下さい。

 ちなみに、日本一の大天狗こと後白河法皇によって編纂された今様集『梁塵秘抄』では、この義家について、
鷲の棲む深山には 並べての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや」
と詠われているそうです(川尻秋生『シリーズ日本古代史5 平安京遷都』)。この八幡太郎とは誰あろう源義家のことですが、庶民にとっては血みどろの闘いを平然とこなす恐るべき存在でありました。川尻は「武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう」と結びます。この「必要悪」が日本の“伝統”なのでしょうか?

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 さてこうした傾向が嵩じれば、民族さえも“創り上げてしまう”こととなります。その一例が東アフリカのケニア共和国での民族カレンジンです。国際開発経済学のポール・コリアーの『民主主義がアフリカ経済を殺す』の一節を紹介すると、

アフリカの民族といえば読者は、人類誕生直後の原始時代まで起源をさかのぼると想像しがちかもしれないが、カンレンジン族の歴史が始まったのは1942年だ。第2次世界大戦は北アフリカも巻き込み、英国は王立アフリカ小銃隊の徴募を、植民地の低所得地域に向けておこなった。徴募兵の最も安上がりな方法はラジオを使うことだったが、その地域には多くの方言があった。数ある方言のうち、その真ん中にあたる方言を選び、放送のはじめには注意を引くよう「みなさん、みなさん」という言葉で呼びかけた。その文句が「カレンジン、カレンジンだった」。

 まるでマンガのようなストーリーですが、このようにしてキプシギス、ナンディ、トゥゲン、ポコット、マラクェット、サバオット、テリック、ケイヨ等の小民族は「カレンジン」としてまとめられ、戦後は大民族であるキクユルオーなどと対抗するため、「カレンジン」というアイデンティティを醸成し、いつしか、政治的単位としての地歩を固めるに至るのです。

 ケニアにおいて“カレンジン”という民族を作り出してしまった英国植民地行政ですが、別の場所では、思わぬ悲劇の原因も産みます。例えば、ともに1947年まで英国植民地だったミャンマーとバングラデシュの狭間において、“ロヒンギャ”という人たちがいますが、彼らはどうやら植民地行政時代にこうした“登録”から漏れてしまったらしい。それが遠因となり、21世紀の現在、彼らは正式な記録を持たないがゆえに「民族集団、宗教団体、政治結社のいずれであるのか判明していない」(Wikipedia)とされ、きわめて厳しい立場にたたされているわけです。“民族”であると登録されていれば、立つ瀬もあったのかもしれませんが、それがなければ、どちらの国からも認められない存在になってしまう、というわけです。

 このあたりは、アラビアのロレンスの提言にもかかわらず、“砂漠の女王”ガートルード・ベルによって民族自立性を否定され、各国領土内に押し込められたクルドの人たちにも通じるものかもしれません。

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 こうして悲劇の一方で、“伝統”をひねりだすことが政治・経済・社会的に有力な手段であるとわかれば、宗教であれ、通俗哲学であれ、生活習慣であれ、新しい“伝統”をもっともらしく作り出し、それが人々の自由を縛っていく。これが“伝統”についての幻想においてもっとも“困った”ことかもしれません。とくに政治家が気軽に“伝統”を口走る時には、ひょっとしてその底意にとんでもない意図が隠されているものと疑ってもまず間違いはないところかもしれません。

「人間を動かすのはそうした“玩具”なのだ!」:ナポレオンの台詞から見る勲章と近代国家像

2018 8/19 総合政策学部の皆さんへ

 勲章と総合政策、もちろん、ちゃんと結びつきがあります、というのが7月14日に投稿した「叙勲とは何か? 勲章から見た近代国家像について」での結論でしたが、日本の勲章のモデルにもなり、近代的な勲章体系として劃期となったものがフランスのレジオン・ド・ヌール勲章です。

 実は、フランス革命期、旧体制(アンシャンレジーム)を否定する革命政府はそれまでのブルボン王朝が与えてきたすべての勲章を否定・廃止します(例えば、ルイ14世が制定した聖ルイ勲章)。「人間はみんな平等なのだから、差をつけるような表象は必要がない」というわけです。

