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学習机の普及:明治・大正期の日本に、学習机はどのように広まったか?

2019 6/24 総合政策学部の皆さんへ

 今回は少し変わったテーマかもしれませんが、先日、兵庫県内の某高校に高校生の課題研究に“出前講義”に行った時のことから始まります。

 実は、昨年度も同じ高校にお邪魔して生徒さんの研究テーマを講評したのですが、その一つに“Standing desk”がありました。「立ったまま仕事・学習をする机」です。もちろん、ずっと立ったままで仕事/勉強にするのはつらい! と思う方のためには、コクヨなどが高さを自由に変えるタイプも市販しています(ただし、価格は当然高くなる)。

 このタイプの机は、コクヨのHPでは“重視される「働き方の多様化」と健康経営”(https://www.kokuyo-furniture.co.jp/products/office/sequence/about/)と題されて、「少子高齢化や若者の労働観の変化などの潮流を受け、企業経営において、社員の健康管理に配慮しながら、多様な働き方で生産性を維持・向上する取り組みが重視されはじめています」と銘打って、
(1)業務の質向上「モードチェンジ:立ちと座りの繰り返しが気分転換となり、集中力が維持できます。また、昼食後の眠気防止にもなります。生産性の向上:立ち姿勢だと、短時間で集中して業務を処理しようとする意識が高まり、時間効率の向上につながります」。
(2)コミュニケーションの活性化「視線が交差する立ち姿勢は互いの目線が合いやすいため、部下から上司へも含め声を掛けやすくなります。軽い立ちミーティングがすぐに座ったままでいると移動が億劫になりがちですが、立ち姿勢だと、確認や連絡などの行動がすぐに起こせます
(3)健康増進:「ワーカーの悩みで多い「肩こり・腰痛」について、座ったままだと血流が悪くなり、背中などに疲労がたまります。背中や腰の痛みの原因の約95%は、身体を動かさないことと言われています。「肩こり・腰痛」に悩んでいる人が多く、特に肩こりは座っている時間が長い人に多いということがワーカー調査から分かっています。また、生活習慣の改善として、座った姿勢と立った姿勢を交互に行うことによって、身体にかかる重さを調節し、疲労した筋肉を休ませ、リフレッシュにも繋がります
と謳っています。なんだかよいことづくめです。

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 しかし、なにゆえ立ったままで仕事するタイプの机ができたかというと、実は我々の健康問題に端を発しています。つまり、長時間座ったままの姿勢でいると健康によくないという説があるのです。例によって論文を検索すると、「日本では運動や食事に気を配る様子は見られても,座ることに対する危険性をあまり認知していない.私たちは平均して一日のうち8.4 時間座位行動しているが(Healy et al. 2011),気づいていないうちに自分の寿命を縮めているかもしれない.このように無自覚に長時間継続して着座姿勢をすることにより潜在的な健康リスクを惹起することを本論文では「座位問題」とする」(原野、2017、ELCAS Journal 2: 63-65)などの記述が目につきます。

 ちなみにこの「座っていると健康リスクが生じる」という原点は、Healy G. N. et al. (2011)Sedentary time and cardio-metabolic biomarkers in US adults. NHANES 2003-06. Eur. Heart J. 32: 590–597あたりのようです。とは言え、座位が本当に健康に悪いかどうかは反対の意見もあるようで、当否については今回はパスします。

 ともあれ、高校の生徒さんは健康問題よりも、学習に集中するために立ったままで授業をうけるのは効果があるのではないか(昼寝するわけにもいかない!)、と考えてこのテーマを選んだようです。それで、私も例によってgoogle scholarで調べてみると、なんと日本語の論文はほとんどんどなく、英語論文では主に欧米での小中学校の肥満問題(立って授業を受ければ、痩せる!)、昼寝を防止する(立っているので、寝るわけに行かない!)などの対策で導入されているようです(Benden et al. (2014) The Evaluation of the Impact of a Stand-Biased Desk on Energy Expenditure and Physical Activity for Elementary School Students. International Journal of Environmental Research and Public Health 11:9361-9375).

 私の評価は「とりあえず、君らの発想はえらい! 日本語の論文がほとんどないのだから、大学の先生などと肩を比べられるような研究になるかもしれないね」というものでした(その後、実際に古い学習机を改造して試作されたとのことです)。

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 さて、実をいえば、今回はここまでが話のマクラで、肝心なのはその続きです。数ヶ月後、今度は学年が一つ下の新入生の方々を対象にアクティブ・ラーニングのスキルを紹介しにでかけたのですが、駅まで送っていただいた車中で、担当の先生から「実は、日本の学校にどういう経緯で学習机が普及したか、文献を探してもよくわらかないのです」と突然相談を受けました。

 こちらもちょっと虚をつかれたというか、そういえば、明治頃の学校を描いた古図でも机が並んでいるようだけれど、そこにどんな経緯があったかなどちっとも考えていなかったことにあらためて気づいた次第です(人類学者としては反省しなければ)。そこで、思いつくまま「実証的な研究だと、明治期の小学校の写真を見て、図像学的に調べるとか」と説明して、「何年か前に、制服・制帽の普及について知りたくて、ネットで小学校の昔の卒業写真を調べてみると、まず、男子の頭に(足は下駄、身体は和服のままでも)学帽がかぶさり、一方、女の子は和服のままだとか、先生方の服装も男性教員は洋服なのに、女性教員は和服が多いとか、までは調べたのですが」と返しました。

 帰宅後、気になったので、またGoogle scholarを開けて探してみると、これが意外になかなか見つからない。しばし苦闘してから、以下の4編をなんとか探し当てました。
・西村大志(1997)「日本の近代と児童の身体:座る姿勢をめぐって」『ソシオロジ』pp.43-64.
・岡田栄造ほか(2000)「近代日本における椅子開発とその社会的背景:明治・大正・昭和前期における特許資料の考察をとおして」『デザイン学研究』47(6):1-8.
・岡田栄造ほか(2000)「明治・大正・昭和前期における特許椅子の展開過程:寿商店「FK 式」回転昇降椅子を事例として」『デザイン学研究』47(6):9-16.
・岩井一幸(2004)「家具の標準化(レビュー)」デザイン学研究特集号11(4):7-11
どうやら「学習机」については家具やデザイン関係の学術雑誌に載っていたらしく、上述の先生が教育系の雑誌をさがしても見つからなかったわけです。

 なお、肝心の明治期における学習机の導入過程ですが、上述の「家具の標準化」によれば、「生活の椅座化への動きは、明治維新に学校が椅座化を目指すところから始まっている。1869 年(明治2年)、木戸孝允は、新政府に「普通教育の振興を急務とすべき建言書」を提出、欧米風の学校制度を全国に実施するよう主張した。それまでの寺子屋での座机による教育からの脱出である。教育史によれば、初期には机腰掛けが準備できないために、各自宅から、座机を持ちこむという指示や、腰掛けによる教育は疲れるので、座式の教育を認めて欲しいとの嘆願書も出ているものの、1872 年(明治5年)の学制改革以来、学校で今日の机腰掛けという家具の標準化の基礎が作られた。1991 年(明治24 年)小学校設備準則の中で机腰掛けについて規定され、学校用家具標準化が始まった。その中心は、寸法に表現された規範で あり、一定の寸法による質の同一性で、同じものをある一定量つくることを目指すものであった」とあります。

 このように、“学習机”のようなきわめて身近で、だれもがあって当然と考えているものにさえ、さまざまな歴史がひそんでいることをみなさんも意識してください。

“係争地”はそもそも誰の土地であったのか?:近代化における“領土”問題

2019 4/6 総合政策学部の皆さんへ

 世の中には“係争地”がいくつもあります。これは国家とは「国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである」とする“近代国家”観からすると、隣接する国々同士のエゴのぶつかり合いから生じる必然的な副産物とも考えられます。

領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体」としての国家の使命からすれば、その周辺に「誰のものでもない土地」など、あってはならないわけですが、しかし、複数の国が同時に権利を主張することは避けられなくなります。ましては、その“係争地”に思いもかけぬ資源があったりした場合など。

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 それでは近代化前はどうか? 例をあげれば、まず、中国です。

 そもそも、近代国家前の中国には「「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だった」ので(Wikipedia「中国」)、明確な「領土」、あるいはそれを区切るための明確な国境線という概念さえ乏しく、「中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負」していました(Wikipedia「中華思想」)。

 そこでは皇帝を中心に同心円構造が成立します。そして、その最外円のさらに外はいわゆる「化外(けがい)の地」であり、そこに棲むのは蛮族にほかなりませんが、肝心の同心円自体は皇帝のによって伸びたり、縮んだりする相対的なものでした。その結果、台湾(下記参照)、チベット外モンゴルウィグルスタンなどはこの同心円の外なのか、内なのか、そもそもそんなにはっきりと区切りがつく土地なのか、問題となってきます。

 ちなみに、“外モンゴル(外蒙古)”という言葉は、言うまでもなく北京を世界の中心とした場合に、近いモンゴル=内モンゴル、遠いモンゴル=外モンゴルという序列付けを受け入れる、ということを意味します。同じように、“極東”と口走れば、それは英国外務省を中心として、そこから眺めれば日本周辺が“far east(極東)”である地理感覚だということを意味します。

