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若い頃に読んだ本の印象が変わる時:高畑ゼミの100冊Part 29

2020 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 今週は、「若い頃に読んだ本を年取ってから読み返すと印象が変わってしまった」という話にします。本と言うものはたいてい1度読んだら、そのまま二度と読まないもの。とくにそれが泰西文豪畢生の名作などと銘打たれたものならば、一度読んだだけで満足してしまうことでしょう。

 そして、長い年月が経ったのちのある日、よせばいいのに若かった頃紐解いた“名作”にまたつい手をのばしてしまう! そこで失望するか(=昔は、なんでこんなつまらない本に感動したのだ!)、そしてさらに失望を重ねるか(=どうして、昔はこの面白さが気づかなかったのか! なんて馬鹿だったんだろう! などと)様々な思いにふけるのです。

 まったく個人的な経験では、中学の時に読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をあげましょう。ともかく長い(たしか、私が読んだ世界文学全集では2巻か3巻あったはず)。その上、ロシア人の名前を覚えるのも大変です。フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフが父親で、その3男がアレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフでかつその愛称がアリョーシャあるいはリューシェチカであるとまず覚えておかないと、とても筋も追えません。

 その『カラマーゾフの兄弟』を50歳を過ぎてから再び手に取った理由はひとえに、亀山郁夫氏による新訳が出たからにほかなりません。そこで思い切って再読してみたら、「一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ、ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ」「この郡きっての分別のない非常識人の一人として一生を押し通した」た父フョードルが、中学生での初読では「妖艶な美貌を持つ奔放な女性グルーシェンカを巡って長男と争っているヒヒ爺」という印象しかなかったのに、年齢は55歳で再読時の私とほぼ同じ、会話の端々にディドロ等の名前を口走りながら、周囲の人間や教会関係者をからかうトリック・スターぶりには刮目せざるをえません。

 中学の頃には単純な暴力的で頑迷、野卑な老人とばかり思いこんでいましたが、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフはどうやらなかなか奥深そうな方であり、かつ、まぎれもなくロシア男性のアーキタイプの一つだ、という点を理解するのに、実に40年の歳月がかかってしまったようです。

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 もっと最近の経験では、高畑ゼミの100冊Part2;『退屈な話』と『緋色の研究』で触れたドストエフスキーの後輩(生年では39年、ほぼ2世代分の差があります)アントン・チェーホフの『かもめ』があげられます。これはある原稿を頼まれて、そこにチェーホフの科白を引用すべく、あれこれ記憶をたどるうち、『かもめ』と『桜の園』に深入りしてしまったためなのですが。

 さて、このチェーホフのいわゆる4大悲劇の筆頭を飾る傑作『かもめ』は、モスクワで活躍する大女優アルカジーナの息子に生まれながら、母と離れて母の兄の田舎の屋敷で育ち、自らの手で文学的栄光を手中にしようとあがく作家志望の若者コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ・トレープレフことコスチャと、コスチャと恋仲にありながら、家や田舎を捨てても劇を演じることにあこがれるニーナ・ミハイロヴナ・ザレーチナヤことニーナの二人の関係のもつれであり、二人がそれぞれに挫折に直面しながら、コスチャは結局自死を選び、ニーナはドサ回りであっても女優の道をきわめようとする道を進む、という結末をとるのですが、当然、中学生としてはこの二人の若者の悲劇という印象が烙印のように押されたものでした。

 「かもめ」のストーリーをすべて紹介するわけにはいきませんから、あらすじをかいつまんで言うと、ニーナはやがてアルカジーナの愛人、流行作家トリゴーリンに魅かれていきます。トリゴーニンは自らを「おれはついぞ、自分の意志というものがない」と自嘲し、「わたしは作家としての自分が好きじゃない(=まぎれもなく、チェーホフ自身の独白でしょう)」とつぶやきます。ニーナは、彼らの活動の舞台であるモスクワへのあこがれもあわせ、この男に魅かれていきます。一方、コスチャはトリゴーリンに対して、母親(アルカジーナ)、恋人(ニーナ)、そして文学上の才能に関するコンプレックスに苦しみます。

 その結果は、当然、幾重もの愛情関係は綻・軋轢を生み、アルカジーナはトリゴーリンを連れてモスクワに旅立ちます(ニーナに心を残す彼に「あなたは馬鹿な真似をしたいんでしょうけれど、私は嫌です。放しません。(笑う)あなたは、わたしのものなの。私のものよ。この額もわたしのもの」と口説き落とします)。しかし、ニーナはトリゴーリンを追って出奔、かれと同棲して子供を産みますが、その子は死に、トリゴーリンはやがてアルカジーナのもとに戻ります。

 その2年後、元のさやにもどったアルカジーナとトリゴーリンがふたたび田舎を訪れると、そこには精進の結果、新進作家として世に出たばかりのコスチャが過去からの呪縛を完全には振りほどけないまま、二人を迎える。みんなが夜食をとりに退場した後、一人執筆をつづけるコスチャの前に突然、巡業の旅で時間を見つけたニーナが現れて、二人は久方ぶりでつかの間の会話をかわしますが、二人の道はすでに異なる道をたどっていることがあきらかになり、一人残されたコスチャは「信念がもてず、何が自分の使命かということを、知らずにいる」として自らの死を選ぶ。

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 少し前に、チェーホフの科白を引用したくてこの劇にしばらくぶりに目を通すと、しかし、あらわめて読んだ私に印象的だったのは若い二人の葛藤と迷いよりもむしろ、コスチャの母親、二十歳過ぎの息子がいながらも大女優ぶりを発揮しているイリーナ・ニコラーエヴナ・アルカージナでした。

 作家を目指す息子にとってはライバルとも言える流行作家ボリス・アレクセーエヴィチ・トリゴーリンと生活をともにし、息子を愛しながらもその創作劇(劇冒頭に演じられる劇中劇の主人公役はニーナです)を観ると、「ただね、若い者があんな退屈な暇つぶしをしているのが、歯がゆいだけですよ」(神崎清訳)とけなしてしまいます。とはいえ「あの子に恥をかかすつもりはなかったの」と言いながらも、しだいに「そろそろ気が咎めてきた。かわいそうに、なんだってわたし、うちの坊やに恥をかかしたのかしら?」と心配になる。自らの感性と欲望に素直なこの女性は、自分の主観ですべてを断罪し、かつ、その結果におろおろします。コスチャにとっては究極の“ダブル・バインド”でもあるし、いま流行りの“毒親”とも言えますが、さらにはアルカジーナは“美魔女”とも言えなくもありません。

 劇中、アルカジーナがみんなと話しながら「こうして並んでね、あんたは22、私はかれこそその倍よ。ね、ドールンさん、どっちが若く見えて」「あなたです、もちろん」「そうらね。で、なぜでしょう? それはね、わたしが働くからよ、物事にかんじるからよ、しょっちゅう気をつかているからよ。ところがあんたときたら、いつも一つ所にじっとして、てんで生きちゃいない。それにわたしには、主義があるの、未来をのぞき見しない、というね。私は、年のことも、死のことも、ついぞ考えたことがないわ。どうせ、なるようにしかならないのだもの」と言い放ちます。

  また、アルカジーナはプロの芸術家として、息子がトリゴーリンに(文学の上でも、そしてニーナをめぐる心の葛藤からも、そしておそらくは母との関係をめぐっても)嫉妬について、「才能のないくせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこき下ろすほかに道はないからね。結構なお慰みですよ」とついつい真実を指摘してしまう。

 一方で、兄のソーリンから「一番の上策は、もしもお前が、あの子にすこしばかりの金を持たしてやったらどうかと思うよ。一つ外国へでも出してみるかな」と水をむけられますが、「服ぐらいはつくってやれるでしょうけど、外国まではね。いいえ、今のところは服だってだめだわ。(きっぱりと)私お金がありません!」「お金のないことはないけれど、なにせ女優ですものね。衣装代だけでも身代かぎりしちまうわ」と応じるのです。彼女の生活にとってまず重要なことは女優であること、それを中心に生活も、お金も、愛人もすべてが自分を中心に回っている。もちろん、息子を愛していることは確かなのですが、コスチャも自分の周囲を回るもろもろの一つに過ぎません。