 ところが、フランス革命の限定相続人たるナポレオン・ボナパルトは、1802年、第一統領として勲章制度の復活を提起します。「古代・現代を問わず、勲章なしでやっていけた共和国があるというなら教えてもらいたい。諸君はこれを玩具だと言うかもしれないが、さて人間を動かすのはそうした玩具なのだ」(Wikipedia)。

 フランスの辺境、ある意味、半植民地のようなコルシカ出身者(なおかつ、政治的闘争からコルシカから追放される形となっていた)ナポレオンにとって「フランスは必ずしも心の故郷ではない」という半ば第三者的目線から、自由・平等を謳いながらも心の中ではやはり「勲章=おもちゃ」をも希求するフランス人たちの本質を冷ややかに見すえていたのかもしれません。

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 それゆえ、ナポレオンの提案は「人々の間に差をつけてはいけない」という革命精神からの離脱とも受け取られ、彼のカリスマをもってしても強い抵抗にあいます。共和暦10年(1802)、国務院ではナポレオンによる圧力によって14対10でかろうじて可決。その後の護民院でも「新しい貴族の復活と、平等という革命の原則の歪曲」との反対があって56対38で通過。最終的に立法院でも166対110で可決と、常に4割前後の反対を押しのけてようやく成立します。最終的に、1804年7月14日、皇帝となったナポレオン1世から功績があった将校たちにレジオンドヌールが授与されることになります。

 おもしろいのは、こうして4割もの反対がありながら成立したレジオンドヌールが、その後は、急速にフランス人に受け入れられていく! なんと憎いナポレオンを妥当して復帰したブルボン王朝でもそのまま存続、さらに7月王制(オルレアン朝)、第2共和制第2帝政、そして第3共和制と19世紀に大きく変動したフランスの政治体制をも生き抜き、今日まで連綿と続いている。時間を超越したナポレオンの慧眼であり、“政治体制”を越えて国家からの“おもちゃ”による栄典を寿ぐ“国民”の本質を表象しています。

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 さて、そのレジオンドヌールですが、最初の拝受された者がナポレオンの部下たちだったように、佩綬者は主に軍人を想定されていました(「国家が、国のために戦った勇者を讃えよう」というわけです)。しかし、現在では軍人と市民の配分はおよそ2対1、およそ「11万人以上の佩綬者を数えるに至って」います(Wikipedia)。

 時代が経つにつれ、女性にも授与されるようになり、さらにフランス人以外も対象となります。日本人では最高位のグランクロワ(大十字、1等)は伊藤博文(1898年)など、グラン・トフィシエ(大将校、2等)を元総理大臣の中曽根康弘や元東京都知事の鈴木俊一、トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎らが受賞しているとのことです。2009年には『ベルサイユの薔薇』の作者池田理代子がシュヴァリエ(騎士、5等)を、2013年には歌舞伎の五代目坂東玉三郎がコマンドゥール(司令官、3等)を、2016年にビートたけしこと北野武が(たぶん映画監督として)オフィシエ(将校、4等)拝受しています。

 なお、大将校、司令官、将校・・・等は、この勲章がヨーロッパの伝統的勲章にならい、騎士団(ordre)への加入あるいは昇進を基本として、その徴(しるし)として騎士団の記章(décoration)の着用を許す、という設定になっているようです(なんだか、子供の遊びのようにも聞こえてきますが)。ただし、レジオンドヌールの場合、外国人へは記章の贈呈のみで、「名誉軍団」(L’ordre de la Légion d’honneur)への加入は行なわないとのことです(ちなみに、この名誉軍団総長はフランス大統領ということになっています)。

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 もちろん、レジオンドヌールを誇り高く拒否する者もいます。Wikipediaによれば、とくに芸術家が多いようです。すなわち、作家ではジョルジュ・サンド、ギ・ド・モーパッサン、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュ、画家はオノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベ、クロード・モネ、音楽家はエクトル・ベルリオーズ、モーリス・ラヴェル(もっとも、エリック・サティに「ラヴェルはレジオンドヌールを拒否したかもしれないが、ラヴェルの音楽はレジオンドヌールをすっかり受け入れてるよ」と評されてしまいます)。俳優ではブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、クラウディア・カルディナーレ。それにしても20世紀後半のフランス映画3大女優ともいうべき、BB、ドヌーブ、CCがそろって拒絶しているのは、どうしてでしょう? 一方、イザベル・アジャーニは2010年にいただいているようです。

 そのほか、写真家のナダールも謝絶しているようですが、こちらもどんな理由でしょうね? 19世紀、写真という新しい道具を駆使して、様々な有名人の肖像写真をとり、ある時は気球にのって風景を撮影しようとしたナダール(事故にもあって、同乗の奥さんが負傷したそうです)。同じ拒絶仲間のドーミエには、“写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール”(1869)という諷刺画もあるそうです。国家から、自分の被写体たちとおなじようなレベルに並べられることを拒絶したのでしょうか?

