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愚者には愚に従って答えるか? トランプvs.バイデンのTV討論について 

2020 10/8 総合政策学部の皆さんへ

 ちまたでは去る9月29日に行われたトランプ大統領とバイデン上院議員の第1回テレビ討論会について、「史上最悪のディベートだった。そもそもディベートではなく、恥をさらしただけ。今晩はアメリカ国民の敗北だ」「Shit show(くそみたいなショー)だった」(CNN)等と報道されているようです。

 この討論会の話を聞いて、私の頭にまっさきに浮かんだのは、イギリスの作家・ジャーナリストのジョージ・オーウェルの傑作、スペイン動乱のさなか、コミュニストからも資本家からも、もちろんファシストからも嫌われたPOUMに義勇兵として参加、混乱のなかかろうじてイギリスに逃れた経験を描く不朽の傑作『カタロニア賛歌』冒頭のエピグラフ、旧約聖書『箴言』からの引用です。

愚者には愚に従って答えるな、
  君も愚者にならないために。
 愚者には愚に従って答えよ、
  愚者が自分を知者と思わないために
           「箴言」26章5-6節

 これは中学生の時に読んだ筑摩ノンフィクション全集本に載っていた松木隆・山内明訳ですが、新共同訳『旧約聖書』では以下の通りです。

愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな
   あなたが彼に似た者とならぬため
  愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。
   かれが自分を賢者だと思い込まぬために

 中学の時にこの言葉に接した時に感じた「それでは、どうすればいいんだよ?」(たいていの方がこの感想に同意していただけると思うのですが)という思いを、ひょっとしたらバイデン氏も感じたかもしれません。あるいは、4年前、ヒラリー・クリントンはこの教えを意識しなかったがゆえに、トランプ氏に敗北したのかもしれません。

 ちなみに、箴言の多くはソロモン王によって作られたとされていますが、複数の作者によるものだろう、とのことです。

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  さて討論会に話を戻すと、どうやらトランプ氏を支える“鉄板”のファンたちにとっては、大手メディアやエリート、知識層がどんなにトランプ氏をあげつらおうと、それはすべて“誹謗・中傷”に過ぎず、討論会で実質的に敗北しようと、そんなことはどうでもよいと思っているようです。

 それでは、彼らは何を望んでいるのか? TV画面に映し出される彼らの嬉々とした表情を見ていると、トランプ大統領は彼らにとっての一種の“象徴”、あるいは“王”のような存在になっているのかもしれない、とさえ思われます。

 そして、そのファンたちはある意味でいま、ワクワクしながら、心待ちにしているのは大統領選の結果=トランプの敗北=彼らの“王”トランプ氏の破滅であり、その“王殺し”の瞬間に放出されるエクスタシーの噴出を(無意識のうちに)心待ちにしてる、それが彼らにとって来るべき“祭”にさえなっていると言えるのかもしれません。

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 さて、旧約聖書の箴言はこのように続けます。

愚か者に物事を託して送る者は
 足を切られ、不法を飲み込まされる
愚か者の口にすることわざは
 歩けない人の弱い脚。
愚か者に名誉を与えるのは
 石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。
愚か者のくちにすることわざは
 酔っぱらいの手に刺さる刺

 当の愚か者にとっては、箴言はなかなか恐ろしそうな事態を予想しているようでもあり、かつ、同じく彼に物事を託そうとする鉄板のファン(=そして、心中秘かに王殺しの瞬間を待っている)方々にとっても王の道連れに相応の呪いがかかってくるかもしれないが、それもまた面白そうと心に決めているのかもしれません。

「戦って欲しければ支払いを!」vs.「そこに米軍がいても誰も不思議に思わないことが大事だ」総合政策のための名言集No.20

2019 1/23 総合政策学部の皆さんへ

 2018年12月28日(金)の朝日新聞国際欄には、イラク(駐留米軍基地)を電撃訪問したトランプ大統領がその場にいた兵士の皆さんに向かって「我々は、もう『カモ』ではない。我々に戦って欲しかったら金銭的な支払いをしなければならない」と演説したとのこと。これを聞いて想い出すのは、言うまでもなく、中世ヨーロッパを跋扈していた傭兵隊長(コンドッティエーレ)でしょう。

 ご存知塩野七生のイタリアものには、トランプ氏の台詞のような話は頻繁に登場します。例えば、毀誉褒貶とびかうルネサンス期の典型的教皇4名の列伝である『神の代理人』の第3章「剣と十字架」では、イタリアを法王庁のもとに統一すべく自らの人生をすり減らした軍人教皇ユリウス2世(ちなみに、このユリウスとはローマ帝国建国の英雄ガイウス・ユリウス・カエサルに通じますから、まさに宗教家=教皇と政治家=皇帝の合体なのです)。

  •  カエサルの“ユリウス(Iulius)”は古典ラテン語でもともとはローマの氏族名、教皇の“Julius”(ユリウス)はそれに由来する中世ラテン語、これがドイツ語ではそのまま“ユリウス”(Julius)で男性名となりますが、古代ローマでは女性形として“ユリア”(Julia)となり、これがヨーロッパ諸語で“ジュリア”(英語: Julia, フランス語: Julia, イタリア語: Giulia, ポルトガル語: Júlia)となっていきます。さらに付け加えると、このジュリアが男性では英語で“ジュリアス”となるので、日本には英語から紹介されたカエサルは、ジュリアス・シーザーという英名で普及することになります。
  •  なお、ユリウス2世は以下のボローニャ征服後、自らの銅像を立てさせますが、反ユリウス派に奪回され、あげくのはてにその銅像をもとにフェラーラの君主アルフォンソ・デステ臼砲に仕立て、かつ、(当時のヨーロッパは貴重な大砲は個人名を付けたが、臼砲は女性名を付けるのが一般だったため)、その臼砲をユリウス2世の名前をもじって“ラ・ジュリーア”と名付けたそうです。赤っ恥もよいところ、という有様です。

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 さて、そのユリウスが教皇領内で叛服し続けるボローニャ征服にのりだし、首尾良く大した手間もかけずに開城にこぎ着けますが、その時、ユリウスが助っ人に呼んだフランス軍の傭兵部隊がボローニャに近づき「全市の大略奪と市民の殺戮を強行すると伝えて」きます。もちろん、(本当は戦がおこれば、略奪できると欲望むき出しで駆けつけたのに、あっけない開城で儲け話がおじゃんになった腹いせもあって)脅しで銭を稼ごうという魂胆です。出さなければ、その時こそはお得意の略奪で手間をかけても金をふんだくるもくろみです。

あわてふためた市民たちは、早速代表を、イーモラの法王のもとに送り、どうにかしてくれと頼み込んだ。ジュリオ2世は、フランス兵におとなしく引き取ってもらうために、金を払えと言った。大将のシャルル・ダンボアーズに8000デュカート、兵たちには1万デュカートで良かろう(あわせて1億円あまり)。ボローニャ市民には、この忠告を受け入れるしか道はなかった

 このように、“法王様”ご公認の“みかじめ料”ビジネス。ちなみに、イタリアの賢人モンタネッリの『ルネサンスの歴史』には、イギリス出身の傭兵隊長ジョバンニ・アクート(英名はジョン・ホークウッド)を描いて、「この軍団の傭兵たちが肥沃な北イタリアの平野を荒らさぬ日は、一日とてなかった。作物を踏みにじり、畜群を屠り、家財を略奪し」「これぞジョン・ホークウッドが夢にまで見た理想の生活である」と記しています。

