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本のご紹介:国際協力に関心がある方へ、『日本の国際協力 中東・アフリカ編』

2021 8/26 総合政策学部の皆さんへ 所属しているアフリカ学会から、以下の案内が来ましたので、お知らせします。国際協力にご関心がある方はご照覧下さい。

 この度、多くのアフリカ学会員のみなさまに著書としてご寄稿頂き、『日本の国際協力 中東・アフリカ編』がミネルヴァ書房より無事出版されました。
 本書は、それぞれの地域をご専門とする地域研究者等の立場から国際協力について、アフリカと中東の国々をほぼ全て網羅しまとめた画期的な図書となっています。是非お手に取って頂き、大学等での教育や研究資料にご活用頂けますよう、ご案内いたします。

『日本の国際協力 中東・アフリカ編』Minerva KEYWORDS 7(阪本公美子/岡野内正/山中達也編著)
ISBN978-4-623-09192-8 C3331 A5判美装カバー368頁 定価4400円(本体4000円+税)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b577607.html
 国際協調主義を掲げた日本は、アフリカの年を迎え植民地から独立した国々や、石油資源が注目される中東諸国に対し政府開発援助(ODA)を通じてどのように関わってきたのか。各国の経済発展や福祉向上を目的とする支援が、なぜ批判も浴びてきたのか。本書では、中東・アフリカ諸国へのODAの全貌を、その形成と展開、現状と事例、課題と展望から解明し、21世紀の日本の国際協力の課題を考えるための基礎的判断材料と論点を提供する。

[ここがポイント]
◎ 異なる国・民族の歴史・文化を知り、地球上にともに生きる人間として協力し合うことの意味を読者に感じ取ってもらえる本を目指す。
◎ 各国・地域の経済・政治・社会の歴史的展開とODAの関連性を軸に記述する。
◎ ODAの実施・展開における国際環境の変化およびリージョナルおよびグローバルなイシューの影響は必要な範囲で考慮する。
◎ 官民協力、国際機関による援助はODAとの関連で触れ、自治体・NGOベースの協力についても適宜触れる。

[目 次]
「日本の国際協力」刊行にあたって
はじめに
序 章 中東・アフリカとODA
 第Ⅰ部 中東地域
 解説――援助戦略に根本的な反省を迫る深刻な実態  岡野内正
 コラム1 日本の援助と石油  松尾昌樹
1 対パレスチナ援助――混乱が続く政治情勢の中での援助  塩塚祐太
2 対ヨルダン援助――難民受け入れ国の経済的自立を目指して  臼杵悠
3 対シリア援助――内戦下における援助  溝渕正季
4 対レバノン援助――いかに改革を支援するのか  溝渕正季
5 対トルコ援助――被援助国から新興援助国へ  柿﨑正樹
6 対イラク支援――続く紛争との闘い  円城由美子
7 対イラン援助――政治変動を超えた継続的支援の挑戦  千坂知世
8 対アフガニスタン援助――命の重さと「援助のあり方」  林裕
9 対オマーン支援――ODA卒業国への支援  松尾昌樹
10 対イエメン援助――「世界最悪の人道危機」に対峙する  川嶋淳司
11 対サウジアラビア・湾岸諸国援助――湾岸産油国へのODA  松尾昌樹

第Ⅱ部 北アフリカ地域
解説――いま私たちに必要な視点とは  山中達也
12 対エジプト援助――「地域の平和と安定化のための要塞」としての老舗地域大国  井堂有子
13 対リビア援助――内戦後復興支援に向けた課題  小林周
14 対チュニジア援助――国民のための真の援助に向けて  高橋佑規
15 対アルジェリア援助――産業の多様化を目指して  高橋雅英
16 対モロッコ援助――格差是正を目指す支援  白谷望
17 対西サハラ援助――被占領地域への「援助」は何を意味するのか  高林敏之
18 対モーリタニア援助――水産資源に恵まれた砂漠の国との協力関係  吉田敦

第Ⅲ部 サブサハラ地域
解説――「誰一人取り残さない」経済成長は可能か  阪本公美子
コラム2 対アフリカ援助の潮流  阪本公美子
西アフリカ・中部アフリカ地域解説――ODAは格差とどう向き合うのか  阪本公美子
19 対セネガル・ガンビア援助――きわめて民主的で安定した稀有な国  鈴井宣行
20 対カーボベルデ援助――中進国に向けた経済構造転換へ  鈴井宣行
21 対ギニアビサウ援助――政情不安と汚職に向き合う  白戸圭一
22 対ギニア援助――援助以前の課題をふまえた援助の必要性  中川千草
23 対マリ援助――安定の先にあるさらなる発展の可能性  藤井広重
24 対ブルキナファソ援助――暮らしの安定に資する農業支援  土方野分・中尾世治
25 対ニジェール援助――ODAが築いた人財交流  関谷雄一
26 対シエラレオネ援助――残虐な紛争や感染症の災禍を超えて  落合雄彦
27 対リベリア援助――内戦とエボラ出血熱の災禍に遭った最貧国  岡野英之
28 対コートジボワール援助――象牙の奇跡  原口武彦
29 対ガーナ援助――経済自由化と格差是正の支援課題  Staniuslaus Acquah・友松夕香
30 対トーゴ援助――西アフリカの基幹回廊づくりを支援  白戸圭一
31 対ベナン援助――アフリカ民主主義の「モデル」支援  白戸圭一
32 対ナイジェリア援助――「人口大国」への協力の難しさ  望月克也
33 対チャド援助――日本の援助が届く日まで  坂井真紀子
34 対カメルーン援助――現地住民が参加する援助へ  坂梨健太
コラム3 アフリカ開発会議(TICAD)とODA  Staniuslaus Acquah
35 対中央アフリカ共和国援助――有効な脆弱国家支援を求めて  武内進一

東アフリカ地域解説――サブサハラ・アフリカにおける日本援助の重点地域  阪本公美子・藤井広重
36 対ソマリア援助――地域の安定に結び付く人間の安全保障の確立へ  須永修枝
37 対エチオピア援助――貧困削減と民間セクター主導による経済成長のバランス  白鳥清志
コラム4 伝統的な社会関係を活かしたODA――プロジェクトを超えて  島津英世
38 対スーダン援助――独裁と天然資源からの脱却に向けて  藤井広重
39 対南スーダン援助――ODAと平和構築  藤井広重
コラム5 平和構築と国際刑事裁判所  藤井広重
40 対コンゴ民主共和国援助――援助は政治腐敗と人権侵害に立ち向かえるか  華井和代
41 対ウガンダ援助――様々な社会的対立や分断を乗り越えて  斎藤文彦
42 対ルワンダ援助――ジェノサイド後に注目される「アフリカの奇跡」の実態 米川正子・阪本公美子
43 対ケニア援助――東アフリカのゲートウェイの行方  佐々木優
コラム6 ソンドゥ・ミリウ水力発電プロジェクト――二〇世紀援助ビジネスの暗き淵より  岡野内正
コラム7 武力紛争と日本のODA  白戸圭一
44 対タンザニア援助――サブサハラ・アフリカの重点被援助国 阪本公美子・杉山祐子
45 対マダガスカル援助――政変に揺れるアフリカの島国  吉田敦

南部アフリカ地域解説――南アフリカ共和国が中心となり貧困削減への取組を展開  石田洋子
コラム8 子ども兵  杉木明子
46 対モザンビーク援助――ODAは現地市民からの「反対の声」にどう応えられるのか  渡辺直子
47 対マラウイ援助――ウォーム・ハート・オブ・アフリカと呼ばれる世界最貧国  石田洋子
48 対ザンビア援助――経済多角化による銅産業への依存からの脱却に向けて  中田北斗
49 対ジンバブエ援助――強権政治下の民生支援  壽賀一仁
50 対南アフリカ共和国援助――アパルトヘイトの負の遺産と格差是正に向けて  細井友裕
51 対アンゴラ援助――内戦からの復興と資源国の潜在力  細井友裕
コラム9 東欧諸国に対する日本のODA  土田陽介
コラム10 中東欧・バルト諸国に対する日本のODA  田中宏

『漱石の家計簿:お金で読み解く生活と作品』を枕に芸術家と金銭について考える

2021 8/23 総合政策学部の皆さんへ 今回は、山本芳明学習院大学文学部教授『漱石の家計簿:お金で読み解く生活と意見』(2018年、教育評論社)を話の枕にとりあげましょう。