 振り返れば、ひょっとして拝受した方よりも、拒絶した方のほうが“大物”観があったりするかもしれません。

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 いずれにしても、近代日本はナショナリズム+対外的恐怖観から、先進国に肩を並べようと必死に欧米を追うのですが、その際に、対外的なコミュニケーションの手段としても(幕末、パリで薩摩藩(というより、その代理人モンブラン伯爵がその有効性を見事に証明している)勲章制度を整えざるを得なかった。そして制度がいったん作られてしまえば、その制度が拝受者とその他の人々の関係、さらには拒絶者との関係を決めていく。

 なにしろ、社会主義国家たる旧ソビエト連邦さえも、レーニン勲章赤旗勲章勝利勲章などを制定しているのですから。中華人民共和国も「中華民国を経て中華人民共和国の成立以後は2016年まで国家として勲章を制定することはなく」「スイスと並び国家級の勲章制度を施行していない時代を有していた」そうですが、どういうわけか、「2015年12月27日、12回全国人民代表大会常務委員会第十八回会議において、中国の国家勲章を制定する「中華人民共和国国家勲章と国家の栄誉称号法」を2016年1月1日から施行することが決定された」のだそうです。

 ということで、ナポレオンの至言「人間を動かすのは、そうした玩具なのだ」を、皆さんもあらためて噛みしめていただきたいと思います。

時間外労働について、甘粕元帝国陸軍大尉と残業代Part1

2018 8/5 総合政策学部の皆さんへ

 しばらく前まで国会で「働き方改革関連法案」こと正式名称「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案」が与野党の攻防の焦点になっていましたが、そこで焦点とされた“裁量労働制”にからんで、日本の近代化において、“残業/時間外労働”という言葉=概念はそもそもどんな経緯で出現したのか気になりました。

 というのも、最近、“昭和の妖怪”こと岸信介の満州時代をもう少し知りたくて、『満州と岸信介:巨魁を生んだ幻の帝国』(太田尚樹、2015、KADOKAWA)という本をひもといていると、以下の記述が目をひいたからです(この本に関する限り、白色テロリストと見なされる元帝国陸軍大尉甘粕正彦の方が、主役たるべき岸よりもよほど印象的です)。

戦後、武藤富雄甘粕の思い出を語るとき、必ず出てきたエピソードがある。昭和13年秋のことだったが、ハルピン交響楽団を新京に呼んだ折、甘粕は協和会宣伝部の仕事を兼任していた武藤に向かって、会場係に駆り出された職員に、時間外労働させましたね。きちんと手当を払っておいて下さいと念を押したそうである

 さらに、次のような記述もでてきます。

終戦の数日前、甘粕は「日本人は一日も早く、祖国再建のために内地にお帰りなさい」と周囲の人間達に告げた。そこからの行動が如何にも甘粕らしい。満州興業銀行の口座から満映の貯金600万円を強引に引き出し、古海にも頼んで総務庁から200万円出させると、満州人社員には正規の退職金、日本人社員には平等に5000円ずつ分け与えた。そのとき甘粕は「満映の施設を破壊するようなことのないように。すべて満州と中国の人々に残すのです」と指示した

 関東大震災後の混乱に乗じて、アナキスト大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに甥の甥・橘宗一の3名を拷問の末、虐殺(いわゆる甘粕事件)、その責をおって一人下獄、軍籍を失った後、軍上層部の手配によるフランス滞在を経て、満州国に流れ着き、数々の謀略に従事、「官僚ならではの狭量で潔癖にすぎる点」「ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた」(Wikipedia)とされる甘粕が、部下の残業代さらには敗戦直後の退職金にまで心を配る様は(自らは最後の指示の直後に青酸カリで自死)、甘粕に殺された大杉執筆の『大杉栄自伝(=傑作です)』が大好きな私にとってつい考え込んでしまう一文です。

 ということで、大杉栄も甘粕もまた別の機会にとっておいて、本日は残業/時間外労働についてのお話です(皆さんも、卒業後は切実な問題ですよね)。

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 さて、あらためて申すと、“残業”とは“時間外労働”であり、つまりは“労働時間”の概念から生まれたことに違いありません。それでは「使用者または監督者の下で労働に服しなければならない時間(Wikipedia)」という近代的な労働時間とは?

