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“戦病死”の人類学#1:戦場の帝国陸軍には歯科医がいなかった

2019 3/2 総合政策学部の皆さんへ

 “戦病死”という言葉がありますが、これは文字通り、「従軍中に病死すること」(広辞苑第5版)です。つまり、戦争しながら兵士は病にかかることもある。当たり前のことです。

 例えば、私の父親は第2次世界大戦に従軍中に戦地でマラリアに罹患したらしく、帰国後何年かはその後遺症が出たようです。とくに、いわゆる感染症は人が密集すればするほど、爆発的に流行しやすくなる。軍隊などはその典型ではないでしょうか(ついでに言ってしまえば、家畜を密集させて飼養することもまた同様で、養鶏における鳥インフルエンザ、養豚における豚コレラなどが想起されます)。

 さらに、近代に進むにつれて、兵士たちはもともと住んでいた場所から遠く離れた異国(=異環境)に遠征することも珍しくなくなる(明治初期、西南戦争などのような内戦や他国からの侵略などへの対外的防衛のために設置された鎮台が、外征戦争に対応するための師団に編成替えになります!)。すると、外地で免疫をもたない感染症に罹患すれば、現地の人よりも重症になってしまう。これもまたヒューマンエコロジーの知識さえあれば、すぐにでも考え付くことです。

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 さて、近代化に邁進すべく日本が最初に遭遇した大規模な外征戦争、いわゆる台湾征伐(この名称からして大時代的で、現在では台湾出兵となっていますが)、対象たる先住民パイワンの人たちの戦死者が30名に対して、日本軍3600名で戦死6名、負傷者30名、しかしマラリアに罹患する者が多く、561名が病死します。つまり、6人に一人が戦病死してしまう。さらにその後の長期駐屯で「出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病する」(Wikipedia)という結果に陥ります。

 さらに感染症に加えて慣れない気候や、兵站の失敗による飢えなど、外征戦争に駆り出された将兵には戦う前に死ぬ者もあらわれます。例えば、ナポレオン戦争における1812年ロシア戦役では、ナポレオン率いる大陸軍68.5万人のうち、38万人が死亡しますが、戦闘よりもロシアの冬将軍による凍傷や、クトゥーゾフ将軍らが展開した焦土戦術による餓えで死亡、壊滅します。

 このように、実際の“戦死”(広辞苑第5版では「戦闘で死ぬこと。うちじに」)よりも、戦病死やその他、様々な形の氏が戦争に決定的な要因になりうることを、皆さんも覚えておいた方がよいでしょう。

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 その戦病死が大きくクローズアップされたのが、ナポレオンのロシアからの敗退から40年後のクリミア戦争です。この戦争では、戦死者1.7万人に対して、戦病死者数が10万人を越えます。ここまで行けば、病気に対応しないと戦争に勝てない、ということが明らかになってくる。

 クリミア戦役中、この課題に取り組んだのがフロレンス・ナイチンゲールにほかなりません。不衛生な兵舎病院を改善、環境を整えようとする彼女は、なんと縦割り行政から軍医らによって妨害されます(不思議ですね。患者が早く回復することで兵站上の負担を減らす。あるいは、回復後闘いに復帰することで、戦争に勝つかもしれない。それを妨害するというのは“利敵行為”そのものです=とはいえ、官僚機構による縦割り行政とは洋の東西を問いません)。ナイチンゲールは自分の主張を通すため、現状をアピールするためのグラフも改良、医療統計学の始祖となります。

 そのクリミア戦争から10年もたたないうちに勃発したアメリカの南北戦争では、戦死者20万人に対して、戦病死者数は56万人を越えたということです。ちなみにこの頃のアメリカ合衆国の人口は北部2200万人、南部900万人とのことですから計3100万人(これは当時の日本の人口とだいたい同等か)、そのうち、市民もふくめると70~90万人が死亡したことになります。乱暴に言えば、約30人に一人が死んだわけです。

 戦争の近代化により、徴兵制による大量動員、新型兵器による大量殺戮、これがやがて第一次世界大戦での長期総力戦による大量殺戮につながりますが、同時それはさらにそれをうわまわる戦病死あるいは事故死をともなう。これでは戦争の遂行さえ難しくなってしまう。

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 そこで、話を帝国陸軍に戻すのですが、吉田裕『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書2465)によれば、日中戦争に突入した際に、長期による総力戦にまきこまれながら、日本陸軍には正式の歯科医療者がおらず、嘱託医しかいませんでした。そのため、「戦線にある将兵が非常に多くの齲歯(虫歯)を持っている」が、「前線の野戦病院に歯科医が配属されることは無かった」というのです。『野戦歯科治療の現況報告』という文書には、「これで長期戦に入った現在、体力に自信をおけるであろうか、大いに疑問である」と記されているとのころです。

 このため、1940年に陸軍歯科医将校制度が(まさに泥縄式に)創設されたとは言え、ある兵士は「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった。万一、虫歯で痛むときは、患部にクレオソート丸(正露丸)をつぶして埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治である」と回想しています。捕虜への尋問や、ろ獲した文書を分析した連合軍はこの事実に気づくや、「日本陸軍の歯科医療の水準は、連合軍より劣っている」「日本陸軍は連合軍ほど歯科の観点から部隊の健康に注意を払っていない」と報告したそうです。これでは短期戦ならともかく、帝国陸軍が長期戦/総力戦に耐えられるわけはない、と言うべきでしょう。「戦う前に、すでに“お前は死んでいる”」というような状況になりかねない。

 現在の日常生活では当たり前に存在している“歯科”さえも、戦場ではどうなるかわからない。それを考慮にいれてこそ、近代戦を戦う能力が身につくものだ、というのが現実の世界なのです。

保守と革新:“革新官僚”とは誰のことか?

2018 9/29 総合政策学部の皆様へ

 最近、「自民党や維新の会は新しいことをやろうとしているので“革新”では?」、そして「共産党などは現状を守ろうとするので“保守”では?」という話題がささやかれているとのことですが(「「自民党こそリベラルで革新的」——20代の「保守・リベラル」観はこんなに変わってきている」https://www.businessinsider.jp/post-106486)、ことほどさように我々は、“保守”だとか、“革新”だと、あるいは“リベラル”等という、自分たちが使っている言葉の意味をあまり深く考えもせず、発していることが多いようです。

 というのも、かつて(今から80年ほど前には)、“革新官僚”と言えば、「1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時統制経済の実現を図った官僚層のことをさす。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった」(Wikipedia)だったわけで、大陸に対する軍事的傾斜を支えるべく、かつ万一、英、米、ソ連との総力戦に突入した場合に備え、国家体制を整えることに邁進することこそ“革新官僚”だったわけです。その点では“革新”というは“相対的”評価であり、「現状と異なることにもっていきたい」ぐらいの意味でしかないかもしれません。問題は「どの方向に、現状を変えたいのか?」ということにほかならないはずなのですが。

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 それはさておき、昭和初期、つまり日中戦争から第2次世界大戦に突入しようという時期、どなたがその“革新官僚”の筆頭だったかと言えば、なにを隠そう、安部現首相の祖父、岸信介こそ、その巨魁にほかなりません。そして彼らは来るべき世界大戦で予想される総力戦に突入すべく、国家総動員のモデルとしたのが「ソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した」(Wikipedia)とされています。

 こうした流れをめざとくも読みとったのは、このブログでしばしば触れてきた阪急の実質的創設者にして、関学の上ヶ原移転でお世話になった小林一三(当時、近衛内閣の商工大臣)にほかならず、「あれはアカの発想である。役人の間にアカがいる」と主張、企画院事件によって部下の商工省事務次官の岸の首をとりますが、その後、自らも辞任に追い込まれます。