 そのあげく、母子の言い争いでコスチャが母親を「けちんぼ」とののしれば、アルカジーナは「宿なし」と返す。同時に、彼の才能にどこか欠けている部分を本能的に感じてしまう、そしてそれを口にしてはいられない。コスチャにとってはこの「どこかに行きたいけれど、どこにも出口がない」状況を中学生で理解するのはやはり無理だったかもしれません。

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 とすれば、この『カモメ』をロシアの現状(=ツルゲーネフが嘆き、しかし、150年後の現在でも、あの剛腕のプーチンでさえ意のままに操れぬロシア)に対する希望を、コスチャに「わたしはもう本物の女優なの」と告げ、「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくて、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの」と物語るニーナに託された希望をめぐる物語とも読めるわけですが、それは同時に自らの欲望と感性に忠実で、すべてを思うがままに操りながら、現実(愛する息子の自死)に直面せざるをえない大女優アルカジーナの悲劇の物語とも言えるのかもしれません。

 とくに、劇の終盤、あいかわらず大女優のまま、ニーナにいったんはなびいたトリゴーリンも取り戻し、相変わらずすべてが自らの周りをまわっているようでいながら、(コスチャが命を落とすピストルの音で)息子の自殺未遂を思い出し、ひとしきり嘆く姿には、あたかもフランス・ヴァロア朝末期を全力でささえながら結局はヴァロア朝消滅に至るマダム・セルパンことカトリーヌ・ド・メディシスの姿を思い起こすかもしれません。

 ちなみに、戯曲『かもめ』をめぐるエピソードとして語られる1896年にロシア演劇史上例をみない大失敗と伝えられるサンクトペテルブルク・アレクサンドリンスキイ劇場での初演のあと、2年後のモスクワ芸術座による再演での大成功ですが、コスチャをメイエルホリド、トリゴーリンをスタニスラフスキーというロシア演劇史上の大立者が扮しましたが、アルカージナは女優オリガ・クニッペルが演じ、チェーホフは数年後そのオリガと結婚します。

青べか物語にみるフィールドワーカーの苦悩と原罪:高畑ゼミの100冊#28

2020 5/15 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、山本周五郎という文士がいました。Wikipediaでは「作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある」とあります。本名清水三十六、1903年生まれで1967年死去、享年63歳。

 さて、山本が遺した作品のなかに『青べか物語』という逸品があります。文庫で出版している新潮社のHPでは「根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作」とあります。

 この“浦粕”とは、いまやTDL/TDRで日本はおろか、アジア一円に知られる浦安市です。あまりにもあからさまで、ほとんど匿名とは言えないぐらいですが、この「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を“巧妙”に描くことは、描かれた方々からすれば、あまり面白くないことかもしれない=これが今回のテーマであり、フィールドワークを志す方にはぜひ肝に銘じてほしいところなのです。

 調べてみたら、青べか物語はなんと『青空文庫』にはいっているのですね。以下の文章にご関心があれば、皆さん、ぜひ、ご照覧下さい。総合政策的視点でも、様々なインスピレーションをあたえてくるかもしれません(青空文庫『青べか物語』)。

 ちなみに、こうした「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を描いた傑作としてはほかにも後述するきだみのるの『気違い部落周游紀行』や、スタインベックの『キャナリー・ロウ』をあげておきましょう。あるいは、ツルゲーネフの『猟人日記』もあげておきたいところです。

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 さて、学生の皆さんは授業でフィールドワークを学び、いろんな場所で実践されるかもしれません。その際、覚えておいていただきたいことがあります。

 それは、フィールドワーカーが研究終了後に、応えなければいけない対象があることです。それは言うまでもなく、研究の対象とされた人々へのご報告です。人類学という業界ではすでに多くの批判がよせられていることですが、多くの研究報告や基づいた著作は先進国の言葉で書かれ、現地で情報を提供してくれたインフォーマントはおろか、現地の人々に読まれることさえ期待されていない、という状態が長年続きました。つまり、先進国あるいは知識階級による“情報”の搾取、独占です。

 イギリスの下層階級の子供たちを活写したポール・ウィリスの傑作『ハマータウンの野郎ども:学校への反抗・労働への順応』でも、“野郎ども”がウィリスの調査結果を眼にしたのか、文章だけでは読み取れません。したがって、一見、理想的な参与観察であるかのようなウィリスと彼らの関係も、旧来の“文明と未開”の構図とさして異ならないかもしれのです。

 あるいは、これは私自身の実見ではなく、他の方からの伝聞ですが、ある離島で訪れた学生の人がその島の良さをしきりに称揚していると、それを聞いていた島の人が静かに「では、あなたは、この島に住みますか?」とつぶやいたところ、その場が一気に凍り付いてしまった、とのことでした。余所者がどういおうと、そこでの暮らしについてはなかなかに言い尽くせぬ感慨と言い分があるはずです。

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 この点、描かれた人たちからの視線が絶えず基調低音として感じられ、さらには作者の含羞・とまどい・不安がさりげなく表されているのが、この『青べか物語』です。

 作中で“浦粕”と呼ばれる漁師町の細緻なルポルタージュとも言えるこの作品の後半で、作者は浦粕から脱出後8年目、ある作品の主人公、留さんに出くわします。すでに留さんの「頭があったかい」所業を小説に書いてしまった作者は当惑するのですが、当の留さんは「おら(その小説を)宝にするだ」と羞かみ笑いをうかべて去っていきます。

 そして、さらに20数年後、再び浦粕を訪れた作者はまるで“罰”を受けるかのように、町の誰もが自分を覚えていないことに直面して(読者とともに)とまどいます。この結末の背景に浮かぶ作者の表情には、フィールドワーカーが感じるある種の苦味に通じるものが漂っていたかもしれません。

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 同じような“罰”を被った例がきだみのるかもしれません。パリ大学で社会学・人類学を学んだ後、第二次大戦中から戦後にかけて一山村にすみついた彼が著した『気違い部落周遊紀行』はベストセラーになりますが、その内容は村人たちからの反感を買い、「地元では「気違い」扱いへの反撥が激しく、きだに鎌を振りかざして寺からの立ち退きを迫った」(Wikipedia)とのことです。

 さて、冨山百科文庫版のあとがきに、きだの子息である山田彝が印象的な話を記しています。この『紀行』の本文にも登場するカッシングという民族学者は、かつてネイティブ・アメリカンのズニを知るため、彼らとともに暮らす。ズニたちはカッシングを「彼らの心を完全に理解した人」として受け入れ、やがて彼を“弓の祭司”に任命する。それ以後、カッシングはズニのことを何一つ外へは語らなくなってしまう[きだみのる、1981:249]。

 この寓話めいたこの話が事実かどうかの詮索は、どうでもよいかもしれません。ただ、この話を聞かされたフィールドワーカーはふっとため息をつきます、できもせぬ理想を説かれた後でわが身を省みるように。

 20世紀を代表するフランスの知識人レヴェ=ストロースが説く“人類学者の祖”としてのルソーの原点に返るのならば、“我々”と“彼ら”の出会いによって、どちらも気がつかなかったものに気づき、それを共有することこそ望ましいことと言えるのかもしれません。

自らの好敵手について

2019 10/17 総合政策学部の皆さんへ

 Web記事を渉猟していると、ある台詞が目にとまりました(The Wall Street Journal 、2019 7/29掲載)。Gerard Baker氏による「トランプジョンソン両氏、仇敵が「親友」の皮肉」というタイトルの記事ですが、書き出しが以下の通りです。