 その基本的理念の源泉のひとつは、合理的資本主義者の祖の一人であるベンジャミン・フランクリンの十三徳の第3条「規律:物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし」、そして第8条「勤勉:時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」に裏打ちされたものでしょう。とくに「仕事はすべて時を定めてなすべし」に基づけば、資本家と労働者があらかじめ約束した“時”を越えて労働をさせた場合、時間外手当をはらうべきである(と甘粕はめざとく気がつく)のです。

 さて、こうした時間外手当の日本での起源はどこか? たとえば、江戸時代、加賀藩の経理にあたる“御算用者”の家業に従事している藩士猪山信之家の“入払帖(家計簿)”を研究した歴史家磯田道史先生の『武士の家計簿』をひもとくと(新潮新書の50頁、71頁に天保14年の収入や支出が記されています)、残業代のようなものはとくに言及されていないようです。

 それでは、武士以外の都市生活者、いわゆる“素町人”としての給与所得者の世界はどうだったか? 江戸時代の白木屋日本橋店(現在の東急百貨店)が残した膨大な“白木屋文書(現在は東京大学経済学部図書館で保存されているそうです)”を読み解いた油井宏子氏の『江戸奉公人の心得帖』(新潮新書242)では、「奉公人たちは、いくら給金をもらっていたのでしょうか。いつ、どのように給金がしはらわれていたのでしょうか。実はこれがよくわかならいのです」とあります。

 もっとも、日本橋店に遅れて開店した富沢町店の資料では、明和6年の『定法帳』に「この店には、これまで給金の規定がなかったので、このたび定めることにした。日本橋店と相談のうえ」とあって、元服前の(田舎から呼び寄せられたばかりの)子供には給金が渡されていないが、「元服後3年目までは4両、4年目の春からは5両、買いだし役となった時には6両、支配人(支配役)給金は10両。また、退職恩賞金として23年以上勤続のヒトには50両、支配人退役の時には100両」とあるそうです。当時、奉公人は店に住み込み(=当然、独身)で食事・住居費の心配はなく、衣類は夏冬に「仕着」をいただくというシステムです。その給金は直接支給されず、お仕着せ以外の衣類や店での食事以外の飲食物等を店を通して購入することで、店から借りることで1年の給金から差し引かれる、ということだった、と油井氏は推測しています。

 このように、私のような素人が手持ちの啓蒙書の類を探しても、なかなか江戸時代の“残業代”にたどり着けません。

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 そこでちょっと専門の本を持ち出しましょう。橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)は、皆さんも大学を卒業して社会に出る前に「いかに我々は近代的時間に支配されているのか?」を一考するのに参考になる好著ですが(もう一つお薦めは、いうまでもなくミヒャエル・エンデ原作『モモ』でしょう)、その第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)に、萩藩(いわゆる長州藩です)が1789年(寛政元年)に市中の大工さんの使役について定めた掟がでてきます(=人件費について公定レートを定めているのです)。

一 上大工は一人昼働を5時として、賃金は米1升・銭184文とする。中以下はこれに応じて規定する。
二 その額を書いた札を人別に公布するので、それ以上を雇用者が支給することを禁止する。
三 昼働5時以外に夜中まで使役したり、あるいは短時間のみ使役した場合は札に書いてある額を「時割」にし、それのさらに一割増しを支給する。

 著者の森下はこの結果から、「ほぼ18世紀半ばを境にして、一日丸まる拘束されるようなあり方から、時間で労働量を測り、それに応じて賃金を支給するあり方に変わった」、「一日の労働時間がより短く算定され」「「時割」での賃金の支給(しかも割増し)もあったことも知られる」としています。ちなみに、この1789年にはベンジャミン・フランクリンはまだ存命中(なくなるのは翌1790年)、時間と仕事の関係についての近代化が、図らずも太平洋を隔てて同時に進行していたことがわかります。 (この項 to be continued・・・・・・・・)

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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