 さて、中国では近代化が進むにつれて、“伝統的”地理観の曖昧さにつけこまれ、明治期に近代化に邁進する日本によって台湾出兵を起こされたり(この時、中国ははじめ台湾の先住民は「化外の民」であるとします)、膨張するロシア帝国にネルチンスク条約や愛琿条約等をむすばされることで、国境の明確化=それは多くの場合、皇帝の領土の最周辺部の喪失を繰り返すことになります。

 一方で、皇帝の徳さえ復活すれば、化外の民たる東夷(日本・朝鮮等)、西戎(西域諸国)、北狄(匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古)、南蛮(ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国)も相対的な同心円に飲み込まれていく、はずなのかもしれません。だから、西沙諸島はおろか、南沙諸島までもが中国の領土である、と主張することもあながち無理ではない、という見方もできなくはないわけです。

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 このあたりの“国境”ひいては“国家観”の曖昧さは、例えばオスマン帝国ハプスブルグ帝国にも、さらには古代ローマ帝国などの“国際帝国”にはつきものです。そして、アレクサンドロス3世チンギス・ハーン、さらにはスレイマン大帝のような権力者にとって、境界などというものは意識の中にも“存在すべきではない”存在であり、権力者の使命として絶えず境界を乗り越え、世界の果てまでも自らの領土としようという欲望に身を浸すことになります。

 もっとも、ローマ帝国も最盛期を過ぎれば、逆に“蛮族”との境目が負担となり、国境警備のための防塁(リメス)を張り巡らし、ハドリアヌスのように長城を築いたりもします。“壁”を築き、自らを守ろうとすること自体が、すでに精神の退廃、覇気の消失をあらわしているとも言えるでしょう。このあたりで、某国大統領の顔を思い出す方もいるかもしれません。

 いまさら言うまでもないことですが「かつての屈辱をはらし、近代化によって狭められたかつての境界を乗り越え、栄光の領土をとことん広げようとする者」としての現代中国の指導者習近平氏に対して、かたや「壁を築くことで、自らの崩壊しかけた精神をなんとか取り繕う」ことをめざす(もちろん、そんなことは今や不可能なのでせうが)アメリカの現大統領のトランプ氏の二人は、国境をめぐる国家観の対決を表象するまさに21世紀の象徴ともいえるでしょう。

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 この点、ソ連崩壊後に混乱したロシアをとにもかくにもなんとか持続させることだけはできたエリツェンの遺産を引き継いだプーチン氏にとっては、(1)近代的国家観としての“ロシア民族”の“境目”を定める路線にでるべきか、(2)過去の国際帝国の栄光をひきつぐべく、かつての領土奪回作成にでるべきか、なかなか立ち位置を決めるのが難しいところかもしれません。

 例えば、(1)第2次チェチェン紛争は、かつての国際帝国の支配から分離しようとする異民族(チェチェン人)を旧来のシステムの中に引きとどめようという欲望のあらわれであり、(2)クリミア半島をめぐる争いは、本来はロシア帝国固有の領土だったクリミアをソ連体制下でフルシチョフがウクライナに割譲したものを(その後の、複数の民族が入り混じる地となっていましたが)取り戻そうという願望の発露であり、(3)ウクライナ東部をめぐる衝突も、ウクライナというかつて独立した政治勢力が安定した政治権力を持てなかった広大な土地に、ロシアとしての権利をできるだけ拡大しようという欲望の発露なのです。

 それでは、この混乱を収めるにはどうすればよいか? おそらく世界の誰も解決策を思いつくことはできず、ただただ“実効支配”だけがデファクト・スタンダートとして通用する時間が過ぎるばかりかもしれません。

“戦病死”の人類学#1:戦場の帝国陸軍には歯科医がいなかった

2019 3/2 総合政策学部の皆さんへ

 “戦病死”という言葉がありますが、これは文字通り、「従軍中に病死すること」(広辞苑第5版)です。つまり、戦争しながら兵士は病にかかることもある。当たり前のことです。

 例えば、私の父親は第2次世界大戦に従軍中に戦地でマラリアに罹患したらしく、帰国後何年かはその後遺症が出たようです。とくに、いわゆる感染症は人が密集すればするほど、爆発的に流行しやすくなる。軍隊などはその典型ではないでしょうか(ついでに言ってしまえば、家畜を密集させて飼養することもまた同様で、養鶏における鳥インフルエンザ、養豚における豚コレラなどが想起されます)。

 さらに、近代に進むにつれて、兵士たちはもともと住んでいた場所から遠く離れた異国(=異環境)に遠征することも珍しくなくなる(明治初期、西南戦争などのような内戦や他国からの侵略などへの対外的防衛のために設置された鎮台が、外征戦争に対応するための師団に編成替えになります!)。すると、外地で免疫をもたない感染症に罹患すれば、現地の人よりも重症になってしまう。これもまたヒューマンエコロジーの知識さえあれば、すぐにでも考え付くことです。

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 さて、近代化に邁進すべく日本が最初に遭遇した大規模な外征戦争、いわゆる台湾征伐(この名称からして大時代的で、現在では台湾出兵となっていますが)、対象たる先住民パイワンの人たちの戦死者が30名に対して、日本軍3600名で戦死6名、負傷者30名、しかしマラリアに罹患する者が多く、561名が病死します。つまり、6人に一人が戦病死してしまう。さらにその後の長期駐屯で「出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病する」(Wikipedia)という結果に陥ります。

さらに感染症に加えて慣れない気候や、兵站の失敗による飢えなど、外征戦争に駆り出された将兵には戦う前に死ぬ者もあらわれます。例えば、ナポレオン戦争における1812年ロシア戦役では、ナポレオン率いる大陸軍68.5万人のうち、38万人が死亡しますが、戦闘よりもロシアの冬将軍による凍傷や、クトゥーゾフ将軍らが展開した焦土戦術による餓えで死亡、壊滅します。

 このように、実際の“戦死”(広辞苑第5版では「戦闘で死ぬこと。うちじに」)よりも、戦病死やその他、様々な形の氏が戦争に決定的な要因になりうることを、皆さんも覚えておいた方がよいでしょう。

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 その戦病死が大きくクローズアップされたのが、ナポレオンのロシアからの敗退から40年後のクリミア戦争です。この戦争では、戦死者1.7万人に対して、戦病死者数が10万人を越えます。ここまで行けば、病気に対応しないと戦争に勝てない、ということが明らかになってくる。

 クリミア戦役中、この課題に取り組んだのがフロレンス・ナイチンゲールにほかなりません。不衛生な兵舎病院を改善、環境を整えようとする彼女は、なんと縦割り行政から軍医らによって妨害されます(不思議ですね。患者が早く回復することで兵站上の負担を減らす。あるいは、回復後闘いに復帰することで、戦争に勝つかもしれない。それを妨害するというのは“利敵行為”そのものです=とはいえ、官僚機構による縦割り行政とは洋の東西を問いません)。ナイチンゲールは自分の主張を通すため、現状をアピールするためのグラフも改良、医療統計学の始祖となります。

 そのクリミア戦争から10年もたたないうちに勃発したアメリカの南北戦争では、戦死者20万人に対して、戦病死者数は56万人を越えたということです。ちなみにこの頃のアメリカ合衆国の人口は北部2200万人、南部900万人とのことですから計3100万人(これは当時の日本の人口とだいたい同等か)、そのうち、市民もふくめると70~90万人が死亡したことになります。乱暴に言えば、約30人に一人が死んだわけです。

 戦争の近代化により、徴兵制による大量動員、新型兵器による大量殺戮、これがやがて第一次世界大戦での長期総力戦による大量殺戮につながりますが、同時それはさらにそれをうわまわる戦病死あるいは事故死をともなう。これでは戦争の遂行さえ難しくなってしまう。

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 そこで、話を帝国陸軍に戻すのですが、吉田裕『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書2465)によれば、日中戦争に突入した際に、長期による総力戦にまきこまれながら、日本陸軍には正式の歯科医療者がおらず、嘱託医しかいませんでした。そのため、「戦線にある将兵が非常に多くの齲歯(虫歯)を持っている」が、「前線の野戦病院に歯科医が配属されることは無かった」というのです。『野戦歯科治療の現況報告』という文書には、「これで長期戦に入った現在、体力に自信をおけるであろうか、大いに疑問である」と記されているとのころです。

 このため、1940年に陸軍歯科医将校制度が(まさに泥縄式に)創設されたとは言え、ある兵士は「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった。万一、虫歯で痛むときは、患部にクレオソート丸(正露丸)をつぶして埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治である」と回想しています。捕虜への尋問や、ろ獲した文書を分析した連合軍はこの事実に気づくや、「日本陸軍の歯科医療の水準は、連合軍より劣っている」「日本陸軍は連合軍ほど歯科の観点から部隊の健康に注意を払っていない」と報告したそうです。これでは短期戦ならともかく、帝国陸軍が長期戦/総力戦に耐えられるわけはない、と言うべきでしょう。「戦う前に、すでに“お前は死んでいる”」というような状況になりかねない。