 洋の東西を問わず、傭兵であれ、侍であれ、庶民から「守ってあげるから」、あるいはさらには「殺さないであげるから」と言ってお金を巻き上げるのは、ほとんど常識というもの、だって、戦地を右往左往するのに飯代もかかれば、交通費も要るし、第一、武器だってきちんとそろえるには金がかかるでしょう、というのがいわばコンドッティエーレの常識であり、それを戦地でうまく確保することが重要になります。後世になれば、さすがにただの略奪では難しくなるので、近代的ビジネスとして“軍税”の形で資金を確保する、これはヴァレンシュタインナポレオンもやってこれたのです。となれば、もちろん、トランプ君もビジネスマンとしてはそうしたいのが最初の台詞に見え見えですが、そのあたりの話の運びは、我々としてもきちんと理解してあげなければいけません。

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 しかし、ヴァレンシュタインであれ、ナポレオンであれ、結局は非業の最期を遂げることになる! (ユリウス2世だって最終的には政治的野望は破綻、イタリアをスペインの植民地状態に陥れる)それでは、あんまりだという方には、是非、アメリカ合衆国初代国防長官ジェームズ・フォレスタルの言葉がお薦めかもしれません。

 子供の頃に読んだので、記憶はもちろん出典も定かではないのですが、第2次世界大戦が終わり、その後の世界秩序をどうするべきか(つまり、それが冷戦につながったわけですけれど)、その決定的な時期にフォレスタルは地中海に米国海軍の艦隊を常駐させることを提案します。その理由として彼は、

巡洋艦一隻でも良いんだ。とりあえず、そこに米国の軍艦が常駐していることに対して、世界の人間が当たり前だと受けとってもらうことこそが大事なのだ

と説明したということです。そして、上記の台詞を口にしてからさほど日もたたない1949年5月22日、初代国防長官としての強度のストレスから鬱病にかかったフォレスタルはベセスタ海軍病院の病室から飛び降り自殺してしまうのですが、それから70年がたった現在も、イタリアのガエータを母港に地中海を警護している第6艦隊ということになります。言うまでもないことですが、最初はソ連、その後は、中近東や北アフリカ、さらにはバルカン半島が混乱した場合の対処として、「そこにアメリカ軍がいることに誰も疑問をもたない状態」というわけです(ちなみに、アメリカ合衆国の最初期の対外戦争が、1801~05年の北アフリカ沿岸のバルバリア諸国との第一次バーバリ戦争ですから、地中海に海軍の拠点を持つというのは、それ以来の悲願だったかあもしれません。

 このフォレスタルの70年先も見通したお言葉と比較すれば、トランプ氏の台詞があまりに薄っぺらで、かつ古代から絶えず繰り返されてきた捨て台詞の類であることがわかるでしょう。

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 というようなことを考えていたら、1月10日のNewsWeekでは、トム・オコーナー氏が、「兵士のなり手不足のドイツ軍、外国人徴募を検討 徴兵復活も」というタイトルで、以下の内容を報道していました。

  • 連邦軍はドイツ在住のポーランド人、ルーマニア人、イタリア人の新兵採用を検討していると伝えた。
  •  しかも問題は単に人数の不足ではない。サイバー攻撃に対処できる高度な専門知識をもつ人員が決定的に足りない。
  •  エーベルハルト・ツォルン連邦軍総監は先月、人員のギャップを埋めるために「あらゆる方法を検討し、適性をもつ訓練兵を確保する必要がある」と、ドイツのフンケ新聞グループに語った。特に医療と情報技術の専門家を必要としており、EU加盟国の出身者受け入れも「選択肢の1つ」だという」

 どうやら歴史は永遠に繰り返しているようですが、そのあたりこそがマルクスの「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」にぴったりです。

“善人”はみな弱いのか?:総合政策のための名言集Part 19

2018 12/28 総合政策学部の皆さんへ

 今年もそろそろあと数日になりましたが、今回はすでに「高畑ゼミの100冊Part11:探検記・旅行記・国際関係」でもご紹介している名言について、再び取り上げることにしましょう。19世紀も半ば、故国イギリスから遠く離れたナイル河畔をヘロドトス以来のテーマ、「ナイルの源流はどこか?」を突き止めるべく、遡っていた一組のヨーロッパ人男女に、途中立ち寄ったある民族の“首長”が二人にさとすように伝えます。

人間はたいてい性悪なものだ。強い者が弱い者から搾り取る。“善人”は皆弱い。悪いことをするほど強くないから、善人なのである

 19世紀半ば、奴隷市場で出会って恋におちた奴隷の少女フローレンスを愛したものの、(実際には遊蕩にふけりつつ、きわめて表面的には)道徳的に厳しいビクトリア朝時代でのスキャンダルを恐れてか、故郷イギリスに戻ることもできず、中東をさまようイギリス人男性サミュエル・ホワイト・ベーカーが、一か八かで二人の人生を賭けたナイル源泉への冒険旅行(ハリウッド映画そのものです)。そのさなか、すべての人生を見通したように二人につぶやくスーダン上流の一民族の長(おさ)コモロ(アラン・ムアヘッド( 篠田 一士訳)『白ナイル』より)。このいかにも穏やかなアフリカ人の長のご指摘には、かのマキャヴェリグィチャルディーニロシュフコーら歴代のユマニストモラリストもたじたじとするところです。

 英語版Wikipediaでは、フローレンスについて “A Hungarian-born British explorer. Born in Transylvania (then Kingdom of Hungary), she became an orphan and was sold as a slave to Samuel Baker. Together they went in search of the source of the River Nile and found Lake Albert. They journeyed to Samuel Baker’s home in England where they were married and she became Lady Baker. She later returned to Africa with her husband to try and put down the slave trade.” と記しています。

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 さて、私は人類学と行動生態学が専門ですが、このテーマを多少ひねれば、「人間はなぜ性悪か?」そして、「善人が弱い」とすれば、なぜ、そんな「弱っちい善人がそもそも進化したのか?」という疑問にもとらわれます。皆さんはどう思うでしょう。

 このあたりは、例によってゲーム理論=例えば、タカ派vs.ハト派の登場になるのかもしれません。それではその出発点は? 以下の二つの構図が考えられるかもしれません。
(1)タカ派=そもそもはみんな、“性悪”だった?
(2)ハト派=そもそもはみんな、“弱っち”だった?

 そのあたりから、このゲームをどう考えるか、立場がわかれるでしょう。

 まず、そもそもタカ派(=これはひょっとしたら、チンパンジー?)だったとしてら、いつの時点なのか(=アウストラロピテクスの頃か、ホモ=エレクトスの頃か、さらにはネアンデルタール人の頃か?)、突然変異として「弱っちい」奴が現れる。

 一方、もともとハト派(=こちらはボノボ?)だとしたら、こちらもまた何時の時点なのか、突然変異として「性悪」な奴が現れる、という構図になります。

 それにしても、あなたはどちらをこのどちらの構図をお好みですか? (どちらが正しいか、あるいはどちらも正しくないのか? それはタイムマシーンでもできないと分からないかもしれませんが)。

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 そのあとの段取りは、もう、皆さんお気づきですね。

 たとえば、もともとタカ派だったと仮定すれば、そこに突然あらわれた「ハト派」は、タカ派と異なる“優しさ”がアピールされて、“異性”に好まれる(ここで、オス・メス、男性・女性という特定の性を指定していないことは、気づいて下さいね)。そこで、次第に集団内に“ハト派”が増える。ところが、増える過程で“タカ派”との衝突が増えると、弱っちい“ハト派”は次第に減り出す。

 それでは“タカ派”がこのまま増えるかというと、今度は増えた“タカ派”同士が衝突、命を落とす者もでてくる。そうすると、いつのまにか弱っちくて逃げまくっていたハト派が次第に復活する。

 このように、まるでバロン・ダンスで繰り広げられるバロン(聖獣)ランダ(魔女)のように“性悪”と“善”の「終わりのない闘い」が続いているのかもしれません。もっとも、このあたり、さらに考察を続ける必要がありそうです。

 それでは、良いお正月をお迎え下さい。

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part3:“まつりごと”とは何か?