 それでは、『漱石の家計簿』のテーマとは? 皆さんご存じのamazonによる紹介文では「漱石の文学活動を経済的な視点から捉え直すとともに、死後に生じた経済効果、文化資産としての動向を明らかにする」とあります。その構成は、以下の通りです。
序章 〈経済人〉としての小説家
  第一章 漱石の収支計算書
  第二章 文化人としての「金持」
  第三章 表象としての「金持」
  第四章 漱石は市場原理を越えられたのか?
  第五章 夏目家、「印税成金」となる
  第六章 夏目鏡子の収支計算書
  第七章 夏目家と岩波書店

 これだけでは少しわかりかねるかもしれないので、序章から少し摘録すると「日本近代文学において、経済行為として文学を語ることはタブーといってもよかった。金銭を優先させれば、文学者としての堕落につながる」。それゆえに、日本文学では清貧をイメージさせる私小説が圧倒的な存在感を得た。この主張はまさに半世紀前、私が恐るヽヽ小説等に手を出し始めた時のイメージでもあります。

 しかし、その一方で山本は指摘します。19世紀以降、西洋文学は近代的出版文化の盛隆のもと、小説が高い商品性を得ることで作家は経済力を確保した(同時に、劇作家は小魚油演劇の勃興で、画家は画商・画壇・好事家たちの支持によって、作曲家は音楽業界の拡大でそれぞれに経済的基盤を獲得して、己の“作家性”を確保していたった=とりわけ18世紀後半のフランス自然主義文学の巨匠エミール・ゾラはそのことに自覚的だった。それにもかかわらず、“文学”を西洋から輸入した日本では文学の商品性を無視しがちであった。言われてみればその通りなのです。

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 さて、そこで明治末期から大正にかけて、実際の小説作家活動は1905年1月の『吾輩は猫である』から、1916年12月に未完のまま遺した『明暗』までのたかだか12年弱ばかりながら「近代日本文学の頂点に立つ作家の一人」(Wikipedia)であった漱石はどうふるまったのか? これが『漱石の家計簿』の主題です。

 私が『吾輩は猫である』を初めて読んだのはたしか小学校6年ぐらい(ほぼ同時に読んだことを覚えているのがイギリスの小説家サマセット・モームの『月と六ペンス』)ですが、まるで落語の掛け合いのような科白のやりとりに心惹かれました。例えば、中学校の英語教師苦沙弥先生宅を(ある思惑が持って)訪問するかつての大学の同級生で、いまや堂々たる実業家の鈴木藤十郎君との会話を紹介すると、

  • 実業家も悪くもないが我々の内は駄目だ。実業家になるならずっと上にならなくちゃいかん。下の方になると矢張り詰らん御世辞を振り撒いたり、好かん猪口を頂きに出たり随分愚なもんだよ」(鈴木)
  • 僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さへ取れヽば何でもする、昔で云へば素町人だからな」と実業家を前に控えて太平楽を述べる。(苦沙弥)
  • まさか-さう許りも言へんがね、少し下品なところもあるのさ、兎に角金と情死をする覚悟で、-今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが、金をつくるにも三角術を使はなくちゃいけないと云ふのさ-義理をかく、人情をかく、恥をかく是で三角になるさうだ面白いぢゃないかアハヽヽヽ」(鈴木)

と、そこへ飄然とあらわれた二人の同級生、美学者の迷亭君、警戒する鈴木君と、

  • 「・・・是でも街鉄を60ほど持っているよ」(鈴木)
  • 「そりゃ馬鹿にはできないな。僕は880株半持っていたが、惜しいことに大方虫が喰って仕舞って、今ぢゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わない所を10株ばかりやるところだったが惜しい事をした」(迷亭)
  • 「相変わらず口が悪い。然し冗談は冗談として、あヽ云ふ株は持ってヽ損はないよ、年々高くなる許りだから」(鈴木)
  • さうだ仮令半株だって千年も持っているうちに倉が三つ位建つからな。君も僕も其辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと苦沙弥杯は憐れなものだ。株と云へば大根の兄弟位に考へて居るんだから」(迷亭)

 こうして“素町人”を見下げ(といっても、漱石自身が<a href=”https://ja.wikip名主の子供とはいえ、町民の出のはずですが)、経済にうとく、「株」と「大根」の区別もつきかねる経済音痴=ただ、明治の御代に美や学問や哲学を愛する人というイメージにさりげなくのっかり、ほぼ12年の作家生活を驀進することになる夏目先生がどんな経済感覚をもっていたのか? というのが『漱石の家計簿』の主旨と言えるでしょう。

ちなみに、『猫』発表2年後の1907年2月、教師を辞めて朝日新聞に入社(つまり、専属作家となった)漱石は有名な「入社の辞」を書きます:大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢う人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒るものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思わなかった。(略)新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が商売である如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差丈だけである。(略)大学では講師として年俸八百円を頂戴ちょうだいしていた。子供が多くて、家賃が高くて八百円では到底とうてい暮せない。仕方がないから他に二三軒の学校を馳かけあるいて、漸ようやく其日を送って居た。(略)新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩の資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるとなと云ってもやめて仕舞う。(略)人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変り物として出来得る限りを尽すは余の嬉うれしき義務である。(出典:青空文庫

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 山本は『漱石の家計簿』において、上記のごとく米塩の資にも窮していた(第一高等学校教授としての体裁を整えながら、1905年までに4人の女の子が誕生した家族の生計を支えねばならず[これに兄・姉家族への支援も加わります]、かつ本来の仕事に必要な高価な英語書籍類を購入し続けていた状況でした)漱石は、『猫』をきっかけとした文筆活動による印税収入にくわえ、朝日新聞社との交渉の結果、「月給200円と賞与で年収3000円を確保する」ことで、「定収入の6割増に成功」したことを指摘します。

 この結果、「大正3年に“貧乏生活”から脱した夏目家は、(大正5年頃には)株の取引によって“3万円”に及ぶ資産を形成した」。この株のやりとりは(印税等で)「すこしずつ残るものを、其儘銀行にねかせておいてもつまらない。確かな会社の株券を少しづつでもいいから買っておくと、自然子が子を産むやうになっていいものだと教えられた」と鏡子夫人が書き残しているわけですが、この「子が子を産む」はB・フランクリンの「金はどんどん増えていくものだということを忘れてはならない。金は金を生み、その子孫はまた生み、といったぐあいである」の科白に由来するものであり、当然、これを鏡子夫人に教えたのは英文学者漱石にほかならなかったであろう、というのが山本の推論です。漱石は現実に、親友だった菅虎雄「今資金を投ずれば二倍になると云ふ話」があるから、「貯蓄金を挙げて」投資して「貨殖の道を図るがよからう」という書簡を送っているよし。

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 ところで、この漱石の文学成金(ちなみに成金とは「将棋において低位の駒が金将に成駒することになぞらえ、急激に富裕になった人(ヌーヴォーリシュ)」の意(Wikipedia「成金」)」を指摘した山本の言説は、どことなく漱石のダブルスタンダードを揶揄するような気配も匂わせます。例えば、「漱石は「巨富の富」をもつ富豪たちと比較して、自分の収入の少なさを強調する一方、同時代の小説家とは比較にならないぐらい多額の収入を過剰に低く印象付けようとしている」と論じます。

 つまるところ、「おそらく、すべてが金銭の取引となってしまった市場社会に適応し、勝者となった自分を認めたくなかったから、あるいは市場原理を超越できなかったからと考えるしかないだろう。認めれば、自分が批判し否定する「紙幣に目鼻をつけた丈の人間」、「一個の活動紙幣」と同列の存在になってしまうのである。そうした事態を回避するために、漱石は<経済人>として成功しているにも拘わらず、<清貧>な小説家としての自己像を主張し続けているのではないだろうか。その結果、市場に言及した漱石の言説は深刻な亀裂や分裂を露呈することになった」というのが結論です。

 しかし、このくだりのあたりで、「やや、まてよ」とも言いたくなるかもしれません。まずは、漱石自身が『猫』の成功によって英文学者から作家に転身し、かつ、朝日新聞を舞台に一群の作家たちのプロデュースするまでの大活躍を最初から意識・自覚していたわけもなく、それに素早く適応するのにもそれなりに時間がかかったかもしれません。