  • ある老いた賢人はかつて、自身についてどう評価されたいかと尋ねられ、こう答えた。
  • 「私は人生で多くの友人と数人の敵をつくった。全体として、自分の敵を誇りに思う」

 含蓄が深い! 友よりも、なお、好敵手によって自らの評価を語らせる! 人生を生き抜くためには、こうでなければ! とつい思ってしまいます。

 とは言え、さらに上を行く人も、もちろんいます。イタリアの歴史作家モンタネッリの傑作『ローマの歴史』によれば、ローマ共和国の独裁者ルキウス・コルネリウス・スッラ(BC 138-78年)は権力の座をしりぞき、最後の生を楽しもうとしながらも病に倒れ、「死の苦しみを快活な微少と毒舌で隠し続け」ながら、息を引き取る前に自らの墓碑銘を口述しますが、それは、以下の通りです。

返礼ができぬほどよく私を助けてくれた友は一人もなかった。また、返礼ができぬほどひどく私を痛めつけた敵も一人もいなかった

 つまり、好敵手でさえも、オレよりは下だ! いや、そもそもオレには好敵手などというものは存在しない! という究極の上から目線ということでしょう。

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 そのスラがただ一人警戒した人物こそ、かのローマ帝国の実質的な創設者、ガイウス・ユリウス・カエサル(BC 100-44)です。二人の年の差は38年で、カエサルはスッラよりも1世代半ほど若いことになります。

 実は、そのカエサルの外伯父ガイウス・マリウス(BC 157-86)こそ、スラの文字通りの政敵(相手の支持者を、数万人に達するレベルで、互いに殺戮しまくります)ですが、こちらはスッラの19歳年長、ほぼ1世代離れています。

 つまり、ローマ共和国から帝政への移行にかけて、BC 133年のティベリウス・グラックスと元老院の対立、そしてグラックスの死から始まり、BC 27年にオクタウィアヌスが最終勝利を得て、実質的な帝政に移行するまでの100年(内乱の1世紀、あるいは共和政ローマの危機(Crisis of the Roman Republic))の中核をなす、マリウス → スッラ → カエサルと続く政治的抗争[民衆派 → 門閥派 → 民衆派、ただし民衆の支持を得ての帝政創立者という塩梅です]は、ほぼ、1世代~2世代を隔てての世代間抗争でもあったのですね。

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 それはともかく、38歳年下のカエサルはマリウスの甥であるということもあり、18歳の時、スッラ派の粛正の対象となり、あわや処刑されそうになります。しかし、あまりにも若輩の彼を免罪しようと助命嘆願がいくつもスッラの元に届きます。その時、スッラは、

よろしいとも、あなた方に譲歩しよう。彼をどのようにでもするがいい。けれどもただこのことだけは忘れないでもらいたい。あなた方がこんなに熱心にその無事息災を願っておられるあの男が、いつかは、私やあなた方が結束して守っている門閥派をほろぼすであろうということを。あの若者の中には多くのマリウスがいるということを」(スエトニウス『ローマ皇帝伝』国原吉之助訳)

 と言ったとされています。スッラの死(BC 86)の40年後、紆余曲折を経ながら、門閥派を圧倒、ローマの政治的権力を握り、実質的な皇帝の地位を占める(同時に、ガリア制服によってローマを国際帝国に変貌させ、今日のEUのベースを固めたとも言える)カエサルの未来を見事に予測した台詞です。

 ところで、スッラはBC 80年、突如、独裁者の地位を自ら辞退して隠退させ、世間を呆然とさせたということですが、カエサル自身は後年、スッラの行為を振り返って「独裁官を放棄したスッラは、目に一丁字なき間抜けであった」と嘲笑しています(スエトニウス)。

基礎演習ハンドブック初版コラム再録Part 2:週末には映画を見よう

2019 7/23 総合政策学部の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版本から(改訂版では削除された)コラム「週末には映画を見よう」を再録しましょう。執筆された先生は、すでにご退職されましたが、在校生の皆さんにぜひ映画からいろんなことを学んで欲しいと、熱を込めてお書きです。ぜひ、ご一読ください。
       

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 映画もまた、私たちに様々な智恵や、情報を与えてくれます。最近では、小説や音楽のように、映画も長い歴史を経た“古典”として、教養という性格を帯びてきました。チャップリンや『カサブランカ』、『ローマの休日』、『七人の侍』等の“名作”は映画評論家にまかせ、個人的な好みで「ぜひ皆さんに見てもらいたい」作品を有名、無名取り混ぜて紹介しましょう。レンタルビデオ屋にあるかどうか保証しませんが。

 まず、頭に浮かぶのが『アマデウス』。モーツアルトへの冒涜との意見もありますが、あのような奇矯な人物だったのは周知の事実。モーツアルトと対立したイタリア出身の音楽家サリエリに殺されたという当時の噂(ただし映画と違って毒殺)にもとづくこの作品、音楽好きにはたまりません。オペラ『魔笛』のシーンは、パパゲーノの服装等、初演時を彷彿とさせ、全曲上演したビデオがあったら絶対欲しい。
       

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 ミュージカル映画では『屋根の上のバイオリン弾き』をあげます。ロシアでのユダヤ人迫害の歴史を背景に、主人公テビエの3人の娘がそれぞれ恋人と出会い、結婚するまでを描いています。

 しきたりを無視しても子供の気持ちを大切にしようとする主人公や、恋によって自分の将来の夢が変えられていく娘たちに感情移入しながら、アイザック・スターンのバイオリンに耳を傾けて下さい。なお、親が自分の結婚に口出しそうな場合、その反対を封じ込める究極の名せりふがあります。
       

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 『十二人の怒れる男』が有名な“裁判物”の中から、少し変わった作品を取り上げます。ジョン・フォード監督バッファロー大隊』。被告の無実が証明される過程は似ていますが、最後に意外な事実がわかり、後味がさわやかです。もっとも、人種差別等の暗い場面もはさまり、単純に楽しめる作品ではありません。主題歌も勇壮なマーチですが、なぜか涙が止まらなくなるはずです。

 “SF”ではレイ・ブラッドベリー原作『華氏451度』。読書が許されなくなった未来社会で本を守ろうとする人たちの反逆の物語です。最近、「本を読まなくなった」、「出版業界は終わりだ」などの嘆きが聞かれますが、この映画を見ると力づけられます。本などくだらないと思っている人も見て下さい。考えが変わるかもしれません。なお、この映画を見て本の大事さを感じたら、原作もお読み下さい。
       

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 最後に“アニメ”はビートルズの『イエロー・サブマリン』。この作品のぶっ飛び加減は、その後のアニメに大きな影響を与えているはず。音楽をこよなく憎むブルー・ミーニーズの首領と部下マックスの掛け合いのおもしろさ、ビートルズ・ナンバーにヘンリー・パーセルのトランペット・ボランタリーが何の違和感もなく混じっている所、何度見てもあきません。ところで、劇中歌で「64才になっても僕を愛してくれるかい」と歌った時、自分が実際にそうなることがあると思っていたのでしょうか。ジョン・レノンはともかく、他のメンバーは確か....

