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総合政策学部の名言集Part14:赤塚不二夫の二つの原稿、メンデルスゾーン、そしてヘミングウェイの失われたスーツケース

2013 3/18 総合政策学部の皆さんへ

 今日は総合政策学部15回目の卒業式の日です。卒業生の皆様には、心から「おめでとうございます」とごあいさつしてから、久しぶりの名言集として、まず、最近Webで目にした漫画家故赤塚不二夫の話から始めましょう。

  『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』等で知られる赤塚ですが、ある日とんでもないことが出来します。赤塚が編集者に手渡しした『天才バカボン』の原稿を、その編集者がタクシーに忘れて、どうしても見つからない、印刷所に渡す期限は明日なのに(週刊誌ですから、スケジュールはいつも火の車です)!

 切羽詰まったその編集者が赤塚に泣きつくと、赤塚は悠揚迫らず、「ネームがあるからまた描ける」と答え、続けて「まだ少し時間がある。呑みに行こう」と(編集者を慰める意味もあり)告げたのだそうです。酒席から戻った赤塚は数時間で原稿を作りなおし、「2度目だから、もっとうまく描けたよ」と渡したそうです。

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 実は、これにはさらに後日談があり、最初の原稿がタクシー会社から戻ってきます。すると、赤塚はその編集者に「2度と同じ失敗を繰り返さないように、おまえが持ってろ」と渡します。編集者はその後35年にわたって大事に保管していたのですが、赤塚の死後、原稿を遺族に返します。

 こうして『天才バカボン』の原稿が二つ残されることになります(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1212/31/news003.html)。

 さすが、『天才バカボン』の決め台詞、「これでいいのだ!」を地でいく赤塚の真骨頂ですが、ここでふと気になるのは、二つの原稿はどこが違うのだろう? どのぐらい「うまく描けたのかな?」と、興味がわかないわけでもありません。

 何より、音楽家メンデルスゾーンの有名なエピソードを思い出してしまいます。Wikipediaによれば、メンデルスゾーンは「早熟の天才であり、一度見た楽譜、一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を有していたと言う。

 伝承されている逸話の1つとして、彼の代表作の1つである「『夏の夜の夢』序曲」の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものがある。後に初稿の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、後は、完璧に同じだったという。

 その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている」とのことです。

 こうなると、我々凡俗の徒が及ぶところではありません。

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 一方、永遠になくしてしまった原稿という点では、ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイの若き、無名の頃の挿話も頭をよぎります。1922年12月、まだ無名のジャーナリストとしてパリに暮らす作家志望の青年ヘミングウェィは、仕事でローザンヌに出張します。

 妻ハドリーは、夫を驚かせようと書きためた原稿(そして、そのカーボンコピーまで)をスーツケースに詰めて合流しようとしますが、その途次、リ・ヨン駅でスーツケースごと盗まれてしまいます。ヘミングウェィの“スーツケース盗難事件”、20世紀アメリカ文学の1ページを占める文学上の有名事件です。

 かろうじて手元に残った原稿はたった2つ。他の原稿すべてを、カーボン・コピー(いわゆるcc)までなくした(したがって、復元はもはや不可能)彼はショックで絶望します。ちなみに、彼がスペイン、パンプローナの闘牛をめぐって展開する男女の恋のもつれを描きながら、“ロスト・ジェネレーション”という決定的なキーワードを人口に膾炙させる傑作『日はまた昇る(The Sun Also Rises)』で文壇にデビューするのは1926年10月、まだ4年の雌伏の時が必要でした。

 そして、へミグンウェイはハドリーと1927年4月離婚、二番目の妻ボーリーン・ファイファーと再婚します。

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 ところで、この『日はまた昇る』というタイトルは、旧訳聖書『コヘレトの言葉』からの引用ですが、皆さんには是非コヘレトの書を拝読されることをお勧めします。

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
 コヘレトは言う。なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。
   太陽の下、人は労苦するが
    すべての労苦も何になろう。
     一代過ぎればまた一代が起こり
      永遠に耐えるのは大地。

日は昇り、日は沈み
 あえぎ戻り、また昇る。
  風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
   風はただ巡りつつ、吹き続ける。
    川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
     どの川も、繰り返しその道程を流れる。

何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
 目は見飽きることなく
  耳は聞いても満たされない。
   かつてあったことは、これからもあり
    かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。
 見よ、これこそ新しい、と言ってみても
  それもまた、永遠の昔からあり
   この時代の前にもあった。

昔のことに心を留めるものはない。
 これから先にあることも
  その後の世にはだれも心に留めはしまい。(新共同訳)

 最終的に(自分の父親と同様に)銃による自死という形で、自分の人生に決着をつけたヘミングウェイの人生を暗示しているかのようにも感じられないわけではありません。

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 さて、この“スーツケース盗難事件”が果たして、ヘミングウェイのその後の作家生活にどんな影響をあたえたか? そちらの方がむしろ問題だ、ということに気づかれた方がおられれば、気づいたあなたは文学的素養がある、と言っても良いかもしれません。

 この件でちょっとウェブを流し読みすると、たいていは「この事件は、結果的に、彼に幸いした」「新しい方法を見つけた」という風に書いておられますね。皆さん、ポジティブですね。

  実は、ヘミングウェイに最初にそれを指摘したのは、“フルリュース街のマザー・グース”ことアメリカ出身の女流小説家ガートルード・スタインで、彼女は絶望にうちひしがれて慰めにもらいに来たヘミングウェイに「若書きの作品をなくしたのは、かえって良かったのよ」と指摘します(ガートルード・スタインについては「高畑ゼミの100冊Part7;芸術家たち『アリス・B・トクラスの自伝』」をご参照して下さい)。

 いずれにしても、ヘミングウェイはやがてハードボイルドと呼ばれる、文体も含めた一つのカテゴリーを確立していくことになります。例えば、ある日、ヘンリー食堂に黒ずくめの二人が現れ、注文したハム・エッグスとべーコン・エッグスを食いらげてから、散弾銃も持ち出して、店員たちを静かに脅し始めます。

「おい、兄ちゃん、おれに話してみな」とマックスが言って、「おまえ、これからどんなことが起きると思っているんだ?」
ジョージはなにも答えなかった。
「聞かせてやろうか」とマックスは言った。「おれたちは、スウェーデン人をひとり、ばらそうってわけよ」(中略)「おれたちは何でもしってるんだぜ、兄ちゃん」とマックスが言った。「何か他の話をしようや。おまえ映画は見にいかねえのか」
「たまにしかいきません」
「もっとたびたび見に行かなくちゃいけねえな。おまえみてえな兄ちゃんにはためになるぜ」

                 (『
殺人者たち』(1927年、大久保康雄訳、創元推理文庫版)

 これが85年後の今日まで、“殺し屋”のイメージを決定した瞬間です。

高畑ゼミの100冊Part24:「それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ!」スタインベック『キャナリー・ロウ』を中心に#1

2013 1/21 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは“真実”を愛していますか? ということで、本日のテーマは“研究”にとっては必須のはずの“真実”、そして人々はそれを愛しているか?

 この話題について、カリフォルニアモントレー湾に望むキャナリー・ロウのパシフィック・バイオロジカル・ラボラトリーズの経営者にして、ノーベル文学賞受賞者スタインベックの無二の親友、そしてキャナリー・ロウ(缶詰横町)の賢人“ドク”こと、エド・リケッツの話から始めましょう。なお、引用元はジョン・スタインベック著(吉村則子・西田美緒子訳)『コルテスの海』工作舎)です。

 ある時(それは1929年の大恐慌から1939年に始まる第2次大戦までの間かと思いますが)、キャナリー・ロウ一帯を不測の災難が襲います。エドの不幸な事故死後(1948年)、彼との共著『コルテスの海』に付け加えた長い序文で、スタインベックはこう切り出します。

 「ある晩、海岸地域全域で電流の調子がおかしくなり、普段は220ボルトのところを突然2000ボルトもの電流が流れたのだ。後に訴訟で電力会社に責任はないとの判決が下されたので神のなせる業としか言いようがない。その晩キャナリー・ロウの大部分があっという間に炎に包まれた」