 さらには、漱石の個性・本音はそんなに単純なものなのでしょうか? 例えば、出世作『猫』では迷亭先生から「株と大根」の違いもわからないと揶揄される苦沙弥先生は、必ずしも漱石の実像のすべてとは言えません。現に、鏡子夫人は傑作『漱石の思い出』で『猫』の「重要な人物は、迷亭等と言う人物は誰をモデルにしたものか私には見当はつきませんが、おおかた、自分のもっている性格を、あのものぐさなむっつり屋の変人苦沙弥と、軽口屋の江戸っ児迷亭とにふ二つにわけてかいたものでありましょう。実際夏目にはそうした二面がありまして、冗談をいったり軽口を言ったりすると際限のないところがありました」と口述しています。彼の筆からうまれる数々の登場人物、迷亭はもちろんのこと、飄然とした八木独仙、あるいはひょっとして苦沙弥先生の仇敵たる金満家金田氏にいたるまで、そこには漱石が持つ多面・多層の個性がいわば“多面発現”しているのかもしれません。

 さすれば、『漱石の家計簿』で強調される、近代的経済人として「金が金を生む」ことを知っている漱石と、「権力や金力による支配を嫌い」「金持ちが嫌い」な漱石という一見大きな矛盾も、漱石という近代的自我のなかにともに潜みながら、登場するにふさわしい場面でそれぞれ適切に出現している、という気もしてきます。ひょっとしたら、車屋のおかみさんでさえも漱石の心的分身かもしれません。こうした状況は、ヨーロッパ的市民社会が形成されるなかで、近代的自我が複数の側面をもちながら醸成される際によく出現するものなのです(例えば、かのサミュエル・ピープスが「太っ腹の封建主義の恣意的清濁併呑性」(日本で言えば、さしずめ「越後屋、お前も悪じゃのう」の科白を思い出すところです)と、「近代的市民社会の良心的機能主義的理念の谷間でぬきさしならぬ姿を呈して」います;臼田昭『ピープス氏の秘められた日記』)。

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 ところで、『漱石の家計簿』を紐解きながら私がふと思い出したのは、そうした近代的自我の形成の時代をすごしながら、20世紀前半に英文学界で活躍した作家サマセット・モームの自伝的評論『サミング・アップ』です。漱石よりもやや早く23歳の若さで小説『ランべスのライザ』(1897年、『猫』の8年前)でデビューしながら、その後、なかなか芽を出すことができず、十数年後に商業劇作家として成功をおさめると「比較的通俗な新聞は、わたしの芝居のシニシズムを批難しながらも、その機知や、陽気さや、舞台効果を称賛」したものの「真面目な批評家がひどく攻撃した。彼らは私の芝居を、安っぽく、浅薄だと言うのだ。そして、私が黄金(マモン)に魂を売った」と言われてしまいます。またもや、芸術と金銭は相対する、と世間はおもっているわけです。

 モームはしかし「この屈辱をじっと辛抱した。なぜならばこれで話が終わったわけではないことを、知っていたからである」と記します。たとえ、黄金に魂を売ったと言われようと、「金と言うものは、第六感のようなもので、これがなければ、他の五感の楽しみを充分につくすことができぬものである」ことをすでに発見していたのです。

 その上で、モームは主張します。「<span style=”color: ♯993300;”>世の中にれるのは、芸術家に似合わしくないというのは、もちろん、そのとおりかもしれないが、芸術家自身はそう思ってはいないのである。芸術家が屋根裏に住んでいるのを、ファンは見たがるものだが、芸術家でも好んで屋根裏に住むわけではない。それよりも、ぜいたくな生活をして、一生を台無しにするほうが多い。

 いずれにしても、芸術家なるものは空想力の強いもので、立派な家とか、命令に従う召使とか、見事な絨毯とか、美しい絵とか、ぜいたくな家具とか、派手な生活に魅力を感ずる」「二軒長屋の郊外住宅に住み、いっさいがっさい一人の女中でまにあわせ、その女中がつくったコッテイジ・パイを食うのは、芸術家として不自然なのである。それは無欲恬淡さを示すものではなく、精神の不毛卑小さを示すものである。なぜならば、芸術家が好んで身辺に集める豪奢は、単なる気晴らしに過ぎないからだ」

 このモームの主張にそって『漱石の家計簿』を読み直せば、とくに漱石亡き後、(庶民からみれば)膨大な漱石の遺産をいわば食いつぶしてしまった鏡子未亡人と子供たち、そしてそれをおろおろ見守らざるを得なかった漱石の門弟たち、さらには著作権をめぐる出版社(とくに岩波書店)と漱石の遺族たちをあつかった『漱石の家計簿』の後半6章から7章などはさらに複雑微妙な色彩を帯びるかもしれません。

若い頃に読んだ本の印象が変わる時:高畑ゼミの100冊Part 29

2020 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 今週は、「若い頃に読んだ本を年取ってから読み返すと印象が変わってしまった」という話にします。本と言うものはたいてい1度読んだら、そのまま二度と読まないもの。とくにそれが泰西文豪畢生の名作などと銘打たれたものならば、一度読んだだけで満足してしまうことでしょう。

 そして、長い年月が経ったのちのある日、よせばいいのに若かった頃紐解いた“名作”にまたつい手をのばしてしまう! そこで失望するか(=昔は、なんでこんなつまらない本に感動したのだ!)、そしてさらに失望を重ねるか(=どうして、昔はこの面白さが気づかなかったのか! なんて馬鹿だったんだろう! などと)様々な思いにふけるのです。

 まったく個人的な経験では、中学の時に読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をあげましょう。ともかく長い(たしか、私が読んだ世界文学全集では2巻か3巻あったはず)。その上、ロシア人の名前を覚えるのも大変です。フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフが父親で、その3男がアレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフでかつその愛称がアリョーシャあるいはリューシェチカであるとまず覚えておかないと、とても筋も追えません。

 その『カラマーゾフの兄弟』を50歳を過ぎてから再び手に取った理由はひとえに、亀山郁夫氏による新訳が出たからにほかなりません。そこで思い切って再読してみたら、「一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ、ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ」「この郡きっての分別のない非常識人の一人として一生を押し通した」た父フョードルが、中学生での初読では「妖艶な美貌を持つ奔放な女性グルーシェンカを巡って長男と争っているヒヒ爺」という印象しかなかったのに、年齢は55歳で再読時の私とほぼ同じ、会話の端々にディドロ等の名前を口走りながら、周囲の人間や教会関係者をからかうトリック・スターぶりには刮目せざるをえません。

 中学の頃には単純な暴力的で頑迷、野卑な老人とばかり思いこんでいましたが、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフはどうやらなかなか奥深そうな方であり、かつ、まぎれもなくロシア男性のアーキタイプの一つだ、という点を理解するのに、実に40年の歳月がかかってしまったようです。

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 もっと最近の経験では、高畑ゼミの100冊Part2;『退屈な話』と『緋色の研究』で触れたドストエフスキーの後輩(生年では39年、ほぼ2世代分の差があります)アントン・チェーホフの『かもめ』があげられます。これはある原稿を頼まれて、そこにチェーホフの科白を引用すべく、あれこれ記憶をたどるうち、『かもめ』と『桜の園』に深入りしてしまったためなのですが。

 さて、このチェーホフのいわゆる4大悲劇の筆頭を飾る傑作『かもめ』は、モスクワで活躍する大女優アルカジーナの息子に生まれながら、母と離れて母の兄の田舎の屋敷で育ち、自らの手で文学的栄光を手中にしようとあがく作家志望の若者コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ・トレープレフことコスチャと、コスチャと恋仲にありながら、家や田舎を捨てても劇を演じることにあこがれるニーナ・ミハイロヴナ・ザレーチナヤことニーナの二人の関係のもつれであり、二人がそれぞれに挫折に直面しながら、コスチャは結局自死を選び、ニーナはドサ回りであっても女優の道をきわめようとする道を進む、という結末をとるのですが、当然、中学生としてはこの二人の若者の悲劇という印象が烙印のように押されたものでした。

 「かもめ」のストーリーをすべて紹介するわけにはいきませんから、あらすじをかいつまんで言うと、ニーナはやがてアルカジーナの愛人、流行作家トリゴーリンに魅かれていきます。トリゴーニンは自らを「おれはついぞ、自分の意志というものがない」と自嘲し、「わたしは作家としての自分が好きじゃない(=まぎれもなく、チェーホフ自身の独白でしょう)」とつぶやきます。ニーナは、彼らの活動の舞台であるモスクワへのあこがれもあわせ、この男に魅かれていきます。一方、コスチャはトリゴーリンに対して、母親(アルカジーナ)、恋人(ニーナ)、そして文学上の才能に関するコンプレックスに苦しみます。