 現在の日常生活では当たり前に存在している“歯科”さえも、戦場ではどうなるかわからない。それを考慮にいれてこそ、近代戦を戦う能力が身につくものだ、というのが現実の世界なのです。

翻訳について番外編Part2:森山多吉郎の後輩たちに見る長崎通事の栄光と幕末キャリアプラン

2018 10/12 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編Part1の続編、主人公は森山に江戸で英語を学んだ同じ長崎通事出身の福地源一郎(号桜痴)に交替です。福地は安政6年(1859年)、青雲の志をいだき19歳で江戸に上京、郷里の先輩森山に師事しますが、後年、『懐往事談』に書き残した回想では、

 (森山)先生は通称多吉郎とて、長崎オランダ通詞の出身、数年前より徴されて江戸に来たり。常に江戸下田の間を往復してもっぱら条約のことにかかわり、当時は外国奉行支配調べ役並格にて外交の通詞を任じ、幕府外交のことについては最も勤労を尽くしたる人なりき。(略)江戸にて英語を解し英書を読みたる人は、この森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余はこの先生について学びたるなり。

 もっとも、師弟たちの苦心の英語修業も、幕府から命じられたことではなく、各人の個人的努力です。『懐往事談』には同年6月、外国人居留地がある横浜(運上所=現在の税関)への出張を命じられ、(福沢と同様)福地は、以下のように気づきます。オランダ語に固執していれば、通詞としての自分の仕事は安泰ですが、どうやらそれでは済まされない。上層部は何の指示をしなくとも、自ずから勉強せざるをえない=近代的自我の誕生とも言えるかもしれません。

 英語は実際欠くべからざる用語にて、(日本語文書とオランダ語文書でのやりとりを定めた)条約を頑守してはとても双方の用便にさしつかえる」ことに気づきます。そして「余輩が少々ばかりならい覚えたる英語も、この時には大いにその便利を感じ、これよりして英語修練は外交上大切なる事務とはあいなりたり。しかれども、幕府はあえてこれを奨励することをもなさず、また、そのために修業の道を開きたる事もなかりき。

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 とは言え、すでに森山が伐り開いた道がある=個人的な興味であれ、外国語を学べば立身出世(=しがない長崎通詞から公方様直臣へ)につながる。すでにロールモデルが存在し、一つのキャリアコースが成立済みです(実を言えば、これこそ外国語で出世していく=伊藤博文、青木周蔵金子堅太郎などの明治新政府のキャリアコースにつながります)。福地はこちらのコースを選択した結果、必然的に、当時の体制派=幕藩体制の支持者にもなります。そんなかつての(先を見誤った)軽躁な日々を反省するのは、明治になって事がすべて済んでから、という始末です。

 (自分は)もとより純乎たる佐幕主義にて、いやしくも時勢許るさん限りはあくまでも幕府独裁の制を保守せんと望み、深く京都の干渉と諸藩の横暴を憎み、かの公武合体といい諸藩会議というがごとき、合議政体と幕府独裁とは両立すべきものにあらずと主張せしものなり」として、「感情に劇せらるるごとに知らずしらず持見を動揺して、条理の分別をみだし、適性の定説をあやまること、この時始まれり。

 福地はさらには慶応3年12月、主戦論に惑わされ、江戸城よりはるばる大阪に出向きながら、その幕軍が鳥羽伏見の戦に大敗、あまつさえ首領であるはずの徳川慶喜が(ほとんど誰にも知らせずに)大阪城立ち退きを決行して、海路、江戸に舞い戻る始末です! 江戸に上陸するや慶喜は謹慎中の勝海舟を呼びつけます。彼の心はすでに恭順と決し、勝にその交渉をあたらせる腹づもりだったのでしょう。急を聞いてかけつけた勝は、

 みんなは、海軍局のところへ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服で、刀をカウかけて居られた。オレはお辞儀もなにもしない。頭から、みなにサウ言うた。「アナタ方、何と言う事だ。これだから、私が言わない事ぢゃあない、もうかうなってから、どうなさる積もりだ」とひどく言った。「上様の前だから」と、人が注意したが、きかぬ風をして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかへて大層罵った。己を切ってでもしまふかと思ったら、誰も、青菜のやうで、少しも勇気はない。かくまで弱って居るかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。(勝海舟(江藤淳・松浦玲編)『海舟語録』講談社学術文庫版)

 勝が目の当たりにした光景は、それまでの国家の体制が一気に崩れ落ちるとともに、福地をはじめとする佐幕派の希望が潰えた瞬間なのです。

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 さて、首領(=慶喜)にまんまと置き去りされた福地らは、這々の体で江戸に舞い戻りますが、慶喜や幕閣がすでに非戦に心を決したとしても、幕府倒壊という未曾有の事態に人心さだまりません。勝もここでは「裏切り者」にほかなりません。

 あるいは相率いて脱走する者もあり、あるいは、勝安房守は降伏論の主張者なれば暗殺すべし、と叫ぶ者もありて、人心ますます昂激し、ほとんど全幅の感情のみ左右せられて、道理は自他の耳にはいらざるほどのありさまにてありき。

 なお主戦論を侍してやまず、あるいは近々米国より回航すべき我が注文の軍艦(甲鉄船の東艦)を海上沖に待ち受けて受け取るべし、と同志に語わられては、これを行わんと試み、あるいは仏国によしみを通じてその調停の干渉を乞い、その言聞かれざる時は、仏国の兵力を借りて幕府に応接せしめんことを望、口に任せて説きまわりたりしが、今日より回顧すれば、実に国家と言える観念は我らが胸中にはみじんもなく、さらに将来の利害禍福を察するにいとまなかりしは、慄然としてわれながら身の毛もよだつ程にてありき。

 その日々を反省するのは、先にも言ったように、明治の御一新も軌道にのってから。振り返って見れば、かつての「論語読みの論語知らず」ぶりに、我ながらあきれますが、しかし、これは国家、国民、民族などの概念を一度に消化するためにはやむを得ぬことではあったでしょう。

 そのころはすでにいささか洋書も読みて、万国公法がどうでござるの、外国交際がかようでござるの、国家は云々、独立はかくかく、などなど、読みかじり聞きかじりにて、ずいぶん生まぎぎなる説を吐きて人を驚かし、もってみずから喜びたりしも、いまやおのれ自ら身をその境界に置くにさいしては、まったく無学無識となりて、後患がどうであろうが将来はなんとなろうが、さらに頓着するにいとまなく、ひたすら徳川氏をしてこの幕府を失わしむるが残念なりという一点に心を奪われたり。

 横浜の居留地を外国人に永代売り渡しにして軍用金を調達すべしといえば、これもって名策なりと賛成したるがごとき、今日より回顧すれば、何にして余はかくまで愚蒙にてありしかと、自らあやしまるほどにてありき。しかれども、これはあえて余一人のみにあらず。当時幕府のために主戦説を唱えたる輩はみな同様の考えにて、とうてい日暮れて道遠し、倒行して逆施せざるを得ずといえるが当時の決心たりしこと、争うべからざるの事実なり。

 なんだか、最近のWebでやたらに投稿される、その場限りの思いつきコメントを想い出してしまいますが、福地の良さはそれを素直に吐露・反省するところ。それにしても、せっかく長崎から江戸にでて、幕府の中枢にまで伸びたコネクションもキャリアもすべて無になるのは、いかにも耐え難いところであったでしょう。

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 さて、御一新後の福地はどうしたかと言えば、慶応4年閏4月(1868年5月)、江戸で『江湖新聞』を創刊して、幕臣よりジャーナリストに転じますが、「結局、政権が徳川から薩長に変わっただけではないか」という記事が筆禍となり、発禁・逮捕されてしまします。木戸孝允の取り成しでなんとか無罪放免になると、今度は「夢の舎主人」等と号して戯作に手を染めるという文筆業と、英語・仏語の翻訳・教授で身をたてます。

 ところが、明治3年には渋沢栄一の紹介で大蔵省入り、岩倉使節団の一等書記官として米欧視察後、明治7年大蔵省を退職、政府系の『東京日日新聞』にかかわり、政権系ジャーナリストになります。このあたりはめまぐるしいまでのキャリアの変遷、新時代に自分の落ち着きどころを探すのに四苦八苦というところです(オポチョニストでもあったと言えそうです)。

 明治10年代は、東京商法会議所設立にかかわり、東京府議会議員に選出、さらに政権寄りの立憲帝政党を結成しますが、これは失敗。結局、自らの見過ぎ世過ぎは手慣れた文筆行ということで、9代目市川團十郎などと演劇活動にかかわり、さらに翻訳、戯曲・小説を執筆します。明治の彼の活動では、この演劇改良運動・劇場運営(歌舞伎座の創設)、歌舞伎座の座付き作者、評論活動などにいそしみ、明治39年(1906)没します。時代の波にのりながら、波を乗りこなせずに、それでもしぶとく時代を渡りきった人生と言うべきかも知れません。