 この「裁判で電力会社に責任がない・・・」とのくだりに、3・11以後の東電を重ね合わせるのも一つの考えかもしれませんが、それはさておき、当然、訴訟が起こります。

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 研究所が炎に包まれ、着の身着のまま車であわてて逃げ出したため、(ウムラウトも特殊記号もそろった)特注のタイプライターしか持ち出せず、スタインベックの筆では「ズボンはなくしたが、足とペンだけは確保できたというわけだ」というエドも、もちろん原告に参加します。実は、話はここからです。

 「エドは博学だったにもかかわらず、いや、おそらく博学だったからこそ、天真爛漫な面も持ち合わせていた
 
 エドは裁判所に赴き、原告として、事実をそのまま完璧に証言します。もちろん、科学者として真実を愛し、信じる者としてです。そして、エドは
 
裁判と陪審に心を奪われて裁判所で長い時間を過ごすようになり、海洋動物の新種に対するのと同じ多大な客観的関心を法体系にも注いだ
 
 しかし、やがて、その結果を穏やかに、かつ、ちょっと驚いたという風情でスタインベックに語ります。
 
単純な問題でいともたやすく大間違いをおかすものなんだね。人間関係や財産にまつわるあらゆる問題で真実を見つけ出すためにこそ、法体系があるんだと思い込んでいたよ。いや、そんな印象を受けていただけかもしれないなあ。ある事実を忘れていた、というより考えてみたこともなかったんだ。原告側も被告側もどっちも勝ちたいんだという当たり前のことをね。そのために本来の目的はどっかに行っちゃって、都合のいい部分だけをことさらに強調するから問題の客観的事実は影も形もなくなる。火事の一件を考えてみればよくわかるよ」「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない、それどころか、真実に憎しみさえだいていたのさ

 私自身も含めて、皆さんはどう思います? 皆さんは真実を、たとえそれが自分にとっておぞましい、見たくもないものでも、愛せますか? 百歩譲って、たとえ真実を憎んだしても、それを受け入れることができますか?

 こうしてエドは自分の領分、研究室に立ち戻ります。スタインベックはこう書き添えます。

それは彼にとっては驚くべき大発見であり、考察の余地があった。真実を愛する彼は、他の人もみな真実を愛すると信じていたのだ。だがそうでないとわかっても嘆きはしなかった。ただ興味をそそられただけだっ

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 真実さえ憎む、あるいは、ひょっとして真実だからこそいっそう憎む。私にも、あなたにも、覚えのあることかもしれません。

 こうした人たちは、どうやら何時までたってもいなくならないようです。例えば、ヒトラーはその死の際にも、ナチス・ドイツが敗北したという事実は認めたとしても(なにしろ、そこらへんに爆弾は破裂し、砲弾はうなる状況下、彼の肉体を守るのはただただ総督官邸の地下壕のコンクリートの天井だけ。ただ、その天井もヒトラーの考えまでも守るわけにはいかない)、己の思想が否定されるべきものであるということは、決して認めはしなかったでしょう。

 世の権力者たちは、ある意味、何かを信じ込んでいるからこそ、政治的なパワーを得るわけですが、その埋め合わせとしてか、それが真実かどうか、問い直されることを拒否します。それは、おそらく、ラクに大量破壊兵器があるものと信じ込んでいた某国元大統領も、そして彼に倒されるフセインも、どちらも同じ事なのかもしれません。

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 さて、エドは1948年4月、ポンコツの愛車でサザン・パシフィック鉄道のデルモンテ急行と踏切で衝突、重体の状態で、駆けつけた医師に尋ねます。

  「ひどいのかい?」とエドは尋ねる。
  「なんだか、なにも感じないような気がするよ」
   医者はエドの事を知っていたし、人柄も飲み込んでいたので、「まさにショック症だな」と言った。
  「そうか!」と答えたきり、エドの目は生気を失っていった。

 こうして、死の瞬間まで真実を愛したエドは、その数日後息をひきとります。

金環日食とラ・ロシュフコー、あるいは天文博士たち:“時”をめぐる人類学Part 2~理論と現実のすりあわせ~

2012 5/24 総合政策学部の皆さんへ

 先日は25年ぶりの“金環日食”ということで、日頃、天体にはあまり興味がない私も、ついつい観てしまいました。三田では朝の7時30分、幸いにもまあまあの晴れ。

 それにしても、TVや新聞で繰り返された「曇り空でも太陽を裸眼で探さないように」という注意に、かの17世紀のフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコー公爵の箴言をが頭に浮かびます。「総合政策のための名言集Part 1:勝海舟、永井荷風、そしてラ・ロシュフコー」ですでに触れていますが、改めて紹介しましょう。

太陽も死も、じっとみつめていることはできない(箴言26) 

 もちろん、前半生を絶対王政(というよりも、むしろリシュリューマザランという絶対的官僚制)との闘いのうちに、身も心も消耗しつくしたロシュフコーのセリフは“太陽”よりも“死”に重点がおかれているわけですが、それにしても、太陽光エネルギーの恩恵をうけながら、そのご本尊をまともに見つめることもない我々の日常の真理を、容赦なく指摘するセリフではあります。

 となれば、日食で何がみえるのか? あるいは何がわかるのか? 古来多くの呪術師、占星術師、(日本の)暦博士の類も含めて、多くの人々の興味を引き付け、あまつさえ、太陽系のシステムまでを理解するカギになってきた現象、それがこの日食です。

 例えば、紀元前624年~546年頃の古代ギリシアの哲学者ターレスは「特に測量術や天文学に通じており、ヘロドトスによればその知識を用いて日食を予言したといわれている。これは天文学上の計算から紀元前585年5月28日と考えられる」(Wikipediaより)。

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 講義においても時々説明していますが、自然科学はいわば理論(理論値)と現実(観察値、実測値、経験値)のすりあわせです。天体の運航を読みとることは専門家(陰陽師、天文博士、天文暦学者)しかできませんが、外れてしまうと、理論がまずかったことになる。

 例えば、江戸時代の天文暦学者、渋川春海は、碁と天文学を極め(どちらも、数学的センスが基本か?)、Wikipediaによれば「数学暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ」とあります。なんとなくすごい組み合わせですね。その彼が、現実とあわなくなった暦の改正に志します。なんと、800年も改正しないまま使われていた宣明暦はすっかり、ずれてしまったのです。

 これもいかにも日本的で、暦を革新する技術がともなわずに、自らイノベーションができないまま、旧来の権威を維持しようと現実を糊塗し続けてしまったのです(それも数百年間も)。結局、このブログでもしばしば登場する言葉ですが、平安朝に発達した特定の“家”と“職業”が連結する宮司請負制(かんしうけおいせい)の庇護のもと、暦の作成を独占する陰陽寮(設置は飛鳥時代にさかのぼり、廃止は実にご一新後の明治2年!)はその技術低下とともに、朝廷の権威も失われていく、そんな時代です。

 長峯先生や亀田先生が講義されているように、“独占”、とくに無能者による“独占”は良くない、ということになります。

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 もっとも、皆さん世界史などを履修されていたら、ご存じですよね。西欧でも、天体の運行はなかなか把握できず、太陽年をベースに1年を365日と定め、4年に1回、うるう年を入れて、平均年を365.25日とするユリウス歴を、カエサルが制定したのが紀元前45年1月1日。しかし、正確な太陽年は365.2424日のため、1年に11分15秒の誤差が生じ、それがつもりつもって、いつの間にか十数日もずれてしまうことになる。

 このため、1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世は閏年を400年に97回とするグレゴリオ暦を制定、誤差を修正します。ただし、カトリックに反対するプロテスタントや東方正教会等は「教皇が貧乏人から11日間(カエサルからグレゴリオの間にたまった誤差)を奪った」として、なかなか採用しなかったという歴史を。

 例えば、イギリスの劇作家シェイクスピアとスペインの小説家で『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスは、同じ1616年4月23日に死亡したことになっています。しかし、前者は英国国教会下で相変わらず使用されていたユリウス歴での日付で、グレゴリオ暦では5月3日となり、実際は別の日です。

  ちなみに、イランの詩人・天文学者のオマル・ハイヤームは、イスラーム世界での「暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった」(Wikipediaより)。これは、たしか、8回の閏年のうち、1回だけ閏年を5年間隔にするということではなかったでしょうか(オマルの傑作詩集『ルバイヤート』の訳者後記で読んだ記憶があります)。なお、この場合は、太陽年は365.24219858156日になるとのことです。そのうち、『ルバイヤート』も紹介しなければ。

