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総合政策という考え方:自然科学から哲学まで Part 2

2021 11/30 総合政策学部の皆さんへ 「総合政策という考え方:自然科学から哲学まで」の後半です。

4.時間について~世は絶えず変わるし、あなた自身も変わっていく~

「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」(マキァヴェッリ『ディスコルシ』)

 前節で歴史という言葉が出てきます。そこで気づくのは時間の流れです。調べた事象を“時間軸”に並べて歴史が浮かび上がることで、議論はさらに深まります。

 表1での問題設定も“静的”なイメージではなく、時の流れにそって変化するものです。それは人も生き物も、環境も社会もいつの間にか変わっていくからです。例えば、まちおこし等で取り上げられる商店街、しかし、それは決して伝統的存在ではなく、20世紀前半の日本社会の変化に応じて、近代都市内で“発明”されたものです(新、2012)。それゆえ、歴史的使命はすでに終っている! かもしれません。このように新たに創り出された習慣・風俗がいつの間にか伝統的イメージに彩られてしまう人の社会の不思議さ、それが歴史家ホブズボウムら(1992)が描く『創られた伝統』です。また、そんな過程で産み出される共同幻想こそが近代ナショナリズムを支えていると喝破したのが政治学者アンダーソン(2007)による『想像の共同体』です。

 それにしても、なぜ万物は変化するのでしょう? 例えば、生き物は基本的に“保守”的だ、と私は思っています。だって、我々の身体の設計図たるDNAは構造上、分裂・複製において「変化しない」を原則とします。生き物は変わりたくないし、身の周りも安定していた方がよい、はずです。皆さんはどうですか?

 しかし、進化は起きます。それは皮肉にもDNAの複製時、時折ミスが生じるからです(=突然変異)。そのミスが偶々従来にない有利な性質を持つ場合、集団に広がり、やがて種分化につながる。2020年からの新型コロナウイルス(COVID-19)によるパンデミックで次々に変異が生じ、交替しながら広がっているように 。

 その結果、周囲の誰かが進化して有利な立場に立てば、対応して自分も変わらねば生き残れない! これがルイス・キャロル作『鏡の国のアリス』で赤の女王が叫ぶ”It takes all the running you can do, to keep in the same place”(同じ場所にいたければ、全力で走り続けるのよ)から名付けられた“赤の女王仮説”です。終わりの見えない進化で展開する生存競争の中、我々は(たとえ自らは望まなくても)変わり続けなければいけません。関学前理事長の宮原明さんから伺いましたが、京都の大企業経営者の方が「京都の老舗は変わらないと思っているでしょう! とんでもない、老舗は絶えず変化しているのですよ。変化しているからこそ生き残っているのです」とおっしゃったそうで、赤の女王仮説そのものです。

 これから総政で(卒業後はお仕事で)学ばれる様々な事象もやがて変化する、それに気づけばあなたも変わる。その点で社会は生き物です。その機微を本節冒頭の政治思想家マキァヴェッリの言葉に読み取っていただければと思います。

5.戦略と戦術の違い

「あなたは勝利をつかむことはできる人だが、勝利を利用するすべを知らない」(モンタネッリ『ローマの歴史』)

 そろそろ筆を擱くべき字数ですが、最後に、政策を考える上で大事な要素として“戦略(Strategy)”と“戦術(Tactics)”を紹介しましょう。

 軍事用語として、戦術とは個々の戦闘で勝つスキルで、戦略とは一連の戦闘の組み合わせで戦争全体の最終勝利を勝ち取るための方針です。それがいつしか進化生物学やビジネスにも浸透し、日常的な言葉になっています。例えば、行動生態学で“繁殖戦略”とは「生き物たちが次世代に子孫/遺伝子を残すため、生活史にセットされた生き方」を指します。一見不思議な行動でも、それは最終的に生存競争をしのぐ戦略の一部かもしれない。例えば、リンゴの実が赤くなる。それは「果肉を食べて(Eat me!)」と鳥やサルに知らせるメッセージですが(=戦術手段)、真の狙いは「果肉を食べさせ、種子を糞とともに散布してもらう(=戦略目標)」ことです 。これが難しく言えばリンゴの種子散布における“究極要因”です。

 本来の軍事でも、戦術と戦略は様々に論じられてきました。例えば、第2次ポエニ戦争(BC 218–201)でカルタゴ軍の指揮官ハンニバルは、当時無敵のローマ軍を続けざまに撃破するものの、なお心に躊躇を感じます。その彼に部下のマルハバルがローマ攻略を具申して退けられた時、マルハバルが彼を罵った科白が本節冒頭のエピグラフです。英語で”You, Hannibal, know how to gain a victory; you do not know how to use it”、これほど戦術と戦略の違いを物語る言葉もないでしょう。お分かりですね。「勝利をつかむ」ことが戦術、「その勝利を利用して」戦争全体に決着をつけることが戦略です。皆さんも卒業されたら、何が戦術で、何が戦略か、いつも意識して下さい 。

 最期に、執筆しながら二代目学部長の故安保則夫先生を想い出しました。ある日、たまたま理系教員が話題にのぼり「理系の人間は自分の仕事に集中するあまり、エゴイスト(利己主義者)とは言いませんが、エゴティスト(自己中心主義者)なんですよね」と答えた私に、いかにもうれしそうに「つまり、究極の自己チューって奴やな」と笑っておられました。在職中に亡くなられた先生に、理系教員からの総合政策論として捧げたいと思います。

引用文献
アンダーソン B.(2007)『定本 想像の共同体』(白石隆・白石さや訳)、書籍工房早山.
新雅史(2012)『商店街はなぜほろびるのか』光文社.
Lewis Carroll (1871) “Through the looking-glass, and what Alice found there”. Macmillan.
ゲーテ J.F.(1960)『イタリア紀行』(相良守峯訳)岩波書店.
ホブズボウム E.・レンジャー T.(1992)『創られた伝統』(前川啓治・梶原景昭訳)紀伊國屋書店.
マキァヴェッリ N.(2011)『ディスコルシ ローマ史論』(永井三明訳)筑摩書房.
モンタネッリ I.(1979)『ローマの歴史』(藤沢道郎訳)中央公論社.
スタインベック J.(1922)『コルテスの海』(吉村則子・西田美緒子訳)工作舎.
住明正(1993)『地球の気候はどう決まるか?』岩波書店.