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 このどこまでも派手で、かつ“パッパラパー”な福地の人生と比べれば、はるかに堅実なのは、17歳年上で、森山とともにマクドナルドから英語を習った本木昌造(1824~75)でしょう。本木は、森山・福地が上京後の1869年、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立します。学問の普及は、まずそのメデイアの確立から、という地に足のついた仕事ぶりです。Wikipediaによれば、

 同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブルから活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。

 1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。ギャンブルの活字にはひらがなはなく新たに開発する必要があった。その版下は池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、1872年、小幡と平野を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。本木は新塾の経営が苦しくなると、製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。(Wikipedia)。

 しかし、維新後は事業がかならずしもうまくいかず、体調もすぐれないまま、本木は1875年9月3日に死去します。森山多吉郎はすでに1871年5月4日に死亡、一方、福地源一郎は『東京日日新聞』でジャーナリストとして活躍している頃にあたります。通詞キャリアコースも新旧の入れ替えがはじまります。

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 ところで、福地は御一新のみぎり、新政府との政務引き渡しの業務を果たすため、主戦論者に誘われて「脱走にくわわることあたわざりしは、今日より顧みれば余が幸いにてありき」と回想しますが、実は、長崎通詞のなかには実際に脱走に加わり、函館まで渡った者もいます。この時のほんのちょっとした決断の差が、彼らの人生を変えてしまうわけです。

 その一人、長崎通詞出身の五島英吉は戊辰戦争に身を投じ、榎本武揚や元新撰組副長土方歳三らとともに五稜郭まで転戦します。もちろん、皆さんも知っての通りの敗戦、新政府側の追求を逃れて英吉が逃げ込んだ先が函館ハリストス正教会でした。ここは「1859年(安政5年)にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流」とされる「日本正教会でも伝道の最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つ」だそうです(Wikipedia)。

 この教会にかくまわれた英吉は、ロシア人たちから料理とパンの作り方を覚え、若山惣太郎とともに1879年、在留外国人や外国船にパンや西洋料理を納める小さなレストランを開業します。この五島軒は現在でも函館他で開業中です(洋食バル 函館五島軒HP;http://hakodate-gotoken.com/gotoken/)。英吉自身はここで7年間コック長を努め、明治19年の火災で店が焼けた後、横浜に転居したとのこと。その後の英吉の消息ははっきりしないようですが、横浜に転居後も夏に避暑に訪れ、五島軒の2代目が帝国ホテルで修行する際にも協力したということです。

保守と革新:“革新官僚”とは誰のことか?

2018 9/29 総合政策学部の皆様へ

 最近、「自民党や維新の会は新しいことをやろうとしているので“革新”では?」、そして「共産党などは現状を守ろうとするので“保守”では?」という話題がささやかれているとのことですが(「「自民党こそリベラルで革新的」——20代の「保守・リベラル」観はこんなに変わってきている」https://www.businessinsider.jp/post-106486)、ことほどさように我々は、“保守”だとか、“革新”だと、あるいは“リベラル”等という、自分たちが使っている言葉の意味をあまり深く考えもせず、発していることが多いようです。

 というのも、かつて(今から80年ほど前には)、“革新官僚”と言えば、「1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時統制経済の実現を図った官僚層のことをさす。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった」(Wikipedia)だったわけで、大陸に対する軍事的傾斜を支えるべく、かつ万一、英、米、ソ連との総力戦に突入した場合に備え、国家体制を整えることに邁進することこそ“革新官僚”だったわけです。その点では“革新”というは“相対的”評価であり、「現状と異なることにもっていきたい」ぐらいの意味でしかないかもしれません。問題は「どの方向に、現状を変えたいのか?」ということにほかならないはずなのですが。

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 それはさておき、昭和初期、つまり日中戦争から第2次世界大戦に突入しようという時期、どなたがその“革新官僚”の筆頭だったかと言えば、なにを隠そう、安部現首相の祖父、岸信介こそ、その巨魁にほかなりません。そして彼らは来るべき世界大戦で予想される総力戦に突入すべく、国家総動員のモデルとしたのが「ソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した」(Wikipedia)とされています。

 こうした流れをめざとくも読みとったのは、このブログでしばしば触れてきた阪急の実質的創設者にして、関学の上ヶ原移転でお世話になった小林一三(当時、近衛内閣の商工大臣)にほかならず、「あれはアカの発想である。役人の間にアカがいる」と主張、企画院事件によって部下の商工省事務次官の岸の首をとりますが、その後、自らも辞任に追い込まれます。

 さて、その「国家総動員」と「5ヵ年計画」の関係については、岸自身に語ってもらいましょう(出典は『岸信介の回想』講談社学術文庫版)。

岸:(ソ連の第一次5ヵ年を)初めて知った時には、ある程度のショックを受けましたね。今までわれわれのなじんでいる自由経済とはまったく違うものだし、目標を定めて、それを達成しようという意欲というか考え方に脅威を感じたことを覚えている。しかし果たしてああいうものが計画どおりにゆくものかどうかということに対しては、一つの疑問はもっていた。(こちらも革新官僚である)吉野さんはなどははっきりしていて、こんなものはできるはずがない、と吐き捨てるように言っていた。
矢次食事をする会だったかで、吉野さんはロシアの第一次五ヵ年計画を知って、ソ連は恐るに足りない、成功する可能性はない。しかしこれを俺にやらせてくれれば、必ず大成功させてみるがねと言っていたことがある(笑)。

 この吉野の豪語こそは、“官僚”としての矜持というものでしょう。そして、統制経済とは、当時の常識からすればまさに“革新”的発想だったわけです。とは言え、「ソ連恐るに足らず」とは官僚として判断力不足だったかもしれません(そのあたりは、例えば、第2次世界大戦時のソ連の戦車T-34と、日本軍の最新の主力戦車としての一式中戦車を比較すれば歴然としています)。

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 さて、こうした事情を見ると、Wikipediaに“革新官僚”としてリストアップされた方々の、戦中から戦後にかけての履歴=末路はにわかに濃い陰影を帯びてきます。例えば、以下の方々は戦後になるといわゆる左派=社会主義者系として活動しており、「アカの思想だ」と喝破した逸翁こと小林一三の予言通りと言えなくもありません。

和田博雄:第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で経済安定本部総務長官、物価庁長官、左派社会党政策審議会長・書記長、日本社会党政策審議会長・国際局長・副委員長
勝間田清一:1947年に社会党から立候補して衆議院議員当選、のち日本社会党委員長
帆足計:1947年、東京都選挙区から無所属で参議院議員立候補、当選。のち社会党から衆議院議員

 一方、同じ“革新官僚”ながら、自民党に続く保守政党に属し、1946年に国家総動員法が廃止されるもそののちのいわゆる1955年体制をになった方々としては、
岸信介(商工省時代は、下記吉野の部下、そして椎名の上司)
吉野信次:公職追放後、参院当選、鳩山内閣の運輸大臣。大正デモクラシーで著明な吉野作造の弟。
椎名悦三郎:商工次官から、戦後は自民党代議士、内閣官房長官、通商産業大臣、外務大臣等。
高村坂彦:衆院議員から徳山市長を経て、再び衆院議員(元外務大臣の高村正彦は4男)

 さらに、戦争から敗戦を経て、不幸な道筋(暗殺あるいは挫折)をたどった者として、

永田鉄山:陸軍省軍務局長(陸軍少将)在任中、統制派と皇道派の抗争で相沢三郎陸軍中佐に暗殺されます。
白鳥敏夫:イタリア大使として三国同盟締結にかかわるも、敗戦後、A級戦犯として指定を受けた。巣鴨拘置所に終身禁固刑の判決が下るも、病死。

 こうしてみると、人生のある時期、“革新”という言葉でくくられても、その行く末は定かならず、様々な道行きがあるというべきかもしれません。その岸ですが、実は、東京裁判での(結局不起訴とはなるにせよ)A級戦犯被疑者から釈放されたのち、いったんは日本社会党に入党しようとします(党内からの反対で、結局、自由党に入党)。このあたりも“革新”者がこれからの道筋を選ぼうとする際の迷いのようなものを感じさせないわけでもありません。

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 さて、戦前に資本主義リベラリストの小林一三が「アカ」だと評した革新官僚の一人、正木千冬は戦後の回想で「ナチスの社会経済機構なんか研究してみたり、経済統制を強化するという線で提言してみたり、いまになってみれば本当に左翼的な立場で戦争を批判していたのか、あのような資本主義の生ぬるい戦争経済じゃ駄目だから、もっと戦時統制を強化しようという促進のほうに向いていたか、はっきりしません」と漏らします。

 そして、「統制経済というのは、一歩ひっくり返せば社会主義経済に繋がりますからね」との質問に、「そう、その時分、紙一重です。迫水(迫水久常)にしても毛里(毛里英於菟)にしても、その時分の革新官僚の連中は、ほとんど紙一重ですよ。ナチス的とも言えるし、社会主義的とも言えるし、真からの資本主義を信仰していないという点で言えば、彼らもアカだったと言えるでしょう。私もそこにいたんです」と回想しているとのこと(Wikipedia)。

 しかし、こちらの方の議論でも、統制経済/計画経済はあえなくアメリカ合衆国の“資本主義”に圧倒されてしまうわけです(そのあたりは、森本忠夫『マクロ経済から見た太平洋戦争』[PHP新書]をご覧下さい)。

 こうした経緯を振り返れば、皆さんも、“保守”vs.“革新”だとか、“右翼”vs.“左翼”などのレッテル貼りを簡単に信じてはいけない、と思いませんか?