 その結果は、当然、幾重もの愛情関係は綻・軋轢を生み、アルカジーナはトリゴーリンを連れてモスクワに旅立ちます(ニーナに心を残す彼に「あなたは馬鹿な真似をしたいんでしょうけれど、私は嫌です。放しません。(笑う)あなたは、わたしのものなの。私のものよ。この額もわたしのもの」と口説き落とします)。しかし、ニーナはトリゴーリンを追って出奔、かれと同棲して子供を産みますが、その子は死に、トリゴーリンはやがてアルカジーナのもとに戻ります。

 その2年後、元のさやにもどったアルカジーナとトリゴーリンがふたたび田舎を訪れると、そこには精進の結果、新進作家として世に出たばかりのコスチャが過去からの呪縛を完全には振りほどけないまま、二人を迎える。みんなが夜食をとりに退場した後、一人執筆をつづけるコスチャの前に突然、巡業の旅で時間を見つけたニーナが現れて、二人は久方ぶりでつかの間の会話をかわしますが、二人の道はすでに異なる道をたどっていることがあきらかになり、一人残されたコスチャは「信念がもてず、何が自分の使命かということを、知らずにいる」として自らの死を選ぶ。

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 少し前に、チェーホフの科白を引用したくてこの劇にしばらくぶりに目を通すと、しかし、あらわめて読んだ私に印象的だったのは若い二人の葛藤と迷いよりもむしろ、コスチャの母親、二十歳過ぎの息子がいながらも大女優ぶりを発揮しているイリーナ・ニコラーエヴナ・アルカージナでした。

 作家を目指す息子にとってはライバルとも言える流行作家ボリス・アレクセーエヴィチ・トリゴーリンと生活をともにし、息子を愛しながらもその創作劇(劇冒頭に演じられる劇中劇の主人公役はニーナです)を観ると、「ただね、若い者があんな退屈な暇つぶしをしているのが、歯がゆいだけですよ」(神崎清訳)とけなしてしまいます。とはいえ「あの子に恥をかかすつもりはなかったの」と言いながらも、しだいに「そろそろ気が咎めてきた。かわいそうに、なんだってわたし、うちの坊やに恥をかかしたのかしら?」と心配になる。自らの感性と欲望に素直なこの女性は、自分の主観ですべてを断罪し、かつ、その結果におろおろします。コスチャにとっては究極の“ダブル・バインド”でもあるし、いま流行りの“毒親”とも言えますが、さらにはアルカジーナは“美魔女”とも言えなくもありません。

 劇中、アルカジーナがみんなと話しながら「こうして並んでね、あんたは22、私はかれこそその倍よ。ね、ドールンさん、どっちが若く見えて」「あなたです、もちろん」「そうらね。で、なぜでしょう? それはね、わたしが働くからよ、物事にかんじるからよ、しょっちゅう気をつかているからよ。ところがあんたときたら、いつも一つ所にじっとして、てんで生きちゃいない。それにわたしには、主義があるの、未来をのぞき見しない、というね。私は、年のことも、死のことも、ついぞ考えたことがないわ。どうせ、なるようにしかならないのだもの」と言い放ちます。

  また、アルカジーナはプロの芸術家として、息子がトリゴーリンに(文学の上でも、そしてニーナをめぐる心の葛藤からも、そしておそらくは母との関係をめぐっても)嫉妬について、「才能のないくせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこき下ろすほかに道はないからね。結構なお慰みですよ」とついつい真実を指摘してしまう。

 一方で、兄のソーリンから「一番の上策は、もしもお前が、あの子にすこしばかりの金を持たしてやったらどうかと思うよ。一つ外国へでも出してみるかな」と水をむけられますが、「服ぐらいはつくってやれるでしょうけど、外国まではね。いいえ、今のところは服だってだめだわ。(きっぱりと)私お金がありません!」「お金のないことはないけれど、なにせ女優ですものね。衣装代だけでも身代かぎりしちまうわ」と応じるのです。彼女の生活にとってまず重要なことは女優であること、それを中心に生活も、お金も、愛人もすべてが自分を中心に回っている。もちろん、息子を愛していることは確かなのですが、コスチャも自分の周囲を回るもろもろの一つに過ぎません。

 そのあげく、母子の言い争いでコスチャが母親を「けちんぼ」とののしれば、アルカジーナは「宿なし」と返す。同時に、彼の才能にどこか欠けている部分を本能的に感じてしまう、そしてそれを口にしてはいられない。コスチャにとってはこの「どこかに行きたいけれど、どこにも出口がない」状況を中学生で理解するのはやはり無理だったかもしれません。

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 とすれば、この『カモメ』をロシアの現状(=ツルゲーネフが嘆き、しかし、150年後の現在でも、あの剛腕のプーチンでさえ意のままに操れぬロシア)に対する希望を、コスチャに「わたしはもう本物の女優なの」と告げ、「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくて、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの」と物語るニーナに託された希望をめぐる物語とも読めるわけですが、それは同時に自らの欲望と感性に忠実で、すべてを思うがままに操りながら、現実(愛する息子の自死)に直面せざるをえない大女優アルカジーナの悲劇の物語とも言えるのかもしれません。

 とくに、劇の終盤、あいかわらず大女優のまま、ニーナにいったんはなびいたトリゴーリンも取り戻し、相変わらずすべてが自らの周りをまわっているようでいながら、(コスチャが命を落とすピストルの音で)息子の自殺未遂を思い出し、ひとしきり嘆く姿には、あたかもフランス・ヴァロア朝末期を全力でささえながら結局はヴァロア朝消滅に至るマダム・セルパンことカトリーヌ・ド・メディシスの姿を思い起こすかもしれません。

 ちなみに、戯曲『かもめ』をめぐるエピソードとして語られる1896年にロシア演劇史上例をみない大失敗と伝えられるサンクトペテルブルク・アレクサンドリンスキイ劇場での初演のあと、2年後のモスクワ芸術座による再演での大成功ですが、コスチャをメイエルホリド、トリゴーリンをスタニスラフスキーというロシア演劇史上の大立者が扮しましたが、アルカージナは女優オリガ・クニッペルが演じ、チェーホフは数年後そのオリガと結婚します。

青べか物語にみるフィールドワーカーの苦悩と原罪:高畑ゼミの100冊#28

2020 5/15 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、山本周五郎という文士がいました。Wikipediaでは「作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある」とあります。本名清水三十六、1903年生まれで1967年死去、享年63歳。

 さて、山本が遺した作品のなかに『青べか物語』という逸品があります。文庫で出版している新潮社のHPでは「根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作」とあります。

 この“浦粕”とは、いまやTDL/TDRで日本はおろか、アジア一円に知られる浦安市です。あまりにもあからさまで、ほとんど匿名とは言えないぐらいですが、この「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を“巧妙”に描くことは、描かれた方々からすれば、あまり面白くないことかもしれない=これが今回のテーマであり、フィールドワークを志す方にはぜひ肝に銘じてほしいところなのです。

 調べてみたら、青べか物語はなんと『青空文庫』にはいっているのですね。以下の文章にご関心があれば、皆さん、ぜひ、ご照覧下さい。総合政策的視点でも、様々なインスピレーションをあたえてくるかもしれません(青空文庫『青べか物語』)。

 ちなみに、こうした「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を描いた傑作としてはほかにも後述するきだみのるの『気違い部落周游紀行』や、スタインベックの『キャナリー・ロウ』をあげておきましょう。あるいは、ツルゲーネフの『猟人日記』もあげておきたいところです。

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 さて、学生の皆さんは授業でフィールドワークを学び、いろんな場所で実践されるかもしれません。その際、覚えておいていただきたいことがあります。

 それは、フィールドワーカーが研究終了後に、応えなければいけない対象があることです。それは言うまでもなく、研究の対象とされた人々へのご報告です。人類学という業界ではすでに多くの批判がよせられていることですが、多くの研究報告や基づいた著作は先進国の言葉で書かれ、現地で情報を提供してくれたインフォーマントはおろか、現地の人々に読まれることさえ期待されていない、という状態が長年続きました。つまり、先進国あるいは知識階級による“情報”の搾取、独占です。

 イギリスの下層階級の子供たちを活写したポール・ウィリスの傑作『ハマータウンの野郎ども:学校への反抗・労働への順応』でも、“野郎ども”がウィリスの調査結果を眼にしたのか、文章だけでは読み取れません。したがって、一見、理想的な参与観察であるかのようなウィリスと彼らの関係も、旧来の“文明と未開”の構図とさして異ならないかもしれのです。