総合政策という考え方:自然科学から哲学まで Part 1

2021 11/10 総合政策学部の皆さんへ 総合政策学部が出版している学部紀要『総合政策研究』に総政25年の歴史を振り返る企画で、総合政策と自分の専門について考えるように依頼されました。いずれ出版されるとは言え、たぶん、学生の皆さんの眼にとまることはほとんどないと思うので、同じ文面を2回にわたってこのブログに掲載することにします。以下、タイトルから始まります。

総合政策という考え方:自然科学から哲学まで
An approach to policy studies: Between natural science and philosophy

1.はじめに~総合政策と自らの専門分野~

「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない、それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ」(スタインベック『コルテスの海』)

 25周年記念号にあたり、学部から「総政と自身の専門分野の関係」というテーマをいただきました。言うまでもないことですが、これは「総合政策とは何か?」という学部創設以来、先生方も学生の皆さんも自問してきた課題につながります。

 私自身はニホンザルやチンパンジー、キツネザル等を対象とし、狭義の専門は行動生態学ですが、一方で人類学者としては人にかかわるすべてが対象とも言えます。そんな私にとって、ヒューマン・エコロジーを視座とする総合政策は意外に居心地が良い世界です。やがて私は総合政策を「特定の分野というより、様々な事象を踏まえながら問題解決を探るための“考え方の枠組み”」と考えるようになりました。それは知識と実践をつなぐしなやかで、さりげない物事の捉え方であり、生き方そのものです。あるいは“教養”と呼べるかもしれません。

 その総合政策を論じる際、最低守るべき要諦は何か? それは「真実を愛する」ことかもしれません。冒頭のエピグラフはノーベル賞作家スタインベックが描く、親友の海洋生物学者エド・リケッツが裁判沙汰に巻き込まれた時の回想です。最初は興味津々で告発・弁護双方のやり取りに聞き入ったリケッツですが、どちらも勝利をめざし、真実等どうでもよい、むしろ自身に不都合な真実は憎む=それは「みんなも自分と同じく真実を愛しているはず」と思い込んでいた彼にはとても興味深い経験でした。

ここでは、そんな立ち位置から私なりの総合政策論をまとめ、学部で学ぶ(もちろん、学びは卒業後も続きます)皆さんに呈したいと思います。

2.階層的な考え方~理系教員は総政のどこに居場所を見つけるか?~

 学部開設の数年前、準備に奔走されていた遠藤惣一先生と鳥越皓之先生から説明を受けた際、当然、私には総政への具体的イメージがありませんでした。ただ、「ヒューマン・エコロジーを基本に様々な課題に取り組むため、自然環境論を講義して欲しい」との依頼に脳裏に浮かんだのは環境科学での階層性です(、1993)。

『基礎演習ハンドブック』等で紹介されていますから、かいつまんで紹介します。例えば、地球温暖化問題等では自然科学(温暖化は本当か? そのメカニズムは?)、応用科学(CO2削減・省エネ技術)、社会科学(炭素税や排出権取引、法的規制、補助金、技術開発支援)、そして人文科学(環境倫理、南北問題)等の専門領域のレベルがあります。しかし、真の解決には単一レベルの議論だけでは不十分で、他のレベルを俯瞰した総合的な議論が求められます。

表1 テーマの階層性の例:脳死と臓器移植を多少な視点から考えると
分野・階層              具体的な問題設定
自然科学(生物学)      死とは、そして脳死とは何か? 拒絶反応のメカニズムは?
応用科学(医・薬・保健学)  脳死の医学的判断基準は? 臓器摘出・移植の技術は?
社会科学(法・経済・社会)  脳死の法的定義は? 移植コーデイネート制度 費用の負担
人文科学(倫理・哲学)    生命倫理 伝統的な死生観との折り合い? 遺族へのケア?

 この階層性は他のテーマでも同じことです。表1は「脳死臓器移植」について考えたものですが、生物学等の自然科学が死のメカニズムを探求すると同時に、医・保健学等の応用科学は死を遠ざけ、健康を取り戻すことを目標に対策を考えます。社会科学では応用科学を現実社会で活かすため法律、経済、政策を整えます。最後に哲学・倫理学は「人はどう生きるべきか?」や死生観等を議論します。

 もう少し身近な例もあげましょう。先日、某高校の課題研究指導で生徒さんから「栽培復活によるまちおこし」が提案されました。この場合、自然科学では生物としてのクリの特性や村落の環境等が俎上に上ります。応用科学はクリ栽培技術=農学や、クリを使った商品開発=食品加工等が該当します。社会科学では農家への助成・地場産業への支援策、流通販売や広報が議論されるでしょう。最後に、人文科学は中山間地帯の振興において、日々の暮らしと人々の幸福の結びつきを考えます。自分が関心を持つ領域だけにとどまらず、他の課題にも心をはせる。そんな心配りこそが総政にふさわしいのかもしれません。

3.フィールド調査について~ボトム・アップか、トップ・ダウンか?~

「現在の私としては、本でも絵でも与えてくれない感覚的印象が大事なのだ。(略)自分の観察力を試験し、自分の学問や知識がどの程度のものであるか、自分の眼が明澄純粋であるのか、どのくらいのことを自分は束の間につかみうるか、自分の身上に刻印されたしわを元通り消し去りうるか否かを吟味することである」(ゲーテ、『イタリア紀行』)

 ここで総政の特徴の一つ、フィールド調査をとりあげましょう。上記の文豪ゲーテが旅路で記した文章はそのエッセンスを教えてくれます。何よりも自分の眼で見て、理解し、どうすればみんなが幸福に暮らせるか考える!

 具体的には二つのやり方がありますが、どちらが良いとは申せません。一つはまずフィールドに出かけ、気付いた事象を収集・分類・整理し、問題発見とともに仮説を立て、解決法を探る。仮に“ボトム・アップ型”あるいは“帰納型”と呼びましょう。初心者向きだとも言われますが、私自身はこのタイプの研究者に属します。

 もう一つは、事前に仮説をたてます。だから勉強が必要です(もちろん、ボトム・アップ型も事前勉強が必要です)。既存の理論や自ら考えた新理論から“仮説”を立てた上で、フィールドで検証するため証拠を探す。こちらは“トップ・ダウン型”あるいは“演繹型”です。

 私自身の経験を紹介しましょう。ある年、学部事務室から「学生さんが関西学院の歴史をフィールド・ツアーの形で学べないか?」と相談を受け、「創始者のランバス先生の事績から原田の森、上ケ原とめぐる旅ですね」と応えたのですが、そこで気付くのは肝心の私自身が何も知らないことです。

 そこでランバス先生が来日時どこに住んだのか? 開学の地である原田の森や上ケ原はどんな場所か? さらにそうした故地を結ぶ道筋や地域=旧西国街道武庫川流域を調べてから、現地を訪ねると先生が宿にされた神戸外国人居留地47番、当時のエウロッパホテル は「ニッケ神戸ビル」に変貌、一階にGucciが入っています。神戸栄光教会 では、牧師さんから先生遺愛の聖書等を紹介され、王子動物園でわずかに残る旧中等部レンガ壁の一部を拝見する、まるでNHKのブラタモリです。

 集まった資料を組み立てると、やがて外国人居留地を中心とした神戸のまちづくりと関学の歴史が浮かび上がります。関西学院が原田の森に誕生し、やがて上ケ原に移った理由、同時代に武庫川流域が大都市圏に変貌し、そこに阪急はどうかかわったか等、皆さんもわかってくるはずです。立派な都市研究ですね。

(以下、Part 2へ)

総合政策学部同窓会Facebookからのお知らせ:総政の歴史を知ろう

2021 10/30 総合政策学部の皆さんへ まだ早い話かもしれませんが、総合政策学部の卒業生の皆さんで作っている総合政策学部同窓会があり、Facebookで卒業生への発信を行っています。そのFacebookで学部25周年事業などがコロナ禍でほとんどふっとんでしまったことから、総政の歴史を蔵出し画像でたどってみるというシリーズを始めました。