2018 7/28 総合政策学部の皆さんへ、とくに新入生の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版から第6章 「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書の復刻シリーズ、以下は“まつりごと”、すなわち“政策”に関する文献のご紹介です。

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 ローマ帝国から近代国家の誕生まで、ヨーロッパの政治史を楽しみながら、「国家や市民とは何か?」、「政治とはどんな芸術(ラテン語でアルテ=英語のアーツ)なのか?」を学ぶのに良い本として、イタリアの歴史家のI・モンタネッリらが執筆した『ローマの歴史』と『ルネサンスの歴史』をあげておきましょう。どちらも文庫本で読みやすく、お薦めです。きら星のような登場人物たちの中でもっとも印象的な人物は間違いなく、ローマ帝国の創設者ユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)でしょう。

来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」(ラテン語の台詞ですが、きちんと頭韻を踏んでいる点にご注意)
賽(サイ)は投げられた(Alea jacta est)

等の卓抜なキャッチ・コピーで知られるこの「怪人物」は、「共和制」が行き詰まっていたローマを(民衆の支持を得ながら!)「君主制」で立て直そうと大奮闘します。その結果は、彼自身の著作『ガリア戦記』に活写されたガリア(現在の西ヨーロッパ)征服を通じて、「普遍性」という価値観をベースにヨーロッパに君臨する一大国際帝国(ローマ帝国)として結実します。

 この古代ローマ帝国、ローマ法によって皇帝の支配下、普遍的な掟によって支配される国際帝国こそが、現在のEUの基本かもしれません。例えば、カエサルはブリテン島にも上陸しますが、その結果、ローマ帝国は5世紀まで、現在のイギリスを支配します(「だからと言って、イギリスはEU離脱をすべきでない」と主張する気はありませんが)。もっとも、現在のEUは古代ローマ帝国の支配地からかなりはみ出しています(「だからと言って、EUは拡大し過ぎて、内部に矛盾を抱え込みすぎている」と主張する気もありませんが)。

 しかし、「共和制と君主制のいずれの政体を採るべきか?」 この悩みは周囲の人々、同輩のポンペイウスとクラッスス、敵対者の小カトー、哲学者キケロ、暗殺者ブルータス等々を次々に巻き込み、ほぼ全員を非業の死に導いたにとどまらず、彼の覇業の1500年後には、本来は「共和派」であるはずの政治思想家N・マキャヴェッリに『君主論』を執筆させ、さらにはイギリスの劇作家W・シェイクスピアに政治劇『ジュリアス・シーザー』を書かせるほどです。

  • 注1)『ローマ人の物語』:『ローマの歴史』は、歴史作家塩野七生の『ローマ人の物語』にほぼ時代が重なります。同じ登場人物についての評価が、両者で微妙に異なったり、この二つを読み比べるのも楽しみです。
  • 注2)ユリウス・カエサル:古代ローマの共和政末期に活躍した政治家・軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(前100~前44年)。終身独裁官時に暗殺されたが、事実上の帝政を開始。『ガリア戦記』はガリア征服についての自筆の記録。

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 ところで、『ルネサンスの歴史』の登場人物でもあるフィレンツェのノン・キャリア官僚のマキャヴェッリは、こんな風に語ります。

「(君主は)人に恐れられるよりも愛せられる方が良いのか、反対に、愛されるよりも恐れられる方が良いのか。私は両方ともであって欲しい、と言うであろう。しかし、同一人で二人とも兼ねることは難しいから、両者のうちいずれかをえらばねばならぬとしたら、愛されるよりも恐れられる方がむしろはるかに安全であろう。それは、人間は恩知らずで、多弁で、臆病で、吝嗇であると一般にいうことができるから」(『君主論』第17章)。

 そのマキアヴェリ本人は(当時四分五裂していた)イタリア統一を実現するためにはたとえ悪魔とでも手を結ぼうという愛国者であり、一般に誤解されているような権謀術数家、いわゆる「マキャヴェリスト」ではありません。一方、彼の年下の友人、法王庁のキャリア官僚F・グィッチャルディー二が、自分の子孫のために書き残した『リコルディ』(邦訳の題名は『フィレンツェ名門貴族の処世術』)こそ、自らの「個別利害」を第一とする現実主義者(真のマキャヴェリスト)の独白と言われています。次の文章は、権力者に取り入ろうとしながらも、というよりもむしろそれゆえにこそ、権力者を冷たく見すえる彼の真骨頂です。

権勢ならぶものがなく、また賢君の誉れも比肩するもののなかったアラゴンのフェルデナンド・カトリック王が、なにか新しい仕事をやろうとしたり、あるいは非常に重要な決定を下そうとしたとき、王みずから自分の考えを公にする以前に、宮廷および人民全体が「王はまさにこれこれの事業をしなければならない」と声を大にして熱望するようにし向けていたのに、私は気付いたものである。こうして王の立場が一般に待望され要求されるようになってはじめて、自分の考えを公にしたわけである」(『リコルディC』80節)

 マキアヴェリ同様、グイッチャルディー二の台詞もまた多くの人たちに「身も蓋もない」という印象を与えるようですが、同時に、自分の時代を生きる上で多くのヒントにあふれてもいます(右の言葉も、どこかの政治家に聞かせたいものです)。同様に、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、自分のボスであるカエサルを暗殺したばかりの政治的敵対者ブルータスに敬意を表しながら、舌先三寸で民衆を扇動、形勢を一変させて、「高潔の士」ブルータスにとどめの一撃を加えるマーク・アントニーの弁論術の冴えに、観客/読者はただ感歎するほかありません。同じシェイクスピアの歴史劇『リチャード三世』もまた、政治的権力者の悪の魅力を存分にまき散らす作品です。

 こうした権力の魔力・魅力については、できればフランスの劇作家A・ジャリの『ユビュ王』、そして同じフランスのノーベル賞作家、A・カミュの戯曲『カリギュラ』等もご覧いただきたいところです。

  • 注3)マキャヴェッリ:ルネサンス期のイタリア、フィレンツェの官僚・政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ(1469~1527)。著作に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』等。現実主義的視点で政治を論じたが、しばしば権謀術数家と誤解されています。
  • 注4)グイッチアルディーニ:フィレンツェ出身の法王庁官僚・政治家・歴史家のフランチェスコ・グイッチアルディーニ(1483~1540)。教皇軍副将を勤めてから、トスカナ公国のコジモ1世に仕えるが、失脚、歴史書として『イタリア史』等を執筆。『リコルディ』は子孫に読み聞かせるために私的に書き残した処世訓の覚え書き。
  • 注5)フェルデナンド・カトリック王:アラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)。カスティーリャ女王イザベル1世と結婚・共同統治、カスティーリャ王としては5世。スペインの経営に辣腕をふるい、孫のカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)に継承します。

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 それでは、我々個人はどんな生き方をすべきでしょうか? ルイ14世による絶対王政出現を目前にして、大宰相マザランに逆らってもろくも敗北したフランスの大貴族ラ・ロシュフーコー公爵は、フロンドの乱に青春のすべてを消耗しつくした自らの人生を振り返り、『箴言集』を編みます。読者の多くを不快感に誘うこの本は、まさに左の箴言で始まります。