 あるいは、これは私自身の実見ではなく、他の方からの伝聞ですが、ある離島で訪れた学生の人がその島の良さをしきりに称揚していると、それを聞いていた島の人が静かに「では、あなたは、この島に住みますか?」とつぶやいたところ、その場が一気に凍り付いてしまった、とのことでした。余所者がどういおうと、そこでの暮らしについてはなかなかに言い尽くせぬ感慨と言い分があるはずです。

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 この点、描かれた人たちからの視線が絶えず基調低音として感じられ、さらには作者の含羞・とまどい・不安がさりげなく表されているのが、この『青べか物語』です。

 作中で“浦粕”と呼ばれる漁師町の細緻なルポルタージュとも言えるこの作品の後半で、作者は浦粕から脱出後8年目、ある作品の主人公、留さんに出くわします。すでに留さんの「頭があったかい」所業を小説に書いてしまった作者は当惑するのですが、当の留さんは「おら(その小説を)宝にするだ」と羞かみ笑いをうかべて去っていきます。

 そして、さらに20数年後、再び浦粕を訪れた作者はまるで“罰”を受けるかのように、町の誰もが自分を覚えていないことに直面して(読者とともに)とまどいます。この結末の背景に浮かぶ作者の表情には、フィールドワーカーが感じるある種の苦味に通じるものが漂っていたかもしれません。

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 同じような“罰”を被った例がきだみのるかもしれません。パリ大学で社会学・人類学を学んだ後、第二次大戦中から戦後にかけて一山村にすみついた彼が著した『気違い部落周遊紀行』はベストセラーになりますが、その内容は村人たちからの反感を買い、「地元では「気違い」扱いへの反撥が激しく、きだに鎌を振りかざして寺からの立ち退きを迫った」(Wikipedia)とのことです。

 さて、冨山百科文庫版のあとがきに、きだの子息である山田彝が印象的な話を記しています。この『紀行』の本文にも登場するカッシングという民族学者は、かつてネイティブ・アメリカンのズニを知るため、彼らとともに暮らす。ズニたちはカッシングを「彼らの心を完全に理解した人」として受け入れ、やがて彼を“弓の祭司”に任命する。それ以後、カッシングはズニのことを何一つ外へは語らなくなってしまう[きだみのる、1981:249]。

 この寓話めいたこの話が事実かどうかの詮索は、どうでもよいかもしれません。ただ、この話を聞かされたフィールドワーカーはふっとため息をつきます、できもせぬ理想を説かれた後でわが身を省みるように。

 20世紀を代表するフランスの知識人レヴェ=ストロースが説く“人類学者の祖”としてのルソーの原点に返るのならば、“我々”と“彼ら”の出会いによって、どちらも気がつかなかったものに気づき、それを共有することこそ望ましいことと言えるのかもしれません。

自らの好敵手について

2019 10/17 総合政策学部の皆さんへ

 Web記事を渉猟していると、ある台詞が目にとまりました(The Wall Street Journal 、2019 7/29掲載)。Gerard Baker氏による「トランプジョンソン両氏、仇敵が「親友」の皮肉」というタイトルの記事ですが、書き出しが以下の通りです。

  • ある老いた賢人はかつて、自身についてどう評価されたいかと尋ねられ、こう答えた。
  • 「私は人生で多くの友人と数人の敵をつくった。全体として、自分の敵を誇りに思う」

 含蓄が深い! 友よりも、なお、好敵手によって自らの評価を語らせる! 人生を生き抜くためには、こうでなければ! とつい思ってしまいます。

 とは言え、さらに上を行く人も、もちろんいます。イタリアの歴史作家モンタネッリの傑作『ローマの歴史』によれば、ローマ共和国の独裁者ルキウス・コルネリウス・スッラ(BC 138-78年)は権力の座をしりぞき、最後の生を楽しもうとしながらも病に倒れ、「死の苦しみを快活な微少と毒舌で隠し続け」ながら、息を引き取る前に自らの墓碑銘を口述しますが、それは、以下の通りです。

返礼ができぬほどよく私を助けてくれた友は一人もなかった。また、返礼ができぬほどひどく私を痛めつけた敵も一人もいなかった

 つまり、好敵手でさえも、オレよりは下だ! いや、そもそもオレには好敵手などというものは存在しない! という究極の上から目線ということでしょう。

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 そのスラがただ一人警戒した人物こそ、かのローマ帝国の実質的な創設者、ガイウス・ユリウス・カエサル(BC 100-44)です。二人の年の差は38年で、カエサルはスッラよりも1世代半ほど若いことになります。

 実は、そのカエサルの外伯父ガイウス・マリウス(BC 157-86)こそ、スラの文字通りの政敵(相手の支持者を、数万人に達するレベルで、互いに殺戮しまくります)ですが、こちらはスッラの19歳年長、ほぼ1世代離れています。

 つまり、ローマ共和国から帝政への移行にかけて、BC 133年のティベリウス・グラックスと元老院の対立、そしてグラックスの死から始まり、BC 27年にオクタウィアヌスが最終勝利を得て、実質的な帝政に移行するまでの100年(内乱の1世紀、あるいは共和政ローマの危機(Crisis of the Roman Republic))の中核をなす、マリウス → スッラ → カエサルと続く政治的抗争[民衆派 → 門閥派 → 民衆派、ただし民衆の支持を得ての帝政創立者という塩梅です]は、ほぼ、1世代~2世代を隔てての世代間抗争でもあったのですね。

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 それはともかく、38歳年下のカエサルはマリウスの甥であるということもあり、18歳の時、スッラ派の粛正の対象となり、あわや処刑されそうになります。しかし、あまりにも若輩の彼を免罪しようと助命嘆願がいくつもスッラの元に届きます。その時、スッラは、

よろしいとも、あなた方に譲歩しよう。彼をどのようにでもするがいい。けれどもただこのことだけは忘れないでもらいたい。あなた方がこんなに熱心にその無事息災を願っておられるあの男が、いつかは、私やあなた方が結束して守っている門閥派をほろぼすであろうということを。あの若者の中には多くのマリウスがいるということを」(スエトニウス『ローマ皇帝伝』国原吉之助訳)

 と言ったとされています。スッラの死(BC 86)の40年後、紆余曲折を経ながら、門閥派を圧倒、ローマの政治的権力を握り、実質的な皇帝の地位を占める(同時に、ガリア制服によってローマを国際帝国に変貌させ、今日のEUのベースを固めたとも言える)カエサルの未来を見事に予測した台詞です。

 ところで、スッラはBC 80年、突如、独裁者の地位を自ら辞退して隠退させ、世間を呆然とさせたということですが、カエサル自身は後年、スッラの行為を振り返って「独裁官を放棄したスッラは、目に一丁字なき間抜けであった」と嘲笑しています(スエトニウス)。

基礎演習ハンドブック初版コラム再録Part 2:週末には映画を見よう

2019 7/23 総合政策学部の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版本から(改訂版では削除された)コラム「週末には映画を見よう」を再録しましょう。執筆された先生は、すでにご退職されましたが、在校生の皆さんにぜひ映画からいろんなことを学んで欲しいと、熱を込めてお書きです。ぜひ、ご一読ください。
       

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 映画もまた、私たちに様々な智恵や、情報を与えてくれます。最近では、小説や音楽のように、映画も長い歴史を経た“古典”として、教養という性格を帯びてきました。チャップリンや『カサブランカ』、『ローマの休日』、『七人の侍』等の“名作”は映画評論家にまかせ、個人的な好みで「ぜひ皆さんに見てもらいたい」作品を有名、無名取り混ぜて紹介しましょう。レンタルビデオ屋にあるかどうか保証しませんが。

 まず、頭に浮かぶのが『アマデウス』。モーツアルトへの冒涜との意見もありますが、あのような奇矯な人物だったのは周知の事実。モーツアルトと対立したイタリア出身の音楽家サリエリに殺されたという当時の噂(ただし映画と違って毒殺)にもとづくこの作品、音楽好きにはたまりません。オペラ『魔笛』のシーンは、パパゲーノの服装等、初演時を彷彿とさせ、全曲上演したビデオがあったら絶対欲しい。
       

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 ミュージカル映画では『屋根の上のバイオリン弾き』をあげます。ロシアでのユダヤ人迫害の歴史を背景に、主人公テビエの3人の娘がそれぞれ恋人と出会い、結婚するまでを描いています。