 さて、その「国家総動員」と「5ヵ年計画」の関係については、岸自身に語ってもらいましょう(出典は『岸信介の回想』講談社学術文庫版)。

岸:(ソ連の第一次5ヵ年を)初めて知った時には、ある程度のショックを受けましたね。今までわれわれのなじんでいる自由経済とはまったく違うものだし、目標を定めて、それを達成しようという意欲というか考え方に脅威を感じたことを覚えている。しかし果たしてああいうものが計画どおりにゆくものかどうかということに対しては、一つの疑問はもっていた。(こちらも革新官僚である)吉野さんはなどははっきりしていて、こんなものはできるはずがない、と吐き捨てるように言っていた。
矢次食事をする会だったかで、吉野さんはロシアの第一次五ヵ年計画を知って、ソ連は恐るに足りない、成功する可能性はない。しかしこれを俺にやらせてくれれば、必ず大成功させてみるがねと言っていたことがある(笑)。

 この吉野の豪語こそは、“官僚”としての矜持というものでしょう。そして、統制経済とは、当時の常識からすればまさに“革新”的発想だったわけです。とは言え、「ソ連恐るに足らず」とは官僚として判断力不足だったかもしれません(そのあたりは、例えば、第2次世界大戦時のソ連の戦車T-34と、日本軍の最新の主力戦車としての一式中戦車を比較すれば歴然としています)。

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 さて、こうした事情を見ると、Wikipediaに“革新官僚”としてリストアップされた方々の、戦中から戦後にかけての履歴=末路はにわかに濃い陰影を帯びてきます。例えば、以下の方々は戦後になるといわゆる左派=社会主義者系として活動しており、「アカの思想だ」と喝破した逸翁こと小林一三の予言通りと言えなくもありません。

和田博雄:第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で経済安定本部総務長官、物価庁長官、左派社会党政策審議会長・書記長、日本社会党政策審議会長・国際局長・副委員長
勝間田清一:1947年に社会党から立候補して衆議院議員当選、のち日本社会党委員長
帆足計:1947年、東京都選挙区から無所属で参議院議員立候補、当選。のち社会党から衆議院議員

 一方、同じ“革新官僚”ながら、自民党に続く保守政党に属し、1946年に国家総動員法が廃止されるもそののちのいわゆる1955年体制をになった方々としては、
岸信介(商工省時代は、下記吉野の部下、そして椎名の上司)
吉野信次:公職追放後、参院当選、鳩山内閣の運輸大臣。大正デモクラシーで著明な吉野作造の弟。
椎名悦三郎:商工次官から、戦後は自民党代議士、内閣官房長官、通商産業大臣、外務大臣等。
高村坂彦:衆院議員から徳山市長を経て、再び衆院議員(元外務大臣の高村正彦は4男)

 さらに、戦争から敗戦を経て、不幸な道筋(暗殺あるいは挫折)をたどった者として、

永田鉄山:陸軍省軍務局長(陸軍少将)在任中、統制派と皇道派の抗争で相沢三郎陸軍中佐に暗殺されます。
白鳥敏夫:イタリア大使として三国同盟締結にかかわるも、敗戦後、A級戦犯として指定を受けた。巣鴨拘置所に終身禁固刑の判決が下るも、病死。

 こうしてみると、人生のある時期、“革新”という言葉でくくられても、その行く末は定かならず、様々な道行きがあるというべきかもしれません。その岸ですが、実は、東京裁判での(結局不起訴とはなるにせよ)A級戦犯被疑者から釈放されたのち、いったんは日本社会党に入党しようとします(党内からの反対で、結局、自由党に入党)。このあたりも“革新”者がこれからの道筋を選ぼうとする際の迷いのようなものを感じさせないわけでもありません。

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 さて、戦前に資本主義リベラリストの小林一三が「アカ」だと評した革新官僚の一人、正木千冬は戦後の回想で「ナチスの社会経済機構なんか研究してみたり、経済統制を強化するという線で提言してみたり、いまになってみれば本当に左翼的な立場で戦争を批判していたのか、あのような資本主義の生ぬるい戦争経済じゃ駄目だから、もっと戦時統制を強化しようという促進のほうに向いていたか、はっきりしません」と漏らします。

 そして、「統制経済というのは、一歩ひっくり返せば社会主義経済に繋がりますからね」との質問に、「そう、その時分、紙一重です。迫水(迫水久常)にしても毛里(毛里英於菟)にしても、その時分の革新官僚の連中は、ほとんど紙一重ですよ。ナチス的とも言えるし、社会主義的とも言えるし、真からの資本主義を信仰していないという点で言えば、彼らもアカだったと言えるでしょう。私もそこにいたんです」と回想しているとのこと(Wikipedia)。

 しかし、こちらの方の議論でも、統制経済/計画経済はあえなくアメリカ合衆国の“資本主義”に圧倒されてしまうわけです(そのあたりは、森本忠夫『マクロ経済から見た太平洋戦争』[PHP新書]をご覧下さい)。

 こうした経緯を振り返れば、皆さんも、“保守”vs.“革新”だとか、“右翼”vs.“左翼”などのレッテル貼りを簡単に信じてはいけない、と思いませんか?

新入生へ、リサーチで重要なこと#3:パーカー・パイン氏に「統計」を学ぶ、あるいは日本人は誰に殺されるのか?

2018 8/22 総合政策学部の皆さんへ

 キャンパスは今日から事務室が夏季休暇明けですが、以前、「統計学の奨めPart3:“賭博”と“確率論”+高畑ゼミの100冊番外編」でご紹介した、アガサ・クリスティが想像した数々のキャラの中でも、たぶん日本人に一番しられていない方、パーカー・パイン氏をご紹介しましょう。ほら、ロンドンの朝刊一面の片隅に、個人広告「あなたは幸せ? でないのならパーカー・パイン氏に相談を。リッチモンド街17 (Are you happy? If not consult Mr Parker Pyne, 17 Richmond Street」(乾進一郎訳『パーカー・パイン登場ハヤカワ・ミステリ文庫版)と掲載するパーカー・パイン氏です。この方の決めぜりふが「(あなたのお悩みを解決するのに役立つものこそ)統計です」。

 さて、皆さんは入学後、やたらに“統計”に悩まされているかもしれないからです。とは言え、統計は本来は「面白い」学問です! そして、これからグローバリズム時代、統計はビジネスや政策の必須項目として、教養(リベラル・アーツ)の一つとも言える存在です。ちなみに、中世ヨーロッパで為政者が身に付けるべき教養=リベラル・アーツは3学(文法学・修辞学・論理学)、4科(算術、幾何、天文学、音楽)です。昔から、“数学”ができなければ教養人ではない! ということをまず自覚しましょう。

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 さて、パイン氏は上記個人広告にひかれて訪れる客の説明を聞くと、おもむろに「あなたの問題はこれですか?」と指摘します。「一体どうしてそんなことがあなたにわかるのですか?」と戸惑う客に、「わたしの仕事は知るということなんですよ。なにしろ、私の人生の35年間を私はある官庁で統計収集の仕事をしておったんですから。退職した今、私は思いついたんですが、身についた経験を新しい形で使ってやろうと。それはまことに簡単です。不幸は5大群に分類できます・・・・それ以上はない、絶対に。ひとたび病根がわかりさえすれば、治療は不可能ではありません

 医学でも、生物学でも、経済・経営学でも同様です。問題を「知る」→「収集する」→「分類する」→「体系化する」→「個々のカテゴリーについて、その基本原因を探る」→「対策を考える」→「処置をほどこす」。その流れにのっとり、パイン氏は続けます「私は医師の役を務めます。医師はまず患者の悪いところを診断して、それから手当の指導忠告へと進みます。中にはどんな手当も役に立たないような病状もあります。そのような場合には、私には何もできないと率直に申し上げます