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 さて、渋川がベースにしたのは、太陽暦ではなく(月の運行をベースに、太陽の動きで補正する)太陰太陽暦ですから、さらに話はややっこしくなります。当時、用いられていた宣明歴は(先ほども触れたように)実に800年以上前に唐の国から伝わっていた暦のため、当然、誤差が著しいものでした。そのため、その後中国で発達した授時暦に基づいて修正した暦なのですが、渋川はなんと日食予報にものの見事に失敗してしまいます(Wikipedia)。

 しかし、渋川はその失敗にめげず、さらに精進、現実と理論のすりあわせに努めて、日中の経度差等の観測値をベースに、授時暦を修正して大和暦(和暦貞享暦)を作成します(計測値による理論の修正ですね)。

  なお、受持暦での太陽年は(300年後のグレゴリオ暦と同じ)365.2425日とのことです。 の臣郭守敬らが受持暦制定の至元18年(1281年)当時、モンゴルという国際帝国のもと、イスラーム文化と中国文化の交流による暦法の進歩は、ヨーロッパを300年リードしていたわけですね。

 この1281年、イギリスのカトリック司祭でありながら、その広い学識で「驚異的博士」と呼ばれたイギリス実証主義の祖と言うべきロジャー・ベーコン(1214~1294年)が67歳(ベーコンはイスラーム文化圏のアラビア科学に親しんでいたといわれています)、コペルニクス的転回で世界の知識観を一新したニコラウス・コペルニクスが生まれるまであと198年、その後継者ガリレオ・ガリレイがコペルニクスの思想を支持したこと等によってローマ教皇庁より処罰を受けるのが1633年、受持歴の342年後(=渋川が貞享暦を作るのはその52年後)でした。

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 ところで、を支配することは、すなわち天と地の運きを手中におさめることであり、古来、権力者がその支配権を握ろうとしたものです。その典型は、ローマ帝国の創始者カエサルの名をとったユリウス歴です。なお、カエサルの名ユリウスは7月の名称Juliusとなります(=英語のJuly)。そして、彼の甥で後継者のオクタウィアヌスは、アウグストスとして8月=Augustとなります)。

 日本史では、皆さんご存じの織田信長が朝廷の権威低下と暦の混乱について、現実を重んじる民間業者の立場から、朝廷に申し入れをおこないます。これについては、Wikipediaの「改暦」の項を紹介しましょう。

  逆に改暦が実施されなかった例として著名なのは、天正10年(1582年)の例である。応仁の乱以後、陰陽寮及び暦道の権威は低下して各地で民間暦が作成されるようになった。ところが、天正9年(1581年)に陰陽寮が作った翌年の京暦は次の閏月を翌々年すなわち天正11年(1583年)の閏1月としたのに対して、東国で広く使われていた伊豆国の三島暦は、天正10年に閏12月を置いたことから2種類の暦が生じることとなった。

 織田信長の本国尾張国の暦業者がこれに困惑して、安土城の信長に閏月を天正10年閏12月に統一して欲しいと要請した。このため、信長は陰陽頭土御門久脩を安土に呼び出して尾張の業者と論争をさせたところ決着が付かず、最終的に信長の判断で閏月を12月に置くように決定して朝廷に要望を行った。信長はその後、近衛前久を通じて朝廷との調整に当たらせていたが、毛利輝元討伐のために上洛した6月1日に再度この話を公家衆に持ち出した。このため、勧修寺晴豊は日記に「無理なる事と、各申すことなり」と記している。

 翌日、本能寺の変が発生して信長は横死したこともあり、この件は有耶無耶のうちに終わった。だが、このために三島暦を用いていた北条氏や上杉氏、里見氏などでは京都とは違う閏月を採用したため混乱が生じ、特に信濃国では北部の真田氏・蘆田氏が三島暦を、南部の諏訪氏・小笠原氏が京暦を採用したために、同じ令制国内で2つの月が存在するという異常事態となった。

 なお、この改暦については信長が地元尾張の業者に配慮したものであるとか、朝廷を軽んじていたという解釈で片付けられる問題ではなく、京暦と同じ閏12月を設定していた民間暦の大宮暦との問題ではあるが、北条氏でも同じ領内で頒暦された三島暦と大宮暦の閏月が違うために同様の問題が浮上した際に北条氏政が算術に精通した重臣安藤良整に再計算させたところ、京暦や大宮暦の閏12月は間違いで三島暦の閏1月が正しいとしている(『北条五代記』・『新編武蔵風土記稿』)。

 更に京都でも貴船神社の神託として京暦の1月を人々が無視して閏1月(三島暦の1月)に正月祝いをしたという(『御湯殿上日記』)。結果的に改暦を避けたことで朝廷・陰陽寮の権威は傷つけられることになったのであった。

 こうして、暦に関する理論と現実のすりあわせに苦闘する研究者たちと、見事に暦を作り上げることで守られ、かつ失敗することによって地に落ちる政治的権力の権威、そしてそれを抜け目なく簒奪すべく動く下剋上の者たち、これらがうごめくドラマこそが“暦”をめぐる人類学の真骨頂といえるでしょう。

総合政策学部の名言集Part13:クールに行こう!

2012 5/3 総合政策学部の皆さんへ

 最近、“クール”という言葉が流行りというか、“良い意味”に使われがちです。社会言語学の対象ともなるかもしれません。

 この由来はというと、「もとはアフリカ系アメリカ人のブルーカラー層が「イケてる」「カッコいい」といった意味で使っていた俗語だったものが、20世紀末になって広がり、日本などを初めとする英語圏以外の文化圏でも広く使われるようになったといわれている(Wikipedia、もともとの原典は上條典夫『ソーシャル消費の時代‐2015年のビジネス・パラダイム』)。

 そう言われて私の乏しい知識をさぐると、確かに二グロ・リーグ時代の大選手クール・パパ・ベルを思い出します。この“クール・パパ・ベル”、本名ジェームス・トーマス・ベルですが、本人が「私を本名で呼ぶ人など、一人もいなかった」と言うほどです。

 このあだ名は入団早々に試合に出場が決まった彼に、監督が「あまりカッカしないで落ち着いてやることだ」とさとすように言ったところ、「大丈夫です。私はこれまで多くの観客の前でプレーしてきましたから」とすまして答え、監督が「あいつは、凄くクールだ。ただ者じゃない」とうなったところから始まるとのことです(佐山和夫『黒人野球のヒーローたち』中公新書1176より)。

 1903年生まれのベルですから、この逸話は1922~24年頃か? その頃すでにアフロ・アメリカンの世界では“クール”がほめ言葉になっていることが感じ取れます。ベルはその後、1946年までニグロ・リーグで選手を続け、ダイヤモンドを12秒で一周、200試合で175の盗塁を決め、生涯通算打率は3割3分7厘とも3割4分1厘とも言われています。

 とくにメジャーリーグとのエキシビション・ゲーム(正規のチームがニグロ・リーグと戦って敗れれば恥ということで、公式ゲームの形をとらなかったわけですが)では打率3割9分1厘、1974年にはセンターとして堂々の野球殿堂入りを果たします(メジャー・リーグが黒人選手を受け入れたのは、1947年のジャッキー・ロビンソンブルックリン・ドジャース入りですから、ベルはついにメジャー入りを果たすことはありませんでした)。

 なお、クール・パパ・ベルの俊足ぶりをたとえて「部屋の明かりを消してから、部屋が暗くなるまでの間にベッドに入ることができる」というセリフがあるそうですが、これは同時代に活躍したこれも二グロ・リーグの大投手サッチェル・ペイジが冗談交じりに発した言葉とのこと。

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   ところで、“ニグロ・リーグ”とは何か?