 1回目はKSCが荒野そのものから整地され、やがって建物が建っていく様を、2回目は1995年4月(阪神淡路大震災の数か月後)の第1期生入学式前後の新聞報道記事や写真等、3回目は初代学部長の天野先生、2代目学部長の安保先生(お二人ともお亡くなりになられました)、そしてヒューマン・エコロジー担当だったG・マーテン先生関係の画像があり、自ずから、総政の歴史がわかるという趣向です。

 これからも順次、公開していこうと思っていますので、総政の歴史、とくに卒業した先輩の皆さんの活動等にご関心がある方は、ぜひご覧ください。URLは https://www.facebook.com/kgsouseidousoukai/ です。

 高畑由起夫

みんな真実を憎んでいるんだ!:モントレーの賢人エド・リケッツの至言

2021 2/12 総合政策学部の皆さんへ 今回は、ノーベル文学賞受賞者ジョン・スタインベックの無二の親友にして(共著も一冊あります;『コルテスの海』)、カリフォルニアはモントレーの賢人、海洋生物学者のエド・リケッツの言葉、「(みんな)真実に憎しみさえ抱いたのさ」です。と、いきなり切り出してみても、なんのことやらわからないかもしれませんが、一応、昨年10月8日付けで公開の「愚者には愚に従って答えるか?」の続編と受け取っていただければと思います。

 この話は、ある日、カリフォルニアの海岸地帯を襲った“火事”がきっかけです。上記『コルテスの海』を引用すれば、「研究所の歴史は、大きく二つの時期に分けられる。火事の前と後である。その火事は興味をそそる出来事だった。

 ある晩、海岸地域全体で電流の調子がおかしくなり、普段は20ボルトのところを突然2000ボルトもの電流が流れたのだ。後に訴訟で電力会社に責任はないとの判決が下されたので神のなせる業としか言いようがない

 当然、一帯は火の海と化し、エドが心血をそそいでいたPacific Biological Laboratoriesもすっかり焼け落ち、エドに残ったものは逃げ出す時に抱えていたタイプライターと車だけ(ズボンまでもなくしていたが、それでも「足とペンだけは確保できた」ととっさの判断に満足していた)。

 その後、電力会社には訴訟が殺到します。当然、Pacific_Biological_Laboratoriesも原告に加わっていました。

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 スタインベックはこう書いています。「エドは証言のためにサリーナスの上級裁判所に出向き、事実をありのままに、できるだけ完璧に語った。彼は真実を愛し、真実を信じていたからである」。そして、エドは裁判に関心を持ち始めて、「海洋動物の新種に対するのと同じ多大な客観的関心を法体系にも注いだ

 訴訟に負けた後、エドは「静かな口調で、わずかに驚きの表情を見せながら語っていた。「単純な問題でいともたやすく大間違いを犯すものなんだね。人間関係や財産にまつわるあらゆる問題で真実を見つけ出すためにこそ、法体系があるんだと思い込んでいたよ」。しかし、「ある事実を忘れていた、というより考えてみたこともなかったんだ。原告側も被告側もどっちも勝ちたいんだという当たり前のことをね。そのために本来の目的はどっかに行っちゃって、都合のいい部分だけをことさらに強調するから問題の客観的事実は影も形もなくなる

 そして、最後に付け加えます。「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない。それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ

 ちなみに、この火事の一件について英語版のWikipediaには“On November 25, 1936, a fire broke out at the Del Mar Cannery next to the lab (site of today’s Monterey Bay Aquarium) and most of the contents of the laboratory were destroyed. The manuscript for Between Pacific Tides survived the fire as it had already been sent to Stanford University for publication. It was Steinbeck that saved the lab financially after the fire with the purchase of half the company’s stock”と記されています。なお、文中のBetween Pacific Tidesとはエドと生態学者Jack Calvinによる潮間帯生物に関する先駆的書籍で、上ケ原の図書館も1冊あります。

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 1936年の当時、すでに「国民大衆の心は(略)小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲となりやすいからである」(『我が闘争』にでてくるそうです)と指摘したというヒトラーがドイツの政権を握っていましたが、最近の某大統領とそれを信じる人たちの言動でも、たしかにそういう傾向はあるだろう、と納得させられるところです。

 とはいえ、エドの思索はさらに深く、スタインベックは「それは彼にとって驚くべき大発見であり、考察の余地があった。真実を愛する彼は、他の人もみな真実を愛すると信じていたのだ。だがそうでないと分かっても嘆きはしなかった。ただ、興味をそそられただけだ」とまとめます。これこそ、「愚者には愚に従って答えるか? 答えないか?」についての一つの回答なのかもしれません。

 そんなことを考えていると、つい、おなじみの質問が頭をよぎります。「あなたは真実を愛してますか? それとも、憎んでいますか?」

愚者には愚に従って答えるか? トランプvs.バイデンのTV討論について 

2020 10/8 総合政策学部の皆さんへ

 ちまたでは去る9月29日に行われたトランプ大統領とバイデン上院議員の第1回テレビ討論会について、「史上最悪のディベートだった。そもそもディベートではなく、恥をさらしただけ。今晩はアメリカ国民の敗北だ」「Shit show(くそみたいなショー)だった」(CNN)等と報道されているようです。

 この討論会の話を聞いて、私の頭にまっさきに浮かんだのは、イギリスの作家・ジャーナリストのジョージ・オーウェルの傑作、スペイン動乱のさなか、コミュニストからも資本家からも、もちろんファシストからも嫌われたPOUMに義勇兵として参加、混乱のなかかろうじてイギリスに逃れた経験を描く不朽の傑作『カタロニア賛歌』冒頭のエピグラフ、旧約聖書『箴言』からの引用です。

愚者には愚に従って答えるな、
  君も愚者にならないために。
 愚者には愚に従って答えよ、
  愚者が自分を知者と思わないために
           「箴言」26章5-6節

 これは中学生の時に読んだ筑摩ノンフィクション全集本に載っていた松木隆・山内明訳ですが、新共同訳『旧約聖書』では以下の通りです。

愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな
   あなたが彼に似た者とならぬため
  愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。
   かれが自分を賢者だと思い込まぬために

 中学の頃にこの言葉に接した時に感じた「それでは、どうすればいいんだよ?」(たいていの方がこの感想に同意していただけると思うのですが)という思いを、ひょっとしたらバイデン氏も感じたかもしれません。あるいは、4年前、ヒラリー・クリントンはこの教えを意識しなかったがゆえに、トランプ氏に敗北したのかもしれません。

 ちなみに、箴言の多くはソロモン王によって作られたとされていますが、複数の作者によるものだろう、とのことです。

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  さて討論会に話を戻すと、どうやらトランプ氏を支える“鉄板”のファンたちにとっては、大手メディアやエリート、知識層がどんなにトランプ氏をあげつらおうと、それはすべて“誹謗・中傷”に過ぎず、討論会で実質的に敗北しようと、そんなことはどうでもよいと思っているようです。