堤清二×辻井喬;経営者としての多重人格-『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬・上野千鶴子著)を読んで

2019 2/5 総合政策学部の皆さんへ

 江戸時代、「売り家と 唐様(からよう)で書く 三代目」という川柳があります。この句の主旨は「初代が苦労して作った家屋敷も3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし中国風の書体などを凝って習ったおろかさが『売家』のはり紙にあらわれていることを皮肉った」(広辞苑第5版)とされています。

 それでは、なぜこんな句を持ち出したからと言うと、『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬上野千鶴子、中公新書、2008)という本を読んで、経営者兼文学者としての堤清二(その筆名が辻井喬)に興味を持ったからです。一代の才人上野千鶴子が相対(あいたい)しても、なかなかにその本質をつかみきれない、いわば現代版ヌエとしての辻井喬=堤清二。西武鉄道創業者にして第44代衆議院議長も兼ねた別名「ピストル堤」、こと堤康二郎の次男として西武百貨店をまかされたかつてのセゾン・グループ総帥の本質は、単純・明快な理論ではなかなか割り切れないようです。

 それはおそらく、辻井喬・堤清二が一身にして「一代目」、「二代目」、「三代目」の要素をすべて備えているからだろう、というのが今回の眼目になります。これは言うまでもなく、「経営者」としてたえず変化する環境にどのような姿勢で田既往すべきか? というテーマになります。「赤の女王仮説」さながら、高度成長期に「二代目」として資産を継ぎながら、変わっていく環境に完全と挑戦する「一代目」としての才覚をもち、かつ、「内在する破滅願望」にゆれうごく「三代目」、堤清二自身がそうした構図を意識しながら、それでも「時代を超えよう」として、事実「一時代を越えながら」、やがて「時代が自分を押し流していくこと]を自覚する、そんな人生双六の流転かもしれません。

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 さて、時系列的に考えれば(レポートの組立から言えば)、堤清二の出発点はまぎれもなき「二代目」ということになります。なにしろ、すでに明治初めの乱世も落ち着き始めた明治22年、目に一丁字なき中間の身分から三井大番頭にまで成り上がる三野村利左右衛門等に遅れること78年、滋賀県の兼麻仲買いの家に生まれ、苦学の末、早稲田を卒業、政治と商売の両方にしくじりを重ねながら、やがて不動産業から鉄道経営(西武鉄道)をへて、大実業家・政治家になりあがった父堤康次郎が「ピストル堤」の異名をとるような、乱世の英雄の風格をただよわせた「一代目」ならば、清二なはいにしえの唐の皇帝太宗人が言った「創業は易く守成は難し」(「貞観政要」論君道)の時期にあたるはずでした。

 しかし、彼は父康二郎によって、後継としての西武グループの総帥の位置からはずされ、総帥は異母弟の堤義明にまかされます(義明はその後、父親譲りの豪腕を発揮して、「フォーブス誌で一時は総資産額で世界一となったこともあるが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取って一線を退き、その後にインサイダー取引疑惑で有罪判決」(Wikipedia)を受けることになりますが、それはまた別の話にしましょう)。

 この結果、清二は傍系であった西武百貨店を率いることになりますが、日本が高度成長期に入った1960年代から90年代にかけて西武流通グループとして、西武百貨店・西友・朝日工業・西洋環境開発、クレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ・朝日航洋・セゾン生命保険・インターコンチネンタルホテル・大沢商会・パルコ・ファミリーマート・ピサ等による巨大グループ体制を創り上げます。

 西武百貨店という遺産をベースにしながらも、紛れもない第一世代=創業者としての才覚ということになります(なお、清二は父の死後、「当時阪急百貨店会長・清水雅の宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ」(Wikipedia)になりますから、稀代の創業者であった小林一三の系譜を次ぐとも言えるでしょう)。

 ちなみに、日経ビジネスオンラインの記事には、「無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家--。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない」「日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ」と絶賛です。

 しかも、その独特の物言い。その後作家として大成することになる林真理子は「コピーライターとしてプレゼンテーションに参加した時、堤さんに「君のコピー、ひどいね」というようなことを言われました。私は末席にコピーライターとして控えていただけで、直接はほとんど口をきいていません。それでも、つくったコピーが「出来損ないの現代詩」と言われたのはよく覚えています。もう、周りの人は真っ青ですよ(笑)。(略)堤さんは、私が作家になった後も「君はコピーライターの素質がないって僕があれだけ言ったから、今の林さんがあるんだよ」とよくおっしゃっていました」と回顧します(『堤清二の辛辣な言葉が作家・林真理子を生んだ』)

 みなさんもこんな辛辣な言葉で人を育てる方に巡り会うことができれば、どんなにか良いことでしょう。

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 その清二が結局、経営者として破綻します。直接は1980年代末から1990年代初頭にかけてのバブルが崩壊したことによって、「金融機関からの借り入れで依存して事業の急拡大を進めていた」経営が破綻し、経営者失格を宣告することになる(上記のように、弟の義明もまた、別の形で経営者失格を迎える)。

 多くの点で、「変わりつつある環境を見抜き」(=赤の女王よろしく、絶えず走り続け)、「新しい分野に果敢にいどみ」、生き残りを図ろうとするこの才人がつまづく一つの象徴は、「あの人には破滅願望が潜在している」という、清二が手がけた文化ビジネスの一つ、西武池袋本店にあった書店「リブロポート」の元店員の方が書いた別の本での指摘です。

 2世として任された仕事に飽きたらず、自らも1世を追い越すかのように、しかし、別の方向で走り抜け、しかし、心の中に「唐様で売り家と書く」ことへの想いを秘めた経営者。なかなかに世に現れない、魅力的な方であったでしょう。

“ボヘミアン・ラプソディ”:ベンベヌート・チェリーニあるいはカラバッジョ、そしてスタインベック

2018 12/4 総合政策学部の皆さんへ

 数週間前に、いまや巷にその名も高いロック・スター、クイーンのボーカルフレッド・マーキュリーの壮絶な人生を描く『ボヘミアン・ラブソディ』を観てきました。ネットでは毀誉褒貶がとびかっていますが、上映4週間で興業収入33億円越え、ヒットしているようです。もちろん、映画という表現スタイルとしての評価では、同じミュージシャンの人生を描くとしても、例えば『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』、『ドリームガールズ』(歌手を描くというよりも、モータウンレコードを一代で立ち上げたベリー・ゴーディの物語というべきでしょうが)などには一歩も、二歩も及ばぬところでしょう。

 とは言え、この映画は一にも二にもファルーク・バルサラことロック・バンドクイーンのリード・ボーカルだった故フレディ・マーキュリーの霊がのりうつったかのような ラミ・マレックの熱演と、「従来のヒット曲に加えて11トラックの未公開音源(1985年7月のライヴエイドからの5トラックを含む)が収録された」という、クイーンの圧倒的なオリジナル演奏を駆使した、アルバム製作現場とライブ演奏の再現に入れ込んでしまえば、それで十分というものでしょう。

 それにしても、“ボヘミアン・ラプソディ”のフレディ作の歌詞、昔ラジオで聞いていた時には、こんな歌詞だとは思ってもみませんでした(今でもそうですが、私は英語の歌詞などどうでもよくて、ただ、音と旋律を楽しんでいただけでした)。

Mama,just killed a man,                  ママ! 一人殺っちまったよ
Put a gun against his head,                そいつの頭に銃を突きつけ
Pulled my trigger,now hes dead,              引き金を引いたのさ、そいつはたったいま死んだんだ
Mama,life had just begun,               ママ! 俺の人生は始まったばかり
But now Ive gone and thrown it all away-         でも、それも終わりさ、すべて駄目にしちまった
Mama ooo,                          ママ!
Didnt mean to make you cry-               あんたを泣かせるつもりはなかったのに
If Im not back again this time tomorrow-         明日、僕がこの時間に、戻ってこなくても
Carry on,carry on,as if nothing really matters-      何もなかったのように、そのまま生きておくれ

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 この歌詞が眼にはいったとたん、想い出したのはボヘミアン=芸術家として“殺人もやっちまった”二人のアーティスト、云うまでもなく一人はルネサンスの名彫金師/彫刻家ベンヴェヌート・チェリーニ、そしてもう一人はカラバッジョです。

 もっとも、『あしながおじさん』の主人公ジルーシャ・アボットことジュディに「チェリーニってとても愉快でございますわね? 彼はいつも朝飯前にぶらりと粗手に出ていって、ふらっと人殺しをしてくるのですもの」(新潮文庫版、松本恵子訳)とからかわれているチェリーニですから、“ボヘミアン・ラプソディ”の“俺”とは違い、人生に悩みがあったとしても、それにとらわれることなどあるわけもない。破天荒な人生を刻銘に描いた『自伝』にひもとけば、以下の通りです。