 上記ジャッキー・ロビンソンまでメジャーリーグから締めだされていたアフロ・アメリカンの選手を中心に、20世紀前半に存在していたプロ野球機構です。資本主義社会アメリカにおいて、アフロ・アメリカンの人口がそれなりにあれば、選手も観客もアフロ・アメリカンで運営することも商業ベースで成り立つということです(佐山、前掲書)。

 これはスポーツ社会学の対象であり、あるいはベンチャービジネスのケース・スタディかもしれませんね。

 まずアマチュア時代を経て、アマ選手の中から主催者(プロモーターですね)とプロ契約を結ぶ者があらわれるプロ化の時代(それは同時にメジャー・リーグ経営陣から契約を拒まれ、白人ベースの野球の世界から排斥されていく時代でもあります)、やがてアフロ・アメリカンの観客を対象として巡業するプロ・チームが結成される。さらにプロチームが集まって、1923年以降に二グロ・ナショナル・リーグとイースタン・カラード・リーグによる2リーグ制が開始されます(Wikipedia)。

 こうして上記クール・パパ・ベル、サチョエル・ペイジ、ジョッシュ・ギブソン等の大選手の輩出にともない、全盛期が訪れます。すると、(アフロ・アメリカンの大衆からの)収入に着目したメジャー・リーグはエキシビジョン・ゲームを提案、そこで完膚無きままに白人チームを破る、という筋書きです。

 実力で白人を上回る=20世紀初頭、白人たちにもっとも憎まれた黒人と言われているアフリカ系の初代ヘビー級チャンピオンジャック・ジョンソンが1908年に犯してしまった禁忌を、1920年代は野球場で実現できる!

 1930年、ペイジはメジャーリーグ選抜と対戦、22奪三振で完封を飾ります。もちろん、大衆は大喜びです。白人たちを、対等な立場で叩きのめすシーンを見ることができるわけですから。その18年後、ペイジは42歳でついにメジャー昇格、その年は6勝1敗、通算は28勝31敗、防御率2.48。46歳で12勝をあげ、59歳で最後の登板(=メジャー最年長記録)。

   なお、ジョンソンについてはWikipediaに「1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアシドニーでの試合に持ち込んだのである。試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。

 ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、見かねた警官が乱入して試合をやめさせた14ラウンドまでそれは続いた・・・ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた」とあります。

 しかし、ジョンソンの試合の30年後、ナチス・ドイツをはじめとするファシスト的風潮との戦いの象徴として、1938年にはドイツ人チャンピオンマックス・シュメリング(皮肉なことに、シュメリングは反ナチス派だったそうですが)とジョンソン以来のアフロ系チャンピオン“褐色の爆撃機(The Brown Bomber)”ことジョー・ルイスとの世紀の一戦に、アメリカは国をあげてルイスを応援します。さらに、その数年後、第2次大戦では白人・黒人がともになって枢軸国と戦うことになります。

 そして、戦後の1947年、ついにアメリカ資本主義者たちは二グロ・リーグの人材たちと、それを支えるアフロ・アメリカンたちのマーケットを無視できなくなる。こうしてジャッキー・ロビンソンのメジャー昇格によって、ニグロ・リーグからの引き抜き・昇格が始まりますが、それは同時にニグロ・リーグの消滅にもつながります。そして、現在、アフロ・アメリカンはおろかヒスパニック、カリビアン、エイジアンが入り乱れる現在のメジャー・リーグに変貌していくわけです。 

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 さて、“クール”を使った名文句を紹介すると、まず、これですね。

#51:Let’s everybody keep cool.

 1970年4月13日(アメリカ東部時間)、人類3度目の月着陸を目ざしたアポロ13号は、地球周回軌道を脱して月へめざす過程で、酸素タンクの爆発で突然のピンチにさらされます。原因もはっきりわからぬまま、急速に失われる酸素、低下する電力と室温、(私のうろ覚えの記録では確か)部品の信頼率を99.99997%にまで高めたはずのアポロ計画に起こった突然の事故(どんなものにも絶対安全ということはあり得ません)。

 ジェームズ・A・ラヴェル船長ジョン・L・スワイガート司令船操縦士、フレッド・W・ヘイズ月着陸船操縦士の3名はミッションをあきらめ、緊急措置として司令船から月着陸船に乗り換えて、地球への帰還に生命をかけることになります。しかし、そこには無数の、しかも、予想だにしなかった難問が待ち構えています・・・・という一連のやりとりはハリウッド映画『アポロ13』に活写されていますので、そちらをご覧ください。

 私は高校2年でしたが、事故発生から無事地球に着水する17日まで、世界がかたずを飲んで見守っていました。

 いずれにしても、無事に生還を期すにはあまりに過酷な状況下、地上の管制センターで懸命に宇宙飛行士をサポートすべき作業を開始しようとするその時、主席飛行管制官ジーン・クランツが発するのが、この“Let’s everybody keep cool.”です。「クールにいこうぜ!」とすべきか、「まず、頭を冷やそうぜ!」になるか、皆さんも、翻訳にチャレンジしてください。

総合政策の名言集Part 12:とどめをさすための決め台詞編

2012 4/23 総合政策学部の皆さんへ

 総合政策の名言集として、「相手を徹底的に痛めつける決め台詞」を紹介しましょう。
 
 となると、これは何と言ってもスティーブ・マックィーン(=威勢がよくて、観客誰しもが応援したくなる若造=ヒーロー)と老優エドワード・G・ロビンソン(=憎体な敵役、しかし、若造には越え難いパワーの持ち主=いわば実悪と公家悪の合体)がポーカーの大勝負で激突、若造の野望とその挫折を描いて余りあるノーマン・ジュイソン監督の1965年公開の映画『シンシナティ・キッド』から、数夜を費やす大勝負の最後の最後、若造“Cincinnati Kid”を完膚無きまま叩きのめした大物“The Man”がたたきつけるセリフを紹介しなければなりません。

  ただし、うろ覚えなので、正確ではありません。なお、このセリフは研究室ブログに既出です
 
#47:お前は強い。だが、俺が生きている限り、お前は2流だ!
 
 一度でよいから、こういうセリフを吐きたいものですが、しかし、逆に、言われる立場にはなりたくないですね。

  もちろん、The Manとて、このセリフは「ひょっとしたら、明日は立場が逆転し、自分の寝首を掻くかもしれぬ若いライバルを、この際、徹底的に再起不能におとしめる」ためのとどめであり、ある意味、自らの老いへの恐怖が言わせたものかもしれません。

  英語版Wikipediaでは、この映画のクライマックス、The ManKidの最後の勝負のやり取り(Final hand)が以下のように再現されています。ポーカーゲームに詳しい方にはお薦めです:

      With Lady Fingers dealing, the Kid is on the button. She deals Howard the 8♦ and the Kid the 10♣. The Kid bets $500 and Howard calls. Howard gets the Q♦ and the Kid the 10♠. The Kid bets $1,000 and Howard raises $1,000. The Kid calls. Lady Fingers deals Howard the 10♦ and The Kid gets the A♣.

     The Kid bets $3,000 and The Man calls. The Man’s final card is the 9♦; The Kid gets the A♠. The Kid checks. The Man bets $1,000. The Kid raises $3,500 and is all in. Howard reaches into his wallet and raises another $5,000 — with five $1,000 bills. The Man agrees to take his marker and the Kid calls the bet. Howard turns over the J♦ for a straight flush. The Kid turns over the A♥, to show his bad beat with a full house, Aces full of tens.

     Following the game, a gutted Kid leaves the hotel and loses a penny pitch to a shoe shine boy he’d beaten in the same contest at the film’s opening. Around the corner, he runs into Christian and they embrace. 

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 #47:“Nuts!”

 “Nut”と言えば英語で堅果(クルミやピカン、マカダミアナッツなどの堅い実のこと)ですが、“Nuts”となると微妙な意味合いがこもり、英語版Wikipediaでは“Slang for a person suffering from insanity/Slang term for testicle ”等とあります。つまり、ふだんあまり大声では叫ばない方が良さそうな言葉です。「くそったれ!」とでも意訳した方がよいかもしれません。

 これを叫んだのはGeneral Anthony McAuliffe、時は1944年12月21日、第2次大戦末期の西部戦線、ドイツ国境になだれ込もうとなだれ込もうとするアイク指揮下の連合軍は、窮鼠猫をかむの例え通り、クリスマスもほど近い厳寒のなか、ドイツ軍の反抗(バルジの戦い、アルデンヌ攻勢等と呼ばれますが)に直撃されます。

 とくに第82空挺師団と並ぶアメリカ帝国主義の文字通りの“先兵”第101空挺師団は、戦線維持のために前線に投入されるも、空軍の支援が期待できない荒天下、ドイツ国境に接するベルギーの町バストーニュでドイツ第XLVII装甲軍団に完全に包囲されてしまいます。絶体絶命のピンチです。