 それでは、彼らは何を望んでいるのか? TV画面に映し出される彼らの嬉々とした表情を見ていると、トランプ大統領は彼らにとっての一種の“象徴”、あるいは“王”のような存在になっているのかもしれない、とさえ思われます。

 そして、そのファンたちはある意味でいま、ワクワクしながら、心待ちにしているのは大統領選の結果=トランプの敗北=彼らの“王”トランプ氏の破滅であり、その“王殺し”の瞬間に放出されるエクスタシーの噴出を(無意識のうちに)心待ちにしてる、それが彼らにとって来るべき“祭”にさえなっていると言えるのかもしれません。

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 さて、旧約聖書の箴言はこのように続けます。

愚か者に物事を託して送る者は
 足を切られ、不法を飲み込まされる
愚か者の口にすることわざは
 歩けない人の弱い脚。
愚か者に名誉を与えるのは
 石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。
愚か者のくちにすることわざは
 酔っぱらいの手に刺さる刺

 当の愚か者にとっては、箴言はなかなか恐ろしそうな事態を予想しているようでもあり、かつ、同じく彼に物事を託そうとする鉄板のファン(=そして、心中秘かに王殺しの瞬間を待っている)方々にとっても王の道連れに相応の呪いがかかってくるかもしれないが、それもまた面白そうと心に決めているのかもしれません。

「戦って欲しければ支払いを!」vs.「そこに米軍がいても誰も不思議に思わないことが大事だ」総合政策のための名言集No.20

2019 1/23 総合政策学部の皆さんへ

 2018年12月28日(金)の朝日新聞国際欄には、イラク(駐留米軍基地)を電撃訪問したトランプ大統領がその場にいた兵士の皆さんに向かって「我々は、もう『カモ』ではない。我々に戦って欲しかったら金銭的な支払いをしなければならない」と演説したとのこと。これを聞いて想い出すのは、言うまでもなく、中世ヨーロッパを跋扈していた傭兵隊長(コンドッティエーレ)でしょう。

 ご存知塩野七生のイタリアものには、トランプ氏の台詞のような話は頻繁に登場します。例えば、毀誉褒貶とびかうルネサンス期の典型的教皇4名の列伝である『神の代理人』の第3章「剣と十字架」では、イタリアを法王庁のもとに統一すべく自らの人生をすり減らした軍人教皇ユリウス2世(ちなみに、このユリウスとはローマ帝国建国の英雄ガイウス・ユリウス・カエサルに通じますから、まさに宗教家=教皇と政治家=皇帝の合体なのです)。

  •  カエサルの“ユリウス(Iulius)”は古典ラテン語でもともとはローマの氏族名、教皇の“Julius”(ユリウス)はそれに由来する中世ラテン語、これがドイツ語ではそのまま“ユリウス”(Julius)で男性名となりますが、古代ローマでは女性形として“ユリア”(Julia)となり、これがヨーロッパ諸語で“ジュリア”(英語: Julia, フランス語: Julia, イタリア語: Giulia, ポルトガル語: Júlia)となっていきます。さらに付け加えると、このジュリアが男性では英語で“ジュリアス”となるので、日本には英語から紹介されたカエサルは、ジュリアス・シーザーという英名で普及することになります。
  •  なお、ユリウス2世は以下のボローニャ征服後、自らの銅像を立てさせますが、反ユリウス派に奪回され、あげくのはてにその銅像をもとにフェラーラの君主アルフォンソ・デステ臼砲に仕立て、かつ、(当時のヨーロッパは貴重な大砲は個人名を付けたが、臼砲は女性名を付けるのが一般だったため)、その臼砲をユリウス2世の名前をもじって“ラ・ジュリーア”と名付けたそうです。赤っ恥もよいところ、という有様です。

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 さて、そのユリウスが教皇領内で叛服し続けるボローニャ征服にのりだし、首尾良く大した手間もかけずに開城にこぎ着けますが、その時、ユリウスが助っ人に呼んだフランス軍の傭兵部隊がボローニャに近づき「全市の大略奪と市民の殺戮を強行すると伝えて」きます。もちろん、(本当は戦がおこれば、略奪できると欲望むき出しで駆けつけたのに、あっけない開城で儲け話がおじゃんになった腹いせもあって)脅しで銭を稼ごうという魂胆です。出さなければ、その時こそはお得意の略奪で手間をかけても金をふんだくるもくろみです。

あわてふためた市民たちは、早速代表を、イーモラの法王のもとに送り、どうにかしてくれと頼み込んだ。ジュリオ2世は、フランス兵におとなしく引き取ってもらうために、金を払えと言った。大将のシャルル・ダンボアーズに8000デュカート、兵たちには1万デュカートで良かろう(あわせて1億円あまり)。ボローニャ市民には、この忠告を受け入れるしか道はなかった

 このように、“法王様”ご公認の“みかじめ料”ビジネス。ちなみに、イタリアの賢人モンタネッリの『ルネサンスの歴史』には、イギリス出身の傭兵隊長ジョバンニ・アクート(英名はジョン・ホークウッド)を描いて、「この軍団の傭兵たちが肥沃な北イタリアの平野を荒らさぬ日は、一日とてなかった。作物を踏みにじり、畜群を屠り、家財を略奪し」「これぞジョン・ホークウッドが夢にまで見た理想の生活である」と記しています。

 洋の東西を問わず、傭兵であれ、侍であれ、庶民から「守ってあげるから」、あるいはさらには「殺さないであげるから」と言ってお金を巻き上げるのは、ほとんど常識というもの、だって、戦地を右往左往するのに飯代もかかれば、交通費も要るし、第一、武器だってきちんとそろえるには金がかかるでしょう、というのがいわばコンドッティエーレの常識であり、それを戦地でうまく確保することが重要になります。後世になれば、さすがにただの略奪では難しくなるので、近代的ビジネスとして“軍税”の形で資金を確保する、これはヴァレンシュタインナポレオンもやってこれたのです。となれば、もちろん、トランプ君もビジネスマンとしてはそうしたいのが最初の台詞に見え見えですが、そのあたりの話の運びは、我々としてもきちんと理解してあげなければいけません。

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 しかし、ヴァレンシュタインであれ、ナポレオンであれ、結局は非業の最期を遂げることになる! (ユリウス2世だって最終的には政治的野望は破綻、イタリアをスペインの植民地状態に陥れる)それでは、あんまりだという方には、是非、アメリカ合衆国初代国防長官ジェームズ・フォレスタルの言葉がお薦めかもしれません。

 子供の頃に読んだので、記憶はもちろん出典も定かではないのですが、第2次世界大戦が終わり、その後の世界秩序をどうするべきか(つまり、それが冷戦につながったわけですけれど)、その決定的な時期にフォレスタルは地中海に米国海軍の艦隊を常駐させることを提案します。その理由として彼は、