時間外労働について、甘粕元大尉と残業代Part2

2018 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 前編「時間外労働について、甘粕元大尉と残業代Part1」では、橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)から、萩藩においては18世紀半ば頃から、仕事と時間の関係が変わり、その結果として“残業代”らしき概念がうまれてきた顛末を紹介しました。まさに“近代化”です。“遅刻”の概念と“残業代”の概念が、ほぼ同時に生まれてきます。

 こうした概念は、様々な社会階層で同時多発的に進行したようです。Part1で紹介した白木屋日本橋店ではよくわからない“残業代”ですが、実は、同時代、同じ江戸店であった三井越後屋では、労働管理の一貫として勤怠管理を施行していたとこのことです(瓦版HP「江戸時代に三井越後屋が築いた勤怠管理の方法」https://w-kawara.jp/making-efficient/attendance-management-method-made-in-the-edo-period/)。「昼夜勤仕録」という記録では、

(1)江戸時代の不定時法(季節による日照時間長の変化にあわせる)で皆勤時間を設定
(2)休んだ労働者には「朱星」が、病欠等は「黒星」が記録される。なお、公休や店舗が定めた休日、喪中はこの対象としない。
(3)残業をした場合には「朱星」を預かり扱いとする。
(4)三井家は、期間分の記録をもとに褒賞を検討:1ヵ月で「朱星」が8つほどあれば皆勤扱いとする。

 つまり、残業した場合は期間ごとに朱星を集計して、皆勤時間として評価した上で給与全体に補填するというシステムのようです。

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 こうして江戸期も進めば、雇用側も被雇用者も、労働時間と時間外手当を否応なしに意識せざるをえなくない。それでは、日本の近代化において次はどのような展開になったのか? 同じ『遅刻の誕生』の第4章「二つの時刻、三つの労働時間」(鈴木淳執筆)では、1865年(造船所元治2年)フランス人の指導のもとに創業した横須賀造船所(明治維新後は横須賀海軍工廠)に関する勘定奉行の伺いを紹介しています。

御軍艦鍛冶職等の義、御定め賃銀1日銀7匁8分づつのところ、右は朝五つ時頃より夕7時までの賃銀にて、大早出、大居残り等仕り候らえば、右賃銀の倍増相渡し候義にこれあり」

 このように労働時間を定めるとともに、早出/居残りの場合は賃銀を倍にするという施策です。鈴木はこうした状況から、「幕末の幕府は少々の残業は無償で、大幅なら日当の倍額支給というおおざっぱかつ多分に恩恵的な給与を行っていた」としています。こうしてPart1の末尾でも紹介していたように、江戸時代日本で内在的に進行していた近代化は、黒船来航を嚆矢とする外圧によってさらに加速します。

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 さて、皆さんもご存知のように明治に入ると、近代化にともない賃銀労働者は激増します。とは言え、雇用者はできるだけ安く雇用しようとします。上記の論文で鈴木は1883年から1892年にかけての富岡製糸場の年度平均1日あたりの労働時間・年度職工賃銀・生糸生産高を比較して、実労働時間が8時間40分から10時間2分に増え、生産高は3415貫から3722貫に増えたにもかかわらず、賃銀総額は8,998円から8,350円に減少しており、「賃銀の上昇なく労働時間が延長されたと考えざるを得ない」と指摘しています。

 つまり、近代的時間意識は雇用者側にも被雇用者側にも未熟であり、雇用者はそれにつけこんで低賃金労働を強いる結果となったのでしょう。こうした状況下、時間外労働あるいは残業代については具体的資料に乏しいようです。

 鈴木氏がここで持ち出すのは例によって横須賀造船所の1878年(明治11年)1月の規定で、これが現在確認可能な残業に関する最初の資料とのことです。それによると、「残業する職工に対して1時間分の賃銀を基準として残業1時間についきその1.5倍、午後10時から午前4時は2倍を支給するとある。残業に入ったとたんに支給率が上がっている」。ところが「1884年3月には海軍の工場すべてを通じて定業から午後7時までは1倍、午後7~10時・午前4時~起業時までが1.5倍、午後10時~午前4時は2倍に変更される。・・・3時間程度前の残業へは、正規の時間内と同様の賃銀しか給せられなくなった・・・・この程度の残業が常態化していたことをしめすのではないだろうか」。

 鈴木氏はさらに横須賀造船所をはじめとする陸海軍工廠での作業は、民間企業とことなり、緊急の修理作業等の比重が高く、さらに戦時ともなれば、不規則な長時間労働が生じた可能性も指摘しています。日本企業における、いわゆる“ブラック企業化”がこのあたりからはじまったのかもしれません。

 いずれにせよ、明治初期、日本における労働時間の概念の確立と時間外労働に対する手当(=残業代)をめぐり、雇用被雇用者の間に様々な駆け引きがあったようです。皆さんも、職業を選ぶとき、こうした労働時間と賃銀、さらには雇用者と被雇用者の駆け引きなどをきちんと頭に入れて置いて下さいね。

翻訳について番外編Part1:森山多吉郎に見る長崎通事の栄光とライフヒストリー、あるいは幕末キャリアプラン

2018 9/5 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編、今回のマクラとして、皆さんは“長崎通事”のことをご存知ですか?

 Wikipediaでは「江戸幕府の世襲役人で公式の通訳者のこと」、「ポルトガルとの南蛮貿易の際の通訳に始まり、オランダ貿易や中国貿易などを担当した。漢字は通事、通辞、通弁などとも書き、出島役人などとも言う」、「蘭学などが彼らによって日本に入ってきたように、西洋文化受容の受け皿となっていた」とあります。江戸時代、家業によって身分保障されていたことにより、通詞の家系は仕事を保証されていたとも言えますが、一生、通詞のままで過ごすということもまた“予定”されていた。
 
 しかし、幕末、彼らは“黒船”などの来航に際し、英語やロシア語の習得まで求められます。さらに、思っても見なかった幕臣への出世まで起こりうる。外国語さえできれば“食える”し、そのまま“出世”もできる(この時生まれた“外国語・外国文化コンプレックス”が、現代日本に生きる我々のあたりまでも色濃く烙印されている、とも言えますが;なにしろ、英語が読めるという理由で、こちらも軽輩出身の伊藤博文が第1代総理大臣に就任する時代です)。

 それでは、この乱世に自らも小普請組から幕府陸軍総裁に就任し、御一新後は枢密顧問官まで勤める(それゆえ、福沢諭吉に非難されてしまうことになりますが)勝海舟が「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえる」と語った時代における、彼らの人生をちょっと紹介してみましょう。

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 まず、代表格の一人は森山栄之助/多吉郎(1820~1871)でしょう。代々の長崎オランダ通詞の家柄に生まれながら、蘭語以外に英語も勉強し、嘉永元年(1848)にはアメリカ捕鯨船船員ラナルド・マクドナルド、嘉永6年(1853)のプチャーチン来航、さらに嘉永7年(1854)のペリー来航でも通訳を務め、ついに長崎を離れて江戸詰めになります(1858年8月、外国奉行支配勘定格に任ぜらえる)。一躍、日本の対外外交の最先端に連なることになります。

 ちなみに、手元にあった『ペリー提督日本遠征日記』(小学館版)では、4月6日の項に「村や集落に私たちが入ろうとすると、一足先に人がやられて、女や下層民を追い払っているのに気がついた。これを通訳の森山に言うと、「それは女たちが内気で恥ずかしがり屋だからだ」と彼はしたり顔で答えた。「しかし、そんな話はまったく信じられない」と私が言うと-辛辣過ぎるとは思わない。なにしろ、日本の通訳の仕事は嘘をつくことなのだ-、次ぎに行く村では軽い食事を用意させているが、そこでは女たちを追い払わないようにする、と彼は約束した。そういうわけで、その村に入るとだれもかれも-男も女も子供も-見物に集まってきた」とでてきます。しかし、この後の日米の交渉では、アメリカ側も結構“嘘談(うそ)”を重ねては、幕府側に密かに見破られるなど、結構良い勝負だったようです(井上勝生『幕末・維新』岩波新書)。

 なお、この時の交渉について、ペリーは「林(林大学頭の述斎=幕府側全権)と私の間には、主席通訳の森山栄之助がひざまずいており、やりとりはすべて彼を通して行われた。まず私が英語でポートマン氏に言うと、彼がそれをオランダ語で森山に伝え、今度は森山が日本語に訳して主席委員に伝えるのである。返答は同じようにして私に伝えられた。書面での通信は、こちらから英語、オランダ語、中国語で手渡し、返書は人後、オランダ語、中国語で戻ってくる。翻訳文については、かならず主席通訳の署名が添えられていた」とまとめています。

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 それでは、その森山の英語の実力は?