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない

 しかし、別の日には、かつての戦友達を想ってか、彼はこうも書き記します。

友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ

『箴言集』の原題を直訳すると、『人間考察もしくは処世訓と箴言』とのことですが(『箴言集』翻訳者による解説)、この書は先ほど触れた『君主論』と並んで、人間の美徳と悪徳を論じることで、古来毀誉褒貶の的となってきた問題作なのです。

  • 注6)マザランとフロンドの乱:ジュール・マザラン(1602~1661)はイタリア生まれのフランス王国の政治家・枢機卿。幼少のルイ14世を補佐して絶対王政を確立します。フロンドの乱(1648~53)は、彼の政策に対する貴族の反乱ですが、最終的には屈服させることに成功。ロシュフコーは大貴族としての名誉を賭けてマザランに対抗するも、敗れ去るのです。

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 一方、日本の英文学者家夏目金之助は19世紀から20世紀の変わり目にロンドンに留学中、自分が研究している英文学とは何か? という疑問にとらわれ、やがて「それを考えている自分は誰か?」、そして「自分にとって日本とは何か?」に気付きます。そこで「知識の内発性」に思い至った彼は、「個人主義」に目覚めたのです。この過程で小説家夏目漱石に変身した孤独な知性は、学習院での講演記録『私の個人主義』で、明治という日本が近代化にむかって突っ走った変革期において、個人はどう生きるべきか模索した道筋を物静かに語りきかせます。

 その一方で、「近代」は否応もなく進みます。そして、その途上、ヨーロッパのプロテスタントの一部に、資本主義的精神が生じた経緯を分析したのがマックス・ヴェーバーです。彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾には以下の言葉が見えます。

「(ヨーロッパの)近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つと言うべき天職理念を土台とした合理的生活態度は―この論考はこのことを証明しようとしてきたのだが―キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった」(岩波文庫版363~364頁)

 もしさらに余裕があれば、ヴェーバーが資料として使ったB・フランクリンの自伝もひもとかれると、何故、21世紀の我々が「時間」というものを絶えず意識せざるを得ないか、自問するはずです。そんな時には、M・エンデ作の「時間泥棒」が登場する物語『モモ』をあらためて読んで下さい。一方、資本主義の受容も含めて、日本の近代化について、自らの経験を飽くことなく語る福沢諭吉の『福翁自伝』もまた皆さんにお勧めです。

  • 注7)マックス・ヴェーバー:ドイツの社会学者・経済学者(1864~1920)。宗教社会学、比較文明・経済史等で大きな影響を与え続けています。他の著作に『職業としての学問』『職業としての政治』、『宗教社会学論集』等。
  • 注8)ベンジャミン・フランクリン:アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、科学者(1706~1790)。植民地時代から独立戦争にかけて、合衆国の精神的支柱になったとも言える人物。各方面に多大な貢献を残すが、その自伝はWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)の理想である勤勉、合理主義等を推奨して、ヴェーバーの経済史研究の資料となっています

総合政策学部の名言集No.18:“いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない”(後編)

2017 2/20 総合政策学部の皆さんへ

 マキャヴェッリの金言「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」後編です。

 マキャヴェッリは、カルタゴ軍に対して慎重な配慮と細心の注意を払い続けたファビウスの持久戦略に対して、まず高い評価を送ります。「これはローマ人にありがちな、衝動にかられ向こう見ずにつっぱしる傾向からは、ほどといいものと言わねばならない。幸運に恵まれた彼のこの行き方は、時代に即応したものだった」。若さと運に満ちたハンニバルに対抗するためには、「鈍重のきらいはあっても、用心深い将軍が出て、敵を見張らせておくより他には、よりよい幸運を手に入れる手段はありえなかった」というわけです。

 その一方で、このファビウスの選択がいつも、あるいはいつまでも正しいわけではない、とマキャヴェリは冷徹に断定します。マキャヴェッリは話を続けて「一方ファビウスにとっても、自分の持って生まれた性格や行き方に、これほどぴったりの時代にめぐり合わすことは考えられなかった。だからこそ、あのような栄誉を一身にあびるまでになったのである」。しかし、それはファビウスの生まれながらの性格によったものに過ぎず(つまり、性格がたまたまその時代にあっただけ)、その後は、ファビウスは「時代」あるいは「環境」が変わった時代に対応できなかった、というのがマキャヴェッリの見立てです。

 その根拠は、カンナエの戦いから11年後の紀元前205年、大スキピオことプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨルが、ハンニバルとの千日手にも近い情勢の一発転換を劃して、イタリアにとどまっているハンニバルではなく、カルタゴ本国を直撃する提案に、カンナエの二の舞を演じることを危惧したファビウスは、保守派の巨頭として(さらには“ギリシア”かぶれの若者、スキピオへの個人的反感も加わり)猛反対したことによります。11年前に「時代/環境」にマッチした“英雄”は、しかし、次の「時代/環境」に合わなくなっている!

 ちなみに、このスキピオのカルタゴ本国直撃案は、軍事戦略とすれば、小牧長久手の戦で秀吉が採用した(結果的に痛恨の敗北を喫した)“中入れ”策に比すべきものかもしれません。

 まさに、「将軍たちは昨日の戦いの経験から今日の戦争を考えるが、明日を考える者にこそ、勝利が訪れる」ということになるわけです。

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 この事態にたじろがぬスキピオは入念に工作します。彼は「市民の中から義勇兵を募集し、シチリア島で兵の訓練に日を費やす。彼の呼びかけは全イタリアに届き、とくにカンナエの戦いで生き残った者たちが雪辱のために応募した」、そして「アフリカ遠征の吉凶をキュベレ神に伺ったところ神託が吉と出たこともあり、スキピオは北アフリカへの渡航のみは許された。ただし「ローマ軍の正規の作戦として認めない」という元老院の露骨な態度は明らかで、経済的な支援や援軍は望むべくもなかった」(Wikipedia)。

 こうして、スキピオがもくろんだ戦略転換は見事成功、ハンニバルはカルタゴ本土に呼び戻され、紀元前202年、ザマで両者は激突、大スキピオは(戦いの師ともいうべきハンニバルに)圧倒的な勝利を得ます。それはやがて、ローマに“巨大な国際帝国”を与えることになります。

 マキャヴェッリは、それに故に、ファビウスについてこう結論します。「ファビウスの主張が通っていたら、ハンニバルはなおイタリアにとどまっていただろう。これはファビウスが時の流れを察知するのにうとく、それにつれて戦争遂行の方法も変えていかねばならないことを理解しなかったことを示すものにほかならない」。したがって、ファビウスが王だったならば、ローマは敗れていたはずだ! しかし、ローマは共和制であり、新しい時代に対処できるスキピオが控えていた。それが、国内に様々な才能の持ち主をストックして、使い分けることができる“共和制”の勝利なのだ、というのがマッキャベリの“ディスコルシ”です。

 しかし、故国ローマ、とくに元老院はこのギリシャかぶれの英雄、そして宿敵(であり、師でもある)ハンニバルにも好意を隠さない大スキピオに対して必ずしも好意的ではありませんでした。晩年、「敵から賄賂をもらったのではないか」という疑惑で政治的に失脚したスキピオは引退、先祖代々の墓に入ることを拒否した上で、墓碑銘を「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」と刻ませたとのことです(Wikipedia)。

総合政策学部の名言集No.18:“いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない”(前編)