 短篇『不満軍人の事件』の中で、パイン氏は断言します「私ははっきり申しますが、いわゆる英帝国建設者の退役した人たちの96%が、不幸せなんですよ。そういう人たちは、活気ある生活、責任一杯の生活、危険があるかもしれない生活を、いったい何と引き換えにしたか? 狭められた収入、うっとうしい機構、そして全体としては陸に上がった魚のような感じですね」「あなたのいっていることはみんな本当だ

 パイン氏のセリフを、(英帝国建設者たちに抑圧された)非欧米世界の先住民の方々が聞いたら、どう感じるのか? という点は、この際とりあえず置いておきましょう。皆さんに感じ取っていただきたいのは、相手を分析・説得する時に、“統計”がまたとない“道具”になるということだけです。

 そして、パイン氏は依頼を躊躇う顧客について、スタッフにつぶやきます。「誰でもみんな、自分の事情は他にないものぐらいにおもっとるんだから、おもしろいよ」。そう、統計を使えば、みんなある程度“似てくる”。 こうして「私のケースは他と違う」という思い込みは厳しくも否定され、パイン氏によって「あなたのケースはここに分類され、このカテゴリーにはこんな解決法があるかもしれません」という提案をいただくことになるのです。

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 ところで、パイン氏の主張、「不幸は5大群に分類」とか「英帝国建設者の退役した人たちの96%が、不幸せ」が正しい指摘かどうかは、この際、別の問題です。こうした数値は、実際にはきちんと調査=データ収集・分類・体系化をしなければいけませんから。

 と言っても、統計数値を実際に自分で「調査」するとなると、個人ではなかなか難しい。学生さんではさらに至難の業かもしれません。いきおい、すでに公表されているきちんとした統計データを引用するのが一番です。もっとも、最近は様々な統計がWebでアクセスできる。ただし、信頼できる統計となると限られているので、政府の統計か、国連統計等を使って下さい。

 ということで、問題です。「日本における殺人事件において、被害者と被疑者はどんな関係にあることが多いのか、ぱっと答えられますか?そのためには犯罪統計というものがある。皆さんもすぐにアクセスできます。警察庁HPの犯罪統計から「平成28年の犯罪」(https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/h28/h28hanzaitoukei.htm)の付表「56 罪種別 被疑者と被害者との関係別 検挙件数」 (H28_056.xls)。

 これによると「殺人」の項目は、殺人、嬰児殺、殺人予備、自殺関与の4種類に細分されますが、殺人予備は実際の殺人にいきません。これに強盗殺人を加えると(統計上、強盗殺人は「強盗罪」に属していて、「殺人」とまた別のカテゴリーなのです)、合計805件(殺人757件、嬰児殺13件、強盗殺人17件、自殺関与18件)となります。

 この805件のうち、被疑者と被害者が配偶者及び1親等(養子関係も含む)内のケースは373件(46.3%)、これに兄弟・親族を含むと435件(54.0%)、さらに知人・友人と職場関係者を足すと648件(80.5%)、つまり日本人の殺人被害者の8割は家族や友人、知り合いに殺されていることになります。もちろん、殺人と強盗殺人とでは多少傾向が異なり、殺人の80.2%が知り合いなのに対して、強盗殺人は64.7%に低下しますが、「強盗殺人でも、まったくの無関係者は少ない」ことがわかります。

 ちなみに、嬰児殺もあわせると実子・養子・継子を殺した例が103件(12.8%)、逆に実父母・養父母・継父母を殺した例が113件(14.0%)です。そして、配偶者間の殺人が157件(19.5%)となります。なお、配偶者間の殺人では、女性が殺されたのが86件で、男性が殺されたケースが残り71件とすると、被害者の男女比は1対1.21となり、女性(妻)が殺されることがやや多いということになるかもしれません。

 なお、こうした傾向は平成25年でも平成27年でもほとんど変わらないようです。パーカー・パインに倣って「それが統計です!」と宣言したあとで、この“事実”からあなたは何を提起できるのか?(レポートでは、事実の指摘よりも、それで何が主張できるか、が重要) そのあたりをぜひ考えてみてください。

「利口で勤勉」vs.「利口で怠慢」vs.「愚かで勤勉」:ハンマーシュタイン=エクヴォルト男爵の役割分類

2018 3/30 総合政策学部の皆さんへ

 気がつけばほぼ10年間この研究室ブログを書いてきましたが、この31日に総政を退職することとなり、正規教員として最後の投稿になりそうです。そこで、その〆として、“組織論”、とくに個人と組織の関係について触れましょう。組織の中で人はどうあるべきか、あるいは、どんな人がその組織でどんな立場を占めるべきか?  そもそも、組織の上に立つ人間は優秀か?

 万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節団派遣のみぎり、カリフォルニアまで往復した咸臨丸に座乗した勝海舟は、帰国後、老中に呼び出されます。「その方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ」との仰せ(それにしても誰なんでしょう? 1860年と言えば、久世広周、内藤信親、脇坂安宅、安藤信正、本多忠民、松平信義らですが)。

 もちろん、そんなご下問にたじろぐ勝ではありません。江戸っ子よろしく気の利いた台詞がついつい口をつき、「人間のする事は、古今東西同じもので、亜米利加とて別にかはったことはありません」といなそうとしますが、相手もしつこい。「左様であるまい、何か、かはったことがあるだろう」と再三再四問はれてしまい、これまたついつい口がすべって本当のことを(人間、一番腹を立てるのは、本当のことを言われた時です)、

左様、少し眼につきましたのは亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のやうに思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱ったっけ。ハハハハ」(江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫版)。

 ちなみに、これとほぼ同じ台詞が第2次世界大戦時の日本軍に対する、連合軍からの評価にあったように記憶しています。すなわち、両者を比べれば、将官(=戦略的指揮官)は圧倒的に連合軍が優秀、佐官(=戦術的指揮官or参謀)クラスも連合軍が優秀で、尉官クラス(=現場の指揮)でだいたい同等、それでなんとか戦えているのは下士官の優秀さと兵の順良さだ、とうろ覚えですが、読んだような気がします。

 つまりはノンキャリの優秀さが、キャリア上級官僚(あるいは政治家)の無能さをカバーしている?? どんなものなのでしょうか?

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 一方で、どの組織でも、優秀な人、ふつうの人、駄目な人(出切れば組織から切り離したい人)がいる、という組織論もあります。たとえば343(通称、サシミの法則)。優秀な人が3割(サ)、ふつうの方4割(シ)、駄目な方3割(ミ)というわけです。

 別に262の法則という説もあり、上記の比率が2割、6割、2割だというです(なお、現関学理事長の宮原明元富士ゼロックス社長は、262派でした)。会社の中の2割台の人間が優秀か(2割台と言えば、昔の阪神の新庄の打率)、3割台になるか(3割台となれば、イチローの全盛期)、このあたりで大きく変わってきそうです。

 それはさておき、343であれ、262であれ、どちらの法則もキモは以下の二つです。
(1)中間層(4割、あるいは6割)が上に倣うか、下に倣うかで会社の業績が決まる。
(2)そうかといって、優秀な2割(あるいは3割だけ)集めてみても、その集団の中でやがて343、あるいは262の階層ができてしまう(この点については、必ずアリについての研究が引用される、という段取りです)。

 さらにここが難しいところで、平常時ならば343の法則で“ぼんくら”(江戸時代は“昼行灯”)などと呼ばれていた人物が、非常時に一変、見事なリーダーに変身する、という都市伝説もまた存在するわけです。この典型が大石内蔵助良雄、Wikipeidaでも「平時における良雄は凡庸な人物だったようで、「昼行燈」と渾名されており、藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が担っていた」けれど、主君切腹、赤穂藩お取りつぶしの切所で、はじめは「浅野家お家再興の望みあり」を旗印に家中をまとめ、最終的には「吉良殿の御首(みしるし)頂戴」をキャッチコピーに堂々と主君の復讐を敢行する。つまり、平時の“無能者”は非常時には“盟主”に変身する、というこれまた都市伝説的リーダー論につながります。