「・・・(喧嘩相手の)顔面を突き刺そうとしたとき、相手が驚き、とっさに顔をそむけたため、ちょうど耳たぶの下のところを短刀は突いた。そこへ二突き見舞っただけで、その二突き目で彼は息たえ、私の腕にぐったりもたれた。私の意図せざるところであった。よく言うが、思わず殴るときは手加減できるものではない。(中略)ユーリア街の往来を引き上げながら、どこへ行けば助るかを考えた」 (『自伝』から;古賀弘人訳、岩波文庫版)

 そう言えば、この『自伝』の“自序”には、以下の詩が書き付けてあります。

    • 苦しみに満ちたこの私の<生涯>を書き記す
    •  造化の神に感謝するために、
    •   私に魂を吹き込み、ついで守って下さったことを、
    •    ゆえに私は様ざまな高き仕事を果たし、なお生きてある。
    • あの私の非常の<運命>、にもかかわらずことなきを得た
    •  それは私の命の賜であり、格別の栄光と実力、
    •   恩寵と、勇気と、美と、このような体躯の賜物である、
    •    ゆえに私は多くの者を追い越し、私を追いこす者に追いつく
    • 心は激しく痛むばかりだ、空しくもうしなわれた
    •  あのかけがえのない時を思い知るいまは。
    •   われらのはかない想いを風が運び去る。
    •    悔いても甲斐なきことだ、それゆえ満足しよう
    • この見事なトスカーナの花園に<よく来た子(ベンヴェヌート)>として
    •  降りたった私がいま昇ってゆくのだから。

(同書から)

 こちらの詞もぜひ、フレッドに曲にしてもらいたいところですが、それはいまは詮ないこと。さて、「粋で優雅なカスティリオーネ」、「陽気で不敵なアレティーノ」、「博識で内気なアリオスト」とならび、典型的ルネサンス人「乱暴で勇敢なチェリーニ」についてモンタネリはこのように結びます。

かれはルネサンス・イタリアの冒険児の典型であった。天才と異常性格、信仰とシニズム、無暴な勇気と宮廷人の卑屈さが、かれの中に共存していた。良心も理想も持たぬかれは、この世紀の知的剛胆と道徳的汚穢を誰よりもよく体現していた。この世紀は、善であれ悪であれ、中途半端な人物、中途半端な手段を許容しなかったのであるる」(『ルネサンスの歴史(上)藤原道郎訳』より)。

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 そのチェリーニ生誕から71年後に生まれ、イタリア・ルネサンスからバロック期に入った頃に活躍したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオもまた、中途半端では生きていけなかったかもしれません。しかし、すでにルネサンス期が過ぎ、“黒”でぬりつぶされるスペイン支配が強まったイタリアでは、おなじ「人を殺める」にせよ、チェリーニのようにはいかないのも無理ありません。

2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった」。そして、「1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう」(Wikipediaから)。

 殺人者としてローマを逃げ出したカラバッジョは、しかし、逃亡先のナポリ、マルタでも問題を引き起こし、かつ暗殺されかけ、ナポリからローマへと向かう旅の途中で死去したとされています。

 こちらの方が、チェリーニよりいっそ“ボヘミアン・ラプソディ”に近いかもしれません。

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 フレッド、チェリーニ、カラヴァッジョと続いて、最後の締めはアメリカの現代作家スタインベックの短編集『長い谷間(The Long Valley, 1938)』所載の『逃走』にしたいと思います。

 カリフォルニアから15マイルばかり南の海岸に面した農場に住む貧しい一家の長男ぺぺ、19になりながら、おとなしくて、やさしくて、怠け者のこの青年をおっかさんは「立派で勇敢な若者だと思っていたが、面と向かってそんなことを言ったことは一度もなかった」。

 ある日、オトナになるため、母からモンテレイで「薬と塩を買いに」一人で行ってくるように言いつかった彼は母親に「これからは何度でも、おれをひとりで出してくれていいだよ。おれはもう大人なんだから」と言うと、おっかあは「お前は脳みその足りねえひよっこだよ」と送り出します。

 その晩、戻ってきたぺぺは「顎からは、あの弱々しい線が消えてしまったようだった」。そして、人を殺してしまったので、これから逃げなければいけない、と母に告げます。

 母は「おまえは大人だ、なあ、ぺぺ、こんなことになるんじゃねえかと思っていただ」と息子に銃と残った10発ばかりの弾をわたし、逃亡へと送り出します。妹がそれに気づき、ぺぺはどこへ行くのか尋ねると、「ぺぺは旅に出るだ。ぺぺはもう大人だでな。大人としてしなきゃなんねえことがあるだ」。息子に別れを告げた母は、妹たちとともに哀歌が口に出ます「我らがうるわしきもの-いさましきもの、我らを守るもの、我らの息子は逝けり

 妹と弟は母の祈りを危機ながら、会話を交わします。
ぺぺはいつおとなになったの?」「ゆうべさ、ゆうべモンテレイだよ」
ぺぺは旅にでたんだ。もう帰ってこないよ
死んだのかい? 死んだと思うのかい?
死んじゃいないわ」「まだね

ということで、この結末を知りたい方は、是非『スタインベック短編集』(大久保康男訳、新潮文庫)を御覧下さい。

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part4:自然科学編

2018 8/30 新入生の皆さんへ

 自然や進化に関して、皆さんに推薦したい本と言えば、まず、C・ダーウィン『種の起源』をあげなければいけません。A・スミスの『国富論』やR・マルサスの『人口論』も同様、有名な割に読まれない本の筆頭と言われていますが、神を否定した彼は、いくら研究を進めても、進化にいかなる「目的」をも見いだせぬ切なさを、透徹した論理で展開します。

 あまりに近代的過ぎたダーウィンの真意は同時代の者にも、あるいはその後の人間にも必ずしも理解されないのですが、しかし、現在どんな分野であれ、「進化」を意識せずに議論することはできないでしょう。

 例えば、アメリカのノーベル文学賞受賞者J・スタインベックの『キャナリー・ロウ(日本語に訳すと『缶詰横町』)は、大学を中退して、海洋生物の標本や解剖用のネコ等を売りさばきながら暮らす孤独な海洋生物学者ドックを中心に、「パーティーをいかにしてもりあげるか」というモチーフが全巻展開する、「猛毒入りのシュークリーム」とも自評した不思議な(strange taste)小説ですが、主人公ドックの思想には進化論と、そこから派生してきたエコロジーに裏打ちされています。

  • 注1)ジョン・スタインベック:アメリカの小説家(1902~1968)。代表作に小説『怒りの葡萄』、『ハツカネズミと人間』等、1962年ノーベル文学賞受賞。なお、『キャナリー・ロウ』の主人公は実在の海洋生物学者のエド・リケッツで、二人は標本採集の旅行記『コルテスの海』を共同執筆もしています。
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     スタインベックらが活躍していた頃、「環境」はまだポピュラーな言葉ではありませんでした。しかし、地球も資源も無限ではなく、人の活動が環境に影響を与え、その影響がめぐりめぐって我々自身に不幸をもたらします。これが「地球環境問題」の本質なのです。

     そのことを最初に訴えた著作の一つが、R・カーソンの『沈黙の春』です。こうした流れは、1972年にローマクラブが発表した『成長の限界』、1992年にリオデジャネイロで開催された「環境と開発に関する国際連合会議」等につながっていきます。

    • 注2)レイチェル・ルイーズ・カーソン:アメリカの生物学者(1907~1964)。1962年に出版した『沈黙の春』で環境問題を提起した。
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       ところで、我々人間の活動が環境に与える影響には、二つの要因があります。一つは、我々が便利な生活を希求することで資源(とくにエネルギー資源)消費量が伸びること、そしてもう一つは我々自身の数が増える(=人口増加、あるいは人口爆発)ことです。

       それでは、人口がどのように増えてきたのか、あるいは減少していくか(すなわち、少子高齢化)、そしてそれにどう対応すべきか、R・マルサスの『人口論』以来、多数の書物が書かれてきましたが、とりあえず、日本列島の人口がどのように変化してきたのかを扱った本のなかで、とくに読みやすい文庫・新書の中から、速水融の『歴史人口学から見た日本』や鬼頭宏の『人口から読む日本の歴史』等をお薦めしたいと思います。

      • 注3)速水融:慶応義塾大学名誉教授、日本の歴史人口学の草分け(1929~)。
        ・鬼頭宏:上智大学教授、専攻は日本経済史、歴史人口学(1947~)。

       

翻訳についてPart5:英米文学におけるアフロ系アメリカ人の話し言葉をどう訳すべきか?