2017 1/5 総合政策学部の皆さんへ

 新年を迎える話題にふさわしいかどうか、今回の名言は皆さんご存じのニッコロ・マキャヴェッリ渾身の大作『ディスコルシ』から、第3巻9節のタイトル、「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」です(『ちくま学芸文庫』版では519頁)。

 マキャヴェッリは本節で「人の運不運は時代に合わせて行動を吟味するか否かにかかっている」と指摘した上で、「誤りを犯すことも少なく、前途は洋洋たる幸運にいろどられている人々は、何度も述べてきたように、時代の性格を敏感に感じ取り、いつも自然が命ずるままに事を運んでいくものである」と断言します(ここで“自然”と訳されていますが、“環境”という言葉の方がよりふさわしいかもしれません)。

 この言葉を耳にすると、何年か前に関学の宮原明現理事長からお聞きした京都の村田製作所村田さんの言葉を思い出します。それは、村田さんがある席で、宮原さんに「京都の老舗は何も変わっていない、と思ってらっしゃるでしょう!」と切り出し、「とんでもない、京都の老舗は絶えず変わっているんでっせ!」、「変わっているからこそ、老舗として生き残ってこられたんでっせ!」とたたみかけたとのこと。時代(あるいは環境)とともに、自分を変えることができる者だけが生き残る。まさに、ダーウィンの進化論にも通じる至言です。

ということで、これが今回のマクラです。

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 それでは、マキャヴェッリは「時代とともに自分を変える」例として、ティトウス・リウィウスの『ローマ史』から誰をとりあげたか?

 それはクィントゥス・ファビウス・マクシムス( 紀元前275~203年)です。第二次ポエニ戦争においてカルタゴ軍を率いる(ローマ人にとっては悪鬼のごとき)ハンニバルに対して、執政官・独裁官として立ち向かい、「勝てないけれども、決して負けない」持久戦略で相手を苦しめる人物で、「ローマの盾」と称されます。

 この持久戦略ですが、(自らをアレクサンドロス大王、“ピュロスの勝利”のエピロス王ピュロスに次ぐ戦術の名手と自負する)ハンニバルに激突しても勝ち目がないと悟ったファビウスは故地から遠く離れているカルタゴ軍の兵站をついて消耗させ(消耗戦)、ついでカルタゴ軍の予想進出地を焦土化します(焦土戦術)。そして、カルタゴ軍にずっとつきまといながら、決戦を避け、相手の消耗を待つという近代的戦略をとります(なお、一回々々の勝利を求める戦術ではなく、戦争の趨勢を決定させる戦略であることに注意して下さいね)。

 この故事から、やがて持久戦略はファビアン戦略とも呼ばれるようになり、保守派として暴力革命を否定しながら社会改良をめざす運動をフェビアニズムと呼ぶことになります。

というのは、しかし、いわば後世の後知恵、ポエニ戦争当時のファビウスのあだ名は“クンクタートル ”、「のろま」あるいは「ぐず」の類で、彼の「勝てない」持久戦略は大衆にはまったく人気があがらず、かつ、最終的勝利も得られないまま、ファビウスは任期を終えます。もちろん、彼の任期が切れたことにもっとも安堵したのはほかならない当の相手のハンニバルでした。

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 そして、紀元前216年、執政官に選ばれたガイウス・テレンティウス・ウァロは大衆の支持をベースに(こうした政治家が欧米では今はやりのようですね)、主戦論をふりかざし、カンナエでハンニバルと正面対決を決断します。

 この日のために満を持したローマ軍は重装歩兵5万5千、軽装歩兵8~9千、騎兵6千、実に計7万人を準備、さらに予備兵力1万が背後に控えます(もっとも、この予備勢力は戦いにまったく寄与せず、虚しく捕虜になります)。対するハンニバルは、故国カルタゴを離れてすでに数十年、異郷の地でローマ軍と激戦を繰り返し、そのたびにたたき伏せてきたとは言いながら、支援も補給もままなりません。このため、カルタゴ軍は計5万( 重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、騎兵1万)に過ぎません。ウァロはこの優勢をかって、少数のカルタゴ軍を包囲・殲滅しようとします。

 しかし、ローマ軍はハンニバルの罠にまんまとはまり、少数のはずのカルタゴ軍に包囲されて惨敗、6万人が死傷、1万人が捕虜となります。カルタゴ軍の鉄の罠から脱出できたのは1万にとどまります(カルタゴ軍の死傷者は約6千人)。これが2000年後のドイツ軍のシュリーフェン・プラン奉天会戦にまで影響を与えたとする、カンナエの戦いの結末です。

 この敗北を機に、大衆もまた元老院の貴族もファビウスの慧眼に気付き、「クンクタトルは「のろま、ぐず」といった蔑称から「細心、周到」といった敬称へと意味を変えた」(Wikipedia)。このことは、古来、カンナエの戦いを軍事教本にとりあげてきた欧米社会で衆知のことですが、マキャヴェッリの考察はさらにその奥に進んでいきます。それは後編にまわしましょう(この項、to be continued)

総合政策学部の名言集No.17:“祖国は各自が各自の義務を果たすことを期待する”:ネルソン、ナポレオン、そして漱石

2016 11/15 総合政策学部の皆さんへ

 今回は、H・ネルソン提督(1758~1805)が1805年10月21日、トラファルガー海戦の直前、座乗する旗艦ヴィクトリー号に掲げた信号旗から始めましょう。

 ”England expects that every man will do his duty”:Wikipediaでは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と訳されています。実は、私が最初にこの言葉を目にしたのは、夏目漱石の『私の個人主義』で、うろ覚えですが、注かなにかに「祖国は各自が各自の義務を果たすことを期待する」と訳されていたようにかすかな記憶があります。そのため、私個人にとってはこの台詞を聞くと、Englandという固有名詞と祖国という一般名詞のイメージがないまぜになってしまう、と、まあ、思って下さい。

 ちなみに漱石は、この言葉を学習院輔仁会の生徒たち(当時ですから、皇族・華族の子弟を多く含んでいたはず)に以下のように説いています。

「ご存じの通り英吉利イギリスという国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英吉利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。(略)しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。 England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉はけっして当座限りの意味のものではないのです。彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢をもった思想に違いないのです」(青空文庫『私の個人主義』から一部略)

 漱石が、日本の支配階級養成のための宮内省外局が運営する官立学校で、この言葉で何を伝えたかったのか? あるいは、これを拝聴した生徒たちはここから何か学んだのか、学ばなかったのか? は興味深いテーマかもしれませんが、それは私の専門からはあまりにもかけ離れているので、そのことについての社会思想史的研究はここではおいておきましょう。

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 さて、18~19世紀の“イギリス軍”が果たして“国民軍”であったかどうか? つまり、民族=国民を意識した者たちであったかどうか、が今回の主要テーマであることはもうおわかりでしょう。

 例えば、トラファルガー海戦の30年前、アメリカ独立戦争においてワシントン率いる大陸軍(13植民地からなる給与付きの志願兵[これこそがボランティアなのですが)と戦ったイギリス軍では、実に3分の1がドイツからの傭兵だったと言われています。つまりは、アメリカ独立戦争での実際の戦闘hには、“国民軍(志願兵)”対“イギリス国王が雇った傭兵を含む軍隊”の争いという側面があったのです。

 この国民軍=ちょっと前までは“素人”だった“市民”による軍隊が、プロのはずの外国軍に対峙した上に、戦略的勝利をも勝ち取ったのがフランス革命が進行中の1792年9月20日、フランス軍とプロイセン軍との間で起きたヴァルミーの戦いであり、その現場に居合わせた文豪ゲーテが「ここから、そしてこの日から世界の歴史の新しい時代が始まる」と喝破したことで知られています。