 しきたりを無視しても子供の気持ちを大切にしようとする主人公や、恋によって自分の将来の夢が変えられていく娘たちに感情移入しながら、アイザック・スターンのバイオリンに耳を傾けて下さい。なお、親が自分の結婚に口出しそうな場合、その反対を封じ込める究極の名せりふがあります。
       

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 『十二人の怒れる男』が有名な“裁判物”の中から、少し変わった作品を取り上げます。ジョン・フォード監督バッファロー大隊』。被告の無実が証明される過程は似ていますが、最後に意外な事実がわかり、後味がさわやかです。もっとも、人種差別等の暗い場面もはさまり、単純に楽しめる作品ではありません。主題歌も勇壮なマーチですが、なぜか涙が止まらなくなるはずです。

 “SF”ではレイ・ブラッドベリー原作『華氏451度』。読書が許されなくなった未来社会で本を守ろうとする人たちの反逆の物語です。最近、「本を読まなくなった」、「出版業界は終わりだ」などの嘆きが聞かれますが、この映画を見ると力づけられます。本などくだらないと思っている人も見て下さい。考えが変わるかもしれません。なお、この映画を見て本の大事さを感じたら、原作もお読み下さい。
       

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 最後に“アニメ”はビートルズの『イエロー・サブマリン』。この作品のぶっ飛び加減は、その後のアニメに大きな影響を与えているはず。音楽をこよなく憎むブルー・ミーニーズの首領と部下マックスの掛け合いのおもしろさ、ビートルズ・ナンバーにヘンリー・パーセルのトランペット・ボランタリーが何の違和感もなく混じっている所、何度見てもあきません。ところで、劇中歌で「64才になっても僕を愛してくれるかい」と歌った時、自分が実際にそうなることがあると思っていたのでしょうか。ジョン・レノンはともかく、他のメンバーは確か....

堤清二×辻井喬;経営者としての多重人格-『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬・上野千鶴子著)を読んで

2019 2/5 総合政策学部の皆さんへ

 江戸時代、「売り家と 唐様(からよう)で書く 三代目」という川柳があります。この句の主旨は「初代が苦労して作った家屋敷も3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし中国風の書体などを凝って習ったおろかさが『売家』のはり紙にあらわれていることを皮肉った」(広辞苑第5版)とされています。

 それでは、なぜこんな句を持ち出したからと言うと、『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬上野千鶴子、中公新書、2008)という本を読んで、経営者兼文学者としての堤清二(その筆名が辻井喬)に興味を持ったからです。一代の才人上野千鶴子が相対(あいたい)しても、なかなかにその本質をつかみきれない、いわば現代版ヌエとしての辻井喬=堤清二。西武鉄道創業者にして第44代衆議院議長も兼ねた別名「ピストル堤」、こと堤康二郎の次男として西武百貨店をまかされたかつてのセゾン・グループ総帥の本質は、単純・明快な理論ではなかなか割り切れないようです。

 それはおそらく、辻井喬・堤清二が一身にして「一代目」、「二代目」、「三代目」の要素をすべて備えているからだろう、というのが今回の眼目になります。これは言うまでもなく、「経営者」としてたえず変化する環境にどのような姿勢で田既往すべきか? というテーマになります。「赤の女王仮説」さながら、高度成長期に「二代目」として資産を継ぎながら、変わっていく環境に完全と挑戦する「一代目」としての才覚をもち、かつ、「内在する破滅願望」にゆれうごく「三代目」、堤清二自身がそうした構図を意識しながら、それでも「時代を超えよう」として、事実「一時代を越えながら」、やがて「時代が自分を押し流していくこと]を自覚する、そんな人生双六の流転かもしれません。

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 さて、時系列的に考えれば(レポートの組立から言えば)、堤清二の出発点はまぎれもなき「二代目」ということになります。なにしろ、すでに明治初めの乱世も落ち着き始めた明治22年、目に一丁字なき中間の身分から三井大番頭にまで成り上がる三野村利左右衛門等に遅れること78年、滋賀県の兼麻仲買いの家に生まれ、苦学の末、早稲田を卒業、政治と商売の両方にしくじりを重ねながら、やがて不動産業から鉄道経営(西武鉄道)をへて、大実業家・政治家になりあがった父堤康次郎が「ピストル堤」の異名をとるような、乱世の英雄の風格をただよわせた「一代目」ならば、清二なはいにしえの唐の皇帝太宗人が言った「創業は易く守成は難し」(「貞観政要」論君道)の時期にあたるはずでした。

 しかし、彼は父康二郎によって、後継としての西武グループの総帥の位置からはずされ、総帥は異母弟の堤義明にまかされます(義明はその後、父親譲りの豪腕を発揮して、「フォーブス誌で一時は総資産額で世界一となったこともあるが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取って一線を退き、その後にインサイダー取引疑惑で有罪判決」(Wikipedia)を受けることになりますが、それはまた別の話にしましょう)。

 この結果、清二は傍系であった西武百貨店を率いることになりますが、日本が高度成長期に入った1960年代から90年代にかけて西武流通グループとして、西武百貨店・西友・朝日工業・西洋環境開発、クレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ・朝日航洋・セゾン生命保険・インターコンチネンタルホテル・大沢商会・パルコ・ファミリーマート・ピサ等による巨大グループ体制を創り上げます。

 西武百貨店という遺産をベースにしながらも、紛れもない第一世代=創業者としての才覚ということになります(なお、清二は父の死後、「当時阪急百貨店会長・清水雅の宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ」(Wikipedia)になりますから、稀代の創業者であった小林一三の系譜を次ぐとも言えるでしょう)。

 ちなみに、日経ビジネスオンラインの記事には、「無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家--。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない」「日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ」と絶賛です。

 しかも、その独特の物言い。その後作家として大成することになる林真理子は「コピーライターとしてプレゼンテーションに参加した時、堤さんに「君のコピー、ひどいね」というようなことを言われました。私は末席にコピーライターとして控えていただけで、直接はほとんど口をきいていません。それでも、つくったコピーが「出来損ないの現代詩」と言われたのはよく覚えています。もう、周りの人は真っ青ですよ(笑)。(略)堤さんは、私が作家になった後も「君はコピーライターの素質がないって僕があれだけ言ったから、今の林さんがあるんだよ」とよくおっしゃっていました」と回顧します(『堤清二の辛辣な言葉が作家・林真理子を生んだ』)

 みなさんもこんな辛辣な言葉で人を育てる方に巡り会うことができれば、どんなにか良いことでしょう。

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 その清二が結局、経営者として破綻します。直接は1980年代末から1990年代初頭にかけてのバブルが崩壊したことによって、「金融機関からの借り入れで依存して事業の急拡大を進めていた」経営が破綻し、経営者失格を宣告することになる(上記のように、弟の義明もまた、別の形で経営者失格を迎える)。

 多くの点で、「変わりつつある環境を見抜き」(=赤の女王よろしく、絶えず走り続け)、「新しい分野に果敢にいどみ」、生き残りを図ろうとするこの才人がつまづく一つの象徴は、「あの人には破滅願望が潜在している」という、清二が手がけた文化ビジネスの一つ、西武池袋本店にあった書店「リブロポート」の元店員の方が書いた別の本での指摘です。

 2世として任された仕事に飽きたらず、自らも1世を追い越すかのように、しかし、別の方向で走り抜け、しかし、心の中に「唐様で売り家と書く」ことへの想いを秘めた経営者。なかなかに世に現れない、魅力的な方であったでしょう。

“ボヘミアン・ラプソディ”:ベンベヌート・チェリーニあるいはカラバッジョ、そしてスタインベック

2018 12/4 総合政策学部の皆さんへ

 数週間前に、いまや巷にその名も高いロック・スター、クイーンのボーカルフレッド・マーキュリーの壮絶な人生を描く『ボヘミアン・ラブソディ』を観てきました。ネットでは毀誉褒貶がとびかっていますが、上映4週間で興業収入33億円越え、ヒットしているようです。もちろん、映画という表現スタイルとしての評価では、同じミュージシャンの人生を描くとしても、例えば『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』、『ドリームガールズ』(歌手を描くというよりも、モータウンレコードを一代で立ち上げたベリー・ゴーディの物語というべきでしょうが)などには一歩も、二歩も及ばぬところでしょう。

 とは言え、この映画は一にも二にもファルーク・バルサラことロック・バンドクイーンのリード・ボーカルだった故フレディ・マーキュリーの霊がのりうつったかのような ラミ・マレックの熱演と、「従来のヒット曲に加えて11トラックの未公開音源(1985年7月のライヴエイドからの5トラックを含む)が収録された」という、クイーンの圧倒的なオリジナル演奏を駆使した、アルバム製作現場とライブ演奏の再現に入れ込んでしまえば、それで十分というものでしょう。