2018 8/25 総合政策学部の皆さんへ

 最近では“グローバリズム”という言葉を聞かぬ日もないぐらいですが、そこで一番用心すべきは“翻訳”、あるいは“通訳”かもしれません。気がつかぬうちに“フェイクな情報”を掴まされてしまうかもしれません、しかも“翻訳/通訳者”には悪意もなければ、自覚もないうちに。

 例えば、このブログでも以前(2011 6/22)「翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?」で誤訳について論じました。たとえば、「ポケットに蝿を」という訳は、英語の“fly”を文脈から察するに「毛針」 のはずなので本当は「ポケットに毛針を」の意味であり、「ノルウェーのネズミ」とは“Norway rat”を本来の意味である「ドブネズミ」ではなく「ノルウェーのネズミ」と直訳してしまったことに由来します。

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 さて、本日扱うのはこうした明確な“誤訳”ではなく、もう少し微妙なニュアンス、例えば、「話し言葉」を訳する時の問題です。一例をあげると、一時期(今もそうかもしれませんが)アメリカ文学、とくに南部文学においてアフロ・アメリカンによる「話し言葉」を独特の“方言”っぽい言葉に訳するのが一般的でした。たとえば、マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(この作品からアメリカ文学が始まった、というのがノーベル賞作家E・ヘミングウェイの指摘ですが)で、ハックが逃亡してきた旧知の黒人奴隷ジムにばったり出会うシーンですが、ジムは(とっさに「死んだはずだから、幽霊に違いない」と思い込んだ)ハックに叫びます。

助けてくれ-お願えだ! おらは幽霊にわるさをしたこたあ一ペンだってねえだ。いつだって、死んだ人は好きだけん、死んだ人にはできる限り尽くしてきただ。おめえ様はもう一ぺん川さ戻りなされ、あそこがおめえ様のいなさるとこだ。このジムおんじいば、そっとしておいてつかわさい。いっつもおめえ様の仲良しだったでねえだか」(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』講談社文庫版)

 さて、このジムが話す(ハックの台詞の訳とは少し異なる)方言ともなんともつかぬ表現。これこそが、日本で英米文学を訳する時、黒人奴隷あるいはその出身者の口調を表そうと日本の翻訳者が使っていた表現です。正直に言えば、こうした文学表現を当たり前にうけとって育った僕らの世代は、こうした(ある意味、黒人奴隷と日本の方言話者双方に対する差別的とも言えかねない)言い回しになんの疑問も持たずに育ちました。

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 一方で、アメリカ育ちの文学者がこうした文章を眼にした時に、どう感じるのでしょうか? 以下、ちょっと長い引用ですが、アメリカ人の立場から日本の翻訳本の世界を論じたものです。

本論は日常的な経験とそれに対するささいな疑問から生まれたものである。数年前に筆者(ロング)がァメリカ映画の日本語吹き替え版で黒人の登場人物はみんな東北弁で話していることに気付いた。また、老人が登場すると人種に関係なく広島弁をしゃべる。こうした映画を見て、「なぜアフリカ系のアメリカ人は日本の東北弁を話すのか」、そしてなぜ人が年を取ると広島弁になってしまぅのか」と不思議に思った」(中略)

例えば、ある映画に登場する無教養の田舎者は原作で南部訛りの英語を話している。これは、「南部方言は無教養の田舎者が話す言葉である」と示唆している。日本語の方言に対するイメージを調べるためには、その方言がどういう登場人物に使われているかを調べればよい。日本語吹き替え版で、この無教養の田舎者は東北弁を使わされている。したがって、日本で「東北弁は無教養の田舎者が話す言葉である」というイメージがあることが分かる

こうした理由で使われる日本語の方言は象徴的なものであり、しかも方言の専門家ではなく、一般人のために使われているので、言語学的に正確な方言である必要はない。また、特定な方言である必要もない。むしろ、場合によって、人物の二つの特徴を表現するため、異なった方言特徴が混用されることすらある。今回の黒人老人が「老人語」と意識されている中国地方の方言と黒人の話し方として定着している東北弁の両方の特徴が混ざったセリフを使うのもこの例に当たる。今回扱った資料で東北方言が教養のない社会的に身分の低い人々のセリフ に使われていたので、東北方言が決して良い方に写っているとは言えない。これまでの方言意識研究でも、こうした方言イメージがたびたび取り上げられた。井上史雄(1989)のSD(意味微分)法による方言イメージ研究では、「東北弁」が若「い女性にふさわしくない」、「ぞんざい」、「悪いことば」、「乱暴」、「汚い」といった否定的な特徴と結ばれることが多かった。こうした傾向が、東京や札幌、京都の出身者の間だけではなく、東北出身者の間にさえ見られたのである」(ダニエル・ロング・朝日祥之「翻訳と方言:映画の吹き替え翻訳に見られる日米の方言観」『日本語学』1999)

 いかがでしょうか? 異国の言葉を“翻訳する”際に、そこにゆくりもなく自らの“偏見的解釈”が忍び込み、それが言葉を通じて読者に拡大再生産されていく過程がおわかりになるでしょうか? この引用文で最後に著者らは以下のように主張します。

方言差別をなくすためには、まず問題の実態を把握する必要がある。日本では、方言イメージ研究は長い歴史を持っており、そしてさまざまな方法論の利用によつて、研究対象を複数の側面から接近することができた。本稿で提案した研究方法によつて、社会の一般構成員が潜在的に抱いている方言一ステレオタイプの今まで見えてこなかった側面から把握することができると確信している

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 さて、他者の文学を翻訳する際に垣間見える自らの言語観・偏見・差別を考えることで、自らを省みましょう、というのが本日のストーリーということになりますが、それではどんなふうに訳せばよいのでしょうか? 2017年12月に出版されたばかりの柴田元幸訳による『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒険では、さきほどのジムの台詞は以下のように書かれています。

いたい目にあわせないでくれ-たのむよ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。おれいつだって死んだ人たちが好きだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのいばしょだよ。このジムになにもしねえでくれよ、おれいつも、あんたのともだちだったろ」

 
 どうでしょうか? 「東北弁」のような「奴隷言葉」に訳すうちに、知らず知らずにハックとジムの関係をすり込まれていく、そんな翻訳の世界からまったく新しい言語感覚の世界にはいっていくべき時がきたのかもしれません。

新入生の皆さんに向けて:トラベル・ライターは何をきっかけとして旅行記を書いたのか?