巡洋艦一隻でも良いんだ。とりあえず、そこに米国の軍艦が常駐していることに対して、世界の人間が当たり前だと受けとってもらうことこそが大事なのだ

と説明したということです。そして、上記の台詞を口にしてからさほど日もたたない1949年5月22日、初代国防長官としての強度のストレスから鬱病にかかったフォレスタルはベセスタ海軍病院の病室から飛び降り自殺してしまうのですが、それから70年がたった現在も、イタリアのガエータを母港に地中海を警護している第6艦隊ということになります。言うまでもないことですが、最初はソ連、その後は、中近東や北アフリカ、さらにはバルカン半島が混乱した場合の対処として、「そこにアメリカ軍がいることに誰も疑問をもたない状態」というわけです(ちなみに、アメリカ合衆国の最初期の対外戦争が、1801~05年の北アフリカ沿岸のバルバリア諸国との第一次バーバリ戦争ですから、地中海に海軍の拠点を持つというのは、それ以来の悲願だったかあもしれません。

 このフォレスタルの70年先も見通したお言葉と比較すれば、トランプ氏の台詞があまりに薄っぺらで、かつ古代から絶えず繰り返されてきた捨て台詞の類であることがわかるでしょう。

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 というようなことを考えていたら、1月10日のNewsWeekでは、トム・オコーナー氏が、「兵士のなり手不足のドイツ軍、外国人徴募を検討 徴兵復活も」というタイトルで、以下の内容を報道していました。

  • 連邦軍はドイツ在住のポーランド人、ルーマニア人、イタリア人の新兵採用を検討していると伝えた。
  •  しかも問題は単に人数の不足ではない。サイバー攻撃に対処できる高度な専門知識をもつ人員が決定的に足りない。
  •  エーベルハルト・ツォルン連邦軍総監は先月、人員のギャップを埋めるために「あらゆる方法を検討し、適性をもつ訓練兵を確保する必要がある」と、ドイツのフンケ新聞グループに語った。特に医療と情報技術の専門家を必要としており、EU加盟国の出身者受け入れも「選択肢の1つ」だという」

 どうやら歴史は永遠に繰り返しているようですが、そのあたりこそがマルクスの「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」にぴったりです。

“善人”はみな弱いのか?:総合政策のための名言集Part 19

2018 12/28 総合政策学部の皆さんへ

 今年もそろそろあと数日になりましたが、今回はすでに「高畑ゼミの100冊Part11:探検記・旅行記・国際関係」でもご紹介している名言について、再び取り上げることにしましょう。19世紀も半ば、故国イギリスから遠く離れたナイル河畔をヘロドトス以来のテーマ、「ナイルの源流はどこか?」を突き止めるべく、遡っていた一組のヨーロッパ人男女に、途中立ち寄ったある民族の“首長”が二人にさとすように伝えます。

人間はたいてい性悪なものだ。強い者が弱い者から搾り取る。“善人”は皆弱い。悪いことをするほど強くないから、善人なのである

 19世紀半ば、奴隷市場で出会って恋におちた奴隷の少女フローレンスを愛したものの、(実際には遊蕩にふけりつつ、きわめて表面的には)道徳的に厳しいビクトリア朝時代でのスキャンダルを恐れてか、故郷イギリスに戻ることもできず、中東をさまようイギリス人男性サミュエル・ホワイト・ベーカーが、一か八かで二人の人生を賭けたナイル源泉への冒険旅行(ハリウッド映画そのものです)。そのさなか、すべての人生を見通したように二人につぶやくスーダン上流の一民族の長(おさ)コモロ(アラン・ムアヘッド( 篠田 一士訳)『白ナイル』より)。このいかにも穏やかなアフリカ人の長のご指摘には、かのマキャヴェリグィチャルディーニロシュフコーら歴代のユマニストモラリストもたじたじとするところです。

 英語版Wikipediaでは、フローレンスについて “A Hungarian-born British explorer. Born in Transylvania (then Kingdom of Hungary), she became an orphan and was sold as a slave to Samuel Baker. Together they went in search of the source of the River Nile and found Lake Albert. They journeyed to Samuel Baker’s home in England where they were married and she became Lady Baker. She later returned to Africa with her husband to try and put down the slave trade.” と記しています。

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 さて、私は人類学と行動生態学が専門ですが、このテーマを多少ひねれば、「人間はなぜ性悪か?」そして、「善人が弱い」とすれば、なぜ、そんな「弱っちい善人がそもそも進化したのか?」という疑問にもとらわれます。皆さんはどう思うでしょう。

 このあたりは、例によってゲーム理論=例えば、タカ派vs.ハト派の登場になるのかもしれません。それではその出発点は? 以下の二つの構図が考えられるかもしれません。
(1)タカ派=そもそもはみんな、“性悪”だった?
(2)ハト派=そもそもはみんな、“弱っち”だった?

 そのあたりから、このゲームをどう考えるか、立場がわかれるでしょう。

 まず、そもそもタカ派(=これはひょっとしたら、チンパンジー?)だったとしてら、いつの時点なのか(=アウストラロピテクスの頃か、ホモ=エレクトスの頃か、さらにはネアンデルタール人の頃か?)、突然変異として「弱っちい」奴が現れる。

 一方、もともとハト派(=こちらはボノボ?)だとしたら、こちらもまた何時の時点なのか、突然変異として「性悪」な奴が現れる、という構図になります。

 それにしても、あなたはどちらをこのどちらの構図をお好みですか? (どちらが正しいか、あるいはどちらも正しくないのか? それはタイムマシーンでもできないと分からないかもしれませんが)。

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 そのあとの段取りは、もう、皆さんお気づきですね。

 たとえば、もともとタカ派だったと仮定すれば、そこに突然あらわれた「ハト派」は、タカ派と異なる“優しさ”がアピールされて、“異性”に好まれる(ここで、オス・メス、男性・女性という特定の性を指定していないことは、気づいて下さいね)。そこで、次第に集団内に“ハト派”が増える。ところが、増える過程で“タカ派”との衝突が増えると、弱っちい“ハト派”は次第に減り出す。

 それでは“タカ派”がこのまま増えるかというと、今度は増えた“タカ派”同士が衝突、命を落とす者もでてくる。そうすると、いつのまにか弱っちくて逃げまくっていたハト派が次第に復活する。

 このように、まるでバロン・ダンスで繰り広げられるバロン(聖獣)ランダ(魔女)のように“性悪”と“善”の「終わりのない闘い」が続いているのかもしれません。もっとも、このあたり、さらに考察を続ける必要がありそうです。

 それでは、良いお正月をお迎え下さい。

新入生の方々に向けて、リサーチで重要なこと#2:学生・院生にとって、“相撲部屋の親方”は搾取なのか、それとも?、あるいは『半分、青い。』再び

2018 7/31 総合政策学部&理工学部の皆さんへ

 理工学部の学生の方々がこのブログを目にとめるとは到底想像もできないことですが、本当は(理系にとって)重要なことだから、ついでに入れてしまいましょう。というのも、今日のマクラは“秋風塾”、これは言ってみれば、教育のあり方を日本国民に問いかける作者からの(重要な?)メッセージかもしれないのですが、皆さん、それにお気づきですか? というテーマです。

 さて、朝ドラ『半分、青い』東京・胸騒ぎ編では、カリスマ秋風羽織先生が主催の“秋風塾”が舞台となっています。この秋風塾、秋風羽織が若い世代をそだてるべく、8名の気鋭の若者を呼び寄せながら、当然、とんがった個性の持ち主たち、いつの間にか二人に減ってしまったところに、ヒロインがひょんな成り行きで加わる、という設定です。

 このあたりのくだりでは、なんとなく20世紀最大の芸術家の一人、アンリ・マティスと彼の画塾のエピソードを想い出します。それは、(まったくうろ覚えですが)、マチスがようやく名声を得て、画塾を始める。そして、なんとミケランジェロのデッサンから始めるのですが、当然、集まった連中は最初からマチス風に描きたい。先生の方は、まず基本を身につけて、それから発展形として自分の個性を伸ばすという道筋を思い描いていたのに・・・・、ということであえなく、画塾はつぶれてしまった、というものです。教員も学生も、心して考えなければいけないのではないでしょうか?