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 さて、さらに都市伝説的に知られている“ゼークトの組織論”、ドイツ国防軍上級大将ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークトに仮託された「軍人は4タイプに分けられる」という小話があります。

 そこでは、軍人は以下の4つからなる。
・有能な怠け者は司令官にせよ。
・有能な働き者は参謀に向いている。
・無能な怠け者も連絡将校か下級兵士くらいは務まる。
・無能な働き者は銃殺するしかない。

 「有能な怠け者」として実像を探れば、旧満州軍総司令官大山巌、あるいはさきほどの旧浅野内匠頭家中大石内蔵助、さらには連合国遠征軍最高司令部司令官アイゼンハワーが想起されるかもしれません。

ちなみに、この大山巌の“怠け者”イメージは自ら装ったものなのか? 古来から論争がありますが、Wikipediaでは息子の大山柏の回想、「凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている」としています。これをどう解釈するか、日本的組織のリーダーイメージについてなかなか蘊蓄に富むというべきでしょう。

 それでは、「有能な働き者」に該当する者では、近代ドイツ軍の父、というよりも近代参謀の権化大モルトケあたりが該当するのでしょうか。『戦争論』で著名なクラウゼビッツ、あるいはアイゼンハワーの下でかつての上司(しかし、battleだけが優秀な)猛将パットンを使いこなすブラッドレーあたりがぴったりかもしれません。

 つまり、「有能な怠け者=総司令官・戦略的司令官=アイゼンハワー」→「有能な働き者=戦術的司令官ブラッドレー」→「(実際のバトルだけは優秀な)パットン=前線司令官」というのが最上のラインとなりそうです(3人が戦場で写っている写真です)。こうなると、あのマッチョだけれども、ちょっといじけたところのあるかもしれない(ジューコフとならんで第二次大戦中最も成功した「守備的な将軍」)モントゴメリーはやや格下にならざるを得ないところです。

 しかし、このゼークトの組織論が都市伝説的にもてはやされるのは、なんといっても第4カテゴリーに対する無慈悲な断罪=「無能な働き者は銃殺するしかない」というところでしょうね。一聴、大向こうをうならせるような断定!

 とは言え、本当なのかな? とも思ってしまいます。無能でも、指令さえ果たせてくれれば、なんとかなるのでは、という疑問もわいてきます。

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 さて、Wikipedia等では、このゼークトの組織論は実は、クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト男爵/ドイツ国防軍上級大将による、次のような表現の剽窃らしいとのことです。すなわち、

 将校には四つのタイプがある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち二つを併せ持つ。
・一つは利口で勤勉なタイプで、これは参謀将校にするべきだ。
・次は愚鈍で怠慢なタイプで、これは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いている。
・利口で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。
・もっとも避けるべきは愚かで勤勉なタイプで、このような者にはいかなる責任ある立場も与えてはならない。

 こちらの方が、「無能な働き者は銃殺するしかない」という衝撃的決めぜりふこそありませんが、よほどもっともらしいでしょう。第1カテゴリーはモルトケやブラッドレーがあてはまり、第3カテゴリーは言うまでもなく大山巌やアイゼンハワー(彼はノルマンディー上陸作戦実行日を決定する際に、この大作戦を前に決行するかどうか、意見が分かれた幕僚達を前に置き、数分、沈思黙考して、「とにかく決定を下さねばならない。私はそれを好まない。しかしそうなのだ(=決定しなければならない)。だとすれば、私には選択の余地がないような気がする」と断を下します)でしょう。

 それでは、実際の戦場ではどうなるのか? 大多数を占める第2カテゴリーは、第1カテゴリーが立てた計画にそって、第3カテゴリーの決断のもと、死んでいく、これが近代的軍隊の本質かもしれません。そして、第3カテゴリー(総指揮官)の人事管理者としての能力は、第1カテゴリーを優秀な人材として抜擢するとともに、第4カテゴリーを組織のなかの“バグ”として、巧みに除去することになるのかもしれません。それもまた組織のリーダーとしてのアイゼンハワーの才能であったようです。

総合政策学部の名言集No.18:“いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない”(後編)

2017 2/20 総合政策学部の皆さんへ

 マキャヴェッリの金言「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」後編です。

 マキャヴェッリは、カルタゴ軍に対して慎重な配慮と細心の注意を払い続けたファビウスの持久戦略に対して、まず高い評価を送ります。「これはローマ人にありがちな、衝動にかられ向こう見ずにつっぱしる傾向からは、ほどといいものと言わねばならない。幸運に恵まれた彼のこの行き方は、時代に即応したものだった」。若さと運に満ちたハンニバルに対抗するためには、「鈍重のきらいはあっても、用心深い将軍が出て、敵を見張らせておくより他には、よりよい幸運を手に入れる手段はありえなかった」というわけです。

 その一方で、このファビウスの選択がいつも、あるいはいつまでも正しいわけではない、とマキャヴェリは冷徹に断定します。マキャヴェッリは話を続けて「一方ファビウスにとっても、自分の持って生まれた性格や行き方に、これほどぴったりの時代にめぐり合わすことは考えられなかった。だからこそ、あのような栄誉を一身にあびるまでになったのである」。しかし、それはファビウスの生まれながらの性格によったものに過ぎず(つまり、性格がたまたまその時代にあっただけ)、その後は、ファビウスは「時代」あるいは「環境」が変わった時代に対応できなかった、というのがマキャヴェッリの見立てです。

 その根拠は、カンナエの戦いから11年後の紀元前205年、大スキピオことプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨルが、ハンニバルとの千日手にも近い情勢の一発転換を劃して、イタリアにとどまっているハンニバルではなく、カルタゴ本国を直撃する提案に、カンナエの二の舞を演じることを危惧したファビウスは、保守派の巨頭として(さらには“ギリシア”かぶれの若者、スキピオへの個人的反感も加わり)猛反対したことによります。11年前に「時代/環境」にマッチした“英雄”は、しかし、次の「時代/環境」に合わなくなっている!

 ちなみに、このスキピオのカルタゴ本国直撃案は、軍事戦略とすれば、小牧長久手の戦で秀吉が採用した(結果的に痛恨の敗北を喫した)“中入れ”策に比すべきものかもしれません。

 まさに、「将軍たちは昨日の戦いの経験から今日の戦争を考えるが、明日を考える者にこそ、勝利が訪れる」ということになるわけです。

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 この事態にたじろがぬスキピオは入念に工作します。彼は「市民の中から義勇兵を募集し、シチリア島で兵の訓練に日を費やす。彼の呼びかけは全イタリアに届き、とくにカンナエの戦いで生き残った者たちが雪辱のために応募した」、そして「アフリカ遠征の吉凶をキュベレ神に伺ったところ神託が吉と出たこともあり、スキピオは北アフリカへの渡航のみは許された。ただし「ローマ軍の正規の作戦として認めない」という元老院の露骨な態度は明らかで、経済的な支援や援軍は望むべくもなかった」(Wikipedia)。

 こうして、スキピオがもくろんだ戦略転換は見事成功、ハンニバルはカルタゴ本土に呼び戻され、紀元前202年、ザマで両者は激突、大スキピオは(戦いの師ともいうべきハンニバルに)圧倒的な勝利を得ます。それはやがて、ローマに“巨大な国際帝国”を与えることになります。