 しかし、こうして出現した巨大なフランス軍(当時のフランスはヨーロッパでも随一の人口大国 → 動員数で隣接諸国を圧倒的することができる)を率いたのが、ほかならぬ“フランス革命の限定相続人”ことナポレオンなのですが、そのフランス軍が国境を越えて侵略戦争に転じた時、思わぬ出来事が起こります。

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 言うまでもなく、“ナショナリズム”という先鋭的な体制によって外国からの圧力を払いのけ、さらに“革命”の普遍性を信じて近隣諸国に侵略した時、それは近隣諸国の“ナショナリズム”も覚醒してしまう、という現実です。そして、“革命”のインターナショナリズムの光彩に彩られたはずのフランスでさえ、一つの“国民国家”に過ぎなくなる、という“ナショナリズムの相対化”の罠に囚われてしまうことになります。

 コルシカ出身で、それゆえ“フランス民族”から相対的になかば自律しているという立ち位置によって、革命の熱狂と恐怖に踊るフランス人達を冷たく見据え、フランス革命の限定相続人たりえたナポレオンも、対外的には“一人のフランス人”に過ぎない。

 その一つの象徴が、ネルソンの“England expects that every man will do his duty”かもしれません。

総合政策学部の名言集Part16:番犬か、それとも番犬様か?

2014 12/30 総合政策学部の皆さんへ

 今年もそろそろ終わりそうですが、名言集として、タイトルは元外務大臣椎名悦三郎(1898~1979)からの引用です。

 今や、日本人の記憶から遠ざかってしまったかもしれませんが、Wikipediaでは「池田勇人内閣で、自民党政務調査会長、通商産業大臣、1964年には外務大臣に就任」「佐藤栄作内閣でも外相に留任」として、戦後の名外相としてうたわれます。

 その答弁ぶりは何よりも国会で、「日本社会党の議員から、日米安保条約で日本に駐留する米軍の存在意義を問われた佐藤内閣の椎名悦三郎外相が、「米軍は日本の番犬であります」と答弁したから、驚いた質問者が、「米国を番犬とは何事か」と詰問すると、椎名外相は平気な顔で、「失礼しました。それでは、番犬サマでございます」と言ってのけた」とのエピソードで知られています(永田町時評』NewsSUN「昔「番犬」今「ご主人」:TPPで米国の「飼い犬」になりそうだ(No.1605)」)。

 この一種痛快なやりとり!

 なお、Webを見ると、この台詞はおおかた『政治家失言集』に入れられているようです。でも、どんなものなのでしょうね?

 たしかに、今なら、あっというまにネットで拡散して「アメリカ国務省から抗議がくる」かもしれません。しかし、日米安保条約での微妙な関係を見事に言いあてた名言とみなすべきでは?

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 とは言いながら、念のため、本来原典にあたるべきかと思って、調べるとなんと議事録がWebで公開されています(第51回国会 外務委員会 第5号昭和41年3月18日)。下に再現しますが、世上に流布されている問答よりも、さらに蘊蓄に富む台詞かもしれません。

 岡(良一;日本社会党):しかし、新聞の伝えるところでは、核実験は)アメリカは公表されたものでも70回、またソ連は探知されたものでも5回以上というふうな数字が出ておる。おそらくそれは最低の数字だと思います。

 こういうわけで、この部分的核停ができても、やはり地下においては新しき核兵器の開発が進められておるという現状なんです。そのような悪循環を一体どうして断ち切るか、これが今日世界の人類に与えられた大きな使命でなければならぬ。特に唯一の被爆国である日本にとっては当然な権利ともいえる、崇高な義務ともいえる。(略)

 こういう日本が長崎やあるいは広島の大きな犠牲を払ったこの核兵器、これを日本の平和の守り神として神の座につけておる。こういう矛盾した政策、方針、態度というものが、一体、政府としての国民に納得の与え得る姿勢であるかどうか、ここが私は問題にしたいところだ。それが正しい方法だと外務大臣は言われるのですか。

椎名(外務大臣):核兵器のおかげで日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持では私はないと思う。

 ただ外部の圧力があった場合にこれを排撃するという、いわば番犬――と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、そういうようなものでありまして、日本の生きる道はおのずから崇高なものがあって、そしてみずからは核開発をしない。そして日本の政治の目標としては、人類の良識に訴えて共存共栄の道を歩むという姿勢でございます。

 ただ、たまたま不量見の者があって、危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言ってもいいかもしれません、番犬様ということのほうが。そういう性質のものであって、何もそれを日本の国民の一つの目標として朝夕拝んで暮らすというような、そんな不量見なことは考えておらないのであります。

岡:しかし大臣の先ほど来言われたことは、核兵器を神の座につけると言ったのに対しあなたはお灯明と言われたが、核兵器に日本の安全を依存せざるを得ないということを認められておる。したがって、依存しておる、こういうことだけは間違いはないのでしょう。

椎名:遺憾ながら現実の世界においては依存せざるを得ない、こういうことであります。

 皆さん、どうお感じですか? このやりとりからほぼ50年を経て、とことんの現実主義者として日米関係(というよりも、発言からすればアメリカがもたらす「核の傘」)を「番犬様」と形容した椎名のセンスについて。

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 この椎名悦三郎は東大法学部卒業後、1923年に農商務省入省、商工省分離後は、あの“昭和の妖怪”こと岸信介(その後、第56-57代首相、安部現首相の祖父)の下で満州国統制科長・産業部鉱工司長を歴任、帰国後、商工省産業合理局長等を経て軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下の統制経済に活躍、商工大臣・軍需次官の岸を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称されたとのことです(Wikipediaより)。

 いわゆる55年体制が旧満州国以来の統制経済の末裔とすれば、まさに戦後日本の基本設計のご本家とでもいう存在です。満州では椎名の兄貴分だった岸の『岸信介の回想』では、満州産業開発5ヵ年計画に関連して登場します。

 岸は「いずれ自分が行ってやらなければいかんというのが私の考え方だった」が、とりあえず(商工省の部下だった椎名に)「君のところで連れて行きたいヤツは俺が口説いて連れて行かせるから、一つ先にいってくれないか」ということで、彼を口説いて言ってもらったようなわけです。それで、みんないいヤツを送り届けたから、全部帰ってきたでしょう。それが商工省の商工行政の首脳部になっているし、後で私も一緒だった」と説明しています(講談社学術文庫版『岸信介の回想』)。これもまた岸のリーダーシップの発揮というべきでしょう。

 ちなみに岸は椎名について「あれは事務官よりは上になるほど、その特色をあらわした。事務官じゃあ、有能な事務官じゃない(笑)」評しながら、「戦後に椎名君が外務大臣にされたでしょう。私も心配したんだ。外務大臣が務まるかとね。そういう方面をやったことはないし、身だしなみも外務大臣らしくないし外国語も得意じゃないと思っていた。だけれども、戦後の外務大臣として一番の名大臣は椎名だと言うことになっているんだ。つまりね、外務省の役人を実にうまく使ったんだなあ」「えらい人をくっていたね。ちょっとじゃないよ(笑)」と評しています。