 ペリー来航前の長崎通詞時代、森山は幸いにして上記の不法入国者として長崎に入牢中のマクドナルドから、本木昌左衛門等とともに、7ヵ月にわたって英語を習った経験がありました。そのマクドナルドによれば、「 私にむかって一度にひとりが英語を読むことが彼らの習慣であった。私の役目は彼らの発音を正し, 出来得る限り日本語で英語の意味や構造等を説明することで あった」とのこと(森悟、1989「森山栄之助研究」『英学史研究』 21号)。これが日本における英語教育の走りなのです。

 ちなみにマクドナルド自身は森山の英語に「He spoke English pretty fluently, and even grammatically. His pronunciation was peculiar, but it was surprisingly in command of combinations of letters and syllables foreign to the Japanese tongue」(彼の英語はかなり流暢で、文法的でさえあったが、発音は変であった。しかし日本人の舌に合わぬ文字や音節の連結を驚くほどうま く使いこなした)と評したそうです。なんとなく「文法はまあまだが、発音が不得意」と形容される日本人の英語下手が想起されます。

 とはいえ、ペリーとの交渉では上記のようにオランダ語を通じてのものとなりましたが、森山は次第に英語に磨きをかけます。1859年、初代英国総領事に任命されたラザフォード・オールコックによれば、(1)文久2年(1862)に通訳として欧州に派遣される以前は、森山は「英語をすこししか話さなかった」が、(2)旅の途中に「イギリス人とも、 情報の交換ができるほど英語を話し理解するようになっていた」、そして、(3)帰国する頃は「ひじょうに語学が進歩していた」としています。やはり実地のコミュニケーションの経験こそが重要なのですね。

 ちなみに『福翁自伝』では、横浜で(適塾で一心不乱に勉強した)蘭語がまったく通用しないことに愕然とした福沢諭吉は「段々に聞いてみると、その時に条約を結ぶというがため、長崎の通事の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用をつとめている」ということで、教えを請いにいきますが、「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというのならば教えて進ぜよう、ついては毎日出棺前、朝早く来い」と言われたのですが、「如何しても教えてくれる暇がない。それは森山の不親切という訳ではない。条約を結ぼうという時だから、なかなか忙しくて実際に教える暇がありはしない」ということで、紆余曲折の結果、福沢は後の陸軍少将・東京砲兵工廠長の原田敬策と独学で英語を勉強、咸臨丸でアメリカ来訪時、サンフランシスコの写真館での肖像写真を撮影時に、店の15歳になった娘さんをさそって一緒に写真におさまるまでになります。

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 その森山に通訳としての対応者が現れます。それがペリー来航で締結された条約にしたがって来日した初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリス付き通訳にして、生涯独身をつらぬき謹厳実直で、かつすぐに感情が激する上司とはいささか異なり、「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、その他のことはあまり気にしない(ハリスの評)」闊達なオランダ生まれの青年ヒュースケンです(その闊達さが仇となったか、1861年、攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らに暗殺されてしまいます)。

 この『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫版)によれば、彼は下田到着後の1857年2月23日(日本の旧暦では安政4年1月29日)、カゴで案内された下田奉行所で歓待をうけながら、通訳森山に出会っています。日記には「第1奉行はそこで、彼の通訳のモリヤマ・タキツィロ(=もちろん、森山多吉郎)を通じて、こう説明した。身分のある人物が同様に身分の高い客を迎えて深い敬意を示そうと思うときは、手ずからお茶を入れてもてなすのだが、第一奉行は、親愛なる総領事閣下に敬意を表するために、いまそのおもてなしをしようと思う、と

 ハリスと日本側の虚々実々のやり取りの末、日米修好通商条約が成立する過程で、ヒュースケンの日記に森山の影が絶えずちらつきます。例えば、同年9月2日、「二人の奉行のところから使者として森山栄之助がやってきた。彼は昨日の要求を繰り返し、領事が信濃守の要求を入れなければ、信濃守はおそらく備後守の二の舞を演ずるであろうと言った。それに対する回答として、彼は私がたった今封をしたばかりの手紙を与えられた」。

 9月4日「ひきつづき奉行たちと会談。うんざりするような繰り言しか出てこない。彼らはけっして提案を拒絶したわけではないと主張する。彼らは通訳主任の森山に腹を立てている。そのため彼は会議に出席していない。彼らは自分たちが提案を拒絶したと領事が主張するなら、それは自分たちの言葉を通訳が正確に翻訳していないのだと言うのである。そこで今日は他の通訳が二人来ているが、その二人をあわせても森山一人分のオランダ語も知らないのである。それがさらに事態を悪化させている。つまりそれは拒絶した提案を復活させようがための奉行たちの小細工なのである」。こうなると、森山&ヒュースケン双方の通訳たちはなかなか大変です。

 しかしながら、交渉は進み、1857年12月4日(安政4年10月18日)ハリスとヒュースケンは下田から江戸に出府、まず老中堀田備中守に会見、この時の通訳も森山が勤めます。そして同月7日江戸城にて第13代将軍徳川家定に拝謁します。以下、ヒュースケンの日記には、ハリスの言葉に対して「大君(家定)は三度床を踏みならし、そして日本語で答えた。“Vergenoegd met eenen brief gezonden met den afgezant van een verafgelegen gewest en tevens met zyn gesprek. Eeuwig zal Gemeenschap gehouden worden”.これは通訳森山多吉郎のオランダ語で、意味は「はるか遠国より使節に託して寄せられた書簡をうれしく思う。また、使節の口上もよろこばしく聴いた。末永く交誼を保ちたいものである」ということである。この挨拶には人称代名詞がなかった。大君は「私」などという小さな言語を使うには偉大過ぎるからである

 この森山は幕府崩壊の直前、慶応3年 (1867)9月には兵庫奉行支配組頭に出世していますが、維新後に新政府に仕えることはなく、明治4年3月15日(1871年5月4日)、享年51歳で亡くなります。家業として親しんだオランダ語と偶然にも学ぶ機会を得た英語を駆使し、幕末の国際関係にからんで様々な重圧のもと、消耗し尽した人生だったのかもしれません。あるいは幕末の頃、守旧派や攘夷派そして世間全体に痛めつけられ、振り回された洋学者の一人として、攘夷を標榜としている新体制を信じ切れなかったのかもしれません(福沢諭吉も同じ頃、“攘夷派あがりの新政府”を警戒して出仕を断ります)。

 それでは、森山の遺志を誰がどのように継いだのか? そのあたりはPart2で続けましょう。

時間外労働について、甘粕元帝国陸軍大尉と残業代Part1

2018 8/5 総合政策学部の皆さんへ

 しばらく前まで国会で「働き方改革関連法案」こと正式名称「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案」が与野党の攻防の焦点になっていましたが、そこで焦点とされた“裁量労働制”にからんで、日本の近代化において、“残業/時間外労働”という言葉=概念はそもそもどんな経緯で出現したのか気になりました。

 というのも、最近、“昭和の妖怪”こと岸信介の満州時代をもう少し知りたくて、『満州と岸信介:巨魁を生んだ幻の帝国』(太田尚樹、2015、KADOKAWA)という本をひもといていると、以下の記述が目をひいたからです(この本に関する限り、白色テロリストと見なされる元帝国陸軍大尉甘粕正彦の方が、主役たるべき岸よりもよほど印象的です)。

戦後、武藤富雄甘粕の思い出を語るとき、必ず出てきたエピソードがある。昭和13年秋のことだったが、ハルピン交響楽団を新京に呼んだ折、甘粕は協和会宣伝部の仕事を兼任していた武藤に向かって、会場係に駆り出された職員に、時間外労働させましたね。きちんと手当を払っておいて下さいと念を押したそうである

 さらに、次のような記述もでてきます。

終戦の数日前、甘粕は「日本人は一日も早く、祖国再建のために内地にお帰りなさい」と周囲の人間達に告げた。そこからの行動が如何にも甘粕らしい。満州興業銀行の口座から満映の貯金600万円を強引に引き出し、古海にも頼んで総務庁から200万円出させると、満州人社員には正規の退職金、日本人社員には平等に5000円ずつ分け与えた。そのとき甘粕は「満映の施設を破壊するようなことのないように。すべて満州と中国の人々に残すのです」と指示した

 関東大震災後の混乱に乗じて、アナキスト大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに甥の甥・橘宗一の3名を拷問の末、虐殺(いわゆる甘粕事件)、その責をおって一人下獄、軍籍を失った後、軍上層部の手配によるフランス滞在を経て、満州国に流れ着き、数々の謀略に従事、「官僚ならではの狭量で潔癖にすぎる点」「ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた」(Wikipedia)とされる甘粕が、部下の残業代さらには敗戦直後の退職金にまで心を配る様は(自らは最後の指示の直後に青酸カリで自死)、甘粕に殺された大杉執筆の『大杉栄自伝(=傑作です)』が大好きな私にとってつい考え込んでしまう一文です。

 ということで、大杉栄も甘粕もまた別の機会にとっておいて、本日は残業/時間外労働についてのお話です(皆さんも、卒業後は切実な問題ですよね)。

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 さて、あらためて申すと、“残業”とは“時間外労働”であり、つまりは“労働時間”の概念から生まれたことに違いありません。それでは「使用者または監督者の下で労働に服しなければならない時間(Wikipedia)」という近代的な労働時間とは?