 マキャヴェッリは、それに故に、ファビウスについてこう結論します。「ファビウスの主張が通っていたら、ハンニバルはなおイタリアにとどまっていただろう。これはファビウスが時の流れを察知するのにうとく、それにつれて戦争遂行の方法も変えていかねばならないことを理解しなかったことを示すものにほかならない」。したがって、ファビウスが王だったならば、ローマは敗れていたはずだ! しかし、ローマは共和制であり、新しい時代に対処できるスキピオが控えていた。それが、国内に様々な才能の持ち主をストックして、使い分けることができる“共和制”の勝利なのだ、というのがマッキャベリの“ディスコルシ”です。

 しかし、故国ローマ、とくに元老院はこのギリシャかぶれの英雄、そして宿敵(であり、師でもある)ハンニバルにも好意を隠さない大スキピオに対して必ずしも好意的ではありませんでした。晩年、「敵から賄賂をもらったのではないか」という疑惑で政治的に失脚したスキピオは引退、先祖代々の墓に入ることを拒否した上で、墓碑銘を「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」と刻ませたとのことです(Wikipedia)。

総合政策学部の名言集No.18:“いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない”(前編)

2017 1/5 総合政策学部の皆さんへ

 新年を迎える話題にふさわしいかどうか、今回の名言は皆さんご存じのニッコロ・マキャヴェッリ渾身の大作『ディスコルシ』から、第3巻9節のタイトル、「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」です(『ちくま学芸文庫』版では519頁)。

 マキャヴェッリは本節で「人の運不運は時代に合わせて行動を吟味するか否かにかかっている」と指摘した上で、「誤りを犯すことも少なく、前途は洋洋たる幸運にいろどられている人々は、何度も述べてきたように、時代の性格を敏感に感じ取り、いつも自然が命ずるままに事を運んでいくものである」と断言します(ここで“自然”と訳されていますが、“環境”という言葉の方がよりふさわしいかもしれません)。

 この言葉を耳にすると、何年か前に関学の宮原明現理事長からお聞きした京都の村田製作所村田さんの言葉を思い出します。それは、村田さんがある席で、宮原さんに「京都の老舗は何も変わっていない、と思ってらっしゃるでしょう!」と切り出し、「とんでもない、京都の老舗は絶えず変わっているんでっせ!」、「変わっているからこそ、老舗として生き残ってこられたんでっせ!」とたたみかけたとのこと。時代(あるいは環境)とともに、自分を変えることができる者だけが生き残る。まさに、ダーウィンの進化論にも通じる至言です。

ということで、これが今回のマクラです。

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 それでは、マキャヴェッリは「時代とともに自分を変える」例として、ティトウス・リウィウスの『ローマ史』から誰をとりあげたか?

 それはクィントゥス・ファビウス・マクシムス( 紀元前275~203年)です。第二次ポエニ戦争においてカルタゴ軍を率いる(ローマ人にとっては悪鬼のごとき)ハンニバルに対して、執政官・独裁官として立ち向かい、「勝てないけれども、決して負けない」持久戦略で相手を苦しめる人物で、「ローマの盾」と称されます。

 この持久戦略ですが、(自らをアレクサンドロス大王、“ピュロスの勝利”のエピロス王ピュロスに次ぐ戦術の名手と自負する)ハンニバルに激突しても勝ち目がないと悟ったファビウスは故地から遠く離れているカルタゴ軍の兵站をついて消耗させ(消耗戦)、ついでカルタゴ軍の予想進出地を焦土化します(焦土戦術)。そして、カルタゴ軍にずっとつきまといながら、決戦を避け、相手の消耗を待つという近代的戦略をとります(なお、一回々々の勝利を求める戦術ではなく、戦争の趨勢を決定させる戦略であることに注意して下さいね)。

 この故事から、やがて持久戦略はファビアン戦略とも呼ばれるようになり、保守派として暴力革命を否定しながら社会改良をめざす運動をフェビアニズムと呼ぶことになります。

というのは、しかし、いわば後世の後知恵、ポエニ戦争当時のファビウスのあだ名は“クンクタートル ”、「のろま」あるいは「ぐず」の類で、彼の「勝てない」持久戦略は大衆にはまったく人気があがらず、かつ、最終的勝利も得られないまま、ファビウスは任期を終えます。もちろん、彼の任期が切れたことにもっとも安堵したのはほかならない当の相手のハンニバルでした。

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 そして、紀元前216年、執政官に選ばれたガイウス・テレンティウス・ウァロは大衆の支持をベースに(こうした政治家が欧米では今はやりのようですね)、主戦論をふりかざし、カンナエでハンニバルと正面対決を決断します。

 この日のために満を持したローマ軍は重装歩兵5万5千、軽装歩兵8~9千、騎兵6千、実に計7万人を準備、さらに予備兵力1万が背後に控えます(もっとも、この予備勢力は戦いにまったく寄与せず、虚しく捕虜になります)。対するハンニバルは、故国カルタゴを離れてすでに数十年、異郷の地でローマ軍と激戦を繰り返し、そのたびにたたき伏せてきたとは言いながら、支援も補給もままなりません。このため、カルタゴ軍は計5万( 重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、騎兵1万)に過ぎません。ウァロはこの優勢をかって、少数のカルタゴ軍を包囲・殲滅しようとします。

 しかし、ローマ軍はハンニバルの罠にまんまとはまり、少数のはずのカルタゴ軍に包囲されて惨敗、6万人が死傷、1万人が捕虜となります。カルタゴ軍の鉄の罠から脱出できたのは1万にとどまります(カルタゴ軍の死傷者は約6千人)。これが2000年後のドイツ軍のシュリーフェン・プラン奉天会戦にまで影響を与えたとする、カンナエの戦いの結末です。

 この敗北を機に、大衆もまた元老院の貴族もファビウスの慧眼に気付き、「クンクタトルは「のろま、ぐず」といった蔑称から「細心、周到」といった敬称へと意味を変えた」(Wikipedia)。このことは、古来、カンナエの戦いを軍事教本にとりあげてきた欧米社会で衆知のことですが、マキャヴェッリの考察はさらにその奥に進んでいきます。それは後編にまわしましょう(この項、to be continued)

一人の兵士が何人敵兵を殺せるか?:戦争の本質について

2015 5/31 総合政策学部の皆さんへ

 本日はかなり物騒なテーマです。しばらく前に、クリント・イーストウッドの最新作にして、彼の作品にしては珍しく商業ベースに乗ってヒットしたという『アメリカン・スナイパー』を観ました。ただ、結末について最終的な結論を観客それぞれに委ねたようにも感じられます。

 主人公クリス・カイル(アメリカ海軍特殊部隊Navy Sealsの実在のスナイパー、イラク戦で公式に160人、非公式に255人を射殺)の行為が善なのか、悪なのか、あるいは・・・・、それは観る人の解釈次第、そこが余韻となるのかどうか、微妙な雰囲気です。そのあたりも、やや投げやり気味なタイトルにつながったかもしれません。

 なお、『文芸春秋』2014年10月号の『スターは楽し』連載100回記念対談で評論家の芝山幹郎と女優の洞口依子がイーストウッドを俎上に揚げていますが、「ドン・シーゲルと組んだ『白い肌の異常な夜』も素晴らしかった」と洞口が応えると、芝山が「イーストウッドは、あの映画で自分の変態性に気づいたんじゃないかな。彼はサディスティックな面もマゾヒスティックな面も、両方とも持ち合わせていますよね」と指摘、なるほどと思いました。

 一見、マッチョな塊のようなダーティ・ハリーに潜む影の部分、そのあたりが『アメリカン・スナイパー』では露わになっているかどうか微妙ですが、それだからこそアメリカ大衆に受けたのかもしれません(『アメリカン・スナイパー』は制作費$58,000,000で、興業収入[世界]が$392,858,239、ざっと6倍以上です;Wikipediaによる)。