 しかも、師団長マックスウェル・テイラー(後年、陸軍参謀総長から駐ベトナム大使に転身、ベトナム戦争への介入にのめりこみ、アメリカを一敗地にまみれさせますが)スタッフ会議のため、本国に帰っていて不在。しかし、その代理アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告に対して一言、“Aww, nuts”と叫び、結局、返答にこの“Nuts!”を選びます。

 タイプされた公式文書は「To the German Commander, “Nuts!”」ですが、あまりのことに説明を求めたドイツ側に「第327グライダー連隊長は「地獄へ落ちろ!」という意味だ」と伝えます(Wikiepdia)。

 そして、その5日後、“戦争”というよりも“戦闘”にしか才がない(そして、自分も興味を持てない)アメリカ第3軍司令官ジョージ・パットンの命令下、クレイトン・エイブラムス中佐指揮の第4機甲師団第37機甲大隊がクリスマスの贈り物として、第101空挺師団救出に成功します。

  その救出劇の直前、12月19日連合軍総司令官アイゼンハワーはパットンに「どのぐらいの時間があれば軍を北方に向けられるか?」と尋ねたところ、パットンは48時間以内に可能である」と答えてます。

 「アイゼンハワーは「無茶なこと言うな!」と言い、準備が十分に整ってからで良いと言ったが実はパットンは会議に出席する前に北部に反撃する準備をしておくように部下に伝えてあり、尋ねられた時点ですでに局地的な反撃は行われ始めていたのである」(Wikipedia)。

 戦闘にしか能がないとはいえ、プロですね。このパットンの異常性格ともいうべき行状はフランクリン・J・シャフナー監督、ジョージ・C・スコット主演のハリウッド映画『パットン大戦車軍団(原題は“Patton”)』にあますことなく再現されています。戦争と平和に関心がある方は、ぜひ一見を。ちなみにこの作品はアカデミー賞7部門で受賞しますが、主演男優賞のスコットが受賞拒否という前代未聞の行動に出たことでも有名です。

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  さて、次にご紹介するのは、相手本人に言うのではなく、さりげなく第3者に述べる「とどめのセリフ」ですが、コナン・ドイル原作、かの名探偵シャーロック・ホームズの第2作『4人の署名』からです。ホームズを前に滔々と自説を吹聴するスコットランド・ヤードの刑事の言葉を拝聴したあと、ホームズは傍らのワトソンに、しかもフランス語でつぶやきます(阿部知二訳『四人の署名』角川文庫版より)。

#48:才気をてらう馬鹿ほど、しまつのわるいものはない

 これはもう説明が要りませんよね。こうしたウィットと限りない侮蔑を同時にこめた言葉としては、ほかに、19世紀末のイギリスの作家・詩人ワイルドのように

#49:あれはエゴのないエゴイストさ

 あるいは、同じ19世紀のフランスの評論家、サント・ブーブのように、こうつぶやいてもよいかもしれません(こちらもこの研究室ブログで既出ですが)。

#50:人々を軽蔑すると言うのは、まだ軽蔑の仕方が足りないからである。沈黙こそ、唯一至上の軽蔑だ。-と言う事だって既に言いすぎである。

もし昔の法皇様がTwitterを使っておられたら……:総合政策の名言集番外編

2010 12/23 総合政策学部の皆さんへ

  少し前の朝日新聞の国際欄に「ローマ法王ベネディクト16世は7日夜、バチカンにいながらにして、約200キロ離れたイタリア中部グッビオの丘に飾り付けられたクリスマスの照明をともした。使ったのはタブレット型端末。これがアップル社のiPadではなく、ローマ法王庁などによると、ソニーのタブレットSだった。このため、「法王様はアンドロイドに乗り換えたのか」と、ネット上で話題となっている」という記事が、しかも写真付きで出ていました。

 なんとなく、ほほえましいですね。と思いつつ、これではローマ教皇(法王)庁の広報部の宣伝に載せられただけ、とも思わないわけではありません。

 それで、突然頭に閃くのは、「もし昔の法王様がTwitterを使っておられたら・・・」という「もしドラ」の便乗版的タイトルです。例えば、中世カトリック社会の大立者中の大立者、アナーニ事件で憤死するボニファティウス8世が日ごろ“つぶやき”を発信されたら、どうなっていたでしょう?

 ある日、ボニファティウスは教会でイエス様に「私をお救い下さい」と祈っている男を目にして、叫びます。

阿保、うつけ!イエスは我らと同じただの人よ。我が身さえよう救わなんだ男が、他人のために何をしてくれようぞ!」(インドロ・モンタネッリ、ロベルト・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』)

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 「神の代理人」という公的イメージとは裏腹に、権謀術策渦巻く法皇庁で、何時も“本音”で勝負してきたボニファティウスですが(それゆえ、アナーニの屈辱も受ける羽目になります)、この本音を同時にTwitterでつぶやいていれば、宗教改革はもう少し早く訪れたかもしれません?!

 ということで、歴代の法王(教皇)が叫んだ“つぶやき”を紹介することにしましょう。すなわちヨーロッパの歴史における宗教と政治の狭間で心引き裂かれた方々の叫び=つぶやきであるのです。次は、ルネサンス期の軍人法王ユリウス2世です。この人の決め台詞は、なんと、

聖ペテロの豚野郎(ボルコ サン・ピエトロ)」(塩野七生『神の代理人』)

 1509年、自らが仕掛けた対ベネツィア討伐戦で、法王軍の主将マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガが寝込みを襲われ、ほとんど裸で逃げ出したあげくに、農民どもに捕まって、ベネツィア軍に引き渡され、捕虜になってしまったという知らせを耳にした時の罵り言葉です。

 それにしても、使徒たちのリーダーとして、また初代法王として尊敬にあたるはずの聖ペトロを“豚野郎”とののしるとは、コミック『チェーザレ-破壊の創造者』で、のちのアレクサンドロ6世と主人公チェーザレ・ボルジアに「成り上がり者」と馬鹿にされるローベレ枢機卿ことユリウス2世にいかにもふさわしいかもしれません。ちなみに“ボルコ”とは宮崎駿監督『紅の豚』の主人公の名前ボルコ・ロッソと同じですね。

 とは言え、このユリウス2世はその後法王の三重冠をいただくや、かのミケランジェロラファエロのパトロンとして、前者にはシスティーナ礼拝堂の天井画を、後者には自らの肖像を描かせた“目利き”なのです。対照的に、その後を襲う法王レオ10世、『チェーザレ』の最新刊ではまだぷくぷくとかわいいだけのジョバンニ・デ・メディチは、幼馴染のミケランジェロと肌合いがあわず、「あいつは人生を楽しめない奴だ」などと言っていたと云うことです。

◆そのシスティーナ礼拝堂の天井画の画像はこちらです。また、その20年後、今度はクレメンス7世の依頼で描く祭壇画「最後の審判」の画像はこちらです。 

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 さて、ユリウス2世は“本音”で勝負する人だけに、愉快な台詞に尽きることはありません。

 なにしろ、かの神にも紛ごうミケランジェロが上記の天井画を作成中、少しでも愚痴ったり、口答えしようものなら、「常に肌身離さぬ例の木杖を振り回し、「ぶっ叩くぞ」と脅しつけた」という方なのですから(『ルネサンスの歴史』より)。

 さらには近代的名君アルフォンソ・デステ支配下のフェラーラを(そのフランスよりの政策を嫌って)目の敵として、法王庁に謝罪のために派遣された16世紀イタリア最大の詩人の一人、『狂えるオルランド』の作者アリオストに激怒して「犬みたいに、テヴェレ河に投げ込んでやる」と脅しつけます。ちなみにローマ市内を流れるテヴェレ河は、人知れず暗殺・密殺された者が、見せしめのように浮かぶ河なのです。

 実はその少し前、1510年、フェラーラを攻略すべく、教会軍を動かしたユリウスはアルフォンソ・デステから反撃を受けて、八方ふさがりとなり、おまけに風邪をひいて高熱を出し、一晩中荒れ狂います。塩野七生が紹介するのはヴェネツィア大使の報告です、「パストールら、ジュリオ2世びいきの歴史家は、引用しない史料である」と付けくわえながら。