 その基本的理念の源泉のひとつは、合理的資本主義者の祖の一人であるベンジャミン・フランクリンの十三徳の第3条「規律:物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし」、そして第8条「勤勉:時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」に裏打ちされたものでしょう。とくに「仕事はすべて時を定めてなすべし」に基づけば、資本家と労働者があらかじめ約束した“時”を越えて労働をさせた場合、時間外手当をはらうべきである(と甘粕はめざとく気がつく)のです。

 さて、こうした時間外手当の日本での起源はどこか? たとえば、江戸時代、加賀藩の経理にあたる“御算用者”の家業に従事している藩士猪山信之家の“入払帖(家計簿)”を研究した歴史家磯田道史先生の『武士の家計簿』をひもとくと(新潮新書の50頁、71頁に天保14年の収入や支出が記されています)、残業代のようなものはとくに言及されていないようです。

 それでは、武士以外の都市生活者、いわゆる“素町人”としての給与所得者の世界はどうだったか? 江戸時代の白木屋日本橋店(現在の東急百貨店)が残した膨大な“白木屋文書(現在は東京大学経済学部図書館で保存されているそうです)”を読み解いた油井宏子氏の『江戸奉公人の心得帖』(新潮新書242)では、「奉公人たちは、いくら給金をもらっていたのでしょうか。いつ、どのように給金がしはらわれていたのでしょうか。実はこれがよくわかならいのです」とあります。

 もっとも、日本橋店に遅れて開店した富沢町店の資料では、明和6年の『定法帳』に「この店には、これまで給金の規定がなかったので、このたび定めることにした。日本橋店と相談のうえ」とあって、元服前の(田舎から呼び寄せられたばかりの)子供には給金が渡されていないが、「元服後3年目までは4両、4年目の春からは5両、買いだし役となった時には6両、支配人(支配役)給金は10両。また、退職恩賞金として23年以上勤続のヒトには50両、支配人退役の時には100両」とあるそうです。当時、奉公人は店に住み込み(=当然、独身)で食事・住居費の心配はなく、衣類は夏冬に「仕着」をいただくというシステムです。その給金は直接支給されず、お仕着せ以外の衣類や店での食事以外の飲食物等を店を通して購入することで、店から借りることで1年の給金から差し引かれる、ということだった、と油井氏は推測しています。

 このように、私のような素人が手持ちの啓蒙書の類を探しても、なかなか江戸時代の“残業代”にたどり着けません。

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 そこでちょっと専門の本を持ち出しましょう。橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)は、皆さんも大学を卒業して社会に出る前に「いかに我々は近代的時間に支配されているのか?」を一考するのに参考になる好著ですが(もう一つお薦めは、いうまでもなくミヒャエル・エンデ原作『モモ』でしょう)、その第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)に、萩藩(いわゆる長州藩です)が1789年(寛政元年)に市中の大工さんの使役について定めた掟がでてきます(=人件費について公定レートを定めているのです)。

一 上大工は一人昼働を5時として、賃金は米1升・銭184文とする。中以下はこれに応じて規定する。
二 その額を書いた札を人別に公布するので、それ以上を雇用者が支給することを禁止する。
三 昼働5時以外に夜中まで使役したり、あるいは短時間のみ使役した場合は札に書いてある額を「時割」にし、それのさらに一割増しを支給する。

 著者の森下はこの結果から、「ほぼ18世紀半ばを境にして、一日丸まる拘束されるようなあり方から、時間で労働量を測り、それに応じて賃金を支給するあり方に変わった」、「一日の労働時間がより短く算定され」「「時割」での賃金の支給(しかも割増し)もあったことも知られる」としています。ちなみに、この1789年にはベンジャミン・フランクリンはまだ存命中(なくなるのは翌1790年)、時間と仕事の関係についての近代化が、図らずも太平洋を隔てて同時に進行していたことがわかります。 (この項 to be continued・・・・・・・・)

叙勲とは何か? 勲章から見た近代国家像について

2018 7/14 総合政策学部の皆さんへ

 本日のテーマは“勲章”あるいは“叙勲”と、それを通して垣間見える近代国家の性格です。こんなことを考えたのも、すでに旧聞になってしまいましたが、4月29日の朝日新聞に掲載の「春の叙勲」を眺めるともなく眼を通していると(本来はあまり興味がないのですが)、外国人への叙勲の中に旭日小綬賞にアグネス・チャンさんの名前が目につきました。そして、そのお隣がなんとジェーン・バーキンなのです。

 と言っても、今の学生さんには「えっ、そもそもジェーン・バーキンとは誰?」と思うでしょう。20世紀後半、フランスで「反体制的な作風で人気を博し」、「作詞に特徴が強く、ダブル・ミーニングなどの言葉遊びを多用する。また、ときにはメタファーを使って、ときには露骨に性的な内容を語った歌詞が多い」(Wikipedia)ことで知られたフランス(両親は帝政ロシア(現ウクライナ・ハリコフ)出身のユダヤ人)の作曲家・作詞家・歌手・映画監督・俳優であったセルジュ・ゲンズブールと長年カップル(事実婚)だった女優・歌手なのですが、その彼女がよりにもよって“体制派”的な響きをともなう“勲章”を受け入れる! と感じた次第です。

 Wikipediaを調べると、バーキンは「2011年、日本の東日本大震災の発生を受けて、同年4月6日という早い段階で来日し震災支援のチャリティーコンサート」を行い、その後も震災支援を続けており、こうした活動への評価が込められているのでしょう(なお、外国籍の受賞者は外務省からの推薦とのことです)。ちなみに、“反体制”的シンボルであったセルジュ・ゲンズブールも「死後はその栄光をたたえて、ジャン=ポール・サルトル、シャルル・ボードレールなどの著名人が数多く眠るモンパルナス墓地に葬られた」そうです(Wikipedia)。

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 ジェーン・バーキンへの勲章授与という(私にとっても思いもかけない)ニュースに心ひかれて、旭日小綬賞者のリストを調べると、少し離れたところに同じフランスのシンガー・ソングライターであるシャルル・アズナールが出ています。御年なんと93歳! ちなみにアグネス・チャンさんは62歳、ジェーン・バーキンは71歳。さらに昔ロッテの監督をしていたバレンタイン監督が67歳で、関西国際空港のターミナルを設計したことで知られる建築家レンゾ・ピアノ氏は80歳での叙勲です。

 ちなみに、旭日大綬賞には、オルブライト元国務長官、ジョン・シドニー・マケイン3世(上院議員、元アメリカ海軍大佐[ちなみに祖父と曾祖父はともに海軍大将]、3世自身は北爆中に撃墜され、捕虜となった過程で重度の障害を負い、解放後、海軍を退役、政治家に転身します)、ジャン・クロード・トリシェ(元欧州中央銀行総裁)などそうそうたる顔ぶれが見えます。また、旭日重光章にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロらも含まれています。

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 それでは、日本人ではじめて勲章をいただいた方は誰か? 皆さん、わかりますか?

 翻訳家・比較文学研究者の高橋邦太郎氏による『 日本国勲章起源考』(1966)によれば、天正13年(1585)、ローマ法王シスト5世から伊東マンショら天正遣欧少年使節に贈られた金拍車騎士(Cavalieridi Sporoni d’oro)で、標章として金の頚飾と金の拍車とからなる勲章が授けられたとの嚆矢とのこと。その次の授与者は、天明2年(1782)、ロシアに流れ着いた伊勢白子浦の船頭大黒屋光太夫らで、女帝エカチェリナ2世に拝謁時に光太夫に金色の勲章が、あとの二人に銀色の勲章が授与されているそうです。

 それに対して、近代日本で“勲章”を初めて授与したのは、実に江戸幕府でも明治新政府でもなく、薩摩藩なのです。というよりも、1867年(慶応3年)のパリ万国博に江戸幕府に対抗すべく、「薩摩琉球国」で出品した薩摩藩を密かに支援したフランス貴族モンブラン伯が張本人で、「時宜的な手を打って幕府に大きな打撃を与え」るべく、「薩摩琉球国勲等”を製作し、皇帝はじめ要路の大宮へ贈進」私用としたことである。「モンブラン伯はパリの勲章師にレジョン・ドヌール勲章にかたどり、赤い五稜屋の中央に、丸に十字の島津家の紋章を白く浮かし、五稜の間に、金文字で「薩摩琉球国」と五字をはさみ、赤地に細い白条を両端に近く1本ずつ入れた綬をリボンを結んだ形でつないだ、甚だ異国趣味の横溢した勲章のもつ意義とその功用は、モンブラン伯の意図通り、非常に大きな効果をもたらした」というわけです(現在は、鹿児島の集成館に展示されているという)。