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 その岸が満州から帰ってきて、1940年に近衛内閣で商工次官に就任、直属の小林一三商工大臣と衝突した一件について、『岸信介の回想』で「小林さんは面白い人で、私が大臣室に挨拶に行くと、いきなり、「岸君、世間では小林と岸とは似たような性格だから、必ず喧嘩をやると言っている。しかし僕は若い時から喧嘩の名人で、喧嘩をやって負けたことはない。また負けるような喧嘩はやらないんだ。第一、君と僕が喧嘩して勝ってみたところで、あんな小僧と大臣が喧嘩したと言われるだけで、ちっとも分がない。負けることはないけれど、勝ってみたところで得がない結果はやらないよ」。これが次官を呼んでの大臣就任の初対面の挨拶だった(笑)。私もそれは大変結構な話で、そういうことなら仲よくやりましょうと答えたけれど、言讖(しん)をなすというが、後に私が小林さんと喧嘩するようになってしまったことを思うと、実におかしなことですね」と回想しています。

 結局、ソ連にならって計画経済に邁進しようとするこの革新官僚岸信介と、自由経済の信奉者小林一三はあっというまに激突、岸によれば「産業統制に対する案である「経済新体制確立要綱」が企画院でできていて、(小林はその間、蘭印に出張中)それで私は帰ってこられてから小林さんのお留守にこういうことになりました、ですが、これは重大なことだからご報告しますと言ったら、小林さんは、その話は聞かんぞ、わしにはわしの考えがある、ということで私の説明を聞こうとしない。ところが数日後に工業倶楽部で、小林さんは、経済新体制の考え方、あれはアカの思想である、役人の間にアカがいるという話をしたのですね」というやりとりに続きます。

 小林から辞職を迫られた岸は、自分を次官におさめた総理大臣近衛文麿に頼ろうとしますが、「その時、近衛さんというのはやはり政治家だな、政治家とはこういうものかと思ったことがある」と続けます。

 「実はこういうことで小林さんから辞めろといわれた。しかし組閣の時に総理のお言葉もあったし、ご意見を聞かないで勝手に辞めるわけにもいかないと思う。すると、近衛さんは「そうですね、やはり大臣と次官が喧嘩をしてもらっては困りますから、そういう場合には次官に辞めてもらうほかないでしょう」(笑)。それで、「かしこまりました」ということで辞表をだしたのですよ。政治家とはこういうものか、俺はやはり若いのだなとしみじみ感じたことがある」とこの話は結ばれます。

 時に小林一三68歳、岸信介45歳(昭和の妖怪もまだ若かった!)、近衛文麿50歳、それにしてもこの4年後には敗戦を迎え、近衛はA級戦犯裁判を厭って自決、岸は収監後に不起訴、やがて政治家として復活、かつて開戦にまでいたった米国との間に日米安全保障条約を結ぶ。そして、小林は公職追放後、阪急に復帰、というそれぞれの道筋をまだ予想だにできない頃の話です。

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 それでは、最後に『岸信介の回想』から一つ。

 かつて鈴木商店をきりまわした金子直吉について、岸信介の回想談の席に同席していた矢次一夫が「戦時中、あなた(岸)が軍需省時代に椎名君が総動員局長だったでしょう。そのとき金子直吉さんに経済顧問に頼むということでどうかと僕に相談しに来たことがある。それで金子さんに会ったことがあるが、相手(金子)はよく考えていてね、私は自由経済の人間だから、この厳しい統制経済の中では手も足も動かすことはできないから、ご遠慮すると、そういわれたことを思い出した」と回想します。

 かつては日本のGNPの一割を鈴木商店一社でかせいだという金子直吉、上記の小林一三といい、皆さんやはりそれぞれに“人物”だったようです。

総合政策の名言集Part15:夢もなく、怖れもなく(Nec spe nec metu):女性のキャリアを突き詰めた時

2013 10/18 総合政策学部の皆さんへ

 本日のテーマである「夢もなく、怖れもなく(Nec spe nec metu)」とは、イタリア・ルネサンス期の女性の理想像の一つ、マントヴァ侯爵夫人イサベッラ・デステの書斎にかかげられたモットーです(塩野七生『ルネサンスの女たち』中公文庫版)。

 “夢”もない、しかし、何ものにも“怖れ”もない。自分が生きている時代を生き抜くことができる者だけが持つ矜恃があふれている言葉ですが、同じ時代、神権よりも俗権=剣を選んで挫折したチェーザレ・ボルジア、神権によって俗権までも支配しようとしたユリウス2世、そして“国民国家”という(数百年後に実現する)共同幻想を夢見て、国民皆兵まで試みたマキャヴェッリたち、夢をおいかけてそれぞれ挫折する男たちに対して、「時代を超えもしなかったが、時代に流されることもなかった塩野七生)」彼女の人生を象徴する言葉でもあります。あの現実主義に徹し切ったキッシンジャーならば、どう評価するところでしょうね?

 ちなみに、このルネサンスの高名な(しかし、あまり懐が豊かではなかった)パトロンの一人、イザベラ・デステが、かの巨匠ティツィアーノに初老の顔を写実的に描かれて激怒し、(40歳も前の)16歳の顔に書き直させたという有名な肖像がこちらです。

 アガサ・クリスティも生涯、30台の頃の顔写真で押し通したと聞いていますが、似たようなものかもしれません。16歳と言えば、エステ家からマントヴァ公爵家の侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚した時のころですね。

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 さて、イザベラは一時期、レオナルド・ダ・ヴィンチを迎え、肖像画を描かせようとしますが、スケッチしか描いてもらえなかった、ということを塩野七生はちょっと皮肉っぽく『ルネサンスの女たち』に書いていますが、その絵がなんと見つかったというニュースがしばらく前に流れていました。

 「4日付イタリア主要紙コリエレ・デラ・セラなどは、同国の巨匠レオナルド・ダビンチ(1452~1519年)が描いた新たな肖像画がスイス北部で見つかったと報じた。最終的な確認はされていないものの、鑑定した専門家は同紙に「弟子が加筆しているが、ダビンチの作品だということに疑問の余地はない」と述べた」(MSN産経ニュース、2013年10月4日)

 新たな作品とされるのは、イタリア北部のマントバ候妃イザベラ・デステを描いた油絵。ほぼ同じ構図で、1500年前後に描かれた木炭画の習作がルーブル美術館に収蔵されているが、これまで彩色された絵は存在しないとみられていた。スイス北部トゥルギ在住のイタリアの名家のコレクションの中から、数年前に発見された。サイズは縦61センチ、横46・5センチで、1513~16年ごろに描かれたとみられる

 本当ならば大発見というところですが、写真を見る限り、これまで知られていたスケッチの構図と同じようです(http://sankei.jp.msn.com/world/photos/131004/erp13100422590003-p1.htm)。

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 そのイザベラへの評価ですが、Wikipediaでは

1500年にフランス王ルイ12世とミラノ公国で会談しフランスとマントヴァとの間に不可侵条約を結ばせることに成功するなど、当時のイタリア情勢で大きな政治的、外交的手腕を発揮した

イザベラは芸術を庇護し、その最先端のファッションはイタリアのみならずフランス王宮の女性たちにも大きな影響を与えた。詩人ルドヴィーコ・アリオストは「自由達で高潔なイザベラ」と賞賛し、マッテオ・バンデッロ  は「最高の女性」と評している。さらに外交官ニッコロ・ダ・コレッジョはイザベラを「世界一のファーストレディ」と高く評価した」とベタほめです 。

 「見果てぬ夢」など追い求めず、かといってチェーザレ・ボルジア、ユリウス2世(夫フランチェスコが対ヴェネツイア戦で捕虜となったとき、味方のはずの教皇と互いの個別利害のために対立、「あのブッターネめ!」とユリウスがののしった、というくだりは是非『ルネサンスの女たち』をご参照下さい)、イル・モーロ等煮ても焼いても食えない男たちに「恐れもなく」対峙する。ルネサンス期の女性のキャリアとすれば、最高かもしれません。