 それにしても、“ボヘミアン・ラプソディ”のフレディ作の歌詞、昔ラジオで聞いていた時には、こんな歌詞だとは思ってもみませんでした(今でもそうですが、私は英語の歌詞などどうでもよくて、ただ、音と旋律を楽しんでいただけでした)。

Mama,just killed a man,                  ママ! 一人殺っちまったよ
Put a gun against his head,                そいつの頭に銃を突きつけ
Pulled my trigger,now hes dead,              引き金を引いたのさ、そいつはたったいま死んだんだ
Mama,life had just begun,               ママ! 俺の人生は始まったばかり
But now Ive gone and thrown it all away-         でも、それも終わりさ、すべて駄目にしちまった
Mama ooo,                          ママ!
Didnt mean to make you cry-               あんたを泣かせるつもりはなかったのに
If Im not back again this time tomorrow-         明日、僕がこの時間に、戻ってこなくても
Carry on,carry on,as if nothing really matters-      何もなかったのように、そのまま生きておくれ

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 この歌詞が眼にはいったとたん、想い出したのはボヘミアン=芸術家として“殺人もやっちまった”二人のアーティスト、云うまでもなく一人はルネサンスの名彫金師/彫刻家ベンヴェヌート・チェリーニ、そしてもう一人はカラバッジョです。

 もっとも、『あしながおじさん』の主人公ジルーシャ・アボットことジュディに「チェリーニってとても愉快でございますわね? 彼はいつも朝飯前にぶらりと粗手に出ていって、ふらっと人殺しをしてくるのですもの」(新潮文庫版、松本恵子訳)とからかわれているチェリーニですから、“ボヘミアン・ラプソディ”の“俺”とは違い、人生に悩みがあったとしても、それにとらわれることなどあるわけもない。破天荒な人生を刻銘に描いた『自伝』にひもとけば、以下の通りです。

「・・・(喧嘩相手の)顔面を突き刺そうとしたとき、相手が驚き、とっさに顔をそむけたため、ちょうど耳たぶの下のところを短刀は突いた。そこへ二突き見舞っただけで、その二突き目で彼は息たえ、私の腕にぐったりもたれた。私の意図せざるところであった。よく言うが、思わず殴るときは手加減できるものではない。(中略)ユーリア街の往来を引き上げながら、どこへ行けば助るかを考えた」 (『自伝』から;古賀弘人訳、岩波文庫版)

 そう言えば、この『自伝』の“自序”には、以下の詩が書き付けてあります。

    • 苦しみに満ちたこの私の<生涯>を書き記す
    •  造化の神に感謝するために、
    •   私に魂を吹き込み、ついで守って下さったことを、
    •    ゆえに私は様ざまな高き仕事を果たし、なお生きてある。
    • あの私の非常の<運命>、にもかかわらずことなきを得た
    •  それは私の命の賜であり、格別の栄光と実力、
    •   恩寵と、勇気と、美と、このような体躯の賜物である、
    •    ゆえに私は多くの者を追い越し、私を追いこす者に追いつく
    • 心は激しく痛むばかりだ、空しくもうしなわれた
    •  あのかけがえのない時を思い知るいまは。
    •   われらのはかない想いを風が運び去る。
    •    悔いても甲斐なきことだ、それゆえ満足しよう
    • この見事なトスカーナの花園に<よく来た子(ベンヴェヌート)>として
    •  降りたった私がいま昇ってゆくのだから。

(同書から)

 こちらの詞もぜひ、フレッドに曲にしてもらいたいところですが、それはいまは詮ないこと。さて、「粋で優雅なカスティリオーネ」、「陽気で不敵なアレティーノ」、「博識で内気なアリオスト」とならび、典型的ルネサンス人「乱暴で勇敢なチェリーニ」についてモンタネリはこのように結びます。

かれはルネサンス・イタリアの冒険児の典型であった。天才と異常性格、信仰とシニズム、無暴な勇気と宮廷人の卑屈さが、かれの中に共存していた。良心も理想も持たぬかれは、この世紀の知的剛胆と道徳的汚穢を誰よりもよく体現していた。この世紀は、善であれ悪であれ、中途半端な人物、中途半端な手段を許容しなかったのであるる」(『ルネサンスの歴史(上)藤原道郎訳』より)。

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 そのチェリーニ生誕から71年後に生まれ、イタリア・ルネサンスからバロック期に入った頃に活躍したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオもまた、中途半端では生きていけなかったかもしれません。しかし、すでにルネサンス期が過ぎ、“黒”でぬりつぶされるスペイン支配が強まったイタリアでは、おなじ「人を殺める」にせよ、チェリーニのようにはいかないのも無理ありません。

2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった」。そして、「1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう」(Wikipediaから)。

 殺人者としてローマを逃げ出したカラバッジョは、しかし、逃亡先のナポリ、マルタでも問題を引き起こし、かつ暗殺されかけ、ナポリからローマへと向かう旅の途中で死去したとされています。

 こちらの方が、チェリーニよりいっそ“ボヘミアン・ラプソディ”に近いかもしれません。

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 フレッド、チェリーニ、カラヴァッジョと続いて、最後の締めはアメリカの現代作家スタインベックの短編集『長い谷間(The Long Valley, 1938)』所載の『逃走』にしたいと思います。

 カリフォルニアから15マイルばかり南の海岸に面した農場に住む貧しい一家の長男ぺぺ、19になりながら、おとなしくて、やさしくて、怠け者のこの青年をおっかさんは「立派で勇敢な若者だと思っていたが、面と向かってそんなことを言ったことは一度もなかった」。

 ある日、オトナになるため、母からモンテレイで「薬と塩を買いに」一人で行ってくるように言いつかった彼は母親に「これからは何度でも、おれをひとりで出してくれていいだよ。おれはもう大人なんだから」と言うと、おっかあは「お前は脳みその足りねえひよっこだよ」と送り出します。

 その晩、戻ってきたぺぺは「顎からは、あの弱々しい線が消えてしまったようだった」。そして、人を殺してしまったので、これから逃げなければいけない、と母に告げます。

 母は「おまえは大人だ、なあ、ぺぺ、こんなことになるんじゃねえかと思っていただ」と息子に銃と残った10発ばかりの弾をわたし、逃亡へと送り出します。妹がそれに気づき、ぺぺはどこへ行くのか尋ねると、「ぺぺは旅に出るだ。ぺぺはもう大人だでな。大人としてしなきゃなんねえことがあるだ」。息子に別れを告げた母は、妹たちとともに哀歌が口に出ます「我らがうるわしきもの-いさましきもの、我らを守るもの、我らの息子は逝けり

 妹と弟は母の祈りを危機ながら、会話を交わします。
ぺぺはいつおとなになったの?」「ゆうべさ、ゆうべモンテレイだよ」
ぺぺは旅にでたんだ。もう帰ってこないよ
死んだのかい? 死んだと思うのかい?
死んじゃいないわ」「まだね

ということで、この結末を知りたい方は、是非『スタインベック短編集』(大久保康男訳、新潮文庫)を御覧下さい。

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part4:自然科学編

2018 8/30 新入生の皆さんへ

 自然や進化に関して、皆さんに推薦したい本と言えば、まず、C・ダーウィン『種の起源』をあげなければいけません。A・スミスの『国富論』やR・マルサスの『人口論』も同様、有名な割に読まれない本の筆頭と言われていますが、神を否定した彼は、いくら研究を進めても、進化にいかなる「目的」をも見いだせぬ切なさを、透徹した論理で展開します。

 あまりに近代的過ぎたダーウィンの真意は同時代の者にも、あるいはその後の人間にも必ずしも理解されないのですが、しかし、現在どんな分野であれ、「進化」を意識せずに議論することはできないでしょう。

 例えば、アメリカのノーベル文学賞受賞者J・スタインベックの『キャナリー・ロウ(日本語に訳すと『缶詰横町』)は、大学を中退して、海洋生物の標本や解剖用のネコ等を売りさばきながら暮らす孤独な海洋生物学者ドックを中心に、「パーティーをいかにしてもりあげるか」というモチーフが全巻展開する、「猛毒入りのシュークリーム」とも自評した不思議な(strange taste)小説ですが、主人公ドックの思想には進化論と、そこから派生してきたエコロジーに裏打ちされています。