  • 一晩中法王は、毛布やシーツを搔きむしり、大声でわめきました。
  • 「死んでやる、死んでやる、死んでやるわあ!」
  • そして次にはこうわめきました。
  • 「フランス人にはオレが向かう、フランス野郎奴、オレ一人でも向かってやる!」
  • さらに続けて、
  • 「毒薬をよこせ! 毒薬をみんなにふり撒け!」
  • このようにして、法王は、一晩中怒り狂い、一睡もしませんでした(『神の代理人』)
  •  

 この軍人法王を恐れる枢機卿たちは当然、次の法王選挙を考え、法王の敵たちはユリウス2世の残された命脈を数え始めるのですが、しかし、何ということか、彼はその後すっかり回復、前述のように、アリオストを脅すことになるのです。

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 もちろん、こうした名言(迷)の数々は、彼ら法皇の個人的責任だけに由来するだけではありません。「神の代理人」としての宗教者の側面と、教皇(法皇)領の領主としての政治的側面の矛盾が、彼らをして世俗的な発言をすれば、神の世界から遠ざかってしまう。しかし、現実的な発言をしなければ生きてはいけぬ。

 この矛盾を解決するため、ユリウス2世の同時代人マキャヴェッリグィチャルディーニがやがて“政治学”を近代化していく、その過程とも言えるのです。

総合政策の名言集Part11:お金について

2011 8/4 総合政策学部の皆さんへ

 今回はおもむきを一転、“お金”についての名言集とします。となれば、トップバッターはイギリスの小説家・劇作家にして元諜報部員(第1次大戦中、れっきとしたMI6のメンバーで、ロシアの政治家ケレンスキーやテロリストサヴィンコフとも親交のあった)ウィリアム・サマセット・モームの自伝的回顧録『サミング・アップ(要約すると)』の名台詞から。

  • #44:「お金は第六感のようなもので、これがないと他の五感がうまく働かない」 
  •   

 説明は要りませんね? 皆さんも卒業して実社会に出たら、こんな軽妙な台詞がすらっと出るようにお願いします。なお、この五感とは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚をさすのだそうですが、もともとはギリシアの哲学者アリストテレスの指摘に由来するそうです(アリストレス先生は「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ」(2011/05/22投稿)で紹介のコミック『ヒストリエ』にも登場しています)。  

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  モームが1938年(つまり第2次大戦直前)に書きつけたこの台詞から11年後、戦後のアメリカで新興地カリフォルニアの匂いを発散させながら(しかし、実は、みんな第2次大戦での心の傷を負いながら)、「わたしはこれでも新しい型(タイプ)の探偵なんです」と自己紹介するハードボイルド派私立探偵リュー・アーチャーは、当然、“お金”という現実に直面します。

  アーチャーの初登場作『動く標的(The moving target)』の終末で、彼は依頼人(大金持ちの後妻)の義理の娘ミランダに面会します。そして、父親(大金持ち)が誘拐の末殺されたこと、殺したのは彼に使われていた法律顧問(実は、アーチャーのかつての上司)グレイブスで、そのグレイブスはその日そのミランダと結婚している!

 したがって、この殺しは究極のところ、金持ちに使われながらいつの間にか金に心を支配され、上を目指して這い上がろうとして(失敗した)グレイブスの野望からだと説明します。以下の会話は、名言というには少し長すぎますが・・・(井上一夫訳『動く標的』創元推理文庫版)。

  • #45「信じられないくらい醜いことね。
  •   どうしてあの人がそんなことをしたのか、わたしにはわからないわ」
  •  
  •  「金(かね)のためにやったのさ。・・・グレイブスも金なんかに眼をくれなかった時代があった。
  •  どこかほかの土地にいたら、彼もそのままでいられただろう。
  •  だが、サンタ・テレサでは駄目だ。この町では金が人生の血液みたいなものだ。
  •  金がなかったら生きてるといっても、半分死んでいるようなものだ。
  •  百万長者に雇われて、その金を吸いながら、自分に金がないということは、彼もいらいらさせられたろう。
  •  ところが急に、彼は自分も百万長者になる機会があるのに気がついた。
  •  そこで、彼は、自分が何より金を欲しがっているということに気がついたんだ」
  •  
  • 「いまのわたしの気持ちわかる?」彼女がいった。「わたし、お金と性(セックス)がなければいいと思うわ。
  •  両方とも、わたしにとっては好いものというより、厄介なことのほうが多いんですもの」
  •  
  • 「金が人間に悪い影響を与えるからといって、金のせいにするわけにはいかない。
  •  悪いのは人間のほうだよ。そういう人間は金に頼ろうとするんだ。
  •  人間は自分のほかの値打ちがなくなると、必死になって金を欲しがるんだ」
  •   

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  ハードボイルド派は現実に向き合うことで犯罪都市を生き延びるわけです。例えば、上記のミランダとの会話の前に、真相を彼女に告げるべきか一瞬迷ったアーチャーは、「ありのままの事実を話して、この場を切り抜ける」と決心します。しかし、そのためにこそ、彼らは様々な難題に直面します。

 真相をすべては明かしてくれない依頼人、何かあれば自分の懐を温めようとする関係者、自分の言い分を押し付けるだけの警察・・・・・そして、彼らの間に渦巻く欲望の対象、お金。

 『動く標的』登場の5年後、作者ロス・マクドナルドの先輩、レイモンド・チャンドラーが執筆した『長いお別れ』の、これも終末近く、探偵フィリプ・マーロウは金持ちの(しかし、魅力的な)女性リンダ・ローリングと、やはり“金(かね)”のことで話を交わします(清水俊二訳『長いお別れ』ハヤカワ・ミステリ文庫版)。

  • #46「わたしと結婚しようと思わない?」
  •  
  • 「6カ月とつづかないね」
  •  
  • 「つづかなかったからって、それがどうなの」と、彼女はいった。「試してみる価値があると思わない?
  •  あなたは人生をどんな風に考えているの。危険なことはなにもしないつもりなの」
  •  
  • 「ぼくはことしで42になるまで、自分だけを頼りに生きてきた。そのために、まともな生き方が出来なくなっている。
  •  その点では、君も少しばかりまともじゃない - ぼくと違って、金(かね)の為なんだが」
  •  
  • 「私は36だわ。お金があることは恥辱じゃないし、お金と結婚することだって恥辱じゃないわ。
  •  お金を持っているひとはたいていお金を持つ資格のないひとで、どんなふうにお金を使っていいかも知らないのよ。
  •  でも長いことはないわね。もう一度戦争があって、その戦争が終われば、泥棒といかさま師のほかはだれもお金なんか持っていないのよ。
  •  税金にみんなとられて、1文なしになっているのよ」 
  •   

 第2次大戦、そして朝鮮戦争を経て、アメリカが何処に行こうとしているのか? みんな金を素直に信仰できる世界に戻れるのか(ある意味、フォーディズムがまき散らす幻想ですが)? それとも、現実の汚辱から逃れられないか? あるいは自分の金を(税金から)守るか(アメリカで今はやりの“ティー・パーティ”ですね)? 

 半世紀を経て今読んでみると、蘊蓄のある台詞ばかりです。ちなみに、『長いお別れ』での決め台詞としては、以下を推奨するのが一般的です。

  • ギムレットには早すぎる
  • さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ
  •   

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  最後に、冒頭に紹介したサマセット・モームに戻り、『作家の手帳』からフランス領ギアナの監獄島(つまり、流刑地)の一つ、サン・ロウダン・ド・マロニでの囚人たちの会話からの一節をあげましょう。

 「きょうわたしは、終身刑の判決を下された囚人たちの、その殺人の動機のじっさいについて調べてみた。そうして驚いたことは、表面上はいずれも愛欲とか嫉妬とか憎悪とかにからんで、裏切りにたいする復讐心とか、たんなる衝動とかからの殺人なのであるが、さらにもう少しつっこんでみると、表面のすぐかげに大部分は金銭的な動機がひそんでいると結論しないではいられないことだった。わたしがしらべたうち、一人の場合をのぞいてどの殺人もみな、金の問題が根底だった」(中村佐紀子訳『作家の手帳』新潮文庫版)

総政のための名言集10:“それを言ちゃあ、お仕舞いよ”集

2011 7/8 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 名言集#10はむしろ“迷言集”、フーテンの寅さんの決めぜりふの一つ「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」と返すべき発言を集めましょう(なお、寅さんについては「住まいの人類学番外編:漂う者たちPart2:文化英雄としての“寅さん”、そしてその永劫回帰(2011/02/26投稿)」をご参考に)。必ずしも間違った意見ではないかもしれないが、相手がさらに逆ギレするだけ、そんな台詞のコレクションです。