 同時に、イザベラの愛する弟、フェラーラ公アルフォンソ・デステの2番目の妻、チェーザレ・ボルジアの妹、ルクレチア・ボルジア(つまり、義妹にあたるわけですが)が、自分の夫フランチェスコと不倫の関係になってしまう。そして、そのルクレチアは、あらかたの評判とは別に、それなりの才能の持ち主であり、こちらもまたルネサンス期の女性のキャリアをそれなりにつきつめた存在だった、というあたりも現代から振り返ると、非常に微妙なところです。

総合政策学部の名言集Part14:赤塚不二夫の二つの原稿、メンデルスゾーン、そしてヘミングウェイの失われたスーツケース

2013 3/18 総合政策学部の皆さんへ

 今日は総合政策学部15回目の卒業式の日です。卒業生の皆様には、心から「おめでとうございます」とごあいさつしてから、久しぶりの名言集として、まず、最近Webで目にした漫画家故赤塚不二夫の話から始めましょう。

  『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』等で知られる赤塚ですが、ある日とんでもないことが出来します。赤塚が編集者に手渡しした『天才バカボン』の原稿を、その編集者がタクシーに忘れて、どうしても見つからない、印刷所に渡す期限は明日なのに(週刊誌ですから、スケジュールはいつも火の車です)!

 切羽詰まったその編集者が赤塚に泣きつくと、赤塚は悠揚迫らず、「ネームがあるからまた描ける」と答え、続けて「まだ少し時間がある。呑みに行こう」と(編集者を慰める意味もあり)告げたのだそうです。酒席から戻った赤塚は数時間で原稿を作りなおし、「2度目だから、もっとうまく描けたよ」と渡したそうです。

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 実は、これにはさらに後日談があり、最初の原稿がタクシー会社から戻ってきます。すると、赤塚はその編集者に「2度と同じ失敗を繰り返さないように、おまえが持ってろ」と渡します。編集者はその後35年にわたって大事に保管していたのですが、赤塚の死後、原稿を遺族に返します。

 こうして『天才バカボン』の原稿が二つ残されることになります(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1212/31/news003.html)。

 さすが、『天才バカボン』の決め台詞、「これでいいのだ!」を地でいく赤塚の真骨頂ですが、ここでふと気になるのは、二つの原稿はどこが違うのだろう? どのぐらい「うまく描けたのかな?」と、興味がわかないわけでもありません。

 何より、音楽家メンデルスゾーンの有名なエピソードを思い出してしまいます。Wikipediaによれば、メンデルスゾーンは「早熟の天才であり、一度見た楽譜、一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を有していたと言う。

 伝承されている逸話の1つとして、彼の代表作の1つである「『夏の夜の夢』序曲」の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものがある。後に初稿の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、後は、完璧に同じだったという。

 その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている」とのことです。

 こうなると、我々凡俗の徒が及ぶところではありません。

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 一方、永遠になくしてしまった原稿という点では、ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイの若き、無名の頃の挿話も頭をよぎります。1922年12月、まだ無名のジャーナリストとしてパリに暮らす作家志望の青年ヘミングウェィは、仕事でローザンヌに出張します。

 妻ハドリーは、夫を驚かせようと書きためた原稿(そして、そのカーボンコピーまで)をスーツケースに詰めて合流しようとしますが、その途次、リ・ヨン駅でスーツケースごと盗まれてしまいます。ヘミングウェィの“スーツケース盗難事件”、20世紀アメリカ文学の1ページを占める文学上の有名事件です。

 かろうじて手元に残った原稿はたった2つ。他の原稿すべてを、カーボン・コピー(いわゆるcc)までなくした(したがって、復元はもはや不可能)彼はショックで絶望します。ちなみに、彼がスペイン、パンプローナの闘牛をめぐって展開する男女の恋のもつれを描きながら、“ロスト・ジェネレーション”という決定的なキーワードを人口に膾炙させる傑作『日はまた昇る(The Sun Also Rises)』で文壇にデビューするのは1926年10月、まだ4年の雌伏の時が必要でした。

 そして、へミグンウェイはハドリーと1927年4月離婚、二番目の妻ボーリーン・ファイファーと再婚します。

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 ところで、この『日はまた昇る』というタイトルは、旧訳聖書『コヘレトの言葉』からの引用ですが、皆さんには是非コヘレトの書を拝読されることをお勧めします。

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
 コヘレトは言う。なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。
   太陽の下、人は労苦するが
    すべての労苦も何になろう。
     一代過ぎればまた一代が起こり
      永遠に耐えるのは大地。

日は昇り、日は沈み
 あえぎ戻り、また昇る。
  風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
   風はただ巡りつつ、吹き続ける。
    川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
     どの川も、繰り返しその道程を流れる。

何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
 目は見飽きることなく
  耳は聞いても満たされない。
   かつてあったことは、これからもあり
    かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。
 見よ、これこそ新しい、と言ってみても
  それもまた、永遠の昔からあり
   この時代の前にもあった。

昔のことに心を留めるものはない。
 これから先にあることも
  その後の世にはだれも心に留めはしまい。(新共同訳)

 最終的に(自分の父親と同様に)銃による自死という形で、自分の人生に決着をつけたヘミングウェイの人生を暗示しているかのようにも感じられないわけではありません。

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 さて、この“スーツケース盗難事件”が果たして、ヘミングウェイのその後の作家生活にどんな影響をあたえたか? そちらの方がむしろ問題だ、ということに気づかれた方がおられれば、気づいたあなたは文学的素養がある、と言っても良いかもしれません。

 この件でちょっとウェブを流し読みすると、たいていは「この事件は、結果的に、彼に幸いした」「新しい方法を見つけた」という風に書いておられますね。皆さん、ポジティブですね。

  実は、ヘミングウェイに最初にそれを指摘したのは、“フルリュース街のマザー・グース”ことアメリカ出身の女流小説家ガートルード・スタインで、彼女は絶望にうちひしがれて慰めにもらいに来たヘミングウェイに「若書きの作品をなくしたのは、かえって良かったのよ」と指摘します(ガートルード・スタインについては「高畑ゼミの100冊Part7;芸術家たち『アリス・B・トクラスの自伝』」をご参照して下さい)。

 いずれにしても、ヘミングウェイはやがてハードボイルドと呼ばれる、文体も含めた一つのカテゴリーを確立していくことになります。例えば、ある日、ヘンリー食堂に黒ずくめの二人が現れ、注文したハム・エッグスとべーコン・エッグスを食いらげてから、散弾銃も持ち出して、店員たちを静かに脅し始めます。

「おい、兄ちゃん、おれに話してみな」とマックスが言って、「おまえ、これからどんなことが起きると思っているんだ?」
ジョージはなにも答えなかった。
「聞かせてやろうか」とマックスは言った。「おれたちは、スウェーデン人をひとり、ばらそうってわけよ」(中略)「おれたちは何でもしってるんだぜ、兄ちゃん」とマックスが言った。「何か他の話をしようや。おまえ映画は見にいかねえのか」
「たまにしかいきません」
「もっとたびたび見に行かなくちゃいけねえな。おまえみてえな兄ちゃんにはためになるぜ」

                 (『
殺人者たち』(1927年、大久保康雄訳、創元推理文庫版)

 これが85年後の今日まで、“殺し屋”のイメージを決定した瞬間です。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...