2018 8/13 総合政策学部の皆さん、とくに新入生の皆さんへ

 今回は『基礎演習ハンドブック』初版から、現在の改訂版からは削除されたコラム「新入生の方々へ 旅行記の世界~未知の世界へのいざない~」を再録・補足しながら、皆さんに未知の世界への誘いと旅行記の勧めをお送りします。

 さて、古来、旅をした人はその見聞を他者にも分かちあいたいという不思議な情熱に憑かれます。古典では、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの弟子でありながら、傭兵としてペルシャに遠征、敗れて逃げ帰ったクセノフォンが記す『アナバシス』、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロの『東方見聞録』、モロッコから中国まで旅した中世イスラームの旅行家イブン=バットゥータの『三大陸周遊記』、人類初の世界周航を志しながらフィリッピンで戦死するマゼランの部下として、幸運にもスペインまで帰り着くことができた18人の一人、アントニオ・ピガフェッタが書き残した『マガリャンイス最初の世界一周航海』等があげられるでしょう。

 とくに欧米で生まれた旅行記の多くは、ヨーロッパ人が“未開”の地を訪れ、“未開人/野蛮人”に触れるというパターンで展開します。しかし、ヨーロッパ人たちはやがて、ひょっとして、“野蛮人たち”の方が堕落したヨーロッパ人より“高貴”ではないのか、という疑いにとらわれます。この怖れは18世紀のフランス百科全書派のドゥ二・ディドロが著した『ブーガンヴィル航海記補遺』から、南太平洋の小島の首長ツイアビの演説と伝えられるヨーロッパ的な価値観への異議申し立ての書『パパラギ』など、今日まで続きます。

 こうした視点で、19世紀、開国直後の日本を訪れた外国人たちによる“日本旅行記もの”、例えば、1878年に日本人通訳一人(通訳行の先駆者伊藤鶴吉)をつれただけで、女性として初めて東北~北海道を旅行したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』と、江戸末期、御庭番より出世して万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換使節副使として渡米、異国の風情に素直な感想をもらす村垣淡路守の『遣米使日記』を読み比べるのも一興かもしれません。トロイ遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンもまた、発掘前の世界一周旅行で来日、記録を残しています(『シュリーマン旅行記清国・日本』)。

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 さて、これらの旅行記作家、今時でいうトラベル・ライターはどのような動機やきっかけで記録を残したのでしょうか?

 一つのパターンは、彼らが旅行を振り返る口述を筆記者が書き取るスタイルがあります。もちろん、聞き取り者がなみなみならぬ興味にかられて記録した場合もあれば、権力者(為政者)の指示によって記録が残った場合もある。もちろん、たまたま記録が残ったケースも含めて、様々です。

 例えば、『東方見聞録』はマルコ・ポーロの口述をイタリア人小説家のルスティケロ・ダ・ピサが、ピサとジェノバの両海洋都市国家間の戦争で、捕虜として獄中でしりあった時に採録編纂した旅行記とのことです。一方、『三大陸周遊記』は、モロッコを支配していたマリーン朝の首長が、30年にも及ぶ大旅行をおこなったイブン・バットゥータに命じて、口述を記載したものです。江戸時代半ば、484日間におよぶ漂流の末、英国船に救助されて紆余曲折の末、日本に帰還できた尾張藩の船頭重吉の『船長(ふなおさ)日記』は、新城藩(現愛知県新城市)家老・国学者の池田寛親による口述筆記です。

 一方、“記録者”として、最初から“書き残す”ことを意識しながら、大旅行に同行した者もいます。その典型がマジェランの大航海に同行したピガフェッタで、かれは旅行後にローマ教皇から体験記の出版を勧められ、“Relazione del Primo Viaggio Intorno Al Mondo”(『マガリャンイス最初の世界一周航海』)をロードス騎士団長リダランへの書簡の体裁で著した、とのことです(Wikipedia)。

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 そして、近代、“仕事”としてのトラベル・ライター、しかも女性旅行ライター(Victorian Lady Trabeler)として未踏の道を切り開き、最終的にはあのイギリス外務省からも貴重な情報提供者として遇されるに至った(そして、今思えば、文明批評家の風韻さえ帯びる)イザベラ・バードは実は病弱を理由に(イギリスから国外への)転地療法を受けたのがきっかけで、25歳で『英国女性の見たアメリカ』を、さらに44歳の時に旅先から故郷の妹に送った手紙を整理する形で『ハワイ諸島の6ヵ月間』を出版し、47歳では北米を経由して日本奥地を旅行(もちろん、外国人女性単身の日本旅行は空前のこと)、48歳で『一夫人のロッキー山中生活』を、49歳で『日本奥地紀行』を出版します(その年、手紙を送っていた最愛の妹が死亡)。その後、68歳で『揚子江とその奥地』を出版、72歳でなくなります。

 こうしてバードは個人的旅行者からやがて積極的なトラベル・ライターへの道を開拓していくのですが、その延長線上にやがて世界中を旅した植物画家マリアンヌ・ノース、中東の権威ともなった「砂漠の女王」ガートルード・ベル(彼女がアラビアのロレンスことT.E.ロレンスの指摘を無視したことが、現在のクルド問題につながったともいわれています;Wikipedia)、西アフリカを広く踏破したメアリ・キングスレーらへとつながっていきます。

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 さて、現代では旅行記も単純ではありません。もはや、“未開”の土地もなく、彼我の価値観の上下も定からない現代にあって、皆さんにお薦めの金字塔としてフランスの構造主義人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき南回帰線』、スペイン内戦に自らまきこまれていく(アンガージュしていく)作家ジョージ・オーウェルのルポルタージュ文学の傑作『カタロニア賛歌』、動物園のために西アフリカに採集旅行を敢行する動物コレクターのジェラルド・ダレルの『積み過ぎた箱船』等がお薦めです。

 さらに日本人の作品では、武田百合子が夫の作家武田泰淳とともに旧ソ連を旅する『犬が星見た』、高度成長期の若者の好奇心が炸裂する小田実『なんでも見てやろう』、小田の10数年後にインドのデリーからロンドンまでバスの旅をたどる沢木耕太郎の『深夜特急』等をあげておきたいと思います。総合政策学部の皆さんも、是非、様々な土地に行き、そこの人々と交わり、そこでの経験を他の皆さんに伝えて下さい。

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part3:“まつりごと”とは何か?

2018 7/28 総合政策学部の皆さんへ、とくに新入生の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版から第6章 「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書の復刻シリーズ、以下は“まつりごと”、すなわち“政策”に関する文献のご紹介です。

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 ローマ帝国から近代国家の誕生まで、ヨーロッパの政治史を楽しみながら、「国家や市民とは何か?」、「政治とはどんな芸術(ラテン語でアルテ=英語のアーツ)なのか?」を学ぶのに良い本として、イタリアの歴史家のI・モンタネッリらが執筆した『ローマの歴史』と『ルネサンスの歴史』をあげておきましょう。どちらも文庫本で読みやすく、お薦めです。きら星のような登場人物たちの中でもっとも印象的な人物は間違いなく、ローマ帝国の創設者ユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)でしょう。

来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」(ラテン語の台詞ですが、きちんと頭韻を踏んでいる点にご注意)
賽(サイ)は投げられた(Alea jacta est)

等の卓抜なキャッチ・コピーで知られるこの「怪人物」は、「共和制」が行き詰まっていたローマを(民衆の支持を得ながら!)「君主制」で立て直そうと大奮闘します。その結果は、彼自身の著作『ガリア戦記』に活写されたガリア(現在の西ヨーロッパ)征服を通じて、「普遍性」という価値観をベースにヨーロッパに君臨する一大国際帝国(ローマ帝国)として結実します。

 この古代ローマ帝国、ローマ法によって皇帝の支配下、普遍的な掟によって支配される国際帝国こそが、現在のEUの基本かもしれません。例えば、カエサルはブリテン島にも上陸しますが、その結果、ローマ帝国は5世紀まで、現在のイギリスを支配します(「だからと言って、イギリスはEU離脱をすべきでない」と主張する気はありませんが)。もっとも、現在のEUは古代ローマ帝国の支配地からかなりはみ出しています(「だからと言って、EUは拡大し過ぎて、内部に矛盾を抱え込みすぎている」と主張する気もありませんが)。