#1:「投票したければ、金持ちになりなさい」

 19世紀のフランスの政治家・歴史家のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの名(迷)台詞です。なお、これは私の高校時代の参考書かなにかのうろ覚え、Wikipediaには「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ」となっています。

  7月王政下の首相に就任したばかりの1847年に起きた普通選挙を求める運動に対して言い放ったこの言葉は、民衆の激昂をあおるだけの結果に終わり、翌48年の2月革命を招き、国王ルイ=フィリップから罷免、とはいえルイ=フィリップもすぐに王位を追われ、ともども失脚の憂き目にあいます。Wikipediaでは「政治家としてよりは、歴史家としての評価のほうが高い」とありますが、いずれにしても、今日、”ギゾー”と言えばこの言葉で思い出されてしまう世紀の失言です。

#2:「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル

 明治24年(1891年、関西学院創設3年目ですね)、5月6日に第一次山縣内閣を継いだばかりの第一次松方内閣は海軍拡大等前年度比650万円増の予算案を提出します。

  これに対して、民党(自由党、立憲改進党等の流れをくむ民権派各党)が「民力休養・政費節減」を主張、海軍内の綱紀粛正を条件に、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万を削減した予算改定案を提出した際、の海軍大臣樺山資紀が激怒、 12月22日の衆議院本会議においてこの発言で反論、「薩長政府だとか、政府を批判するけれど、今日、国が安定しているのは、誰の功績だと思っているのか(=もちろん、我々薩長の功績だ)」という意味ですね。 あまりの高調子に野党は一斉に反発、“蛮勇演説”と呼ばれる破目に陥ります。

 この“蛮勇演説”については、「必ずしも見当はずれでもないが、口には出さない方が無難」という八幡和郎氏の評がぴったりです(『歴代総理の通信簿』から)。案の定、寅さんに「それを言っちゃあ、お仕舞よ」と言われかねないような、火に油を注ぐ結果となり(上記ギゾー君とおなじですね)、衆議院は改定案を主にした予算案を通過(つまり、海軍側の主張を全面否定)、これを受けて総理大臣松方正義は12月25日に初の衆議院解散を余儀なくされます。

  翌年2月15日の第2回衆議院議員総選挙では、品川弥次郎内務大臣が歴史に残る選挙干渉をおこない、死者25名、負傷者388名にのぼる大騒乱(選挙するだけで、人が死ぬ!)。大臣の辞任も相次ぎ、結局、第4代総理大臣松方正義はあえなく辞任に追い込まれます。

 なお、この松方内閣の陰の相談人に旧幕臣、当時枢密顧問官の勝海舟がいたようで、『海舟座談』で聞き手が「内閣があまりたびたび更迭するようですナ。松方内閣も、あまり脆うがんしたナ」(なんだか、現代の日本に通じるような)と水を向けると、

ナアニ早くよした方が良いのさ。去年の暮れ、ワシはそうすすめたのサ。『早くおよしなさい』ッテ。ダッテ、お前、あの人々がやり抜ける人々ジヤアないじゃないか。ウカウカすると、どうにもかうにもならないやうになってしまふのだから、『早くおよし、およし』と言ったのサ。どうせ誰が出てもみな同じことさ」と、松方の優柔不断ぶりをお見通しというところです。

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#3: 「貧乏人は麦を食え」

 これも有名ですね。第58~60代内閣総理大臣池田勇人が、1950年12月7月、第3次吉田(第1次改造)内閣で大蔵大臣在任中に発した言葉とされています。

 池田はこのほか、同年3月1日の「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、あるいは1952年11月27日にこの“中小企業発言”について問いただされて「原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と発言して、結局は辞任に追い込まれるなど、放言・失言のエピソードが豊富な方です。なお、辞任後の会見で「「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない」とおっしゃているそうです(Wikipeida)。

 ただし、「貧乏人は麦を食え」は翌日の新聞の見出しであり、実際の発言は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」というものです(Wikipedia)。これはそれなりに筋の通った発言かもしれません。

  皆さんはどう思いますか? しかし、「本当であるからこそ、人は怒る」、あるいは「真実に近ければ近いほど、指摘された人はいっそう怒る」、この機微がわからないと政治家はやっていけないものであることは、上記のギゾー、樺山資紀の例でも明らかです。

 ちなみに、中小企業についての答弁についても、実際の発言は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」というもので、これもそれなりに筋が通っていそうだが、翌日の記事では「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」となってしまったということです。皆さん、新聞等の見出しには気をつけましょう。

 その池田が、1960年7月19日、安保闘争の混乱の中、辞任を余儀なくされた岸信介の後を襲って総理大臣に就任すると、こわもての岸のイメージを一新、“所得倍増”をキャッチコピーに、「寛容と忍耐」を掲げ、かつ「私は嘘は申しません」(=失言したとしても、嘘ではない)と宣言して、見事、日本の高度成長期を象徴する人物に変身することになります。ギゾー君や樺山君と違って、鮮やかな復権です。

 ところで、“所得倍増”は経済学者の下村治、「寛容」は後の第78第総理大臣宮沢喜一、「忍耐」は同じく第68~69代総理大臣大平正芳の発案だそうです。これがスタッフ・システムなのですね。スタッフが発案・具申して、リーダーがそれを選ぶ(スタッフ・システムについては「リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(前半):総合政策のための名言集Part3+高畑ゼミの100冊Part19(2010/08/30投稿)」ならびに「同(後半)(2010/09/4投稿)をご覧ください)。

 当時、池田の懐刀=スタッフとして1955年頃より秘書をつとめた伊藤昌哉は、スピーチライターとして池田の演説草稿を担当、暗殺された浅沼稲次郎への追悼演説によって名をはせます。

 ・・・私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。・・・その人を相手に政策の論議を行おうと誓った好敵手の席であります。かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、またある時は大衆の先頭に聞いたのであります。いま、その人はなく、その声も止みました。私は誰に向かって論争を挑めばよいのでありましょうか・・・」「目的のために手段を選ばない風潮を今後絶対に許さない。(Wikipediaより)

 ここまで来てしまうと、迷言集がいつのまにか名言集になってしまいそうです。このあたりでいったん幕にしましょう。

総政のための名言集Part9雑編;ロンガネージ、漱石、そして中島みゆき

2011 3/10 総合政策学部の皆さんへ

 今日は玉石混合(と言いつつ、もちろん本当はすべて“玉(ぎょく)”と思っているのですが)、名言集の雑編です。

 初めは、第2次世界大戦初期、イタリアからこの世界の悲劇を冷静に見据える文学者の言葉からです。ルネッサンス、いやシーザーキケロ以来のイタリア人のセンスは大したものだ、と感心せざるを得ません。凡百の軍事評論家よりも、はるかに近代戦の本質をうがっています(もっとも、イタリア軍が実戦に弱いのも定評がありますが)。

  • #41:「1941年1月10日
  •  イギリス人はこの戦争に勝つだろう。なぜなら、彼らは、戦争以外のことならばすべてできるからだ。
  •  ドイツ人は、この戦争に負けるだろう。なぜなら、彼らは戦争だけしかできないからである
  •                              (塩野七生『サイレント・マイノリティ』新潮社より)
  •   

 イタリアのジャーナリスト、レオ・ロンガネージが第2次大戦が始まってまだ1年半もたたない頃に記した日記の一節。現代の総力戦が何か? これぐらい的確に指摘している言葉もないでしょう。その後の展開が、ロンガネージの予言通りになったことは、言うまでもありません。

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  • #42:「よく色々なことを知っていらっしゃるのね、感心ねえ
  •     「ええ、大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事位なものです。
  •      しかし、夫(それ)も薄々は知ってます
  •     「ホヽヽヽ面白い事許り(ばかり)・・・・」
  •  

 ご存じ、夏目漱石作『吾輩は猫である』第6章、主人公の猫の飼主珍野苦沙弥先生(=漱石の“堅い”面での分身)宅で、美学者迷亭(=こちらは漱石の“軽い”面での分身)が、苦沙弥夫妻に古代ギリシャの最初の女医Agnodice誕生のくだりを講釈よろしくきかせた後で、彼の口説(くぜつ)に感心した奥さんとのやりとりです。