  • 注1)ジョン・スタインベック:アメリカの小説家(1902~1968)。代表作に小説『怒りの葡萄』、『ハツカネズミと人間』等、1962年ノーベル文学賞受賞。なお、『キャナリー・ロウ』の主人公は実在の海洋生物学者のエド・リケッツで、二人は標本採集の旅行記『コルテスの海』を共同執筆もしています。
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     スタインベックらが活躍していた頃、「環境」はまだポピュラーな言葉ではありませんでした。しかし、地球も資源も無限ではなく、人の活動が環境に影響を与え、その影響がめぐりめぐって我々自身に不幸をもたらします。これが「地球環境問題」の本質なのです。

     そのことを最初に訴えた著作の一つが、R・カーソンの『沈黙の春』です。こうした流れは、1972年にローマクラブが発表した『成長の限界』、1992年にリオデジャネイロで開催された「環境と開発に関する国際連合会議」等につながっていきます。

    • 注2)レイチェル・ルイーズ・カーソン:アメリカの生物学者(1907~1964)。1962年に出版した『沈黙の春』で環境問題を提起した。
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       ところで、我々人間の活動が環境に与える影響には、二つの要因があります。一つは、我々が便利な生活を希求することで資源(とくにエネルギー資源)消費量が伸びること、そしてもう一つは我々自身の数が増える(=人口増加、あるいは人口爆発)ことです。

       それでは、人口がどのように増えてきたのか、あるいは減少していくか(すなわち、少子高齢化)、そしてそれにどう対応すべきか、R・マルサスの『人口論』以来、多数の書物が書かれてきましたが、とりあえず、日本列島の人口がどのように変化してきたのかを扱った本のなかで、とくに読みやすい文庫・新書の中から、速水融の『歴史人口学から見た日本』や鬼頭宏の『人口から読む日本の歴史』等をお薦めしたいと思います。

      • 注3)速水融:慶応義塾大学名誉教授、日本の歴史人口学の草分け(1929~)。
        ・鬼頭宏:上智大学教授、専攻は日本経済史、歴史人口学(1947~)。

       

翻訳についてPart5:英米文学におけるアフロ系アメリカ人の話し言葉をどう訳すべきか?

2018 8/25 総合政策学部の皆さんへ

 最近では“グローバリズム”という言葉を聞かぬ日もないぐらいですが、そこで一番用心すべきは“翻訳”、あるいは“通訳”かもしれません。気がつかぬうちに“フェイクな情報”を掴まされてしまうかもしれません、しかも“翻訳/通訳者”には悪意もなければ、自覚もないうちに。

 例えば、このブログでも以前(2011 6/22)「翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?」で誤訳について論じました。たとえば、「ポケットに蝿を」という訳は、英語の“fly”を文脈から察するに「毛針」 のはずなので本当は「ポケットに毛針を」の意味であり、「ノルウェーのネズミ」とは“Norway rat”を本来の意味である「ドブネズミ」ではなく「ノルウェーのネズミ」と直訳してしまったことに由来します。

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 さて、本日扱うのはこうした明確な“誤訳”ではなく、もう少し微妙なニュアンス、例えば、「話し言葉」を訳する時の問題です。一例をあげると、一時期(今もそうかもしれませんが)アメリカ文学、とくに南部文学においてアフロ・アメリカンによる「話し言葉」を独特の“方言”っぽい言葉に訳するのが一般的でした。たとえば、マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(この作品からアメリカ文学が始まった、というのがノーベル賞作家E・ヘミングウェイの指摘ですが)で、ハックが逃亡してきた旧知の黒人奴隷ジムにばったり出会うシーンですが、ジムは(とっさに「死んだはずだから、幽霊に違いない」と思い込んだ)ハックに叫びます。

助けてくれ-お願えだ! おらは幽霊にわるさをしたこたあ一ペンだってねえだ。いつだって、死んだ人は好きだけん、死んだ人にはできる限り尽くしてきただ。おめえ様はもう一ぺん川さ戻りなされ、あそこがおめえ様のいなさるとこだ。このジムおんじいば、そっとしておいてつかわさい。いっつもおめえ様の仲良しだったでねえだか」(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』講談社文庫版)

 さて、このジムが話す(ハックの台詞の訳とは少し異なる)方言ともなんともつかぬ表現。これこそが、日本で英米文学を訳する時、黒人奴隷あるいはその出身者の口調を表そうと日本の翻訳者が使っていた表現です。正直に言えば、こうした文学表現を当たり前にうけとって育った僕らの世代は、こうした(ある意味、黒人奴隷と日本の方言話者双方に対する差別的とも言えかねない)言い回しになんの疑問も持たずに育ちました。

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 一方で、アメリカ育ちの文学者がこうした文章を眼にした時に、どう感じるのでしょうか? 以下、ちょっと長い引用ですが、アメリカ人の立場から日本の翻訳本の世界を論じたものです。

本論は日常的な経験とそれに対するささいな疑問から生まれたものである。数年前に筆者(ロング)がァメリカ映画の日本語吹き替え版で黒人の登場人物はみんな東北弁で話していることに気付いた。また、老人が登場すると人種に関係なく広島弁をしゃべる。こうした映画を見て、「なぜアフリカ系のアメリカ人は日本の東北弁を話すのか」、そしてなぜ人が年を取ると広島弁になってしまぅのか」と不思議に思った」(中略)

例えば、ある映画に登場する無教養の田舎者は原作で南部訛りの英語を話している。これは、「南部方言は無教養の田舎者が話す言葉である」と示唆している。日本語の方言に対するイメージを調べるためには、その方言がどういう登場人物に使われているかを調べればよい。日本語吹き替え版で、この無教養の田舎者は東北弁を使わされている。したがって、日本で「東北弁は無教養の田舎者が話す言葉である」というイメージがあることが分かる

こうした理由で使われる日本語の方言は象徴的なものであり、しかも方言の専門家ではなく、一般人のために使われているので、言語学的に正確な方言である必要はない。また、特定な方言である必要もない。むしろ、場合によって、人物の二つの特徴を表現するため、異なった方言特徴が混用されることすらある。今回の黒人老人が「老人語」と意識されている中国地方の方言と黒人の話し方として定着している東北弁の両方の特徴が混ざったセリフを使うのもこの例に当たる。今回扱った資料で東北方言が教養のない社会的に身分の低い人々のセリフ に使われていたので、東北方言が決して良い方に写っているとは言えない。これまでの方言意識研究でも、こうした方言イメージがたびたび取り上げられた。井上史雄(1989)のSD(意味微分)法による方言イメージ研究では、「東北弁」が若「い女性にふさわしくない」、「ぞんざい」、「悪いことば」、「乱暴」、「汚い」といった否定的な特徴と結ばれることが多かった。こうした傾向が、東京や札幌、京都の出身者の間だけではなく、東北出身者の間にさえ見られたのである」(ダニエル・ロング・朝日祥之「翻訳と方言:映画の吹き替え翻訳に見られる日米の方言観」『日本語学』1999)

 いかがでしょうか? 異国の言葉を“翻訳する”際に、そこにゆくりもなく自らの“偏見的解釈”が忍び込み、それが言葉を通じて読者に拡大再生産されていく過程がおわかりになるでしょうか? この引用文で最後に著者らは以下のように主張します。

方言差別をなくすためには、まず問題の実態を把握する必要がある。日本では、方言イメージ研究は長い歴史を持っており、そしてさまざまな方法論の利用によつて、研究対象を複数の側面から接近することができた。本稿で提案した研究方法によつて、社会の一般構成員が潜在的に抱いている方言一ステレオタイプの今まで見えてこなかった側面から把握することができると確信している

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 さて、他者の文学を翻訳する際に垣間見える自らの言語観・偏見・差別を考えることで、自らを省みましょう、というのが本日のストーリーということになりますが、それではどんなふうに訳せばよいのでしょうか? 2017年12月に出版されたばかりの柴田元幸訳による『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒険では、さきほどのジムの台詞は以下のように書かれています。

いたい目にあわせないでくれ-たのむよ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。おれいつだって死んだ人たちが好きだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのいばしょだよ。このジムになにもしねえでくれよ、おれいつも、あんたのともだちだったろ」

 
 どうでしょうか? 「東北弁」のような「奴隷言葉」に訳すうちに、知らず知らずにハックとジムの関係をすり込まれていく、そんな翻訳の世界からまったく新しい言語感覚の世界にはいっていくべき時がきたのかもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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