 さて、本題に戻って、公式記録として何人殺したかがわかる任務、すなわち狙撃手(スナイパー)の記録をみれば、それはフィンランド冬戦争の英雄、 「白い死神」ことフィンランド国防陸軍少尉シモ・ヘイヘ です。小国フィンランドに襲いかかるソ連軍に対して、ソ連製モシン・ナガンM28ライフルを駆使、狙撃によって100日間で505名を射殺、このほか、サブマシンガンで200名以上を殺戮、さらにこれは公式記録だけで、記録の不備や未確認記録がさらにあるということです。一人で少なくとも700人を殺す、キルレシオが0対700、ほとんど無限大です。

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 それにしても“冬戦争”、皆さん、ご存じないですよね。数年前、全世界的にヒットしたスウェーデン映画『ドラゴン・タトゥーの女』の中で、登場人物の一人が兄について、「ナチスが好きな右翼だった。1940年には冬戦争に行った」という台詞がいきなり飛び出し、「おおっ」と思いました。

 「第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵入した戦争である。フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守った(Wikipedia)」という、フィンランドにとってはまったく理不尽な一方的な侵略戦争とされています。こういう事例を見せつけられると、「平和主義など、現実を観ていない夢想に過ぎない」という声が聞こえてきそうです。

 この侵略戦争を、あのヒトラーの助けまで借りて防ぎきったのがフィンランドの英雄カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(1867~1951年)です。今や“悪の権化”となっているドイツ第三帝国総統ヒトラーと侵略者ソビエト連邦共産党書記局長スターリン、この20世紀最大の独裁者二人に挟まれたマンエルヘイムにとって、彼らを手玉にとりながら、冬戦争から継続戦争と祖国を守る戦いの日々を続ける際、1日として心穏やかに過ごすことなどなかったでしょう。

 例えば、ある日、「フィンランドに対ソ連の手伝いを求める」ためにフィンランドを訪れたヒトラーに対して、マンネルヘイムはその面前でどうどうと葉巻を取り出し、火をつけます。嫌煙家であるヒトラーは(実は菜食主義者でもありました)が、自らを優位としてフィンランドに一方的な要請を押しつけるならば、必ず葉巻を消すように要求するはず・・・。息をのんだ周りの者たちの見守る中、ついにヒトラーはマンネルヘイムに「葉巻を消せ」とは口に出せず、マンネルヘイムはヒトラーを見切って、その要求を凌ぎ切ります(Wikipediaによる)。

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 そのマンネルヘイムの指揮下、フィンランド国防軍第12師団第34連隊第6中隊(通称カワウ中隊)で、積雪中の戦闘のため、純白のギリースーツをまとったヘイヘを含むフィンランド軍32名は、通称“殺戮の丘”で、ソ連軍4000人を撃退、ヘイヘは赤軍から“白い死神”、あるいは“災いなす者”などとあだ名されたとのことでした。

 なお、戦後、狙撃の秘訣を聞かれた時には「練習だ」とだけ答え(戦争前はヘイヘはケワタガモの漁師でした)、多くの敵兵を殺戮したことに後悔はしないのかとの問いには「やれと言われたことを、可能なかぎり実行したまでだ」と言ったそうです(Wikipediaによる)。

オスマン朝とイエニチェリ:国際帝国の本質について#5

2015 5/4 総合政策学部の皆さんへ

 #4ではオスマン朝の皇帝たちを支えた大宰相たちが必ずしも“トルコ人”ではなかった、という話をしましたが、次は、オスマン朝の最強軍団、イエニチェリです。このイェニは「新しい」を、チェリは「兵隊」を意味するトルコ語ということで、「新軍」というわけですね。

 従来のトルコ兵ではない、皇帝直属の軍隊、つまりは絶対王政の象徴とも言うべき存在です。徳川家でいえば“旗本”にあたるかもしれませんが、古来、皇帝や王は直属の親衛隊を持っていました。古くはローマ皇帝を支えたプラエトリアニです。

 ローマ帝国の実質的な創設者ジュリアス・シーザーの場合、彼が率いる軍隊はローマ軍団として、マリウスによる志願兵制度によってパトローン=クライエント関係が生じていたとはいえ、あくまでも公的軍隊が建前です。それが、シーザーの甥(養子)で初代皇帝アウグストゥスが就任時、外地の属州配置の軍団と別に、イタリア半島内に駐屯する親衛隊を創って、自らの直属とします。

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 オスマン朝でも、始祖とされるオスマン1世がその父エルトゥールルから受け継いだ兵力は、「遊牧を送っていたことを伝えていたり、一方ではキリスト教徒出身者まで含む多様な出自の戦士たちからなる軍事集団となっていたことを窺わせる記述があることから古来、オスマン朝の起源を血縁を紐帯としたトルコ系遊牧部族であったとする説と多様な出自からなるガーズィー(Ghazi;ジハードに従事する戦士)であったとする説があり論争になってきた」とされています。

  この背景には、小さな一民族社会から発展する際、他のイスラム国家を模範にムラト1世(第3代皇帝、1319年もしくは1326年~1389年;在位は1360年頃~1389年)が組織再編を行ったことにあるそうです。その一つが常備軍イエニチェリで、「ムラトが征服地のキリスト教徒を徴用したものが起源とされている」(Wikipedia)。

 自民族ならば、報酬に土地等をあたえ、貴族化してやった挙句に、己の首までかかれかねない。それならば、皇帝の一存で言うことを聞く(はずの)奴隷たちを、(当然、異教徒・異民族ですから)改宗させ、幼い頃からたたき込み、軍人に仕立て上げる。 

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 こうしてオスマン朝の基本構造にまで組み込まれた奴隷制度は、やがて、「1360年代のトラキア征服中に施行されたペンチッ制度がイェニチェリを徴収するデウシルメ制度の基と」なり、戦争で獲得した捕虜の約5分の1が皇帝の下に送られ、常備軍に組み込まれていったというわけです。

 常備軍、ルネサンス期の政治思想家マキャヴェッリが夢想し、実践し、そして挫折するスタイルですが、実は、「近代ヨーロッパで最初の常備軍となったのは、帝政ロシアにおける「ストレリツィ」(銃兵隊)であった。オスマン帝国のイェニチェリをモデルにそれまでのモンゴル・タタール式の士族軍にかわる軍隊として創設され、16世紀から18世紀初頭までおかれた。他にプロイセン王国の常備軍が知られている」(Wikipedia)。

 そして、「徴兵制による常備軍の創設は、17世紀のスウェーデン(バルト帝国)の陸軍で、軍事史における軍事改革の画期的な成果の一つであるとされている」。

 なお、このイエニチェリは「君主直属の主力軍団として原則的に首都イスタンブルにある兵営に住まわされ、また妻帯することを禁じられるが、同時に高い俸給を与えられ、免税など様々な特権を享受した」。

 妻帯できない、つまり子供がない。彼ら自身は再生産できないので、新たな補充は新たな奴隷で補われる。すごいシステムですね。戦争に勝つ手段は、絶え間ない戦略によって調達される奴隷たちで埋め合わされる。究極の軍事国家体制といえるかもしれません。

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 いずれにしても、この非トルコ人・異教徒出身のイエニチェリは強かった(なにしろ、戦争しかしない人たちなのですから。そして、なおかつ、信用できない傭兵ではない)。

 そして、皇帝とも“親しい”、なにしろ、どちらも非トルコ人の遺伝子を引き継いでるわけです。

 彼らは「君主と食事を共にする特権を持ち、野戦で使用される大きな鍋とスプーンをシンボルとしていた」。「イェニチェリの営舎には大きな鍋が置かれ、反乱をおこすときは鍋をひっくり返した。「なべをひっくりかえす」と言う言葉はトルコでは大騒ぎや反乱という意味とされる」とのことです(Wikpedia)。