 皆さんも、是非、自己を客観視しながら、自らをからかう軽口がきけるように訓練して下さいね。実社会では、絶対に役に立ちます。

  •  このAgnodiceですが、英語版Wikipeidaは以下のように説明しています。
  • She was a native of Athens, where it was forbidden by law for women or slaves to study medicine. According, however, to Hyginus, on whose authority alone the whole story rests, Agnodice disguised herself in men’s clothing, and attended the lectures of a physician named Hierophilus, devoting herself chiefly to the study of midwifery(看護学 and gynaecology(産婦人科学).
  •   Women refused her service until she confessed to them that she was a woman. Afterwards, when she began practice, being very successful, she excited the jealousy of several of the other practitioners, by whom she was summoned before the Areopagus, and accused of corrupting the morals of her patients. Upon her refuting this charge by making known her sex, she was immediately accused of having violated the existing law, which second danger she escaped by the wives of the chief persons in Athens, whom she had attended, coming forward in her behalf, and succeeding at last in getting the law abolished; women were thereafter allowed to practice medicine and to be paid a stipend for their service」と説明しています。
  •  
  •  このくだりを迷亭先生は
  • 女さ、女の名前だよ。此女(Agnodice)がつらつら考えへるに、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便きわまる。どうかして産婆になりたいものだ・・・」と、Agnodiceが男性に化けて医学を勉強、産婆を開業すると大流行りと説明してから、
  •  「ところが人間万事塞翁が馬、七転び八起き、弱り目に祟り目で、つい此の秘密が露見に及んで、遂におかみの御法度を破ったと云ふところで重き御仕置に仰せつけられそうになりました
  •  「丸で講釈見たようです事
  •  「中々旨いでせう。所が亜典(アテネ)の女たちが一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もさう木で鼻を括った様な挨拶もできず、遂に当人は無罪放免、これからはたとひ女たりとも産婆営業勝手たるべき事と云ふ御布礼さへ出て目出度落着を告げました
  •  と怪気焔をあげつつ、#42のやりとりへと続くのです。
  •  

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  •  #43:「だれも 悪くは ないのに
  •        悲しいことなら いつもある
  •         願いごとが 叶わなかったり
  •          願いごとが 叶いすぎたり
  •           だれも 悪くは ないのに
  •            悲しいことは いつもある」(中島みゆき『悲しいことはいつもある』より)
  •  

 私の学生時代は、下宿にはラジオしかなくて、深夜放送で流れる荒井由美(当時、現松任谷由美)と中島みゆきの歌声はまったく衝撃的でした。中学の頃に初めて森進一の声を聞いた時と同じくらいの衝撃度でしたね。

 とくに、中島みゆきの歌詞はあまりの“濃さ”に圧倒されてしまいます。「誰も悪くはないのに 悲しいことはいつもある・・・」。ラ・ロシュフコーばりの、そしてさらにはより太宰治的なこの台詞。そして、名曲『世情』の二番、

  •  #44:「・・・・
  •        世の中はとても臆病な猫だから
  •         他愛のない嘘を いつもついている
  •          包帯のような嘘を 見破ることで
  •           学者は世間を 見たような気になる」(中島みゆき『世情』より)
  •  

 これをある論文のエピグラフに使ったら、都立大(当時、現首都大学東京)の文化人類学(イスラーム学)の泰斗故大塚和夫先生に怒られてしまいました。「高畑さん、使ったでしょう! 僕が使いたかったのに!」。大塚さんはその後59歳で急逝され、悪い事をしてしまったかな、と反省しています。

総合政策の名言集Part8:何気ない一言を:“赤毛のアン”から“ボンベイのヨットクラブ”等

2011 1/7 総合政策学部の皆さんへ

 名言集も、あまり偉い方ばかりでも、肩がこるかも知れません。ということで、今回は“フツー”の人々の言葉からいくつか。人々の何気ない一言も、大事です。

#38:「どんなに悪い知らせだって、知らないよりは、知っている方が良い

 まったくのうろ覚えです。L.M.モンゴメリー原作『赤毛のアン』シリーズ、私は子供の頃、第一巻だけ読んだ記憶がかすかにあります。しかし、この台詞はそれではなく、たまたまTVで放映していたシリーズ(アニメ版ではなく実写版)で、慕っているギルバートの病気の知らせを聞いた時、詳しい病状がまだ知らないアンが、不安をねじ伏せるようにつぶやく言葉だったかと思います。たぶん、第2作『アンの青春』ではないのかな? 

  Wikipediaには、過去のTV映画として、①Anne of Avonlea BBC TVのミニシリーズ版(1975)と、②Anne of Green Gables( ミーガン・フォローズ主演、ケビン・サリバン監督、1987)が紹介されていますが、このどちらかもわかりません。

 とは言え、 この台詞を耳にした時、「これが“どんな事態がおとずれようと、それに対して真摯に向き合うことが、神から命じられた人として生きる道なのだ”というプロテスタント派の思想の真髄だ!」と感激したことでした。モンゴメリーは長老会派(プレスビテリアン)協会牧師のユーアン・マクドナルドと結婚していますから、おおもとはカルヴァン派ですね。

 神の意志と己の良心を尊び、孤独にも耐える近代的人格の誕生です。ということで、関学でキリスト教主義教育を受けている皆さんは、是非、この思想を身に付けて下さいね(少なくとも、そうした人たちがいて、それが“ポジティブ”だと評価されている世界があることを覚えておいて下さい)。

 なお、『赤毛のアン』の出版は1908年、夏目漱石の『三四郎』が同じく1908年。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』がその少し前の1905年、リルケの『マルテの手記』が1910年、森鴎外の『』が1911~13年(ただし、舞台は明治10年代)、ウェブスターの『あしながおじさん』が1912年、そしてゴーリキーの『私の大学』が1923年。若者たちは必死に20世紀という時代に適応しようと苦闘します。

 皆さん、どうですか? このあたりのいわゆる“教養小説=人としての成長の物語”の読書に挑戦されては?

 しかし、考えてみれば、アンも結構“有名人”かもしれません。

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#39:1937年、イギリスの小説家サマセット・モームはイギリスの統治下にあったインド植民地を旅行中、ハイダラバット土公国の皇子と昼餐をともにします。以下は、皇子との会話です(『作家の手帳』中村佐喜子訳、新潮文庫版)

  • ボンベイへは行かれたでしょうね?」
  • 「寄ってまりました」とわたしは言った。
  • 「で、ヨット・クラブにお泊まりでしたか?」
  • 「そうです」
  • 「これからカルカッタに行かれますか?」
  • 「参りたいと思っております」
  • 「するとあすこではベンガル・クラブに泊まるのですね?」
  • 「そのつもりでおります」とわたしは答えた。
  • 「あの二つのクラブのちがいを知っていますか?」と皇子がたずねた。
  • 「いいえ」と私は何の気もなく答えた。
  • 「カルカッタのベンガル・クラブでは、犬とインド人を入れないのです。 だがボンベイのヨット・クラブは、犬はかまいません。ただインド人だけゆるさないのです」
  •  そのときほどわたしは返答に窮したことがなかった。いまだにわたしは、その答えが考えつかない。
  •  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

#40:「お前たちはみんな失われた世代(ジェネラシオン・ベルデュ)」  (ヘミングウェイ『移動祝祭日』福田陸太郎訳、平凡社ライブラリー版)

 ヘミングウェイによれば「ガレージで働いていた青年が不手際だったのか、(中略)とにかく、彼はまじめでないということになり、ミス・スタインが抗議を申し込んだあとで、ガレージの主人にこっぴどく叱られた。主人は彼にむかって言った」台詞がこれです。そして、その言葉を引用したスタインは、第一次大戦で戦場に赴き、人として身につけるべき経験を体得する経験を失った者たちとして、ヘミングウェイに「あなた方はまさにその通りよ」「戦争に出たあなた方若い人たちはみんな。あなた方は失われた世代ですYou are all a lost generation)」と宣言するのです。

 こうして、フランスの一ガレージの主人が何の気なしに叫んだ言葉を、たまたまその場にいあわせた“言葉の魔術師”ガートルード・スタインが拾い上げ、ある種の本質を見抜いた言葉として磨き上げて、それがヘミングウェイの小説『日はまた昇る』のエピグラフによって世界に広がり、日本語でロスジェネ等と略称されていく。そこが“言葉”の世界の面白いところです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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