 しかし、『半分、青い』を見ていると、教育経験のないはずの秋風先生の自由奔放な“教え”は、実に理にかなっている。オリジナリティ(自分の個性)とリアリティ(読者に得心してもらうための必須事項)、この二つを個性豊かな若い世代にどうやって伝えるのか、その微妙なタイトロープ(綱渡りの綱)のまことに見事な例とも言えましょう。

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 こうした私塾あるいはそこから発展した学校の例として、手塚治虫の『陽だまりの樹』前半で活写された緒方洪庵の「適塾」(なお、主人公の一人は福沢諭吉の『福翁自伝』でも揶揄的に登場する手塚良仙、手塚治虫の曾祖父です)が好例ですが、有名な先生が後継者を育てようと私塾をつくり(福沢自身の慶応義塾がまさにその通りです)、それがやがて制度的な学校に発展していくという、大学の起源の一つの例です(それゆえ、適塾は大阪大学医学部と慶應義塾大学の源流の一つに相当するともされています)。

 そこでは、カリスマ的教員が教え(=講義の起源)、教え子に論争させ(=プレゼン/ゼミ/ディベートの起源)、練習させる(=実験・実習の起源;適塾では治療、秋風塾ではアシスタント+習作)ところから出発する、と思って下さい。そう思って『半分、青い。』を見ていると、なかなか蘊蓄があるというものです。

 ところで、私塾とは別に、国家あるいは権力が何らかの目的をもって“学校”を作るというごく初期の例が、「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ」でご紹介したアレクサンドロス大王と学友たちが青春の日々を過ごす「ミエザの学園」かもしれません。もちろん、これは権力者ピリッポス2世が後継者アレクサンドロス3世の成長を目的としたものであり、かつ、アレクサンドロスの死後、学友たちは互いを殺し合う“ディアドコイ戦争”に突入します。

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 さて、こうした大学の“研究室”において、とくに理系では教師(教授)を中心とした“研究室”が中心に展開されます。例えば、「雑務で消耗しながらも教育に情熱を燃やす「工学部平(ヒラ)教授」の物語を書きたい」という今野浩先生著『工学部ヒラノ教授』では、パデュー大学のA・ウィンストン教授から盗み取った研究室運営のことを「学生との徹底的な研究分業、すなわち一人で研究するのが当たり前の数学科教授が批判するところの“搾取”である」と喝破します。それは以下のように進行します。
(1)教員は良いアイデアが浮かんだら、きっちりと脳内に格納する(オリジナルなアイデアが降臨するわけです)。
(2)1週間ほど寝かして、論文になりそうか検討する(そのアイディアが通用するか、時間をかけて吟味)。
(3)決心したら、手が空いている院生を呼び出し協力を求める(下請けに出す=まるで日本の企業の“系列”のような世界です)。

 この(3)こそが、文系の先生(理系なら数学の先生)が“搾取”とよび、あるいは“相撲部屋の親方みたいだ(=自分では相撲をとらない)”と揶揄しつつも、グローバルな研究世界ではよくある段取りであり、“搾取”なのか、それとも(教員と院生の)“共生”なのか、判断が分かれるところではあります。

 ヒラノ(今野)先生は、自らの専門分野(理財工学)に引き寄せて、以下の6つのステップに整理、かつそれぞれに異なるスキルを推奨します。
Step 1:問題を発掘する:オリジナリティが必要!(リサーチではこれが肝心)
Step 2:問題の定式化を行い、解法を考案する:数学力が必要!
step 3:解法をプログラム化し、具体的なデータを用いて問題を解く:プログラミング技術が必要!
Step 4:得られた結果を検証する:分析力が必要!
Step 5:結果を論文にまとめる:プレゼン力・文章化能力が必要!
Step 6:論文を専門誌に投稿して、レフェリー・編集委員と交渉する:(英語による)交渉力が必要!
 もちろん、分野が違うと段取りも違う。実験科学ならばまず研究費獲得能力が、そしてStep 3は実験力が必要。

 自然科学の場合は昔からそうでしたが、社会科学でも近年、こうした“搾取”あるいは“共生”による共同作業がますます重要になってきており、それゆえ、(総政の方々は)基礎演習でグループ・リサーチのコツを掴んでおかねばならないのです。もちろん、こうしたグループ・リサーチは大学生活よりも、むしろ卒業後、就職からの“仕事”にこそ役立つというものです。

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 最後にやはり『半分、青い。』に戻りますが、秋風羽織を中心にぐるぐる廻る人間関係(秋風のアシスタントをしながら、教えをいただき、作品についてだめ出しをうけ、やがて独立していく)は、実は、こうしたグループ・ワークの修業の場なのである、ということを肝に銘じていただければ幸いかもしれません。

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part3:“まつりごと”とは何か?

2018 7/28 総合政策学部の皆さんへ、とくに新入生の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版から第6章 「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書の復刻シリーズ、以下は“まつりごと”、すなわち“政策”に関する文献のご紹介です。

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 ローマ帝国から近代国家の誕生まで、ヨーロッパの政治史を楽しみながら、「国家や市民とは何か?」、「政治とはどんな芸術(ラテン語でアルテ=英語のアーツ)なのか?」を学ぶのに良い本として、イタリアの歴史家のI・モンタネッリらが執筆した『ローマの歴史』と『ルネサンスの歴史』をあげておきましょう。どちらも文庫本で読みやすく、お薦めです。きら星のような登場人物たちの中でもっとも印象的な人物は間違いなく、ローマ帝国の創設者ユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)でしょう。

来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」(ラテン語の台詞ですが、きちんと頭韻を踏んでいる点にご注意)
賽(サイ)は投げられた(Alea jacta est)

等の卓抜なキャッチ・コピーで知られるこの「怪人物」は、「共和制」が行き詰まっていたローマを(民衆の支持を得ながら!)「君主制」で立て直そうと大奮闘します。その結果は、彼自身の著作『ガリア戦記』に活写されたガリア(現在の西ヨーロッパ)征服を通じて、「普遍性」という価値観をベースにヨーロッパに君臨する一大国際帝国(ローマ帝国)として結実します。