「ドイツ人は、この戦争に負けるだろう。なぜなら、彼らは戦争だけしかできないからである」:映画「フューリー」を観て

2014 12/7 総合政策学部の学生の皆さんへ

  本日は12/7、アメリカ時間では真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった日です(日付変更線の西側に位置する日本では12/8)。

 “時間”にすべてを支配される21世紀にふさわしく、詳しい時間経過をたどれば、真珠湾での戦闘開始はアメリカ海軍駆逐艦ワードが国籍不明の潜水艦(まちがいなく、真珠湾に潜行しようとする日本海軍特殊潜航艇「甲標的」5隻のうちの一隻)を撃沈したのが、現地時間で12月7日7時10分(日本時間8日午前2時40分)でした。

 なお、アジアでは日本帝国陸軍第18師団歩兵第56連隊がマレー作戦遂行のためコタバルに上陸、英印軍第8旅団と交戦したのが日本時間の12月8日午前1時30分で、こちらの方が1時間先行しています。

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 ということで、今日は久しぶりに戦争の話になります。実は、昨日、ブラピ主演の戦争映画『フューリー』を観てきました。スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』以来、いわば当たり前になった“戦場の現実”。飛び交う無数の弾丸に曳航弾が混じり、跳弾で火花がとびちり、そこら中に血が飛びちる。

 戦闘になれば、ほんの狭い窓から覗きながら戦車の巨軀(登場するM4AEシャーマン戦車は約30トン、対するドイツ軍のティーガーⅠ型戦車は57トン)を操縦するわけですから、うっかりすると友軍さえもひき殺しかねない(ブラッディ・オマハでは実際に、友軍を挽きつぶす事態が出来します)。

 敵軍、友軍、民間人でも、死体が行く手にころがっていれば、挽きつぶして進んでいく。そんな世界の話です。「世界で唯一動体保存されているあのティーガーⅠが映画に登場!」 (イギリスのボービントン戦車博物館でレストア)との謳い文句に惹かれて観たわけですが、皆さんにも是非観劇して欲しいところです。いや、国際政策志望の方は全員観た方が良いと思います、まったくの話。

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 ところで、この映画を観ながら私の脳裏によぎったのは、実は「総政のための名言集Part9雑編;ロンガネージ、漱石、そして中島みゆき」でご紹介済みのイタリア人ジャーナリスト、ロンガネージの台詞です。「#41:「1941年1月10日 イギリス人はこの戦争に勝つだろう。なぜなら、彼らは、戦争以外のことならばすべてできるからだ。ドイツ人は、この戦争に負けるだろう。なぜなら、彼らは戦争だけしかできないからである」(塩野七生『サイレント・マイノリティ』新潮社より)。

 “フューリー”の舞台は1945年4月、その4年前、第2次大戦が始まって1年半もたたない頃に記したこのロンガネージの日記の一節、大戦の行方を早くも見通した慧眼の一言、現代の総力戦とは何か? これぐらい的確に指摘している言葉もないでしょう。

 もっとも、戦車マニアだったら、1945年4月(翌月上旬にドイツ降伏)の設定ですから、ティーガーⅠからさらに一新され、Ⅴ号戦車パンターと同様に傾斜装甲が採用されたティーガーⅡを観たかったところかもしれません。しかし、複雑な設計故に量産が効かず(戦争以外はできないドイツ人!)、たった489両しか生産されなかったと言いますから、とても無理な話でしょう。

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 それにしてもドイツ人は、戦争だけはできる。「ティーガー1台に対して、シャーマンが5台なければ、対抗するな」と言われていたと聞いたことがありますが、大画面に映る姿はヘビー級ボクサー対ミドル級ボクサーぐらいの差です。

 ティーガ-が誇る88mm Kwk36L/56砲は、本来クルップ社が高射砲として開発した8.8 cm FlaK18/36/37砲で、射程2,000メートルで84mm、1,500メートルで92mm、1,000メートルで100mm、500メートルで111mmを貫通します。これでは、防盾76mm、前面装甲51mmのシャーマンは2000mの距離からでも破壊されてしまう! この88mm砲はドイツ語の音読みで“アハト アハト”の愛称でドイツ軍から絶大な信頼を寄せられます。

 一方で、M4A3E8の主砲である52口径76.2mm戦車砲M1A2では、特殊な高速撤甲弾(HVAP)でも使わない限り、ティーガーの前面装甲100mmを貫くことはおぼつかない。後ろに回り込んで、装甲の薄い側面、あるいは背後のエンジンを狙うか? リングでたたかうボクサーのような機動戦を、しかも4~5台でのチームワークで仕留めなければならない。

 映画の半ば、ブラピ率いる4台のシャーマンが、友軍を援護すべく、切所に急ぐ途上、突如、ティーガーⅠ型得意の待ち伏せ攻撃を仕掛けられます。まず、1台を仕留めてから、その巨軀をあらわにして、ゆっくり他の3両を仕留めに現れる。

 世界に冠たるティーガー乗員である以上、「負けるかもしれない」等とは絶対に思わない、いや、思った瞬間に負けてしまう! このヘビー級チャンピオンに必死に挑む3両、しかし、1台ずつ仕留められ、そして・・・・(ネタバレに注意して、ここではこの後は述べないことにしましょう)。

 つまりはこの映画は、北アフリカに上陸した時には、ルーキーだらけでドイツ軍にぼろ負け、イギリス軍からは「我々(連合軍)の中のイタリア軍だ」と言われていた連中が、いつしか『ヴィンランド・サガ』に登場のアシェラッドのような連中に変貌する、つまりはパットンの獅子吼に登場の「くそったれども」となり、かつてのスパルタのクサンティッポスのようなドイツ武装親衛隊と、ヘビー級対ミドル級の死闘を繰り広げる。

 その激闘シーンに間違って紛れ込んだ若造ノーマンがいつしか成長する、というにはあまりに早すぎる変貌を遂げざるをえない、そんな映画です(映画の終盤、生き残ったノーマンは救出に来た友軍に「お前は英雄だぜ」と言われます)。

 ちなみにティーガー対連合軍機甲師団の死闘では、1944年8月8日に戦死したナチスドイツ第1SS(武装親衛隊)装甲師団ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー所属のミハエル・ヴィットマンSS大尉が、同年6月13日フランスカーン南方のヴィレル・ボカージュにおいて、たった1両で戦闘車両27台(戦車12輌[クロムウェル5、スチュアート3、シャーマン4]、ハーフトラック10輌、カーデン・ロイド・キャリア4輌、スカウトカー1輌)を撃破したヴィレル・ボカージュの戦闘が有名です(もっとも、ヴィットマンのティーガーⅠも戦闘の終わり頃、イギリス軍の6ポンド対戦車砲で破壊されます)。

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 それでは、武装親衛隊(SS)とは何か? それにはまず『フューリー』を観て下さい。ブラピ演じるドン「ウォーダディー」コリアー軍曹が、ルーキーノーマンにたっぷり教え込むように、皆さんに解説してくれるでしょう。本作中でしばしば展開する戦場の現実、とくにブラピがハーグ陸戦条約を無視して、降参したSS等を殺していくシーンによって。

パットンの演説について(Patton’s Speech to the Third ArmyあるいはThe Speech):戦争の人類学Part1あるいは“偉大なる動機付け”

2014 10/16 総合政策学部の皆さんへ

 6/6投稿の「本日で、ノルマンディー上陸作戦から70年です」では何人かの軍人に触れました。本日はその一人、あまりの“猛烈ぶり”に謹慎処分をくらい、肝心の“一番長い日”に出場させてもらえなかったパットン将軍を紹介しましょう。