 高橋は「この勲章が皇帝以下に贈られた時は、相当なセンセーションを起した。もっとも有力なフィガロFigaro、ルタンLe Temps等の諸紙がこの記事を掲載したことでも立証することが出来る」と続けます。もちろん、これは「日本は絶対君主としての徳川将軍が治める国ではなく、ドイツと同様に各地の大名が林立する領邦国家であり、徳川家といえども一大名に過ぎない」(Wikipedia)という政治的プロパガンダとしてまことに有効な手段であったと思われます。この時、江戸幕府代表としてパリに赴いた徳川昭武一行にとっては、この「生き馬の目を抜く」ような事態にあっけにとられたようです。

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 こうした先例を踏まえば、“勲章”がたんなる「お飾り」ではなく、“国家”やそのアイデンティティに深く関わるものであり、政治的なメッセージをももつものだ(もちろん、それは勲章を拒否することさえも含んで)ということはおわかりいただけでしょう。

 この「薩摩琉球国勲等」を踏まえてか、御一新後、明治政府はまた勲章制度に着手します。それでは、薩摩琉球国勲章が範としたレジョン・ドヌール勲章について、次に紹介したいと思います(ふと気づけば、今日はパリ祭=レジョン・ドヌール勲章にも縁深きフランス革命の始まり、バスティーユ牢獄陥落の日です)。 to be continued…

植民地経営のための手段としての“植民地政策学”(続き)鉄の枕木から米糖相克まで

2018 3/20 総合政策学部の皆さんへ

 「北海道開拓の村からVer.4:植民地経営のための手段としての“植民地政策学”」の続編、テーマは「植民地経営で儲けるには?」とでもなるのでしょうか? 古代の植民地/植民都市はいざ知らず、近代的植民地への動機付けが「近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請」(Wikipedia)だとすれば、“要請”に応えるだけの利潤をあげねばならないはず、ですよね。赤字の植民地は本来あるはずがない! それが植民地経営のはずです。

 一方で、実は、植民地は金も手間もかかる。ちょと思いつくほどには、なかなか儲かるものではない・・・私がそんなことを口走るのも、1979年、はじめてのアフリカ行きで、(タンザニア中央鉄道)の終点キゴマ駅で線路を見おろすと、ふと鉄の枕木に記された「クルップ、1908」という刻印に気づき、かつてドイツがこの鉄道にどのぐらいの投資したものか! と嘆息したのを思い出すからです。

 帝国主義者カール・ペータースが先住民の首長らに「ドイツの保護を求める」契約を結んだのが1884年頃、ベルリン会議でタンガニイカ領有が認められたのが1885年、先住民による最後の大規模反乱であるマジマジ戦争が1905~1908年ですが、そのさなかの1905年に鉄道建設がスタートします。そして1252km(東北本線の2.3倍)の線路が終点のキゴマ駅までつながってようやく開業したのが第一次世界大戦勃発直前、これではドイツが投資に見合う利潤を引き出す暇もありません。

 第一次世界単線中、冷静にして過酷なドイツ軍司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍は、戦術的抵抗によって連合軍を少しでも西部戦線からアフリカに引きつけ、故国の勝利に貢献しようという優れた戦略眼のもと、敗北なき抵抗にすべてを投入しますが、それは同時にドイツ植民地行政の成果を自ら破壊することにほかならず、東アフリカは“30年戦争”の時のように荒廃します。そして、ヴェルサイユ条約の結果、すべての成果はイギリスに取り上げられてしまいます。その名残が「クルップ、1908年」の刻印というわけです。

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 とはいえ、儲かる植民地もないわけではない。その典型としてよく言及されるのが、オランダ領インドネシアで展開された“栽培制度”=日本の教科書には「強制栽培制度」として掲載されているやつです。

 オランダは19世紀初頭から苦境に直面していました。フランス革命とその限定相続人たるナポレオンによって踏みにじられ、まず、バタヴィア共和国が成立、次にナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国にされ、しまいにフランスの直轄領に併合されてしまいます(この時、オランダ王国国旗を最後まで掲げていたのが長崎出島のオランダ商館であったことは有名です)。

 幸か不幸か、ナポレオンはドーバー海峡を越えてイギリスを屈服させることができず(これは後のヒトラーも同様。ローマ帝国(クラウディヌス帝)とクヌーズ1世ギョーム1世だけが渡海によるイギリス征服を成し遂げます)、モスクワ遠征にも失敗(こちらもヒトラーも同じ結果に)、オランダ王国は主権を回復しますが、今度は豊かなベルギーが分離独立(1830年)したため、苦境にたたされます。おまけに、オランダ領東インドでも1825年にジャワ戦争等が勃発します(戦争するには、お金=軍事費がかかる)。

 この苦境を乗り切るため、「東インドに導入されたのが東インド総督ファン・デン・ボッシュによる「栽培制度」である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた」(Wikipedia)というわけです。

 この結果、オランダの経済は復活しますが、しかし、同時に植民地=東インドへの依存度が高まる(Wikipeida)。小国オランダは後のインドネシアにいわば“寄生”の状態になる。その肝心の虎の子を第2次世界大戦で日本に奪われ、やっとのことで日本が敗北したと思ったら、今度は独立してしまう、というわけです。

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 さて、日本に話を戻します。明治維新後、国土の拡大を志し、本来の領土(=つまり、内地)周辺のあいまいな周縁部を植民地化→自国領土化をねらう(=つまり、外地)。それが順番に北海道、沖縄(1872年、琉球藩設置)、千島(1875年、 樺太・千島交換条約)、台湾(1895年、下関条約)、関東州(1905年、関東庁ならびに関東軍)、樺太(1907年、樺太庁設置)、朝鮮半島(1910年、韓国併合)、南洋諸島(1920、南洋庁設置)、そして“満州”と突き進んで、あげくに、高転びにころんでしまう。

 その間、様々なことが起こるわけですが、当然、植民地経営に難題が生じる。その一つが台湾における“米糖相克”です。これは台湾で何を作らせるか? すなわち日本にとって貴重な砂糖にするか? それとも米を作らせるか? このどちらも追いかけようとすると、「米価上昇や米作地生産力向上により単位面積当たりの米作収入が増加すると、製糖業の原料(さとうきび)買収コストが上昇してしまい、利潤の低下を招くという問題である。すなわち、製糖業の利潤は米価を抑制して米作部門の生産力の停滞を保持することに基礎を置くといえるため、製糖業の利潤と米作部門の発展とは相抵触する(=トレード・オフになっている)という構造的な問題」なのだそうです。

 この背景は、言うまでもなく、日本にとっての台湾の価値をどこにおくか? はっきり言えば、何で儲けるのか? その判断ということになりますが、その際、台湾に暮らす人々の暮らしなど二の次であることはオランダ領東インドとかわりません。1898年以降の第4代総督児玉源太郎とその股肱の部下後藤新平はそれを砂糖仁求め、台湾製糖・大日本製糖・明治製糖・帝国製糖・塩水港製糖等の食品加工業を台湾振興の中心に据えます。そして、その原材料(サトウキビ)供給を確保するため、製糖場取締規則に基づき原料採取区域を設定します。そのため、南部中心だったサトウキビ耕作が次第に北部地域に広がり出します(和食の歴史にそくせば、これによって甘みが増して、同時に大和煮的世界が展開する、ということになるわけでしょう)。

 一方で、農民にとって、サトウキビを植えるか、米をつくるかは、(上記オランダ領東インドの強制栽培と異なり)、何を植えるかは自由裁量にまかされ、サトウキビを栽培した場合、それを上記産業資本に売ることを義務づけていました。東インドのオランダ人からみれば、笑うべき不徹底さ、あるいは植民地経営の不手際というものかもしれません(もちろん、台湾農民の目線からは別の意見も出ようとのものです)。

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 その一方で、もう一つの問題が(台湾ではなく、日本でおきます)。それは明治からの近代化による人口増大です。明治5年(1872年)の壬申戸籍での3,311万人という人口は、1920年には5,596万人に増加し、日本本土で米不足になる。そうなると、台湾に導入された新品種蓬莱米が日本本土でも商品価値を生み、そうなると台湾住民にとって、サトウキビを植えるか、米を植えるか、その時々の価格によって選択可能となり、いわばトレード・オフの状態になる。

 こうして米の価格の変動により、砂糖業界への原材料供給が影響を受け出し、精糖業界はサトウキビ確保に狂奔させられる一方、蓬莱米の“内地”輸出で、“内地”の米作まで影響を受ける。これが“米糖相克”というわけです。

 この問題は結局、米価とサトウキビ買い付け価格を連動させる「米価比準法」によって、農民の米作転換を阻止する。かつ、 日本政府は、“内地”農家保護のため、台湾米作の抑制、あるいは転作奨励に転じ、米とサトウキビというモノカルチャー型農業が次第に多角化した、というのが第2次世界大戦勃発前の台湾における植民地農政の顛末だったのです(Wikipedia「米糖相克」)。トレード・オフたるべき二つの要素を、経済政策のもとに連動させる、というわけでしょうか。

 ちなみにこの前後、台湾総督府によって奨励された作物の一つがバナナ、いわゆる台湾バナナなのですが、私の子供の頃に勃発したコレラ騒動や、フィリピンからのプランテーション生産によるバナナによって、次第に駆逐されていきます。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...