 この古代ローマ帝国、ローマ法によって皇帝の支配下、普遍的な掟によって支配される国際帝国こそが、現在のEUの基本かもしれません。例えば、カエサルはブリテン島にも上陸しますが、その結果、ローマ帝国は5世紀まで、現在のイギリスを支配します(「だからと言って、イギリスはEU離脱をすべきでない」と主張する気はありませんが)。もっとも、現在のEUは古代ローマ帝国の支配地からかなりはみ出しています(「だからと言って、EUは拡大し過ぎて、内部に矛盾を抱え込みすぎている」と主張する気もありませんが)。

 しかし、「共和制と君主制のいずれの政体を採るべきか?」 この悩みは周囲の人々、同輩のポンペイウスとクラッスス、敵対者の小カトー、哲学者キケロ、暗殺者ブルータス等々を次々に巻き込み、ほぼ全員を非業の死に導いたにとどまらず、彼の覇業の1500年後には、本来は「共和派」であるはずの政治思想家N・マキャヴェッリに『君主論』を執筆させ、さらにはイギリスの劇作家W・シェイクスピアに政治劇『ジュリアス・シーザー』を書かせるほどです。

  • 注1)『ローマ人の物語』:『ローマの歴史』は、歴史作家塩野七生の『ローマ人の物語』にほぼ時代が重なります。同じ登場人物についての評価が、両者で微妙に異なったり、この二つを読み比べるのも楽しみです。
  • 注2)ユリウス・カエサル:古代ローマの共和政末期に活躍した政治家・軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(前100~前44年)。終身独裁官時に暗殺されたが、事実上の帝政を開始。『ガリア戦記』はガリア征服についての自筆の記録。

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 ところで、『ルネサンスの歴史』の登場人物でもあるフィレンツェのノン・キャリア官僚のマキャヴェッリは、こんな風に語ります。

「(君主は)人に恐れられるよりも愛せられる方が良いのか、反対に、愛されるよりも恐れられる方が良いのか。私は両方ともであって欲しい、と言うであろう。しかし、同一人で二人とも兼ねることは難しいから、両者のうちいずれかをえらばねばならぬとしたら、愛されるよりも恐れられる方がむしろはるかに安全であろう。それは、人間は恩知らずで、多弁で、臆病で、吝嗇であると一般にいうことができるから」(『君主論』第17章)。

 そのマキアヴェリ本人は(当時四分五裂していた)イタリア統一を実現するためにはたとえ悪魔とでも手を結ぼうという愛国者であり、一般に誤解されているような権謀術数家、いわゆる「マキャヴェリスト」ではありません。一方、彼の年下の友人、法王庁のキャリア官僚F・グィッチャルディー二が、自分の子孫のために書き残した『リコルディ』(邦訳の題名は『フィレンツェ名門貴族の処世術』)こそ、自らの「個別利害」を第一とする現実主義者(真のマキャヴェリスト)の独白と言われています。次の文章は、権力者に取り入ろうとしながらも、というよりもむしろそれゆえにこそ、権力者を冷たく見すえる彼の真骨頂です。

権勢ならぶものがなく、また賢君の誉れも比肩するもののなかったアラゴンのフェルデナンド・カトリック王が、なにか新しい仕事をやろうとしたり、あるいは非常に重要な決定を下そうとしたとき、王みずから自分の考えを公にする以前に、宮廷および人民全体が「王はまさにこれこれの事業をしなければならない」と声を大にして熱望するようにし向けていたのに、私は気付いたものである。こうして王の立場が一般に待望され要求されるようになってはじめて、自分の考えを公にしたわけである」(『リコルディC』80節)

 マキアヴェリ同様、グイッチャルディー二の台詞もまた多くの人たちに「身も蓋もない」という印象を与えるようですが、同時に、自分の時代を生きる上で多くのヒントにあふれてもいます(右の言葉も、どこかの政治家に聞かせたいものです)。同様に、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、自分のボスであるカエサルを暗殺したばかりの政治的敵対者ブルータスに敬意を表しながら、舌先三寸で民衆を扇動、形勢を一変させて、「高潔の士」ブルータスにとどめの一撃を加えるマーク・アントニーの弁論術の冴えに、観客/読者はただ感歎するほかありません。同じシェイクスピアの歴史劇『リチャード三世』もまた、政治的権力者の悪の魅力を存分にまき散らす作品です。

 こうした権力の魔力・魅力については、できればフランスの劇作家A・ジャリの『ユビュ王』、そして同じフランスのノーベル賞作家、A・カミュの戯曲『カリギュラ』等もご覧いただきたいところです。

  • 注3)マキャヴェッリ:ルネサンス期のイタリア、フィレンツェの官僚・政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ(1469~1527)。著作に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』等。現実主義的視点で政治を論じたが、しばしば権謀術数家と誤解されています。
  • 注4)グイッチアルディーニ:フィレンツェ出身の法王庁官僚・政治家・歴史家のフランチェスコ・グイッチアルディーニ(1483~1540)。教皇軍副将を勤めてから、トスカナ公国のコジモ1世に仕えるが、失脚、歴史書として『イタリア史』等を執筆。『リコルディ』は子孫に読み聞かせるために私的に書き残した処世訓の覚え書き。
  • 注5)フェルデナンド・カトリック王:アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)。カスティーリャ女王イザベル1世と結婚・共同統治、カスティーリャ王としては5世。スペインの経営に辣腕をふるい、孫のカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)に継承します。

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 それでは、我々個人はどんな生き方をすべきでしょうか? ルイ14世による絶対王政出現を目前にして、大宰相マザランに逆らってもろくも敗北したフランスの大貴族ラ・ロシュフーコー公爵は、フロンドの乱に青春のすべてを消耗しつくした自らの人生を振り返り、『箴言集』を編みます。読者の多くを不快感に誘うこの本は、まさに左の箴言で始まります。

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない

 しかし、別の日には、かつての戦友達を想ってか、彼はこうも書き記します。

友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ

『箴言集』の原題を直訳すると、『人間考察もしくは処世訓と箴言』とのことですが(『箴言集』翻訳者による解説)、この書は先ほど触れた『君主論』と並んで、人間の美徳と悪徳を論じることで、古来毀誉褒貶の的となってきた問題作なのです。

  • 注6)マザランとフロンドの乱:ジュール・マザラン(1602~1661)はイタリア生まれのフランス王国の政治家・枢機卿。幼少のルイ14世を補佐して絶対王政を確立します。フロンドの乱(1648~53)は、彼の政策に対する貴族の反乱ですが、最終的には屈服させることに成功。ロシュフコーは大貴族としての名誉を賭けてマザランに対抗するも、敗れ去るのです。

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 一方、日本の英文学者家夏目金之助は19世紀から20世紀の変わり目にロンドンに留学中、自分が研究している英文学とは何か? という疑問にとらわれ、やがて「それを考えている自分は誰か?」、そして「自分にとって日本とは何か?」に気付きます。そこで「知識の内発性」に思い至った彼は、「個人主義」に目覚めたのです。この過程で小説家夏目漱石に変身した孤独な知性は、学習院での講演記録『私の個人主義』で、明治という日本が近代化にむかって突っ走った変革期において、個人はどう生きるべきか模索した道筋を物静かに語りきかせます。