  映画好きなら知っているかもしれません。フランクリン・J・シャフナー監督(脚本はあのコッポラが絡んでいます)『パットン大戦車軍団』、アカデミー賞7部門に輝きながら(作品、監督、主演男優、脚本、編集、美術、録音)、主演男優賞に選出された名優ジョージ・C・スコットが授賞式を「肉のパレード」とののしって、受賞を拒否したことでも知られている、あの傑作です。

  なによりも、このパットンのなかにこそ、アメリカ人、とりわけWASPの強烈な個性が炸裂しています(アメリカ文明、ことにWASPを理解したければ、是非ご一見を)。ちなみに、日本で公開された際の題名は『パットン大戦車軍団』といういかにも大向こうを張ったものですが、英語の原題はただの“Patton”です。これだけでも、パットンが(兵士に向かって獅子吼した演説[The Speech!]とともに)一つのアーキタイプとしてアメリカ人の脳裏にしっかり刻み込まれている、と言っても言い過ぎではないでしょう。

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  ということで、この「戦争にしか能がない」かつ「戦争しか出番もない」(チャーチルも同様ですが)アメリカ陸軍きっての猛将ジョージ・パットンですが、彼の決めぜりふは「大胆不敵であれ!(Be audacious!)」だそうです。

  しかし、このもっともらしげな言葉よりも、彼の演説に頻出する“糞!(同じ糞でも、牛の糞ことBullshit)”こそがもっともふさわしいかもしれません。さて、その“一番長い日”の前日、すなわち1944年6月5日、翌日のD-Dayのことさえまったく知らされていないパットンは、配下の(同じように何も知らされていない待機中の)第3軍に一場の演説をおこないます。これがPatton’s Speech to the Third Army、あるいはたんにPatton’s Speech、さらにはザ・スピーチThe Speech)です。それでは、彼は部下に何を言ったのか? 

 『パットン大戦車軍団』の冒頭、Pattonが話し出します。“Men, all this stuff you hear about America not wanting to fight, wanting to stay out of the war, is a lot of bullshit. Americans love to fight. All real Americans love the sting and clash of battle. When you were kids, you all admired the champion marble shooter, the fastest runner, the big-league ball players and the toughest boxers. Americans love a winner and will not tolerate a loser. Americans play to win all the time. That’s why Americans have never lost and will never lose a war. The very thought of losing is hateful to Americans. Battle is the most significant competitions in which a man can indulge. It brings out all that is best and it removes all that is base”(英語版Wikipediaから)。

 Wikipediaでは以下のように訳しています。「諸君、アメリカについての話題で、戦いを望まないとか、戦争から逃れる事を望んでいるとか、その手のものは全てデタラメだ。アメリカ人は闘争を愛している。全ての真のアメリカ人は、戦いの痛みやぶつかり合いを愛している。諸君が子供だった頃、諸君ら誰もが賞賛したのはビー玉遊びの王者とか、一番足の速い奴、大リーグの選手、最強のボクサーだった。アメリカ人は勝者を愛し、敗者を認めない。アメリカ人は、常に勝つためにプレイする。これこそ、アメリカがこれまでも、そしてこれからも負けを知らぬ理由だ。やたらと負けを考える事はアメリカ人に対する冒涜である。戦いとは、男が熱中できる最も重要な競技と言える。戦いは素晴らしいもの全てを発揮させ、それ以外の全てを消し去るのだ」。

 わかりますか? ただひたすらすごい! とも言える、アメリカ風マッチョの神髄。

 “Americans love to fight!”、アメリカ人はひたすら戦いを愛し、そのためには、痛みさえも甘受する。アメリカ人のほとんどは、今でもこの演説を聞けば、ひたすら喝采するでしょう。そして、これを聞いた兵士たちの何人かは記録します。いや、記録せずにはいられない。こうやって、この演説は(虚空に消えることなく)後世に伝わります。

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  もちろん、戦場での猛将パットンには、現実主義者の側面も持ち合わせています(当然、現実を見据え、冷静さを保たねば、戦にも勝てません)。

 パットンは続けます。“You are not all going to die. Only two percent of you right here today would be killed in a major battle. Every man is scared in his first action. If he says he’s not, he’s a goddamn liar. But the real hero is the man who fights even though he’s scared. Some men will get over their fright in a minute under fire, some take an hour, and for some it takes days. But the real man never lets his fear of death overpower his honor, his sense of duty to his country, and his innate manhood”.

 日本語訳を続ければ、お前ら全員死ぬ訳じゃないぜ、というわけです。

 「今日この場にいる者のわずか2%が、やがて大きな戦いで殺される事になる。誰しも最初の戦いを怖れる。違うと答える奴が居るなら、そいつはとんでもないホラ吹きだ。しかし、真の英雄とは恐れながらでも戦える男のことなのだ。何人かは戦火の元で恐怖を乗り越えるだろう、数分、数時間、あるいは数日を費やして。だが、死の恐怖という奴が、真の男の名誉、祖国への使命感、そして生来の男らしさを乗り越える事は決してできない

 しかし、ある意味真実をついたこの発言での楽観的数値、2%! 完全に“勝つ”ことしか考えていないのですね。

 例えば、硫黄島の戦い、Wikipediaによればアメリカ軍の戦力11万で戦死者6821人(死亡率6.2%)、日本軍22786人のうち戦死者17,845~18,375(78.3~80.6%;8割が死ぬ、これが“玉砕”です)。

 そして、このThe Speechの翌日、1944年6月6日、ブラッディ・オマハと呼ばれたオマハ・ビーチでの米軍参加者34000人、戦死者3000人(8.8%)。パットンも、この点はヨーロッパ大陸で待ち受ける“ロクデナシども(poor bastards)”からの反撃について、軽く見積もりすぎていたのかもしれません。

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 演説の終わり、パットンは絶好調で、アメリカ人にとっては頭にびんびん響く台詞を連発です。たとえ嘘であってももよいから、男どもを奮い立たせるには、俺もいっしょにお前らとともに戦場にたつぜ、という心意気でしょう(この手の名手が、ローマ帝国創建者ユリウス・カエサル、あるいはフランス帝国建設者ナポレオンであったことは、皆さん、ご承知ですよね)。

 The Speechの最後はこう締めくくられます。

 “Then there’s one thing you men will be able to say when this war is over and you get back home. Thirty years from now when you’re sitting by your fireside with your grandson on your knee and he asks, ‘What did you do in the great World War Two?’ You won’t have to cough and say, ‘Well, your granddaddy shoveled shit in Louisiana.’ No sir, you can look him straight in the eye and say ‘Son, your granddaddy rode with the great Third Army and a son-of-a-goddamned-bitch named George Patton! All right, you sons of bitches. You know how I feel. I’ll be proud to lead you wonderful guys in battle any time, anywhere. That’s all“.

 泣ける文章です。「この戦争が終わって諸君が国に戻ったならば、やがて語れる事が1つある。今から30年後、炉辺で膝に孫を抱いて座っている時、孫が「大戦の時に何をしていたの?」と聞いたなら、こう答えたくはあるまい。「ええと、お前の爺さんはルイジアナで糞掘りをしていたんだよ」と。そうではない、諸君は彼の目をまっすぐ見てこう言えるだろう。「孫よ、お前の祖父は偉大なる第3軍にいたのだ。ジョージ・パットンという最低最悪のクソッタレの元に!」と。よし、クソッタレども。私の気持ちはわかっただろう。いつも、どこでも、諸君のような素晴らしい男たちを率いて戦えたことを私は誇りに思っている。以上

 この時、パットンは「トレードマークでもあった儀礼用ヘルメット、正装用の軍服、乗馬ズボン、騎兵用ブーツを身につけ、さらに乗馬鞭を手にして演説に臨んだ」そうですが、Wikipediaによれば「何人かの歴史家は、この演説はパットンが行なったもののうち最も偉大な1つであり、また歴史上最も偉大な動機付けの演説であったと評している」とのことです。

 

 

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...