 しかし、「共和制と君主制のいずれの政体を採るべきか?」 この悩みは周囲の人々、同輩のポンペイウスとクラッスス、敵対者の小カトー、哲学者キケロ、暗殺者ブルータス等々を次々に巻き込み、ほぼ全員を非業の死に導いたにとどまらず、彼の覇業の1500年後には、本来は「共和派」であるはずの政治思想家N・マキャヴェッリに『君主論』を執筆させ、さらにはイギリスの劇作家W・シェイクスピアに政治劇『ジュリアス・シーザー』を書かせるほどです。

  • 注1)『ローマ人の物語』:『ローマの歴史』は、歴史作家塩野七生の『ローマ人の物語』にほぼ時代が重なります。同じ登場人物についての評価が、両者で微妙に異なったり、この二つを読み比べるのも楽しみです。
  • 注2)ユリウス・カエサル:古代ローマの共和政末期に活躍した政治家・軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(前100~前44年)。終身独裁官時に暗殺されたが、事実上の帝政を開始。『ガリア戦記』はガリア征服についての自筆の記録。

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 ところで、『ルネサンスの歴史』の登場人物でもあるフィレンツェのノン・キャリア官僚のマキャヴェッリは、こんな風に語ります。

「(君主は)人に恐れられるよりも愛せられる方が良いのか、反対に、愛されるよりも恐れられる方が良いのか。私は両方ともであって欲しい、と言うであろう。しかし、同一人で二人とも兼ねることは難しいから、両者のうちいずれかをえらばねばならぬとしたら、愛されるよりも恐れられる方がむしろはるかに安全であろう。それは、人間は恩知らずで、多弁で、臆病で、吝嗇であると一般にいうことができるから」(『君主論』第17章)。

 そのマキアヴェリ本人は(当時四分五裂していた)イタリア統一を実現するためにはたとえ悪魔とでも手を結ぼうという愛国者であり、一般に誤解されているような権謀術数家、いわゆる「マキャヴェリスト」ではありません。一方、彼の年下の友人、法王庁のキャリア官僚F・グィッチャルディー二が、自分の子孫のために書き残した『リコルディ』(邦訳の題名は『フィレンツェ名門貴族の処世術』)こそ、自らの「個別利害」を第一とする現実主義者(真のマキャヴェリスト)の独白と言われています。次の文章は、権力者に取り入ろうとしながらも、というよりもむしろそれゆえにこそ、権力者を冷たく見すえる彼の真骨頂です。

権勢ならぶものがなく、また賢君の誉れも比肩するもののなかったアラゴンのフェルデナンド・カトリック王が、なにか新しい仕事をやろうとしたり、あるいは非常に重要な決定を下そうとしたとき、王みずから自分の考えを公にする以前に、宮廷および人民全体が「王はまさにこれこれの事業をしなければならない」と声を大にして熱望するようにし向けていたのに、私は気付いたものである。こうして王の立場が一般に待望され要求されるようになってはじめて、自分の考えを公にしたわけである」(『リコルディC』80節)

 マキアヴェリ同様、グイッチャルディー二の台詞もまた多くの人たちに「身も蓋もない」という印象を与えるようですが、同時に、自分の時代を生きる上で多くのヒントにあふれてもいます(右の言葉も、どこかの政治家に聞かせたいものです)。同様に、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、自分のボスであるカエサルを暗殺したばかりの政治的敵対者ブルータスに敬意を表しながら、舌先三寸で民衆を扇動、形勢を一変させて、「高潔の士」ブルータスにとどめの一撃を加えるマーク・アントニーの弁論術の冴えに、観客/読者はただ感歎するほかありません。同じシェイクスピアの歴史劇『リチャード三世』もまた、政治的権力者の悪の魅力を存分にまき散らす作品です。

 こうした権力の魔力・魅力については、できればフランスの劇作家A・ジャリの『ユビュ王』、そして同じフランスのノーベル賞作家、A・カミュの戯曲『カリギュラ』等もご覧いただきたいところです。

  • 注3)マキャヴェッリ:ルネサンス期のイタリア、フィレンツェの官僚・政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ(1469~1527)。著作に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』等。現実主義的視点で政治を論じたが、しばしば権謀術数家と誤解されています。
  • 注4)グイッチアルディーニ:フィレンツェ出身の法王庁官僚・政治家・歴史家のフランチェスコ・グイッチアルディーニ(1483~1540)。教皇軍副将を勤めてから、トスカナ公国のコジモ1世に仕えるが、失脚、歴史書として『イタリア史』等を執筆。『リコルディ』は子孫に読み聞かせるために私的に書き残した処世訓の覚え書き。
  • 注5)フェルデナンド・カトリック王:アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)。カスティーリャ女王イザベル1世と結婚・共同統治、カスティーリャ王としては5世。スペインの経営に辣腕をふるい、孫のカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)に継承します。

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 それでは、我々個人はどんな生き方をすべきでしょうか? ルイ14世による絶対王政出現を目前にして、大宰相マザランに逆らってもろくも敗北したフランスの大貴族ラ・ロシュフーコー公爵は、フロンドの乱に青春のすべてを消耗しつくした自らの人生を振り返り、『箴言集』を編みます。読者の多くを不快感に誘うこの本は、まさに左の箴言で始まります。

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない

 しかし、別の日には、かつての戦友達を想ってか、彼はこうも書き記します。

友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ

『箴言集』の原題を直訳すると、『人間考察もしくは処世訓と箴言』とのことですが(『箴言集』翻訳者による解説)、この書は先ほど触れた『君主論』と並んで、人間の美徳と悪徳を論じることで、古来毀誉褒貶の的となってきた問題作なのです。

  • 注6)マザランとフロンドの乱:ジュール・マザラン(1602~1661)はイタリア生まれのフランス王国の政治家・枢機卿。幼少のルイ14世を補佐して絶対王政を確立します。フロンドの乱(1648~53)は、彼の政策に対する貴族の反乱ですが、最終的には屈服させることに成功。ロシュフコーは大貴族としての名誉を賭けてマザランに対抗するも、敗れ去るのです。

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 一方、日本の英文学者家夏目金之助は19世紀から20世紀の変わり目にロンドンに留学中、自分が研究している英文学とは何か? という疑問にとらわれ、やがて「それを考えている自分は誰か?」、そして「自分にとって日本とは何か?」に気付きます。そこで「知識の内発性」に思い至った彼は、「個人主義」に目覚めたのです。この過程で小説家夏目漱石に変身した孤独な知性は、学習院での講演記録『私の個人主義』で、明治という日本が近代化にむかって突っ走った変革期において、個人はどう生きるべきか模索した道筋を物静かに語りきかせます。

 その一方で、「近代」は否応もなく進みます。そして、その途上、ヨーロッパのプロテスタントの一部に、資本主義的精神が生じた経緯を分析したのがマックス・ヴェーバーです。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾には以下の言葉が見えます。

「(ヨーロッパの)近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つと言うべき天職理念を土台とした合理的生活態度は―この論考はこのことを証明しようとしてきたのだが―キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった」(岩波文庫版363~364頁)

 もしさらに余裕があれば、ヴェーバーが資料として使ったB・フランクリンの自伝もひもとかれると、何故、21世紀の我々が「時間」というものを絶えず意識せざるを得ないか、自問するはずです。そんな時には、M・エンデ作の「時間泥棒」が登場する物語『モモ』をあらためて読んで下さい。一方、資本主義の受容も含めて、日本の近代化について、自らの経験を飽くことなく語る福沢諭吉の『福翁自伝』もまた皆さんにお勧めです。

  • 注7)マックス・ヴェーバー:ドイツの社会学者・経済学者(1864~1920)。宗教社会学、比較文明・経済史等で大きな影響を与え続けています。他の著作に『職業としての学問』『職業としての政治』、『宗教社会学論集』等。
  • 注8)ベンジャミン・フランクリン:アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、科学者(1706~1790)。植民地時代から独立戦争にかけて、合衆国の精神的支柱になったとも言える人物。各方面に多大な貢献を残すが、その自伝はWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)の理想である勤勉、合理主義等を推奨して、ヴェーバーの経済史研究の資料となっています

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...