 その一方で、「近代」は否応もなく進みます。そして、その途上、ヨーロッパのプロテスタントの一部に、資本主義的精神が生じた経緯を分析したのがマックス・ヴェーバーです。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾には以下の言葉が見えます。

「(ヨーロッパの)近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つと言うべき天職理念を土台とした合理的生活態度は―この論考はこのことを証明しようとしてきたのだが―キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった」(岩波文庫版363~364頁)

 もしさらに余裕があれば、ヴェーバーが資料として使ったB・フランクリンの自伝もひもとかれると、何故、21世紀の我々が「時間」というものを絶えず意識せざるを得ないか、自問するはずです。そんな時には、M・エンデ作の「時間泥棒」が登場する物語『モモ』をあらためて読んで下さい。一方、資本主義の受容も含めて、日本の近代化について、自らの経験を飽くことなく語る福沢諭吉の『福翁自伝』もまた皆さんにお勧めです。

  • 注7)マックス・ヴェーバー:ドイツの社会学者・経済学者(1864~1920)。宗教社会学、比較文明・経済史等で大きな影響を与え続けています。他の著作に『職業としての学問』『職業としての政治』、『宗教社会学論集』等。
  • 注8)ベンジャミン・フランクリン:アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、科学者(1706~1790)。植民地時代から独立戦争にかけて、合衆国の精神的支柱になったとも言える人物。各方面に多大な貢献を残すが、その自伝はWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)の理想である勤勉、合理主義等を推奨して、ヴェーバーの経済史研究の資料となっています

新入生の方々に向けて、リサーチで重要なこと#1:「半分、青い。」と「工学部ヒラノ教授」を是非ご参考に!

2018 6/22 総合政策学部に入学された皆さんへ

 3月末で職を退いてからブログを停めていましたが、縁あってまた関学に少し関わることになりました。そこで、総政OBとして投稿を再開することにします。ということで、今回は学生の皆さん、とくに新入生の皆さんにとって悩みの種である「リサーチをどう進めるべきか?」、そのヒントをNHKの朝ドラ『半分、青い。』と、ノーベル文学賞受賞者スタインベックの刎頸の友、モントレーはキャナリー・ロウの賢人エド・リケッツ、そして東京工業大学名誉教授今野浩先生の“平野教授シリーズ”第一弾『工学部ヒラノ教授』等から探ってみたいと思います。

 まず、なんと言っても“秋風語録”、関学文学部中退の豊川悦司演じるカリスマ漫画家、秋風羽織から奔流のごとく発せられる言葉の数々。そのお薦めトップはなんといっても、マンガにとって最も大事なものとしてあげた「オリジナリティとリアリティ」です。さらに続けて「リアルを拾うんだ。想像は負ける!」と衝撃が続きます。この二つはリサーチでも根幹! 皆さん、オリジナルなことに取り組んでいますか? オリジナルとは要するに「他人(ひと)がやっていないこと」です。あるいは、こうも言えるでしょう。あなたは「他人(ひと)と違うところを持っていますか?」。この点では、マンガもリサーチも同じです。

 かつて日本人の研究者が研究資金を獲得しようとすれば、「これは世界でもみんなやっていることだから、重要なので、金をくれ」と言わないと、金が下りない、と聞いた事があります。しかし、これはグローバル・スタンダードではない。世界では、「これは世界でもオレだけしかやっていないことだから、重要なので金をくれ」と言わねば通用しない。

 もちろん、ここに大きなハードルがある。世界の誰でもやっていないことが果たして、他の人々にとっても“重要”なことなのか? あなたは証明しなければいけない。つらいですね! しかし、そのつらさを乗り越えてこそ、栄光が訪れる。それがグローバリズムの宿命なのです。

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 秋風先生は続けて、リアリティに関連して、このように宣言します。「半端に生きるな。創作物は人が試される。その人がどれだけ痛みと向き合ったか。憎しみと向き合ったか。喜びを喜びとして受け止めたか。逃げるな」。これは「“真実”から逃げるな!」ということでしょう。

 すでに「高畑ゼミの100冊Part24:「それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ!」スタインベック『キャナリー・ロウ』を中心に#1」でご紹介しているエド・リケッツのセリフ、

単純な問題でいともたやすく大間違いをおかすものなんだね。人間関係や財産にまつわるあらゆる問題で真実を見つけ出すためにこそ、法体系があるんだと思い込んでいたよ。いや、そんな印象を受けていただけかもしれないなあ

ある事実を忘れていた、というより考えてみたこともなかったんだ。原告側も被告側もどっちも勝ちたいんだという当たり前のことをね。そのために本来の目的はどっかに行っちゃって、都合のいい部分だけをことさらに強調するから問題の客観的事実は影も形もなくなる。火事の一件を考えてみればよくわかるよ

 「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない、それどころか、真実に憎しみさえだいていたのさ

 みんな、“真実”を見たくない。もちろん、政治家も、企業家も、外交官も、そして一般民衆も、多くの人は“真実”など興味がなく、ひたすら自分が信じたいことだけを信じ、自分が見たい物だけを見る(おまけに、メディアの多様化で、みんな自分の見たいメデイアしか見なくても済む!)。そうした時代こそ、まさに現代なのかもしれません。

 ということで、ここでも皆さんに問いかけがある。すなわち、皆さん、自分自身は見たくもないはずの“真実”を見つめることはできますか? それではリアリティなど夢のまた夢。愚者の甘い楽園にいつまでも浸っていては、リサーチができるはずはありません。かつて、一代のモラリスト、ラ・ロシュフコー公爵は箴言集で喝破します、「太陽も死もじっと見つめることはできない」(箴言集26、岩波文庫版より)。太陽も、死も見つめられる人間こそが、真のイノベーションを成し遂げるのです。

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 最後に、アイデアの盗用について。『半分、青い。』第66話は、マンガのアイデアの貸し借り/パクリの発覚で、主要登場人物の一人が退場しますが、このあたりも“リサーチ”では微妙なところです。オリジナリティが何より大切だとすれば、アイデアをぱくることなど、許されるはずもありません。

 この点について、ヒラノ教授が紹介するスタンフォード大学OR学科主任リーバーマン教授(鳩山由紀夫元総理の指導教員)が、博士資格試験に合格して、これから博士論文に取りかかろうという学生(ヒラノ教授も含まれているわけですが)相手に行った“衝撃的”訓示をご紹介するのがよいでしょう。

合格おめでとう。(略)あからかじめ一つ注意しておこう。ここにいる諸君は互いに競争相手だから、個人的にアイデアを漏らしてはいけない。盗まれてから、それは自分のアイデアだと言っても襲い。私はアイデアの盗用をめぐる不幸なケースを沢山見てきたが、盗まれた側がそれを立証できたケースはほとんどない。私はこの学科で“盗んだ・盗まれた”といった事件が起こらないことを願っている

 ことほど左様に、オリジナリティを標榜すれば、それをめぐっての人間関係も複雑なものになっていく、そのあたりは『ヒラノ教授』と『半分、青い。』が共通する世界かもしれません。  to be continued・・・・に

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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